激しい戦いが行われていた戦場に静けさが広がっていく。優斗のやり様に呆れた多くの魔族が、成り行きを気にして戦いの手を止めた結果だ。劣勢であったイーストエンド侯爵家軍もその隙をついて反撃に出るような真似はしない。一時、優勢になってもすぐに戦況が元に戻るのは分かりきっている。せいぜいが魔王軍側を刺激しない程度に、ゆっくりと陣形を整え直すくらいの動きをみせるくらいだ。
戦場を騒がせているのは優斗。その優斗に暴行を受けて、痛みに声をあげているエアルだけだ。
「いつまで俺を放っておくつもりかな? とっくに武器は捨てているけど?」
優斗に向かって問いをなげるヒューガ。優斗のやり様に内心はかなり怒っているのだが、その表情からは感情が見えない。
「……もっと、この女を可愛がってやってからだ」
「なんだ。武器を持たない俺でも怖いのか?」
「そんな挑発には乗らない。暇だと言うなら遊び相手を与えてやるよ」
優斗が視線を向けたのは近くにいた元傭兵たち。彼の目くばせを受けて、男たちはヒューガに近づいて行った。その中の一人が、やや躊躇いながらも、ヒューガに向かって拳を振るう。
ヒューガが躱すことなくそれを受けたことで、他の男たちも暴力をふるい始めた。
「ははっ! 情けない男だね。あんな男のことは忘れて、僕と仲良くしようよ」
その様子を眺めながら、笑みを浮かべてエアルに話し掛ける優斗。
「…………」
そんな優斗に返す言葉をエアルは持たない。返す気持ちもない。無言で睨みつけているだけだ。
「……別に無理やりでも良いけどね? なんなら今この場で楽しませてもらおうか?」
エアルの視線に苛立ちを覚えた優斗。今度はエアルを脅そうとしてきたのだが、こんな台詞で怯える彼女ではない。
「……好きにすればいい。恥をかくのはお前のほうだからな」
「どうして僕が恥をかく?」
「女性を満足させることも出来ない子供だと皆に知られることになる。それとも実際に子供なのか? 教えてもらわないとやり方も知らない?」
「僕を馬鹿にするな!」
エアルの挑発に頭に血を上らせる優斗。地面に転がったままの彼女を蹴りつけて、仰向けにすると手に持っていた剣を突き降ろそうと構えをとった。
「やめて!」
優斗の耳に届いた制止の声。邪魔をするなと怒鳴りつけようとした優斗だが、その思いは声にならなかった。
「美理愛か……」
制止の声は美理愛のもの。彼女への想いはかつてのものと違ってしまったが、それでも大勢の前で怒鳴りつけることには躊躇いを覚える相手だ。
「お願い。もう止めて」
「こいつが僕を馬鹿にするのがいけないんだ……いいや、おしおきは後にする。逃げないように見張っていて。僕はあいつの相手をしてくるから」
「優斗!」
ヒューガに向かって歩き出す優斗を止めようとする美理愛。だがこの声には優斗は反応しない。美理愛の声はヒューガを守る為のもの。そうは思っていないのだ。それが分かっても、やはり優斗が止まることはないだろうが。
「……すぐに治療しますから」
エアルの返事を待つことなく、治癒魔法を唱える美理愛。エアルの体が淡い光に包まれる。
「大丈夫ですか? 動けますか?」
美理愛の問いに応えて、起き上がろうとするエアルだが、うめき声をあげて、そのまま地面に倒れていった。
「そんな……」
治癒魔法の効果がないことに驚く美理愛。すぐにまた詠唱を行ったのだが、結果は変わらず。エアルは立ち上がることが出来なかった。それでも美理愛は諦めない。続けて魔法を唱えようと口を開いたのだが。
「何度やっても同じだ」
ライアンがそれを止めた。
「理由を知っているのですか!?」
「魔力を込めた攻撃をまともに受けたのだろう。傷は塞がっても内面に受けた衝撃は簡単には消えない」
優斗は攻撃は魔力を込めたもの。意識してのものではない。強大な魔力を体内に宿す優斗の攻撃は自然とそうなっているのだ。
「時間が経てば治るのですか?」
「治るはどうかは本人次第。だが、まあ、その女は大丈夫だろう」
エルフ族であるエアルの魔力は人族の常人とは違うはず。ライアンが治ると考える根拠だ。
「そう……えっ? ちょっと?」
いずれ治ると聞いて安心した美理愛だが、エアル本人はそれでは納得しない。痛む体に構うことなく、這いつくばったまま移動しようとしていた。
「無理しないで!」
「……無理か」
この状態で逃げるのは無理。エアルの無理は美理愛のそれとは違う。
「大人しくしていれば良くなるわ」
「……殺して」
「えっ……?」
エアルの口から出た言葉は、美理愛には想定外のものだった。
「私を殺して……お願いだから」
「そんなつもりはないわ。大丈夫。きっと治るから」
地面に倒れているエアルの横に跪き、慰めの言葉を口にする美理愛だが、その想いはエアルには届かない。届いていてもエアルの望みは変わらない。
「今すぐ私を殺せ! 頼むから!」
「どうして……? 貴女を死なすことなんて出来ないわ。そんなことになったら日向くんが悲しむ」
「……ヒューガの為だ」
エアルが死を望むのはヒューガの為。自分が捕らわれていることでヒューガの命が危険にさらされるなんて状況は、エアルにとってあってはならないことなのだ。
「私の命はヒューガのもの。ヒューガの為に私の命はあるの。私のせいでヒューガが殺されるなんてあってはいけないの」
「エアルさん……」
エアルの想い。話には聞いていた彼女の強い想いを、美理愛は本人から直接聞かされることになった。
「私のことを?」
エアルは美理愛のことを知っている。会ったことはないがヒューガ、それ以外からも話は聞いているのだ。
「ヴラドさんという方から少しだけお話を聞いています」
「そう……私も貴女のことは少し知っているわ。もし私が思っている通り、貴女の心にヒューガへの想いがあるなら、お願いだから私を殺して」
「だからそんなことは出来ないわ!」
「ヒューガを助ける為でも!? このままではヒューガは殺されてしまう! それでも良いの!?」
今もヒューガは優斗から暴行を受けている。すぐに殺すつもりはないのは分かっているが、その気持ちがいつまで続くか分からない。ヒューガがどれだけ耐えられるかも分からない。
「…………」
「殺すことは私を救うことにもなる。躊躇う必要はないわ」
「でも……」
理屈は分かる。ヒューガが殺されることも絶対に避けたいと思う。だからといって気持ちを割り切って、エアルを殺せるほど美理愛の心は強くない。
「お願い……ヒューガが死ねば、どうせ私も死ぬの。だから……」
美理愛の胸元を掴んで自らに引き寄せ、懇願するエアル。だがやはり、美理愛はそれに応えることが出来なかった。
「そんな力が残っているなら、もう少し粘ってみたらどうだ?」
エアルの言葉に応えたのは美理愛ではなくライアン。だがその内容はエアルの求めとは異なるものだ。優斗が行ったと同じように、エアルの膝を足で踏みつけるライアン。
「ぐっ、あぁああああああっ!!」
骨が砕ける音。それと同時にエアルの絶叫が響き渡る、
だがライアンは容赦しない。何度も何度もエアルの膝を足で踏みつけ、拳で殴りつける。足が曲がるはずのない方向に曲がっても、それは終わらない。
「止めて! そんな酷いことしないで!」
美理愛の制止にもライアンは耳を貸さない。ねじ曲がった膝を執拗に打ち続けた。エアルの絶叫ももう聞こえなくなっている。
「止めて! もう気を失っているわ!」
「そのほうが痛みを感じなくて良いだろ?」
「えっ?」
ライアンの行動はただエアルを痛めつける為のものではない。彼の言葉で美理愛はそれを知った。
「……これくらいで良いか。治癒魔法をかけてみろ」
「魔法は利かないって」
「治すのは今粉々にした膝だ。まあ、これも治るかどうかは本人の運次第だがな」
「どういう」
「さっさとやれ! 時間がない!」
ライアンに怒鳴りつけられて、とにかく治癒魔法をかけることにした美理愛。詠唱の声が終わると同時にエアルの膝が光に包まれる。それが消えたところで、ライアンは気を失ったままのエアルの膝を持って、曲げ伸ばしを始める。
「……動かしただけでは分からないか」
「どういうことですか? 何の意味があって、こんな真似を?」
「恐らく彼女の膝は昨日今日、痛めたものではない。痛めた時にろくに治療しないままに放っておいて、おかしくなったのだろう」
「どうしてそんなことが分かるのですか?」
エアルのことをライアンは詳しく知らないはず。それでどうしてこんなことが分かるのか美理愛は疑問に思った。
「俺もそうだったからな」
「えっ?」
「骨が間違ってくっついて、そのせいで動きがおかしくなり、それだけでなく常に痛みに悩まされていた。かなり前の話だ」
「今のと同じ方法で治したのですか?」
ライアンの話は過去のこと。今はもう治っているということであれば、今エアルに行ったのと同じ方法であったはずだ。
「ああ……魔王様が治してくれた」
「魔王が……」
「細かい理屈は俺には分からん。同じ異世界人であるお前のほうが分かるのではないか? なんだったかな……なんとかの記憶が残っていれば、とか言っていた」
「それだけでは分かりません」
魔王の言葉からでは美理愛は治療法にまったく見当がつかない。それはそうだ。元の世界でも行われていない治療法、治療法とも呼べないものなのだ。
「そうか……さて……実際に治ったかは分からない。そもそも気絶したままでは逃げられないな」
膝が奇跡的に治っていたとしてもエアルは気絶したまま。目が覚めたとしても思うように動けるかも分からない。ライアンは、もちろん美理愛も逃げる邪魔をするつもりはないが、他の者も同じとは限らない。少なくとも人族の部下たちは間違いなく優斗に従うはずだ。
「エアルくんは私が運びます。貴方が邪魔しないのであれば、無事に逃げ切れるでしょう」
「……勝手にしろ」
現れたのはヴラド。エアルを逃がそうとするヴラドの邪魔をするつもりもライアンにはない。
「あの……日向くんは?」
エアルはヴラドが連れて逃げるとして、ヒューガはどうなるのか。美理愛にはこれも気になる。
「彼も連れて行きます。あの男が余計なことをしなければ良いのですけど……いえ、したほうが良いのかもしれません。これは結果が出なければ分かりませんね」
「それって、どういう?」
美理愛の問いに答えることなくヴラドはエアルを連れて、その場を離れた。当然、それを止めようと動いた者たちがいたが、それは上手くいかない。逃亡を助けたのはヴラドだけではなかった。漆黒の巨体を持つ馬、に似た獣。止めようとした者たちの中には、コクオウの足を止められる力のある者はいなかったのだ。
◆◆◆
嬲り殺しにする。この言葉通り、優斗は剣を使って、ひと思いにヒューガを殺すことなく、足と拳だけで攻撃を続けた。殴る蹴るの攻撃だけであっても魔力のこもったそれの威力はかなりのもの。わざと大きく吹き飛ばされることで受けるダメージを軽くしようとしたヒューガであったが、内面に蓄積していったダメージのせいで動きは鈍くなっていく。
隙を見てエアルのところに駆け寄り、この場を逃れようという試みはその成功の可能性をどんどん薄れさせていた。表情には出さないようにしているが、ヒューガの内心の焦りは強まるばかり。そんな時だ。エアルの絶叫が響き渡ったのは。
それに驚いたのは優斗。エアルの側に、美理愛だけでなく、ライアンがいることにも気付いていた。そのライアンがエアルを痛めつけるとは思っていなかったのだ。
「偉そうなことを言っていても、所詮は魔族なんてこんなものだね?」
力と力の正面からのぶつかり合い。ライアンが求めている戦いは、優斗が整える戦場とは異なるもの。それが分かっている優斗は、ライアンが陰で自分を蔑んでいるものと思い込んでいる。そんなライアンが自分と同じような真似をしたことが嬉しかった。
誤解だが、今の優斗には分からないことだ。
「……しょ、所詮は、魔族なんて? お前……まだ、魔族のことを……理解していないのか?」
優斗の言い様がヒューガには気に入らない。ヒューガにとって魔族は「所詮は」なんて表現される存在ではない。立っているのもやっと、という状況にありながら、優斗に問い質した。
「……ああ。確か……魔族はただ魔力が強いだけの存在で、悪魔とは違うってやつかな? それだったら聞いた。君の言う通りかもしれないけど、一方で魔族には力が全てという考えがある」
「……だから?」
「強い者が正義。それは本来は正しい考えじゃない。この世界の僕にとっては好都合だけどね?」
元の世界での優斗、この世界に来てからも変質する前の優斗であればそれとは逆、正義が力だ、なんて言い方をしただろう。
「……それで……よく、魔王なんて……名乗れたな?」
「はっ? どういうこと?」
「俺の知る限り、前魔王は、力が正義なんて考え方は持っていなかった」
彼女が魔王となったのは魔族を守る為。そう名乗れるだけの実力はあったのだろうが、力で支配しようなんて考えは持っていなかったはずだとヒューガは思っている。
「君に何が分かる? 前の魔王と会って話したことがあるとでも言うのか?」
「会ったことなんてない」
「じゃあ、分かるはずがない」
「少なくとも分かろうと努力はした。何故、彼女は魔王になったのか。魔王になった彼女は何を実現し、何を実現出来なかったのか。それは何故か」
アイントラハト王国の国民には魔族もいる。彼らが王という存在に何を求めているのか。前魔王の何が多くの魔族を惹きつけたのか。自分は彼女と同じような存在になれるのか。なる必要があるのか。自分はどうあるべきなのか。ヒューガは考えてきた。
「意味が分からない。どうしてそんなことを考える必要があるのかな?」
「……俺にはないのかもしれない。だが、お前にはあるはずだ。魔王を名乗るからには前魔王の想いを考えるべきじゃないのか?」
「うるさい! 僕は僕だ! 前魔王の想いなんて関係ない! 僕は魔族だけじゃない! この世界の全てを支配する! 僕はこの世界全てを統べる王になる!」
自らの想いを口にする優斗。とくに隠していたものではない。だがこれだけ大勢の前で言葉にするのは初めてのことだ。偶発的な機会。だがこの機会を優斗は必然だと捉えた。この世界を統べる第一歩がここからは始まるのだと。
「それは無理だ」
だがその第一歩はいきなりヒューガによって否定されることになる。
「なんだと?」
「少なくても俺はお前には従わない。お前が何者になろうと、どれだけ力を持とうが、逆らい続けてやる」
「……それは無理だね。何故なら君は、今この場で死ぬ」
優斗の殺気が膨れ上がる。嬲るのは終わり。ヒューガを殺し、その煩わしい口を塞ぐことを決めたのだ。地を蹴って、一瞬でヒューガの間合いに入った優斗。振るわれる剣がヒューガの体を斜めに切り裂いた、はずだった。
「なっ……?」
地に倒れたはずのヒューガが消えている。行方を捜した優斗の目に映ったのは、黒い大きな獣の姿。物凄い速さで駆け去っていくホーホー、コクオウの姿とその背に乗るいくつかの人影だった。
「……追え! 逃がすな!」
すぐに追いかけるように指示を出す優斗、だがそれに反応する動きは鈍い。
「奴らはパルス王国の味方だ! イーストエンド侯爵の軍と共に討て! これは契約の戦いだ!」
すかさず優斗はヒューガたちを討つことも契約の戦いの一部と定めた。実際のところは微妙であるが、それを確かめる術は行動を起こすこと、もしくは起こさないこと。曖昧な状態であるからには魔族たちは動くしかない。
ヒューガたちを追う追わないの前に、イーストエンド侯爵家軍も状況の変化を受けて、撤退しようと動き出している。少なくとも、それを見逃すわけにはいかないのだ。
「前を塞げ! 急げ!」
味方に行く手を遮るように指示を出しながら、優斗自身も後を追う。コクオウの足は速い。だが魔族が本気で行く手を塞ごうとすれば、まだ防げない距離ではない。
実際にヒューガたちの行く手は塞がれた。魔王軍だけでなく、戦場を脱出しようと右往左往するイーストエンド侯爵家軍によっても。
「追いついたっ! 死ねぇええええっ!」
魔力を使った優斗の足も速い。脱出ルートに迷って足を緩めたコクオウに向かって、勢いをつけて飛び掛かった優斗。頭上に振りかぶった剣を、宙を飛んだ状態のまま、目前に迫ったコクオウに振り下ろす。
手応えは固い金属。コクオウの体を斬ったそれではなかった。
「……君、誰?」
自分の剣を遮った相手を睨みつける優斗。見知った相手ではない。
「我が名はギゼン・レットー。貴殿の相手は私が務める」
優斗の前に立ちふさがったのはギゼンだった。