エリザベス王女誘拐事件は、かなり遅れて王都に伝わって来た。現場からは、ただ移動するだけで一か月ほどの距離がある。遅れて伝わるのは当然のこと。とはいえ、時間がかかり過ぎている。エリザベス王女はすでに救出され、王都に戻ってきているのだ。
事件を知った人のほとんどはそんなことは気にしないが、中にはそうではない者もいる。遅れて伝わって来たことではなく、そもそも王都に伝わってしまったことに不満を持つ者だ。
「王国は情報統制も出来ないのか?」
誘拐事件は公にすべきではなかったとタイラーは考えている。そう思うのは、ただ誘拐されたという事実だけが広がっているわけではないからだ。エリザベス王女は何か月もテイラー伯爵の屋敷に監禁されていた。その間に何があったのか。勝手な憶測も広まっているのだ。
「私はテイラー伯爵が意図して情報を流したと聞いたわ」
「俺もそれは聞いた。だが、そうだとしても王都まで伝わるのは防げなかったのか? そんなことも王国は出来ないのか?」
「……タイラー。それは証拠もない憶測を信じているということよ?」
事件の話が広がることに憤慨するのは、エリザベス王女の名誉を傷つけるような噂まで事実だと考えているから。キャリナローズはそう考えた。彼女も、そういうこともあったかもしれないと、実際は思っている。だからといって、人前でそれを認めるような発言はさせたくなかった。
「……すまない。確かにそうかもしれない」
「ここで僕らが気を付けても意味ないでしょ? 王国貴族のご婦人がたは、喜んで噂を広めているよ」
キャリナローズの言うことは分からなくもないが、自分たちだけが気を付けても意味はないとクレイグは思う。もう事件の話は広まっている。ゴシップが大好きな人たちにとっては堪らない話題なのだ。
「近頃はかなり評価が高まっていたというのに」
「へえ? タイラーはそういう話題にも詳しいの?」
「俺も人から聞いた話だ。以前はもう少し我儘というか、勝気なところがあったが、そういうところは消えて、威厳のようなものも出てきていた」
これはフランセスから聞いた話だ。社交界デビュー済みで、いくつかすでにそういう場に出ているフランセスは、エリザベス王女に会うこともあり、貴族夫人たちの噂話にも接しているのだ。
「教会の慈善活動にも参加したりして、公務の面でも評判良いものね?」
慈善活動は貴族夫人にとっても興味を惹くもの。領政に関わることのない女性たちは、慈善活動などで領民の役に立っている。人気取り目的のような偽善的な面もあるのだが、それでも活動そのものは良いことだ。
「尊敬できる王女になられた。そういう方を、このようなことで傷つけるべきではなかった」
「……傷ついてなどいない、と、ある人なら良いそうだけど」
「レグルスか……あいつは事件のことを知っているのかな?」
エリザベス王女救出作戦にレグルスが参加していたことは、タイラーの耳には入っていない。レグルスの件については情報の秘匿が上手く行っていて、ディクソン家も掴んでいないのだ。
「レグルスの噂はまったく信じていないのね?」
「あの馬鹿がそう簡単に死ぬはずがない」
レグルスが戦死したという情報は、ずっと前に王都に届いている。その後も情報は改められていない。追加情報もまったく王都には届いていない。だが、情報などタイラーには関係ない。ただ生きていると信じている。
「なんか一途……」
「からかうな」
「……もう卒業ね?」
今回は自分がきっかけを作ってしまったが、レグルスの話はあまりしたくないとキャリナローズは思っている。話題を変えに行った。色々なことがあった王立中央学院での時間も、もう間もなく終わる。レグルスが死んでから、それだけの時間が経っている。話題を変えようとしているのにキャリナローズは、こんなことを思ってしまう。
「そういえば、皆、どうするつもり?」
クレイグは卒業に対する想いのほうが強い。皆の進路が気になった。
「ああ……私は何もしない」
「あれ? 王国騎士団の騎士じゃないの?」
キャリナローズは以前、卒業後はしばらく王国騎士団で働くと言っていた。それをクレイグは覚えている。
「反対された。すぐに社交界にデビューして、あれだって」
結婚相手を探せ。これを言葉にすることは、キャリナローズには躊躇われた。結婚などしたくない。そうする自分を想像もしくなく、されたくもないのだ。
「跡継ぎを産めってこと?」
「言うな」
「まあ、そうだよね。そうなるか……じゃあ、騎士団はタイラーだけか」
クレイグも騎士にはならない。そのつもりはあったのだが、止めている。
「俺も騎士団には行かない」
「えっ? 意外?」
タイラーは絶対に騎士団に入ると思っていた。この中の誰よりも熱い気持ちで語っていた。鍛錬も熱心だった。
「事情があって……」
「事情って何?」
キャリナローズに対してもそうだったように、クレイグには遠慮がない。相手のことを考える前に、疑問に思ったことを聞いてしまうのだ。
「……結婚しようかと」
「ええっ!?」「嘘!?」
学院を卒業して、すぐに結婚。これ自体は驚くことではない。国境ではいつ戦争が起こるか分からない。戦死してしまうか分からない。辺境伯家の公子として跡継ぎを残すのは彼らの義務だ。武一辺倒だと思っていたタイラーが誰よりも早いというのが驚きなのだ。
「任務であちこち行くことになるのは、妻になる人に悪いと思って。それに……子供も欲しいし」
「……何だろう。意外過ぎて、心の衝撃が……僕も、という気持ちにはならないけど……へえ、そうなんだ」
タイラーの口から「妻」「子供」という言葉が出てくることに、クレイグはショックを受けている。自分でも何故、そう感じるのかは、はっきりとは分かっていないが、現実を突き付けられたような気分なのだ。自分たちは、もうそういう責任を負わされているのだと感じたのだ。
「ふうん」
「な、何だ?」
キャリナローズの納得した様子に動揺を見せるタイラー。
「タイラーがそんな風に思う相手……もしかして、フランセスと結婚するの?」
騎士の仕事よりも一緒にいることを選ぶ。家が勝手に決めた相手にタイラーがそんな思いを抱くとは、キャリナローズは思えなかった。
「…………」
無言のタイラー。ただ見る見る赤くなる彼の顔が、問いへの答えだ。
「へえ。受け入れてくれたのね?」
「あっ、いや、もう……最後はプロポーズするしかないと思って。そうしたら、考えると言ってくれて」
「えっ……」
「あっ、違う。数日後に、きちんと了承を返してくれた。もう家同士の話も進んでいる」
どうしても卒業前に、きちんと想いを伝えることだけはしたいと思った。自分自身の気持ちを整理する為にも、そうしておこうと思った。思いを伝えるならば、中途半端は止めようと思った。
こう考えてタイラーは、フランセスにプロポーズした。真剣な想いを伝え、それがフランセスに通じたのだ。
「もしかして、家に無断でプロポーズしたってこと?」
クレイグはこのことに驚いた。貴族の、特に辺境伯家の公子の結婚に自由などない。家同士の利害関係で相手は決められるのだ。
「そうだ。俺の想いを伝えるのに、どうして家に事前に話す必要がある。それに、恥ずかしいだろ?」
「分かった。振られる前提か」
「……まさか受けてくれるとは思っていなかった」
自分の想いはフランセスには届かない。プロポーズを受け入れてくれるとは思っていなかった。なので、受け入れてくれた後は、ちょっとした騒動になった。
幸いにも、堅物と思われていたタイラーが自ら結婚相手を選んだという事実に対する周囲の驚きは好意的なものだったので、結婚を反対されることにはならなかったが。
「まあ……良かった、だよね。それも特上の良かった」
好きになった人と結婚出来るタイラーは幸せだ。親が決めた相手との結婚が不幸だとはクレイグは思っていないが、自由が許されない自分たちの中で、タイラーのような結婚が出来る人がいたのは良かったと、心から思った。
「おめでとう。式には招待してね。招待されなくても行くから」
「ああ、必ず」
学院を卒業すれば、それぞれ事情は異なるが、辺境伯家の公子としての活動が本格化していく。個人ではなく、家のことを第一に考え、自分の行動を決めなくてはならなくなる。タイラーの結婚は、最後の自由というものかもしれない。自分の気持ちに正直に行動出来た最後の機会になるのかもしれない。
学院生活はもう残り少ない。
◆◆◆
王城の正面入口から、ほぼまっすぐに伸びる廊下。高い靴音を響かせて前を歩いているのは近衛騎士。レグルスはその後ろを、近衛騎士に比べるとかなり控えめな足音で、歩いている。かなり広い廊下。壁や柱の造りも意匠を凝らしたものになっている。この先にはあるのは謁見の間。他国からの来訪者を迎える為の場所であるので、一際豪華に造られている。アルデバラン王国の富と力を知らしめる為だ。
レグルスがここを歩くのは初めてのこと。王国貴族を迎える為にこの場所が使われることはまずないのだ。レグルスはそうであることを知らないが、普段は通されることのない場所に案内されたことで、いつもとの違うことを理解した。
人の何倍もの高さがある巨大な扉。それがゆっくりと中から開けられた。案内してきた近衛騎士に促され、扉の中に入るレグルス。扉よりも更に天井の高い、大きな空間が広がっていた。
「……剣を」
「えっ?」
「剣を預かります」
扉の内側にいた近衛騎士が、レグルスに剣を差し出すことを求めてきた。
「無用です! 彼の剣が私に向くことはありません! 絶対に!」
それを止めさせたのはエリザベス王女だ。大広間の奥、玉座の斜め後ろに並べられている椅子のひとつに、エリザベス王女は座っていた。
その声を聞いて、少し躊躇いを見せたが、近衛騎士は引き下がった。
「下がりなさい!」
さらにエリザベス王女は近衛騎士たちに、謁見の間から出て行くように命じる。当然、護衛任務としてこの場にいる近衛騎士たちは、すぐに命令に従おうとはしなかった、のだが。
「聞こえなかったですか? 私は『下がれ』と言いました」
続くエリザベス王女の言葉を受けて、廊下に出て行った。その反応にレグルスは少し驚いた。エリザベス王女の声に、かつては感じなかった威厳を感じた。
ゆっくりと閉められていく扉。それが完全に締め切られるのを待つことなく、レグルスは奥に、エリザベス王女が待つ場所に歩き始めた。
「……絶対に?」
「あら? 私の思い上がりでしたか?」
「いえ、絶対に」
自分の剣がエリザベス王女に向くことはない。絶対なんてことはあり得ないと考えているレグルスだが、これについては間違いは起こらないだろうと思った。
「元気そうですね?」
「はい。長年の疲れが取れて、以前よりも元気になったかもしれません」
「そう。それは良かったわ。この間は気付かなかったのですけど……髪が……気のせいかしら?」
レグルスの髪の色が、以前よりも青みがかって見える。だがこれに関してはエリザベス王女は自信がない。髪の色が変わるなんてことがあるはずないと思っているのだ。
「ああ、そうみたいです。私も最近、鏡を見て気が付きました。ゲルメニア族の血が濃くなったのでしょうか?」
レグルスの髪の色は母親譲り。ゲルメニア族の母親の特徴が、色濃くなったということだ。原因は分からないが、自分で見ても青くなったと思うのだ。
「お母上の血筋ですね? ゲルメニア族の人々には私も会いに行かなければなりませんね?」
「どうしてですか?」
そんなことをされたら、自称祖父が大喜びしてしまうかもしれない。あり得ないことを夢見てしまうかもしれない。
「仲裁が必要ではないですか? ブラックバーン家が無視出来ない仲裁が」
「……確かにその通りです」
ブラックバーン家とゲルメニア族の戦いの仲裁役をエリザベス王女は買って出ようと考えている。国政における権限はないエリザベス王女であるが、自国の王女の仲裁を無視することは、北方辺境伯家であっても躊躇うはず。意味はある。
これはレグルスも考えていたこと。仲裁役はジュリアン王子でも良く、わざわざ現地に行く必要もないと、レグルスは考えていたが。
「本題に入りましょう。来てくれたということは、受け入れてくれたということですか?」
レグルスが王都に来たのには訳がある。エリザベス王女の要請を受けたからだ。
「……本気ですか?」
「本気です。父上の了承も得ています。貴方を誘うことも」
「殿下がやらなければならないことででしょうか?」
レグルスは、まだ要請を受け入れるとは決めていない。まだ迷いがあるのだ。
「私ではなく、貴方がやるのです。私は、貴方に居場所と働き場所を用意するだけです」
「……多くの血が流れます」
「レグルス。貴方がいなくても、多くの血が流れます。時代の流れは変えられないのです」
「……変えられないのであれば尚更、私は無用の存在です」
人生は変えられない。レグルスは、エリザベス王女にこう言われたような気がした。受け入れたくないこと、だが、そうかもしれないと思ってしまうことでもある。
「流れは変えられなくても、形は変えられるかもしれません」
「形、ですか?」
「犠牲者は何のための犠牲者だったのか。大切な命を犠牲にするのであれば、それに見合う価値のある形にしなければなりません」
「死は死でしかありません」
命に見合う価値のある結果などない。レグルスはこう思う。死者が報われることなどないのだ。
「そうです。だから生きている人がどう受け取るかです。亡くなった人たちに、生き残った人たちが感謝出来るような形を作らなければなりません」
「……全員が納得する結果など無理ではないですか?」
「私はそんなことは考えていません。それこそ思い上がりではないですか? 目の前の最善を求めるくらいしか、私には出来ません。レグルス、貴方もそうです。それさえ困難なことなのですから」
全ての人を救うなんて真似は出来ない。出来るはずがない。それでも最高の結果を求めることを諦めるのは違うとエリザベス王女は考えている。最高の結果を求め、結果それに失敗し、最初の結果しか得られないとしても、わずかな人しか救えなくても、為すべきことを為すのだと思っている。
「……より多くの不幸を生むだけかもしれません」
「その時はレグルス、私も貴方と共に罪を背負います。苦しみを味わいます。私が貴方を許します。誰一人、貴方を許さなくても、私だけは許します」
「…………」
この人は何故、こんな風に思えるのだろう。自分が気付かなかった、自分の想いが分かるのだろう。レグルスの心に、こんな思いが広がっていく。
「レグルス……私の騎士になってください。私には貴方が必要です」
「……はい。我が王女殿下。私は貴女の剣に、貴女の盾になりましょう」
その場に跪き、騎士の誓いを口にするレグルス。腰に差していた剣を抜き、柄のほうをエリザベス王女に差し出した。あとはエリザベス王女が剣を受け取り、「貴方の忠誠を信じます」と言って、剣を返せば、それで儀式は終わり。簡易なものだが、誓約の儀式が終わり、レグルスはエリザベス王女に仕える騎士となるのだ。
「……えっ?」
だが、エリザベス王女は無言のまま、レグルスの頬に手を差し伸べてきた。通常とは違う段取りに戸惑い、視線をあげたレグルス。そこにはエリザベス王女の顔が、目前に迫るエリザベス王女の顔があった。
ゆっくりと重なる唇。
「……これが私の誓いです」
誓いの口づけは、結婚の誓い。公式に二人が結ばれることはない。だからこそ、エリザベス王女は誓いを交わしたかった。自分の想いを、覚悟を示したかった。
驚いた表情のまま固まっていたレグルス。その顔に笑みが浮かんだ。赤らむエリザベス王女の頬が、レグルスの心を和らげた。剣を床に置き、空いた手をエリザベス王女の背中に回すとその体を引き寄せる。再び重なる唇。密着する二人の体。
二人の誓いの儀式は、外で待っている近衛騎士が焦れて扉を叩くまで、続いた。