帝国騎士団公安部の本部は帝都の第五層東区域にある。皇城近くの帝国騎士団施設内にも事務所はあるが、部員の多くが働く本部は、この第五層東区域にある建物だ。独自の訓練施設を造ろうとすると、第五層しか広い土地が空いている場所がなかったというのが、ここが本部に定められた理由だ。
ただ、帝都内で公安部が出動しなければならない事態が起きた場合、本部が東に偏っていることは不便。反対の西側で事件が起きてしまうと現場への到着に時間がかかってしまう。そこで公安部は他にも帝都内に、公式非公式の拠点をいくつも構え、人を配置している。
今日、この本部を訪れているリルたちには、今は、どうでも良いことだ。
「リル。次はお前だ」
部屋から出て来たローレルが、廊下に置かれている椅子に座っていたリルに声をかけてきた。
「どうでした?」
「別に。聞かれた質問に答えただけだ。それに、本当に話を聞きたいのは僕じゃない。彼らでもない」
少し離れた場所にある椅子に座っているグラキエスたちに視線を向けるローレル。行軍訓練で魔獣に襲われた全員が今日、公安部に呼び出されている。事情聴取だ。
「……俺も同じです。聞かれた質問に知っていることを答えるだけです」
もっとも多くの情報を持っているのはリルだ。それも事件の核心に迫る情報を。ローレルは自分たちへの聞き取りは、リルへの聴取の事前準備に過ぎないと考えているのだ。
「……それしかないな」
リルが知っている情報は、ローレルにも共有されている。ローレルだけではなく、あの場にいた全員がリルから話を聞いているのだ。にわかには信じ難い話。公安部もそうなのではないかとローレルは疑っている。公安部は、リルが嘘をついていると思っているのではないかと。
「では、行ってきます」
リルには、なんら後ろめたいことはない。ローレルに伝えた通り、知っていることを話すだけ。それが事実なのだ。
部屋の扉を開けて、中に入る。
「君がリル?」
「はい。そうです」
部屋の中にいたのは二人。リルの正面、部屋の奥にある机に座っている女性と、逆の入口の壁側に座っている男性の二人だった。
「そこに掛けなさい」
「はい」
女性の正面にも、そこには椅子だけが置かれている。リルは指示された通り、その椅子に座った。
「私は帝国騎士団公安部のマグノリア。公安部副部長だ」
女性は帝国騎士団公安部副部長のマグノリア。副部長が自ら聴取を行うくらい、今回の事件を重要視しているということだ。
「……はじめまして」
相手はすでに自分の名を知っている。相手の自己紹介にどう返せば良いのかリルは悩むことになった。この返事が正解かは分からない。マグノリアが表情をまったく変えないので、推測も出来ないのだ。
「さて、分かっていると思うが、これから魔獣襲撃事件について、話を聞かせてもらう。特に君は他の人たちとは異なる行動をしている。その点について詳しく知りたい」
「分かりました」
「まず、何故、別行動をとった? 当時の状況では、かなり危険な選択だと思うが?」
最初の質問がこれ。時系列に合わせて質問をしている可能性もあるが、リルはそう受け取らなかった。公安部は自分の行動を不審に思っていると考えた。
「追い込まれている状況をなんとかするには、何かを行わなければならないと考えたからです」
「それが単独で、魔獣に襲われる危険も顧みず、飛び出した理由?」
「はい、そうです」
「つまり、何の根拠もなく、単独行動を選択した?」
普通はそんな真似はしない。当時の状況でそれを行うことは、自ら命を捨てるような選択だ。
「何の根拠もないは違います」
「では、それを聞こう」
「私の知識では、魔獣は闇雲に人を襲うことはしません。そうであるのに、あの二頭は遭遇した瞬間から襲う気満々に見えました。私たちを襲う理由が何かあるはずだと考えました」
その襲う理由は何か。その理由を排除出来れば、危機から逃れられる。これがリルが単独行動を選択した理由だ。もちろん、勝つことは出来なくても、簡単に殺されることもないという自信、というより直感があってのことだ。
「これまで聞いた話によると、先に仕掛けたのは君たちだ。魔獣は反撃しただけではないのか?」
「その可能性はありました。ですが、違う可能性もありました」
「……決断するには、あいまいな根拠だ」
「さきほどから決断と言われていますけど、少し違うと思います。ずっとあの場所で戦い続けていても死ぬだけです。私たちの選択肢は数時間後の確実な死か、すぐに死ぬかもしれないが助かる可能性もある行動のどちらかです」
リルは選択したわけではない。そうするしかなかっただけだ。あのまま戦い続けていても勝ち目はない。時間の経過は体力の消耗をまねき、一か八かの行動も選べなくなる。剣を振れなくなるまで疲弊してしまえば、そこで終わり。動くしかなかったのだ。
「……結果、君は魔獣に殺されることなく、最初に遭遇した場所に辿り着いた。そこからどうやって魔獣の子供を捕らえていた男を見つけた?」
公安部はすでに一通りの情報を得ている。行軍訓練に同行していた騎士養成学校の職員たちは、現地でリルたちから事情を聞いている。その情報が公安部に渡っているのだ。
「かすかに声が聞こえたからです。その時点では何も分かっていませんでしたが、人がいるのが分かったので、とにかくそこに向かおうと思いました」
「その間、魔獣は?」
「一定の距離を保って、ついてきました」
「何故、魔獣は襲ってこなかったと思っている?」
これも公安部にとっては疑問に思う点だ。危険な場所に一人飛び出したリルを、どうして魔獣は襲わなかったのか。無視したわけではない。一頭はリルを追っているのだ。追いかけながら襲わなかったのだ。
「私を襲う理由がないから。その場に残されていた味方の死体には魔獣の攻撃による傷以外はありませんでした。襲う理由は食べる為ではないのは分かりました」
「……では、何だと思った?」
「その時点での私の考えですか? それでしたら今話した通りで、それ以上はありません」
「……声がした方に向かった。そこには魔獣の子供を捕えている男がいた。君は問答無用でその男を殺した。何故だ?」
マグノリアは話を先に進めた。ここから先が公安部がもっとも知りたい内容だ。
「問答無用……確かにそうですが、相手は魔獣に私を殺せと命じました。その命令を無効にするには殺すしかないと判断しました」
詳しい事情を尋ねることはしなかった。この点についてはリルも後悔した。だが、後から考えてみれば、そんなことをしている余裕はなかった。間を空ければ魔獣が襲い掛かってきたはずなのだ。結果として自分の判断は正しかったと、リルは思っている。
「男は他に何を話した」
「特別なことは何もありません。こちらの挑発に反応したくらいです」
「挑発? その状況で相手を怒らせるような真似をしたのか?」
「怒らせて困ることはありません。魔獣の子供から気を逸らしてくれれば、こちらにとって好都合ですので」
冷静に行動されて、その場から逃げられたほうが厄介だった。子供を殺されたくない魔獣はリルを襲う。魔獣の攻撃を躱しながら、男を追い、殺すことなど出来るとは思えない。
「……分かった。君は男の動機は何だと思っている?」
「分かりません。ロレール様は、本人がいないところで周りが騒がしくしているようですので、命を狙われた可能性はあります。ただ……いえ、以上です」
「言いかけたことを言いなさい。この場は君の話を聞く場。さらにいえば君に黙秘する権利はない」
「……見せしめの為に殺すのであれば、あのような手段は使わないと思いました。それと、巻き込まれる人たちが重要人物過ぎます」
ローレルを殺すことが目的であれば、他に手段はあるはず。さらに他のアネモイ四家の子弟を巻き込むようなやり方を選ぶ理由がリルには思いつかない。
「どのような手段でも分かる人間には分かる。分かる人間にだけ分からせれば良いと考えた可能性はある」
公安部にとってはそういった暗殺は厄介な事件だ。暗殺されたと分からず、公安部の調査対象にならない事件が、実際はいくつもあるだろうことをマグノリアは知っている。
「……確かに。ですが、他の方々を巻き込むことに関しては?」
「それは分からない。調査はまだ始まったばかり。男の素性が割れれば、分かることは増えるだろう」
「……慣れた感じではなかったです。おそらくですが、騎士でもない。騎士だとしても成りたての名ばかり騎士。ろくに鍛錬もしていません。魔獣についてはある程度、知識があるか、逆にまったくないか」
男の素性についてはリルも考えていた。だが考えれば考えるほど、良く分からない。暗殺を生業にしているとは思えない拙さ。それでいて、ナイトメアの子供を脅しに使うという、リルにとってはだが、驚くべき方法を使った。玄人なのかド素人なのか。この判断もつかないのだ。
「……魔獣の知識がないというのは、どうしてそう思う?」
「魔獣がナイトメアだったのか分かりませんが、同じくらい恐ろしい魔獣であることは間違いありません。そんな魔獣の子供を攫って、親を脅す。そんな真似、魔獣の恐ろしさを知っていて出来るとは思えません」
男の行動もまた、命知らずの行動だ。親魔獣の前に堂々と姿を晒して、脅したのは間違いない。魔獣の前に出た瞬間に殺されていてもおかしくない。よほど自信があったのか。少なくとも戦闘力は皆無。リルの一撃に反応することも出来なかったのだ。
「……なるほど。参考になる意見だ。さて、今日のところは以上だ」
「今日のところは?」
「また聞きたいことが出てくるかもしれない。なければ、この件についての聴取は今日で終わりだ」
ようやくマグノリアに表情が、それも笑みが浮かんだ。
「承知しました。では、失礼します」
席を立ち、姿勢を正して一礼をする。そのままリルは扉に向かい、部屋を出ていった。
「……どうだった?」
そのリルと入れ替わりに、別の扉から部屋に入ってきたのは帝国騎士団長。側近のヴォイドも一緒だ。
「事前に聞いていた話との矛盾点はありません。あとは言葉のひとつひとつ、会話の間などを分析してからですが……私は嘘をついていないと感じました」
「それは魔獣を使った暗殺は実際にあるということになるな?」
これまで帝国騎士団公安部が知らなかった暗殺手段。これが事実だとすると大問題だ。
「過去にあった可能性は否定出来ません。事故として処理された案件を、もう一度、調べ直す必要があります」
事件化されなかった暗殺が他にもあるかもしれない。そういうことになる。マグノリアは過去の資料を調べるつもりだが、それを行っても解決する事件は、おそらく、ない。実行犯を見つけ出し、全てを白状させる。今更それが出来る可能性は無に近いのだ。
「彼については?」
「……おそらく、団長が気にされるに値する実力はあるのでしょう」
「どうして、そう思った?」
帝国騎士団長の問いは、リルの戦闘力についてではない。それを問えるような聴取ではなかったと想っていた。だが、マグノリアの答えはリルの戦闘力を評価する言葉。その理由が分からない。
「私には彼と同じ行動は出来ません。数時間後の確実な死か、数秒後の確実な死。この選択肢にしかなりません」
「そこか……」
少なくともリルは魔獣の攻撃を、一定時間、防ぎきることが出来ると考えていた。彼にはその自信があった。ナイトメアかそれと同等クラスの魔獣を相手に。
「私では比べる対象にならないのであれば、ヴォイドはどう思ったかをお尋ねください」
「いや、良い。君の実力も私は高く評価している」
公安部の人間は帝国騎士団本体の団員に比べると戦闘力が劣る、というのは間違い。平均すれば確かに公安部のほうが戦闘力は低くなるが、個人で見れば強い人間は大勢いる。マグノリアもその一人だ。
「……もし彼が、団長のお望み通り、帝国騎士団に入団することになりましたら、公安部への配属もお考え下さい」
「公安部か……」
「団長もお分かりのはずです。彼の真価は、個としての戦闘力ではありません。洞察力、判断力は公安部でこそ活かされる能力です」
「指揮官でも生かされますけどね?」
ヴォイドが口を挟んできた。確かに部隊指揮官にも必要な能力。ただ割り込んできたのは、リルを公安部に持っていかれたくないという思いがあってのことだ。
「それは何年後? 公安部であれば、その日からよ」
「そこまでの高評価ですか……」
マグノリアには珍しいこと。彼女は自分に厳しい分、部下にも多くを求める。自然と部下に対する評価は辛くなる。
「近い将来、彼は戦場に立つべきかもしれない。でも今、帝国が抱える問題は戦場ではなく、日常にあるのよ」
様々な事件が、複雑な事件が帝都周辺だけでなく、帝国全土で起きている。それはやがて起こる内乱の前触れ。そうだろうとマグノリアは考えている。だからこそ、その前触れを確実に、迅速に解決しなければならない、それが内乱の先延ばしに、規模の縮小に繋がると考えているのだ。
「……分かった。考えておこう、といっても彼が入団すればの話。それも二年先の話だ」
騎士候補生一人に何を期待しているのかと思う時もある。だが結局は組織力の強化は、一人一人の能力の積み重ね。リルだけでなく他にも、一人でも多くの優秀な騎士候補生を帝国騎士にすることが必要だ。その為には多くの中の一人として見てはいけない。今の帝国騎士団に望んで入団してくれる騎士候補生など、極少数。これはと思う騎士候補生は、獲得に手を尽くさなければならない。
帝国騎士団長としては頭の痛いことだ。不謹慎だと分かっていても、戦場にいるほうが楽だと思ってしまう。