裏中央通りを西門から城に向かって真っすぐに進み、三つ目の交差点を北側に曲がって、最初の路地。そこを右に折れるとすぐに見えてくる建物は一見、普通の宿屋。入口の扉を抜けるとすぐのところに受付があり、その雰囲気もまた宿屋そのものだ。
だが実際にそこに泊まろうと受付で部屋の空きを尋ねてみれば、「満室です」という答えが必ず返ってくる。人気の宿屋、というわけではない。普通の客を受け付けていないのだ。ここを利用できるのは常連客、もしくは常連客となっている知り合いから紹介を受けた人のみ。会員制の高級宿屋、でもない。ワ組が運営する非合法の売春宿だ。
ワ組はこういった非合法の店を花街の外にいくつか持っている。ここで得た利益を使って、他店に金を貸付たり、買収したりして、花街での勢力を広げてきたのだ。
だが順調だった勢力拡大が、ここに来て、大きく躓いている。躓いているどころではない。多くの男衆が殺され、店を運営出来ない状態に陥っているのだ。
「まだ見つからないのか!?」
組長のベージルの苛立ちはいつまで経っても収まらない。この事態を解決するには、敵対する何者かを逆に滅ぼすしかない。だが、その何者かが、未だに何者かのままなのだ。
「全力で調べております」
「全力だろうが、手を抜こうがどっちでも良い! 俺は結果を求めているのだ!」
「申し訳ございません」
とにかくベージルが知りたいのは、敵が何者かということ。それが分からないと、反撃もままならない。部下の言葉は、ベージルをさらにイラつかせるだけだった。
ただ、これは部下だけの問題ではない。敵の正体はすでに、ほぼ分かっている。分かっているのに、それが事実であるとベージルが認めないのだ。
「敵のアジトを見つけ出せ! 今すぐにだ!」
自分の組をここまで追い込むのだから、敵はかなり大きな組織。この思い込みが、部下たちに無駄な労力を費やさせている。ありもしないアジトを探す羽目になっているのだ。
ただ一つ、彼がただの子供ではなく、ブラックバーン家の人間であるという点について知らないせいで。
「……組長。お客様が来ております」
別の部下が来客を告げに来た。
「客? こんな時にどこのどいつだ?」
「ブラックバーン家と言っています」
「おお? 頼んでいた助っ人か? だったら、すぐに通せ!」
ベージルはブラックバーン家にさらなる助っ人を頼んでいた。騎士一人では勝てない相手。それが分かったので、もっと大人数の助っ人を求めている。それが実現すれば、今度こそ勝てる。そう確信しているからこそ、ベージルは相手のアジトを早く見つけたいのだ。
「お連れしました」
「これはようこそ……お一人で?」
だが現れたブラックバーン家の騎士は一人だけ。ベージルの期待は裏切られた。
「とりあえずは一人。問題があるかな?」
「問題なんて……ただ……最終的には何人が助っ人に来てくれるのでしょうか?」
「二人かな? ただ助っ人とは違う」
現れた騎士の言葉は、さらにベージルを落胆させることになる。
「……話が違う」
騎士一人では、味方を守れない。だから二人、というのは話が違うとベージルは思う。もっと大勢の、一気に敵を殲滅出来るくらいの戦力を借りられると思っていたのだ。
「話が違うと言われても……ちなみに、貴方がベージル組長?」
「そうです」
「本当に?」
「嘘をつく理由がない」
怪訝そうな顔を見せるベージル。ブラックバーン家の騎士であるはずの相手との会話はどこかおかしい。見た目もかなり若く見える。下っ端が先ぶれとして送られてきたのだと最初は思ったのだが、本当に二人だけとなれば、そういうことではないのだ。
「……ということですけど?」
「仮に嘘だとしても、今更だ。やることは変わらない」
「なんだ?」
いきなり現れた子供、といっても先の騎士より少し若いかくらいだが。とにかく、この場にいなかったはずの子供が突然姿を現したことにベージルは戸惑っている。
「……く、組長……そいつです! そいつがアオです!」
ベージルには分からなくても、部下の中に彼の顔を知っている者がいた。その部下は喧嘩の場で何度か、彼を見ているのだ。
「な、なんだと!? 貴様ら、騙しやがったな!」
「騙す? 俺は何かお前を騙したか?」
「ブラックバーン家の人間じゃねえ!」
「いや、俺はブラックバーン家の人間だ。そしてこいつは正真正銘、ブラックバーン家の騎士、いや、従士か。ちょっと違うだけで、嘘はついていない。そっちが勝手に味方だと勘違いしただけだ」
彼は自分の素性を明らかにした。隠すことに意味はなくなっている。ブラックバーン家はすでにワ組の抗争相手が彼だと知っているはずだ。そう遠くないうちにここに来る、もしかしたら、今まさにここに向かっているかもしれない、
「……どういうことだ?」
「今、話した通り。俺はブラックバーン家の人間。レグルス・ブラックバーンが俺の名だ」
「……ブラックバーンが裏切ったということか?」
そうであればもう終わりだ。後ろ盾であったはずのブラックバーン家が、北方辺境伯家が敵に回ってしまっては、王都で商売など出来るはずがない。
「それは違う。お前はブラックバーン家ではなく、この俺を敵に回しただけだ」
「……どうでも良い。とにかく、てめえは敵だ! 死んでしまえ!」
先のことを考えても意味がない。今ここで彼を殺さなければ、自分が殺される。その先はこの場を生き延びてからのことだとベージルは開き直った。
「貴様ら! 怯えてねえでこいつを殺せ! 殺さなければ殺されるだけだ!」
躊躇う部下たちを怒鳴りつけるベージル。彼の言っていることが正しい。彼はこの場にいる者たちを皆殺しにするつもりなのだ。
「……小僧……運良くここまで生き残れたからって、調子に乗るなよ?」
ベージルの言葉に応えたのは部下ではない。ベージルが自分の身を守る為に雇った助っ人だ。
「お前がこれまで運が良かっただけじゃないのか?」
「挑発には乗らねえ。てめえの実力は知っている。覚悟しろよ。俺はザックみたいにガキに甘くねえからな」
「ザック……? 多分、あいつか。それは残念」
ザックという名に知り合いはいない。だが、おそらくは以前、喧嘩した相手だろうと話を聞いて、彼は思った。彼に勝ちを譲った相手のことだ。
「後悔しても遅い」
「誰が後悔していると言った?」
問いの答えは得られない。相手は答えたくても答えられない。彼の拳を、黒い炎をまとった拳をまともに受けて、窓の外に飛び出して行ってしまったのだ。壊れた窓の外から、人々の叫び声が聞こえてきた。
「甘いのは、てめえだろ? 喧嘩と殺し合いじゃあ、ルールが違うんだよ」
「……や、やれ! 何をボケっと見ている! やっちまえ!」
唖然としている人々の中で、いち早く正気に戻ったベージルが怒鳴り声をあげる。それに対して戸惑う部下たちだが、それは間違い。すでに戦いは、殺し合いは始まっているのだ。
抵抗する間もなくジュードの剣を身に受けて、床に倒れる男。彼の拳を受けて、壁に叩きつけられる者もいる。抵抗しなければ殺される。そう思って動き出した者たちも、一方的に討たれるばかり。喧嘩慣れはしていても強者との戦闘経験がほぼ皆無の者たちと、まだ経験年数は短いとはいえ戦闘訓練を受けているジュードや魔法が使える彼とでは力に差がある。これも支配者である貴族と支配されるが側の平民の格差のひとつなのだ。
「…………」
自分の組が崩壊する様子を目の当たりにして、ベージルはすでに檄を飛ばす気力も失っている。呆然と立ち尽くしているだけだ。
「剣をよこせ」
「……分かった」
彼に向かって、持っていた剣を投げるジュード。それを受け取った瞬間、彼の体が揺らぐ。ゆっくりと傾き、床に落ちていくベージルの顔。一瞬遅れて、首から血しぶきが噴き上がる。ベージルの体も床に倒れて行った。
花街のワ組はこの瞬間、壊滅した。
「……終わり?」
「ああ、終わりだ。もう憲兵が来る頃だろう。お前はさっさと逃げろ」
「逃げるのは僕だけ?」
彼は自分を逃がそうとしている。だがそれを素直に喜ぶジュードではない。彼は人を信じていない。何か裏があるのではないかと疑っている。
「捕まれば、全てがお前に押し付けられるかもしれない。それは俺の望む結果じゃない」
「逃げた僕が犯人にされる可能性もあるよね?」
「ああ、その可能性もある。だが俺がそれを許さない。俺は自分の手でこいつらを殺した。それを否定されては俺の復讐は成立しない」
ジュードに全ての罪をかぶせられるような事態は、彼が許せない。彼は自分の復讐を実行したのだ。ジュードはその為に利用しただけ。それも自分一人では成功は難しいかもしれないと思って、仕方なくだ。
「……逃げたあとはどうすれば良いのかな?」
「俺がどうなるか次第だな。ブラックバーン家に戻れるか、離れたまま、どこかで暮らすか。それは今ははっきりとは言えない」
自分がどうなるかも彼は分からない。事件は完全には握りつぶせないはず。彼自身がそうなるように仕向けた。派手に戦ったのはその為だ。
そうなった時、ブラックバーン家はどう出るか。彼を闇に葬る可能性もある。今の時点で何も約束出来ないのだ。
「ブラックバーン家に戻れる可能性はある?」
「俺が消されなければ。ああ、出世は無理だろうな。お前は俺を止められなかった。そういう責任を負わせられるはずだ」
「……分かった。じゃあ」
この先の展開は、彼に分からないのであればジュードにも分からない。ここは素直に彼の言う通り、身を隠して状況が明らかになるのを待つことにした。
「ああ、そうだ!」
「何? まだ何か?」
「ありがとう。復讐を手伝ってくれて。ここまで来られたのはお前のおかげだ」
「…………」
彼の「ありがとう」はジュードにとって意外な言葉だった。御礼を言われるなんてまったく考えていなかった。誰かに御礼を言われた記憶もない。胸に湧き上がった思いが何なのか、ジュードには分からなかった。心にもやもやした思いを抱きながら、その場を離れて行くジュード。これ以上、会話している時間がないことは分かっている。
「……来たか」
彼にも時間がないことは分かった。聞こえてきた荒々しい足音がそれを教えてくれた。何者かが、それも大勢が近づいてきている。それが何者か、彼には確かめるまでもなく分かっている。
「動くな!」
姿を現すと同時に、命令を叫ぶ男。制服を着たその男は憲兵だ。
「……子供?」
だが中にいるのが、生きているのが彼ひとりであると分かって、戸惑いを顔に浮かべている。
「抵抗するつもりはない」
「……君がやったのか?」
「俺の他に誰が?」
剣を持ち、全身を返り血で真っ赤に染めている彼。その事実を前にしては、子供であることなど、逮捕を躊躇う理由にはならない。
「……分かった。同行してもらおう」
続いて部屋に入ってきた憲兵が、両側から彼を拘束する。容赦のない力で。子供であろうと殺人を認めた罪人だ。憲兵としては当然の対応。そのまま彼を憲兵所まで引き立てた後で、彼の素性を知った時に後悔することになるが。
何事かと集まった野次馬たちの前で北方辺境伯家、ブラックバーン家の公子を拘束して、その姿を晒してしまったのだ。後悔もするだろう。
◆◆◆
桜太夫の付き人たちが奏でる音楽が、茶屋に響いている。ゆっくりとした落ち着いた音色だ。賑やかな宴がひと段落して、ナラさんは酒の味を楽しんでいた。近頃、いつもの流れだ。散々に宴を楽しんだあとの酒は、気持ちを落ち着かせてくれる。心地良い酔いを楽しめる。これを覚えたことで、酒癖の悪さは嘘のように消えたのだ。
だが今日は、その穏やかな時間を邪魔する者がいた。珍しいことだ。
「……太夫」
大きな足音を響かせて、宴の中に割り込んできた男衆。本来はあってはならないことだ。
「なんですか? お客様に無礼ですよ」
そんな男衆を当然、桜太夫は叱る。せっかく整えた場の雰囲気を台無しにされたのだから当然だ。
「無礼についてはお詫びいたします。ただ、どうしてもお伝えしなければならないことが」
「……何ですか?」
ちらりと視線をナラさんに向け、彼が軽くうなづくのを見たところで、桜太夫は話をするように促した。あくまでも許可するのはお客様。そういう意図だ。
「ワ組が、壊滅しました」
「……壊滅というのは?」
衝撃的な言葉。だがそんな表現を使う状況がどのようなものか、桜太夫はすぐに理解出来なかった。
「組長のベージル他、多くが殺されました。組を動かせるような者はもうおりません」
「……そう、ですか」
言葉通りの意味。ワ組は壊滅した。組長以下、多くが殺されたという言葉で、桜太夫もそれを実感できた。ワ組には悪意しかないが、それでも多くの死が桜太夫の心を沈ませる。
「やったのは、アオです」
「なんですって!?」
だが続く言葉に沈む気持ちは吹き飛んだ。吹き飛んでしまうほどの事実なのだ。
「間違いないようです。憲兵に連れられていくアオらしき子供を見た者がおりました。その後の調べでも、裏は取れています」
「どうしてそんなことに……」
「これは推測ですが、仇討ちだと思われます」
ワ組を壊滅させたのはアオ。理由は仇討ち。男はこれをナラさんにも聞かせたかったのだ。彼がナラさんの関係者であることは分かっている。ナラさんの力で、少しでも彼の罪を軽く出来ないか。こんな期待からの行動だ。男衆一人の判断ではない。店主の意向もあってのことだ。
「……そう。そうなのね」
家族の仇討ち。桜太夫も薄々、マラカイたちは誰かに殺されたのではないかと思っていた。以前、親分と話した時に聞いた、「二人を守りきれなかった」という言葉からその可能性を感じていたのだ。
それはどうやら事実で、彼は仇討ちを実行した。「良くやった」という想いはある。だが、ただ喜ぶだけではいられない。
「……お客様にこのようなことをお聞きするのは間違いだと分かっているのですが、アオはどうなるのでしょうか?」
男はナラさんに問いを向けた。なんとかならないのかという想いを込めての問いだ。
「……絶対とは言わない。だが、おそらく王国はアオを裁けない」
「裁けないというのは?」
「詳細を私の口から語ることは出来ないな。だが、アオの本当の家は、こう言っては気分を悪くするかもしれないが、花街の一家をひとつ潰した程度の事件であれば、力づくで揉み消せるはずだ」
北方辺境伯家であれば、これくらいのことは出来る。これが何の罪もない一般人を虐殺したとなれば話は違ってくるだろうが、ワ組は善良な組織とは言えない。叩けばいくらでも埃が出るはずで、それをこじつけて、正当化することは出来るはずだとナラさんは考えている。
「……とにかくアオは無事なのですね?」
彼の本当の家、それもかなり力のある家であることは桜太夫にとって驚きだが、今はそんなことより、無事でいられることを喜んだ。だが、これは早合点だ。
「王国は裁けない。だが、実家がアオをどうするかは別だ。一生、日の当たらない身となる可能性はある」
「そんな……」
いくら事件をもみ消せても、その事実は知る人は知ることになる。そんな弱みをブラックバーン家が放置しておくか。彼の存在は、これ以降なかったものにされる可能性がある。不祥事を起こした家の者を表舞台から消し去るなど、過去にいくらでもあったことだ。
「頭の良い子だ。覚悟の上のことだろう。全てを捨てても。そう思える大切な存在だったということだ」
多くの人を殺したのは決して正義ではない。重い罪だとナラさんは思う。だが彼は、その重い罪を背負っても、北方辺境伯という貴族の頂点に立つ権利を捨ててでも、家族の仇討ちを成し遂げようと考えた。その想いまで否定する気にはナラさんはなれない。「良くぞ、成し遂げた」という思いが、駄目だと分かっていても、湧き上がってきてしまう。
この気持ちは、今この場で話を聞いている全員に共通するものだった。