フローラが街に出られる機会が増えている。今の段階で正式に王妃にするという決断はエドワード王には出来ない。そうであってもフローラの魅力を無駄にすることはない。多くの護衛を従え、王家の紋章が記された馬車に乗っていれば人々は勝手にそういう立場の女性なのだと思う。今はそれで十分だと考えたのだ。
護衛の数はかなり増えた。フローラが頻繁に城外に出ることを知れば、その機会を利用しようと考える人がいる。グレンが力ずくでの奪回に動くことを警戒したのだ。この辺りはエドワード王は慎重だ。臆病というべきかもしれない。それを実行出来るだけの手勢が王都に入ることを許すのがそもそもおかしいのだ。といっても結果としてこの警戒は間違っていないのだが。
フローラにとっては何とも微妙な状況。城外に出る機会が増えたことはありがたい。だが目的の邪魔をする人が増えたことには困ってしまう。
護衛についている健太郎に自分の味方をする意思があるか探ることも、カルロたち元トリプルテンのメンバーに相談することも出来ない。ただ毎回、街の人々と触れあい、彼等を喜ばせるだけ。それはそれで楽しいことではあるのだが。
そんなフローラに絶好の機会が訪れた。ダメ元で求めてみた裏町訪問が実現したのだ。忙しいエドワード王にいちいち行く場所の許可を得るわけにはいかない。バーモンドたち近衛騎士の気遣いのおかげで生まれた機会。フローラであれば裏町の人々さえ慰安出来てしまうのではないかという期待もあってのことだ。もっとも行き場所を知ってもエドワード王が許可した可能性は高い。そこはエドワード王にとって安心出来る場所なのだ。
結果、近衛騎士たちの期待は現実のものとなる。それはそうだ。フローラは元から裏町の人々に愛されていたのだから。裏町の人々から大歓迎、でありながらどこか一線を引かれた応対をされたあと、フローラは健太郎に薦められた食堂に向かった。
「周辺の警護をお願い出来ますか? 念のため、建物の周囲全てを警戒したほうが良いと思います。それを行うにはこちらだけでは手が足りなくて」
「……そうだな。分かった」
健太郎の提案を受け入れるバーモンド。裏町の住人たちの反応はとても良いものではあるが、それで安心は出来ない。表向き良い顔をしているだけの可能性もあるのだ。
近衛騎士たちを周囲に配置する。トリプルテンのメンバーも同様だ。それを終えたところで建物の中に入ったのは健太郎と元トリプルテンのメンバー、そしてバーモンドだ。さすがに近衛騎士が誰もいない状態をバーモンドは許さなかった。
「これは……誰がやってきたのかと思ったら……」
フローラたちを迎えたのは女将のマアサ。久しぶりの再会だ。演技など必要なくマアサの瞳からは涙が流れる。
「……ごめんなさい。私、記憶がなくて」
「記憶がない……何も覚えていないのかい?」
「……ごめんなさい」
「そう……それは残念だけど、私は会えて嬉しいよ。娘のように思っていたあんたが帰ってきてくれて」
こう言ってフローラを抱きしめるマアサ。フローラはなすがまま。拒絶するはずがない。感激しているのはフローラも同じなのだ。
その二人の様子を見て周囲も感動している。
「とにかく座って。お腹は空いているかい? 空いていなくて食べていっておくれよ」
「うん。ありがとう」
マアサに勧められて食堂のテーブルに座るフローラ。もともと食事をとる為に来たのだ。それを止める人はいない。
「えっと……僕も良いかな? 一応は僕の馴染みの店であるわけだし」
珍しく遠慮しながら健太郎が同席の許可を求めてきた。
「小隊長、こういう時は邪魔をしないものではないですか?」
「あっ、やっぱりそうか」
健太郎が遠慮を見せたのも感動の再会を邪魔するのは悪いという気持ちがあったから。カルロの言葉に素直に従った。
「入り口、階段、裏口、廊下の先に……二階も調べますか?」
カルロが言っているのは建物の中での警護の配置。
「ああ、そうだな」
それを問われたバーモンドはカルロの問いに同意した。
「では騎士殿は……入り口近くをお願いします。おい、行くぞ」
いくつかの場所に散っていく元トリプルテンのメンバー。その場に残ったのはバーモンドと健太郎だけになった。
「じゃあ、僕は裏口かな?」
カルロが口にした場所でまだ誰も配置についていない場所。健太郎はそこを選んだ。
「……ああ。では自分はここで」
二人が立っているのは建物に入ったばかりの場所。つまり入り口近くだ。それで警護の配置は決定。見える場所に座っているフローラだが、その近くには誰もいない。
「まずは飲み物ね。オレンジジュースだよ」
そのフローラのテーブルにマアサが飲み物を持ってやってきた。
「あっ、ありがとう」
「好きなものも覚えていないのかい?」
「ううん。オレンジジュースは好き」
「それは良かった。さあ、飲みな。好きだった食べ物も今用意しているから」
そのままフローラのすぐ隣に座り、フローラを見つめているマアサ。
「……えっと」
「ああ、ゴメンよ。顔を見ているだけで幸せなのさ。これで記憶が戻ってくれればもっと幸せだけどね」
「ごめんなさい」
「謝らなくて良いよ。フローラが悪いわけじゃない。さあ、飲んで。お代わりが必要になったらまた持ってくるから」
「うん」
マアサにジッと見つめられた状態でオレンジジュースを飲むフローラ。さすがにこれは気まずそうだ。
「おい。サボっていないでお前が運べ」
そこにやってきたのは親父さん。手にはフローラが好きだった料理を持っている。
「あんたこそ邪魔してないで、さっさと料理を作りなよ」
「しようがねえ、女房だな」
文句を言いながらも厨房に戻っていく親父さん。目の前に置かれた料理。それにフローラは手を伸ばす。
「して欲しいことがあれば何でも言ってよ? フローラの為であればあたしたちは何でもするから」
「……ありがとう」
「御礼の言葉もいらないよ。言っただろ? あんたは私たちにとって娘のようなものだから」
「……美味しいです」
マアサの言葉にどう返して良いか分からなかったフローラ。とりあえず料理の感想を口にして間をとった。
「それは良かった。それで……?」
「えっ?」
最後のほうの言葉は聞き取れなかった。
「……どこまで覚えているんだい?」
先ほどと同じ小声で話すマアサ。今度は集中して聞いていたので、何を言っているのかフローラは分かった。
「……全部」
フローラも周囲に聞こえないように小さな声で答えを返す。
「これまで何があったかは?」
「……ほとんど知らない。お兄ちゃんが国を裏切ったみたいなことは聞いた」
「何も知らないも同然だね。長々と話すわけにはいかないか」
小声で話していても、会話が聞こえなければ聞こえないで怪しまれる。マアサは一旦、話を打ち切ることにした。
「そうだ! フローラが部屋に残していった物をとっておいたんだよ。持っていくよね?」
「うん。私の物なら」
その中に何かがあるのか。そう思ってフローラは答えを返した。
「ああ、それは私が持ち帰る! フローラ様に重い物を持たせるわけにはいかないからな!」
バーモンドが、自分が持って帰ると言ってきた。さすがに何か分からない物をフローラに渡すわけにはいかないと考えたのだ。マアサと二人きりでの話も、再会に感動したから許しているのであって、望ましいものではないのだ。
「そうかい。じゃあ、二階にあるから付いておいで」
「それは……二階にはすでに人がいる。その者たちに運ばせてくれ」
フローラから目を離すわけにはいかない。マアサの誘いにバーモンドは乗らなかった。
「分かったよ。渡しておく」
こう言って二階に上がっていくマアサ。それと入れ替わりに親父さんがまた料理を持ってテーブルにやってきた。
「どうだ? 美味いか?」
「うん。とっても美味しい」
「また食べたくなったらいつでも来い。通っていればいつか何かを思い出すこともあるかもしれない」
「……そうだね」
「会いたい人にも会えるかもな」
この言葉はさきほどのマアサと同じ、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声。この言葉の意味を確かめようとしたフローラだが、彼女が問いを発する前に親父さんはテーブルを離れていってしまった。
親父さんとしては今はこれがギリギリ。具体名を出すことは出来なかった。何も知らないフローラが下手に話して、自分たちの裏切りがバレてしまう事態は避けなければならないのだ。
「……本当に美味しい。来て良かった」
得られるものは決して多くないかもしれない。それでも親父さんたちが味方でいてくれると分かっただけでフローラは嬉しかった。自分だけではなく、恐らくは兄のグレンの味方でもあることが。
◇◇◇
その日の夜。フローラは期待に胸を膨らませて自室にこもっていた。だがその期待は裏切られることになる。マアサが渡してくれた荷物。その中に何か特別なものがあると思っていたのだが、そのほとんどは服。自分の知らない事実を記す物も、過去の記憶に繋がる物もなかった。フローラの手に渡る前にそういった物は抜き取られているのだ。フローラの知らない事実を記した物は初めから入っていなかったが。
(……普通に聞けば、実は教えてくれるのかな?)
フローラの周囲にいる人は案外甘い。以前から少し感じていたが今日、鷹の爪亭に行ったことでフローラは確信した。彼等はフローラに悪意を持たない。エドワード王がフローラの記憶が戻ることをあまり望んでいないことが分かっているので、荷物を検閲するような真似をしているが、実際のところは記憶のない状態を可哀想に思っていたりするのだ。
(全部は無理でもある程度のことは聞けるかもしれない。でも迷惑掛けるのかな?)
フローラもエドワード王が記憶を取り戻すことを望んでいないのは城に来たばかりの時の処遇で分かっている。このところ自由にさせてくれることを不思議に思っているくらいだ。
(……お兄ちゃんへの気持ちを思いだして欲しくないのなら、エドのことを好きな振りをすれば聞けるかな? これは酷いか)
なんて心の中で思っているが、これは思っている振り。いざとなれば人を騙すくらいは平気で行うフローラだ。魔女の養女もまた魔女、は言い過ぎかもしれないが、外見には似合わない強かさをフローラは持っている。
(ケンタロと二人きりになれれば間違いなく聞けるのに……何か方法ないかな? 二人きりになって、かつ変な真似を許さない方法)
少し健太郎のことは見直しているが、それで心を許すフローラではない。健太郎は厳しくしないと図に乗る。これを分かっている。
(何かないかな……ケンタロでなくて良いのに……)
元トリプルテンのメンバーもきっと知りたいことを教えてくれる。だが彼等とも自由に話をすることは出来ない。
希望、と表現するかは微妙だが先に続く道は見えたのに、そのスタート地点に立つことが出来ない。これは今までよりも辛い。
「……フローラ様。お渡しが漏れていた荷物がございました」
考え事をしていたフローラの耳に届いた声。廊下にいる侍女であろう女性の声だ。
「……ああ、ありがとう。鍵はかかっていませんから中に入って下さい」
部屋に入る許可を出すフローラ。偉そうに思えて最初は嫌だったのだが、許可しなければ侍女の人たちは廊下でずっと待っているか、出直すと決めていなくなってしまうのだ。
「どうぞ! 入ってきて構いませんよ!」
扉が開かないのでフローラは、先ほどよりも大きな声で部屋に入るように告げた。だがそれでも侍女は部屋に入ってこない。
仕方なく扉に向かうフローラ。その目に扉の隙間から部屋の中に入れられたであろう封書が目に入った。
「……これが荷物なのかな?」
部屋に入ることなく侍女は荷物を置いていったのだとフローラは理解した。荷物というより手紙だが。
「……あっ。えっ?」
ある可能性に気が付いたフローラ。急いで床に落ちている封書を拾って中を見る。細かい字でぎっしりと書かれている中身。その全てを読むことなく、フローラは慌てて扉を開けて廊下に出た。
「……いない」
この封書を持ってきたであろう侍女の姿はなかった。
「フローラ様! 何かありましたか!?」
廊下に飛び出てきたフローラに、少し離れた場所に立っている見張りの騎士が声を掛けてきた。いつもいるフローラには馴染みの騎士だ。
「……誰かが声を掛けた気がして! 本を読むのに夢中で気付かなかったのだけど、誰か来なかった!?」
咄嗟にそれらしい話を作ったフローラ。
「ああ! 侍女が今さっき! どうしましょう!? 呼んできますか!?」
「悪いから良いよ! また後で来てくれると思うから!」
「そうですね! 分かりました!」
笑顔を向けてくる騎士。その笑顔を見ると嘘をついたことに引け目を感じてしまう。封書の中身をちゃんと読むことに躊躇いを覚えてしまう。
それでも読まないわけにはいかない。何も知らないままでは考えることは出来ない。知らないままに考えて出た結論が正しいはずがない。
部屋の中に戻って机の椅子に座るフローラ。一度、大きく深呼吸をしてから封書を読み始めた。フローラをさらに悩ますことが書かれている封書の中身を。