リリエンベルグ公国の南端。ローゼンガルテン王国によって閉ざされていた領境の関所を抜け、両側を山に挟まれた川沿いの街道を進むこと二日。視界は一気に開け、街道沿いに広がる田園風景が見えるようになる。魔人との戦いで荒廃した姿を想像していたブルーメンリッターの団員たちにとっては、意外過ぎる光景。リリエンベルグ公国領内に入ってから、ずっと続いていた緊張が緩むことになった。その場で農作業をしていた領民たちに、グラスルーツから南では魔人の姿を見ることはない。戦いも一度も起こっていないことを聞いたあとは尚更だ。
当然、軍を率いているエカードとレオポルドやマリアンネたち、ブルーメンリッターの幹部たちはその話を出発前に聞いている。リリエンベルグ公爵家はグラスルーツを最前線として守りを固め、魔人の南下をなんとか防いでいると。だが話に聞いていたのと、実際にそれを自分の目で確かめたあとでは気持ちは違っていた。他の団員たちと同じように安堵の思いもある。だがそれ以上にエカードたちの心には、守るべき人の姿を実際に見て、話をしたことで、勝利への強い想いが沸き上がっている。
「グラスルーツまではここから更に二日。これを遠いと捉えるか、近いと捉えるか」
「間違いなく近いだろうね」
目の前に広がる田園風景。だがそれはリリエンベルグ公国全体から比べれば、わずかな土地。リリエンベルグ公国の人々はその狭い地域に押し込まれているのだ。
「グラスルーツから北の情報はほとんどない。送り込んだ偵察員は一人も帰ってきていない」
「つまり、グラスルーツから一歩北に出るとまったくの別世界ということだね」
これも王都を出る時から共有していた情報。グラスルーツに入る前に、改めて情報と行動計画の確認をしているのだ。移動と訓練以外は、それくらいしかやることがないということもある。
「リリエンベルグ公国の主要拠点は南北に並んでいる。グラスルーツから北に進むとブラオリーリエ。さらに北に行くと中心都市のシュバルツリーリエだ」
「シュバルツリーリエは開戦からまもなく陥落。ブラオリーリエは……そこで彼は死んだのか」
「行方不明だ」
ジグルスの生死は不明。アルウィンがもたらした第一報から情報は更新されていない。絶望的な状況であるが、エカードは行方不明と訂正した。ジグルスの生存を信じて、リリエンベルグ公国に向かった人々がいる。その人たちの話を聞く前に、死んだと決めつけてはならないと考えているのだ。
「……行方不明の彼を捜して、リーゼロッテはどこにいるのかな? グラスルーツにいるという情報はないよね?」
「ないな」
リーゼロッテだけではない。ウッドストックの情報もない。ウッドストックに関してはリリエンベルグ公国に入れたのかも定かでなはいのだ。
「グラスルーツにいないとなると、ブラオリーリエか。今もいるかは分からないけど、一度は向かったはずだね?」
ジグルスを捜そうと思えば、彼が行方不明になったブラオリーリエに向かうはず。だが今もそこにいるとは限らない。レオポルドは悲観的に考えているのだ。
「最初の到達目標はブラオリーリエ。グラスルーツで何か新しい情報が得られない限りは、この計画のままだ」
まずはブラオリーリエに到達すること。空であればそのまま拠点として利用。魔人が占拠していれば、なんとかして奪回する。グラスルーツからもっとも近い軍の拠点に相応しい場所はブラオリーリエしかない。誰が考えても、こうなる。
「……グラスルーツは誰が守っているのでしょう?」
「クラ、あっ、いや、妃殿下。どういうことですか?」
「クラーラで良いですから。エカード様に妃殿下なんて呼ばれて、敬語を使われても落ち着きません」
不機嫌さを顔に思い切り表して、態度を以前のように戻すように伝えるクラーラ。妃扱いされても、彼女はまったく嬉しくないのだ。
「いや、そう言われても……」
クラーラにそう言われても、それを許さないであろう存在がいる。護衛役の近衛騎士たちだ。
「私は候補であって、まだ妃ではありません。これも何度も言いました。それとも呼び捨てにしろと命令すれば良いのですか? 敬語を使ったら命令違反で罰すれば良いですか?」
とにかくクラーラは妃扱いを止めて欲しい。生真面目を通り越して、面倒くさいエカードに少しウンザリしている。
「それは……」
命令に従えば良いのか、正しい態度を続けるべきか。エカードは悩んでしまう。
「じゃあ、お言葉に甘えるわ。クラーラ。よろしくね」
ウンザリしていたのはマリアンネも同じ。エカードを説得しても埒が明かないと考えて、自分が先に態度を改めることにした。
「マリアンネさん、またよろしくお願いします」
「クラーラ。よろしく」
「レオポルドさんも、よろしくお願いします」
それにレオポルドも続く。こんなことで時間を浪費するのはレオポルドとしては馬鹿らしい。マリアンネが踏み込んだのを機会に、この件はこれで終わりにしようと考えた。そもそも言葉遣い程度で、罰せられるはずがないのだ。
「……じゃあ、クラーラ」
二人に態度を変えられるとエカードもそれにならうしかない。
「はい」
「それはどういうことだ?」
「言葉のままです。誰がどうやってグラスルーツを魔人から守っているのか疑問に思いました。中心都市であるシュバルツリーリエを落とした魔人の攻撃を、ただの街であるグラスルーツで防げるものでしょうか?」
普通に考えれば防げるはずがない。シュバルツリーリエに比べれば、グラスルーツの防衛力は無に等しいのだ。
「……グラスルーツはかなりの改修が行われていて、以前とは比べものにならない城塞都市になっている」
「以前と比べてです。最初からそうだったわけではありません」
「……それでも守りきれている。魔人の攻撃を受けていないのか?」
攻撃を受ければひとたまりもない脆弱な街。それが維持出来ているとすれば、そもそも攻められていない可能性がある。
「何故、魔人は攻撃しなかったのでしょう?」
「それは……奪う価値がないから」
「それだけですか?」
それだけのことであれば、クラーラはここで話題にしない。グラスルーツに到着して話を聞けば分かることだ。
「……他に優先すべき攻撃目標があった。しかもそこはまだ落ちていないとクラーラは考えているのか?」
グラスルーツが平和なのは他の場所で戦っているから。クラーラの考えていることがエカードにも分かった。
「可能性はあります。もし戦っているのが私たちがよく知っている人たちであれば、十分にあり得ると思いませんか?」
リーゼロッテたちが率いるリリエンベルグ公国軍であれば、そこにジグルスも無事でいるのであれば。ウッドストックも合流していれば。魔人の攻撃を防ぎ続けていてもおかしくない。
もっとも望ましい可能性を思いついて、クラーラは嬉しそうだ。
「……そうだな。十分にあり得る」
エカードはクラーラのように純粋に喜べない。祖父であるキルシュバオム公爵からは、リリエンベルグ公国では、なんとしても他者を圧倒する戦功を掴めと命じられている。それがキルシュバオム公爵家の栄光に繋がるのだと。
言われなくてもそのつもりであったエカード。だがもしリーゼロッテが率いるリリエンベルグ公国軍が戦っていたら。そこにジグルスが生きていたら、はたして自分たちは彼らを超える戦果を得られるのか。必ず実現出来ると自分を信じることがエカードには出来ない。
「……皆、無事でいてくれると良いですね?」
「ああ、そうだな」
クラーラの心からも、ついさきほどまでの純粋な喜びは消えている。この作戦が決まった会議の内容については、細かなところまでアルベルト王子から話を聞いている。エカードに向けたアルベルト王子の問い掛けについても。
それを聞かされた時は、もしかしてアルベルト王子はやきもちから、そんな話を伝えてきたのか、なんて浮かれたことを思っていたクラーラ。だが今、エカードが見せた反応は、アルベルト王子の考えを裏付けているもののように思える。
そんなはずはない。エカードは弱い人たちを守る為に、この世界に平和をもたらす為に戦っている。自分の勘違いである、という思いも浮かび上がってくる。自分はエカードの本心を見極める為に、同行を求めたのではないという思いも。
◆◆◆
ブルーメンリッターのリリエンベルグ公国奪回作戦の開始。リリエンベルグ公国、当人たちの中ではすでに存在しないが、としては迷惑な話だ。いつかはローゼンガルテン王国が軍を送ってくるのは分かっていた。だが、それは先であればあるほど良い。魔王軍との戦いに勝利して、次の戦いに向けての態勢を整え直す時間が、出来ることなら欲しかった。
さすがにそれは都合が良すぎるとしても、今はタイミングが悪すぎる。魔王軍、そしてアース族との戦いは混戦の中、さらに激しさを増している。ローゼンガルテン王国の相手をしている暇はない、というのが素直な気持ちだ。だからといって、先延ばしにすれば事態が好転するわけでもない。結局、もっとも都合の良いタイミング以外は、いつでも同じなのだ。
「……出来るだけ真相が明らかになる時期は遅らせる。これくらいしかないね」
ヨアヒムが出来ることはほとんどない。数日後にはグラスルーツにやってくるブルーメンリッターをもてなし、少しでも北に向かうのを遅らせること。あとは運次第だ。その運も期待は出来ない。
「タバートたちであれば、いきなり無茶な真似はしないと思うけど、ローゼンガルテン王国が、キルシュバオム公爵が命じれば、従うことになると思うわ」
グラスルーツは魔人と通じている。これを知れば、ローゼンガルテン王国軍はグラスルーツを攻め取ろうとする。穏便なやり方になるか、そうでないかはキルシュバオム公爵次第だとリーゼロッテは考えている。どちらにしても、長い時と労力をかけて作り上げたグラスルーツは奪われることになる。
「いつかは、とは思っていたけど、これだけ長くいるとそれなりに愛着が湧くものだね?」
「守り切るという選択肢もあったわ。でも今はローゼンガルテン王国を相手にする余裕がない」
戦力の余裕があればグラスルーツを守るという選択もある。だが今はその選択は難しいのだ。
「この結果が分かっていての魔王の作戦かな?」
魔王が混戦に持ち込んだのは、これを予想していたから。その可能性をヨアヒムは考えた。
「そこまでは分からないわ。私たちがグラスルーツを放棄すれば、魔王にとっても敵が増えることになるもの」
「そうだけどローゼンガルテン王国が混戦に巻き込まれてからの話だ」
グラスルーツを守ろうと思えば、アイネマンシャフト王国単独でローゼンガルテン王国と向かい合うことになる。だが放棄して、ローゼンガルテン王国を旧リリエンベルグ公国領内深くに引き込めば、魔王軍とアース族も新たな敵を迎え入れることになるのだ。
ただ支配地域が南に寄っているアイネマンシャフト王国が不利であることは間違いない。
「どこまで誤魔化せるか……話が戻ってしまったわ」
結局、ブルーメンリッターにアイネマンシャフト王国の存在をどこまで隠し通せるか。何も知らない彼らにとって、魔王軍とアース族、そしてアイネマンシャフト王国の魔人の区別などない。
「陛下はどう考えているの?」
「ジークは覚悟を決めたわ。自分たちの保身の為に、国民を犠牲にするような真似はしないって」
「アイネマンシャフト王国を守ることが国民の為になるとは考えない?」
「その過程で民の犠牲を受け入れるような真似はしないってこと。負けることなんて考えていない。もちろん、ジークだから何も考えていないわけではないわ」
負けない為にはどうすれば良いか。ジグルスは必死に考えている。今に始まったことではない。ずっと前から、アイネマンシャフト王国の建国を決めた時から考えている。それをその時の状況の変化に合わせて、考え直し続けているのだ。
「……西の拠点を渡すという手もある」
西の拠点を守っているのはワルター元王国騎士団副団長が率いる部隊。アイネマンシャフト王国からの増援もいるが、その増援を引き上げれば人族だけが残ることになる。
「良いの?」
ヨアヒムと同じ考えをリーゼロッテも持っていた。これについては相談する為に、グラスルーツに来たのだ。
「リゼ。そろそろ私に対する遠慮はなくすように言ってもらえないかな? 私もアイネマンシャフト王国の臣下。西の拠点をどうするかに私の許可はいらない」
「何度も言っているわ。でも、もうしばらく時間がかかると思うわ。私に敬語を使わないことに違和感を覚えなくなったのも最近みたいだから。フェリクスたちには未だに敬語。ジークのこれについては私もよく理解出来ないわ」
かつての態度をなかなかジグルスは改めようとしない。それでいて魔人たちには横柄な態度を平気で見せたりするのだ。これはリーゼロッテにもまだ理解出来てないジグルスの性質だ。
「私なんかの推測は間違っていると思うけど、何も考えていないのではないかな?」
「どうしてそう思うのかしら?」
人一倍、物事を考えるジグルス。そのジグルスに対して、何も考えていないとヨアヒムが思う理由がリーゼロッテは気になった。
「最初の態度が全て。それを改めることに頭を使うのを、無意識に拒否しているのではないかと思って。何も生み出さないから」
「……あり得るかも」
人一倍頭を使っているからこそ、無駄なことには上手く頭が回らない。そういう極端な性質は、ジグルスらしいとリーゼロッテも思った。
「余談だね。ローゼンガルテン王国軍がブラオリーリエに向かうのは避けられない。そうなると警備隊と遭遇させない為には、出来るだけ迂回させること。西を回らせるのが一番だと私も思う」
ブルーメンリッターに支配地域内をうろうろされたくない。支配地域内に侵入してきた魔王軍を撃退してくれるのであれば良いが、その魔王軍から人々を守っているアイネマンシャフト王国の警備隊相手であってもブルーメンリッターは攻撃してくるはずだ。
その機会を減らすには支配地域の西端を移動させること。その結果、魔王軍やアース族と遭遇し、戦ってくれるのであればアイネマンシャフト王国としてもありがたい。
「ではそれで。ワルターたちについては正直に話して良いと思うわ。リリエンベルグ公国を守る為に騎士団を抜けて来たと聞けば、正義感の強いエカードは彼らをすぐに罰するようなことはしないはず。嘘をつくのは、兄上の部下ではないってことくらいかしら?」
「勝手に来て、勝手にやっていることなので、詳しい事は知らない……ちょっと苦しいけど、こう言うしかないね」
グラスルーツから北のことは分からない。こう伝えてきたことに対する言い訳だ。
「疑われるのはしようがないわ。とにかく支配地域内でブルーメンリッターに争いを起こさせないこと。魔王軍とブルーメンリッターの両方を相手にしていられない。それに、せっかく上手くいきはじめた暮らしを壊されるわけにはいかないわ」
魔王軍やアース族と激しい戦いを繰り広げながらも、新しく広げた支配地域内での民の暮らしは軌道に乗り始めている。魔族やエルフ族の協力によって農作地を再生し、新たな開墾も進めている。魔王軍の襲撃に対しても警備隊はなんとか被害を軽微といえる程度に抑えている。共に暮らし、共に働き、種族間のわだかまりは、少しずつだが、確実に薄れてきているのだ。
国がひとつになろうとしている。それをブルーメンリッターに邪魔させるわけにはいかない。戦争に勝つだけがアイネマンシャフト王国の目的ではないのだ。