第三軍の出撃は見送られている。中央を空にするわけにはいかない、というだけでなく訓練不足もその理由だ。トリプルテンの影響で多くの部隊でかなり厳しい訓練が行われるようになっているが、その成果が現れるにはまだ時間がかかる。ある程度、形になったとしてもそれは小隊、せいぜいが中隊単位での行動訓練までなのだ。千の単位で戦うとなるとまた違った訓練が必要になる。その経験が第三軍にはない。
理由が何であれ出撃を許されなかったとなれば健太郎は不満を抱き、バレル千人将あたりには直接文句を言いに行ってもおかしくないのだが、今回はそういった行動をとっていない。それによって抱く不満を解消するに十分以上な仕事が与えられたからだ。
「今日からフローラ様の護衛任務につく第三軍第十大隊第十中隊第十小隊です」
与えられた任務はフローラの護衛任務。この待遇を捨てて戦場に出て、後悔しない自信は健太郎にはない。
「よろしくね」
「あっ、よろしく」
フローラに笑みを向けられて、せっかく気をつけていた態度が崩れてしまう。しかも笑みを向けられたのは健太郎だけではないというのに。護衛任務にはトリプルテンのメンバーだけでなく教官として雇われている元メンバーも参加することになっている。エドワード王の判断だ。
彼等はフローラの顔なじみ。「久しぶり、元気だった」なんて挨拶を交わす間柄であるのだが、今はそういうわけにはいかない。
「ではフローラ様の本日のご予定を説明する」
さすがに、エドワード王は健太郎とトリプルテン、元も含めて、のメンバーたちだけで護衛させることは許さなかった。近衛騎士も一緒なのだ。記憶が戻ったことを隠しているフローラにとっては邪魔な存在だ。
「ではフローラ様。参りましょうか」
健太郎たちに予定を説明し終えたところで近衛騎士バーモンドがフローラに出発を促してきた。今日の予定は王都視察。フローラの街を散歩してみたいという要求はこういう形になった。
もちろん普通の散歩のようにはいかない。護衛付き、それも近衛騎士もいるとなれば、本人はそのつもりでも、周囲がただの散歩とみない。
用意された馬車に乗り込むフローラ。この時点で散「歩」ではない。馬は歩くが。
「お前は外だ」
「えっ?」
フローラの後から馬車に乗り込もうとした健太郎だが、それはバーモンドに止められた。
「良いよ。彼に聞きたいこともあるだろうから」
フローラは健太郎が馬車に乗るのを許そうとしている。どうせならグレンの元部下であるカルロあたりに同乗して欲しいという気持ちはあるが、平民である彼等にそれは許されない。万が一許されてもバーモンドが同乗していては、本当に話したいことは話せないのだ。
「しかし、フローラ様」
「バーモンドさんは街には詳しいの? 私の質問に答えられるのかしら?」
「それは……内容次第です」
近衛騎士はほとんどを城内で過ごす。さすがに街の地理は頭に入っているが、詳しいとは言えない。
「美味しい甘味のお店とか知っている?」
「……知りません」
「ほらあ。どうぞ、乗って」
質問に答えられないことを明らかにした上で、健太郎に同乗を許可する。こうなるとバーモンドも強く反対出来ない。健太郎に同じ質問をしても、やはり知らないと言うだろうことも思い付かない。
「じゃあ、出発ね。まずは街の中心が見たいわ」
「承知しました。では中心街に向かいましょう」
案内を求めるフローラも実際に王都には詳しくない。グレンに表通りに出ることを禁じられていたので賑やかな中心街には数えるほどしか行ったことがないのだ。
城を出た馬車は王都でもっとも賑やかな中心街に向かっていく。
「ケンタロさんは普段は何をしているの?」
「ああ、ケンで良いよ」
「えっ?」
「僕のことはケンと呼んで」
「……分かったわ。ケンタロさんは普段は何をしているの?」
全く同じ問いを繰り返すフローラ。お前となれ合う気はないという意思表示だ。
「……国軍の小隊長。最近はずっと訓練かな?」
「訓練以外の時は?」
「勉強かな?」
「えっ……何の勉強?」
意外な答えに驚いたフローラだが、すぐに見栄を張っている可能性に気が付いた。戦争が近いのにグレンたちの作業場に遊びに来ていた健太郎しか、フローラは知らないのだ。
「軍の戦術とか。僕はずっと勉強をサボってきたからね。今は遅れを取り戻そうと必死だ」
「……何かあったの?」
フローラが持つ健太郎のイメージとは違う。自分が勘違いしていたとはフローラは思えない。
「……どうしても勝てない相手がいる。ずっと張り合ってきた、いや、自分のほうが上だと思い上がっていたのだけど……気が付けば相手は遠くに行っていた。僕はその相手に追いつきたいんだ」
バーモンドがいるのでこのような言い方しか出来ない。だが分かる人にはその相手が誰だか分かる。隠そうとしているバーモンドにも。
「その人はケンタロさんにとってどういう存在なの?」
「ライバル、競争相手、と言いたいのだけど向こうはそう思っていないね。まずは競争相手だって認めてもらうところからかな?」
「そう……良かったね。そういう人がいてくれて」
「ああ、僕もそう思う。本当は……そうだね。頑張らないと」
本当は自分を支えてくれる人でいて欲しかった。だがフローラに向かってこの思いを口にすることは出来ない。今となってはそれは思い上がりだと分かる。グレンは人を支える人ではなく人の上に立つ存在なのだ。そしてなにより、その可能性を消し去ったのは自分自身の愚かさなのだから。
「……甘味の美味しいお店知っている?」
「えっ?」
バーモンドがいなければもっと深く話すところだが、そうでない今は逆にこれ以上の話は止めておくべきだとフローラは考えた。
「甘味のお店」
「あ、ああ……えっと……」
「これだけ賑やかだからあると思うのだけど」
かつてローズとグレンのデートを邪魔する為に来た店が。もちろん閉店している可能性がないわけではないが。
「……僕の知っている店だけだとあれだから、他の人にも聞いてみるよ」
「……そうね。嬉しいわ」
こいつどうやら知らないな、なんて気持ちは表には出さない。バーモンドもそう判断すれば同乗が許されなくなる可能性がある。
「ち、ちょっと待っていて」
馬車を止めてもらって外に出る健太郎。カルロたちに店の心当たりがないかを聞いて、すぐに戻ってきた。
「すぐ近くにあるらしい。ただ少し前の話だからまだやっているか確かめに行ってもらった」
「そう。開いていると嬉しいな」
同じ店だと嬉しいな。いちいち言葉を選ぶのは面倒なことだ。
フローラの望みは叶えられることになる。お店は変わらずやっていた。それを聞いて、お店に向かおうと馬車を降りたフローラ。
「……えっ?」
「「「おおっ!!」」」
大勢の人が自分に視線を向けていることに驚くフローラと、どよめき声をあげるその人々。人々は護衛がついている王家の紋章の入った馬車が止まっているのを見て、どんな貴人がやってきたのかと注目していたのだ。
その人々の前にフローラは姿を見せた。どよめきはフローラの美しさに感嘆した人々の声だ。
「……フローラ様、この状況は」
ここまでの反応は想定していなかった。護衛としてここは引き返す判断をするべきかとバーモンドは考えた。
「……お店に入れば平気だよ」
ここまで来て引き返すのは悔しい。周囲の反応に少し動揺していたフローラだが、バーモンドの考えに同意するつもりはない。
「大丈夫。僕がついているから」
「……心配」
「えっ? あっ、大丈夫。僕たちがついているから」
「そうだね!」
「…………」
フローラのちっちゃな復讐は続いている。あまりに小さく分割しているので満足することなく永遠に続きそうだ。
護衛に囲まれて店に向かおうとするフローラ。この頃になると気持ちもかなり落ち着いてきた。周囲の人々の視線に悪意は感じられない。それどころか嬉しそうに自分を見ている。小さな子供まで。
「……こんにちは」
目に入った子供に向かって、期待を込めた目で自分を見ている子供に向かって、フローラは挨拶をした。
「こんにちは!」
嬉しそうに挨拶を返す子供。その可愛い様子を見て、フローラの顔に笑みが浮かぶ。
「お名前は?」
「ぺぺ!」
「まあ、可愛い名前ね」
「お姉ちゃんは?」
「こら! 駄目よ!」
女の子の親が慌てて、彼女の口を塞ぐ。無礼を咎められるのを恐れての行動だ。
「お姉ちゃんはフローラというの。よろしくね」
当然、フローラはまったく気にしていない。自分が貴人であるなんて意識はないのだ。
「あ、あの……」
「可愛い女の子ですね? ぺぺという名前はお母さんがつけてあげたのですか?」
「あ、ありがとうございます。実はぺぺではなく、ペティなのです」
「まあ? 舌っ足らずなのかな?」
ますます女の子が可愛くなってその頭を撫でるフローラ。嬉しそうな女の子。親のほうは恐縮している。
「じゃあね。ぺぺちゃん。可愛いからこう呼んで良いよね?」
「うん! じゃあね、フォーラ」
「フォーラ……まあ、いいか」
違う名前、そう聞こえるだけだろうが、で呼ばれたのに全く気にする様子もなく、輝く笑顔を見せて店に向かって歩いて行くフローラ。その笑顔に多くの人が魅了されてしまった。
お店で懐かしさを感じながら甘味を楽しんだフローラ。その帰り、お店に入る前の何倍もの人に囲まれることになった。その一人一人、はさすがに無理だったが、子供とは丁寧に挨拶を交わし、その場を去ったフローラ。
この一日でフローラは街の人気者になった。その時点では素性を知られないままに。
◇◇◇
城の奥の執務室。早めの夕食を終えたエドワード王は残った仕事を片付けていた。軍が出陣した今、届く報告はそれ以前の数倍。日中だけでは処理しきれない量になっている。その全てをエドワード王が自ら確認し、判断を下す必要はないのだが、彼にはそれが出来ないのだ。
「ご苦労だったね。それでどうだった?」
手元の書類に目を落としながら、机の前に立つバーモンドに尋ねるエドワード王。
「まずは勇者についてですが、特に怪しい動きは見られませんでした。フローラ様への馴れ馴れしさは気に障りましたが」
「それは今に始まったことではないね。始めにきちんと躾けておかなかったのが悪いのさ」
健太郎の無礼な振る舞いにいちいち目くじらを立てていても仕方がないとエドワード王は思う。自分に対して同じ態度を取られれば別だろうが。
「ただグレン殿に対する意識が少し変わっているようです」
「どういうことかな?」
「以前は持っていたはずの強い嫉妬心を失っているのではないかと」
「……そう思う根拠は何かな?」
健太郎が国を裏切ることはない。こう思う理由は健太郎は贅沢な暮らしを捨てられないというだけでなく、グレンの下につくことは受け入れないはずだということもある。そのもう一つの理由は間違った考えだったかもしれない。エドワード王は不快そうな表情を見せている。
「絶対に勝てない相手がおり、その相手にいつか追いつきたいと申しておりました。具体的な名は出ておりませんが、まず間違いなくグレン殿かと」
「……他には?」
「競争相手と認めてもらうところからだとも」
「……競争心は残っているか。少し探ってもらおう」
諜報は銀鷹傭兵団に任せれば良い。エドワード王はそう考えている。かつてほどの力はない銀鷹傭兵団であるが城内は別だ。かなりの人数を入れることに成功している。国王であるエドワードが協力しているのだから当たり前だ。
「元トリプルテンの兵士たちについてはまだ判断出来る状況ではありません」
「裏切っている可能性もあると?」
「いえ。護衛任務を行っていただけですので判断材料が乏しいということです。ただ勇者がフローラ様に近づくことに不快な表情を見せたことは見逃しませんでした」
「……そう。それは良い材料だね」
元トリプルテンのメンバーは健太郎からフローラを、健太郎に限らないが、守る為に軍に復帰した。これがエドワード王が知る情報だ。
「いかが致しましょうか? 平民ではありますがフローラ様に近づくことを許して良いですか?」
「……それは判断材料を得る為かな?」
そこまでする必要はないとエドワード王は考えている。彼等はそう遠くないうちに軍に戻す。教官という中途半端な立場ではなく兵士として。今フローラの側に置くという厚遇は、エドワード王はこう思っている、彼等を懐柔する為なのだ。
「それもありますが、フローラ様が勇者ばかり近づけるのもどうかと考えました」
「近づける?」
「勇者を避けようという気持ちがないようです。冷たい態度を向けることもありますので、嫌っていないわけではないと思うのですが……」
「勇者との間に彼等を入れるのか……フローラの様子はどうだった?」
フローラの過去を知る彼等を必要以上に近づけることは避けたい。記憶が戻るきっかけになってしまうことをエドワード王は恐れている。ただこれはバーモンドには言えない。何故恐れるのかを説明出来ないのだ。
「大変喜んでおりました。中心街のような賑やかな場所を見るのは始めてとおっしゃっていました」
「そう……」
そんはずはない。フローラは王都に住んでいたのだ。記憶がないだけ、とエドワード王は考えた。本当にフローラが滅多に中心街に出ることがなかったことなど知らないのだ。
「しかし、フローラ様は凄いですね?」
中心街での出来事を思い出して嬉しそうなバーモンド。
「凄い?」
まだ報告を聞いていないエドワード王には、バーモンドが何を喜んでいるのか分からない。
「わずかな時間でその場にいた人々の心を掴んでしまわれました。高貴な血を引く御方には思えないあの気さくさ。素敵な笑顔は皆を幸せな気持ちにさせるようです」
やや興奮気味に中心街での様子を説明するバーモンド。彼もまたフローラに魅了された一人なのだ。
「そう。フローラが……それは良かった」
エドワード王はバーモンドのようにただ喜ぶだけでは済まない。フローラの容姿は多くの人の心を掴む。分かっていたようで分かっていなかった事実。それをどう利用するべきか。それを考えてしまう。
人心掌握に利用するのであれば王妃にするべきだ。それを今の段階で行って良いのか。グレンとは敵対関係というべき状況になっている。だが最後の切り札を別のことに使って良いものか。すぐに結論は出ない。
フローラにとっては良いことだ。考える時間、色々なことを知る時間が与えられることになる。ただエドワード王にとってどうかは、今の時点では分からない。