侯爵家といっても領内に大都市をいくつも抱えているわけではない。大都市といえるのは領主館がある街くらいで、それ以外は小さな街ばかりだ。
暴動が起きたバッカスもその一つ。ランカスター侯爵領の南東の外れにある街で、特別な産業も豊かな耕作地もない貧しい街だ。そうであるから暴動が起きてもおかしくないのだ。
暴動そのものは珍しいものではない。追い詰められた貧しい民衆が、死を覚悟して領主に逆らうなんてことは、これまでも何度かあった。ただその多くは銀鷹傭兵団の扇動によるものなので、ランカスター侯爵領内で起こることなどなかっただけだ。今回、それが起こった。
ランカスター侯爵家は当初、その暴動を甘くみていた。バッカスは小さな街。そこに住む人の数はたかがしれている。まして、その全てが暴動に参加しているはずがない。鎮圧はすぐに終わるはずだ。そう思っていた。
だが、そうはならなかった。鎮圧の為に送り込んだ領軍が、まさかの敗北を喫したのだ。しかも、惨敗というべき多大な被害を受けて。
あり得ない事態に大いに焦ったランカスター侯爵は、すぐに必要最低限の数を残して、領軍のほとんどを暴動鎮圧に向かわせたのだが、その領軍も一戦して負けを喫し、今は敵の追撃に耐えながら、ずるずると後退している始末。
「……敗走中だと? そんな馬鹿な話があるか!?」
なんて報告は、ランカスター侯爵には信じられない。
「ただの暴動ではありません」
「そんなことは分かっている! 一体、何が起こっておるのだ!?」
一般民相手に、領軍が敗れるはずがない。あるとすれば、味方の何十倍もの民衆が暴動に加わっている場合。それが全てランカスター侯爵領の民であれば一大事だが、そんなことはあり得ない。
「傭兵が暴動に加担しているようです」
だが情報をもたらした銀鷹傭兵団のスパロウの答えは、予想していたものと違っていた。
「……なんだと?」
それを聞いたランカスター侯爵の胸に不安が広がっていく。予想外の答えではあるが、それを聞いてすぐに一つの可能性に思い至ったのだ。
「銀狼傭兵団。そう名乗っているという情報を得ております」
「まさか……そこまでするか……」
銀狼。この言葉から思い浮かぶ人物は一人しかいない。だが、ここまでのことをしてくるとはランカスター侯爵は思っていなかった。銀狼、グレンは一国の王どころか三国を統べる王なのだ。
「グレン本人の姿は確認出来ておりません。しかし、銀狼傭兵団なんて、今まで聞いたことがありません。しかも確認出来ているだけで、五百は超えるだろうという傭兵団」
銀鷹傭兵団が知らない大規模な傭兵団。そんなものが存在していたはずがない。
「銀狼を名乗るとは……皮肉のつもりか」
銀狼傭兵団を名乗れば、それがグレンの軍隊だとすぐに分かる。それをあえて名乗り、かつての銀鷹傭兵団が行っていたように暴動に加担する。恐らくは自ら起こした暴動に。
ランカスター侯爵には、皮肉としか思えない。
「グレンが率いている軍だと証明出来れば、国を動かせるのではないですか?」
「ああ、その通りだ。そうなのだが……」
ゼクソン王国の国王代理であるグレンが、ウェヌス王国貴族であるランカスター侯爵家に戦を仕掛けるなど許されないこと。同盟条約違反として、ゼクソン王国を糾弾することは可能だ。
だが、それくらいのことはグレンも分かっているはず。分かっていて、このような行動を起こすからには、何か備えがあるはずだとランカスター侯爵は思う。
「ゼクソン王国の国王代理でなくなっていればどうですか?」
ここでロイドが口を挟んできた。
「……そういうことなのだろうな。しかし、そのような強弁が通ると思っているのか?」
国王代理ではない。だからゼクソン王国とは関係ない。理屈としてはそうであろうが、それでウェヌス王国が納得するはずがないと、ランカスター侯爵は思う。
「今なら、どんな強弁も通るかもしれません」
「……国王も承知の上でのことか」
ジョシュア王が承知しているのであれば、強弁も通るかもしれない。ランカスター宰相がどれだけ頑張っても、最後に決めるのはジョシュア王なのだ。それでもゼクソン王国の非を問うことは出来るかもしれないが、そこまでのこと。今のランカスター侯爵家には軍を独断で動かす力はない。
「黙って見ているだけで、我等を排除出来る。国王以外も見て見ぬ振りをするのではないですか?」
更にロイドは悲観的な可能性を口にした。
簒奪の証拠を揃える必要もなく、自ら軍を動かすこともなく、ランカスター侯爵家を討つことが出来る。ジョシュア王としては大助かりのはずだ。他の有力貴族家も、ランカスター侯爵家だけが滅びるのであれば、それを喜ぶ者は少なくない。国王も他家もこの件に関しては動かない。当然、軍が自ら動くことはない。
「……戦って勝つしかない。そういうことか」
ランカスター侯爵家が生き残るには銀狼傭兵団との戦いに勝つしかない。ウェヌス王国軍でさえ勝てなかったグレンの軍に。
「勝つには数に頼るしかありません。応援を頼んでみます」
「今更、味方する者などおるまい」
ウェヌス王国を簒奪する絶好の機会となれば、味方する者はいる。そういう繋がりを長い年月をかけて作ってきた。だがそれも勝ち目があってこそ。滅び行くランカスター侯爵家の道連れになろうと思ってくれる味方など、まずいない。
「それでも一応は。悪あがきというものです」
「……そうだな。最後まで、やれることはするべきか」
潔く滅びの時を迎える。そんな考えはランカスター侯爵家にはない。そんな諦めの良さを持って、王家の簒奪など実現出来るはずがない。不可能と思えることも、決して諦めることなく、成し遂げてきたのだ。
それも無駄に終わるという今となっても、ランカスター侯爵家はランカスター侯爵家らしく、最後まで足掻き続けることにした。
意地か誇りか、それ以外のものか。最後の最後まで、決して捨て去ってはいけない何かを守る為に。
◆◆◆
ランカスター侯爵家の誇り。それは必ずしも侯爵家の全ての人が持っているものではない。最後まであがくことなく、実家に殉ずることなど考えることもなく、自分の考えで行動する人物がいた。三男のレスリーだ。
王都を密かに抜け出したレスリーは街道を東に向かっている。一人ではない。結衣も同行していた。
街道をこのまま真っ直ぐに進めばゼクソン王国との国境。エステスト城砦に辿り着く。その手前で南に折れればルート王国だ。
「えっ? グレンの国に行くわけではないの?」
東に進路を取ったことで、てっきりルート王国かゼクソン王国に向かうのだと思っていた結衣。そうではないとレスリーに聞かされて、驚いている。
「グレン王の国に行ってもすぐに連れ戻されるだけだ」
「そこは私が説得するわ。レスリーはもうランカスター侯爵家とは関係ないと分かれば、グレンも許してくれるはずよ」
結衣の説得でグレンが納得するはずがないのだが、それが本人には分からない。この辺の少しずれた感覚は健太郎と同じだ。それにそもそも問題はレスリーではない。
「僕ではなくユイが連れ戻される」
「私?」
「僕の実家の頼みなどグレン王は聞かない。僕が送り返されることはまずない。でもユイは違う。ジョシュア王から聖女である君を返して欲しいと頼まれたらどうなる?」
それ以前に受け入れられることがないのだが、それを今、話しても意味はない。レスリーは、グレンの下には行けない理由を、結衣に分からせたいだけなのだ。
「……そこはお願いして何とか」
「何とかならない。事は外交だ。同盟国の依頼を無視することなんて出来ないよ」
これも受け入れ先がゼクソン王国で、ウェヌス王国が返還を要求すればの話。
「そんな……」
だが結衣は、返還要求がなされない可能性をまったく考えていない。それは自分に価値がないことを意味する。考えるはずがない。
「僕たちが共に暮らすには僕の実家であるランカスター侯爵家だけでなく、ウェヌス王国からも逃げなければならない。グレン王の国ではそれは出来ない」
「……お父様の説得は無理なのかしら?」
分かっていたはずだが、ウェヌス王国から追われる身であると、はっきり口にされると、結衣の心に強い不安が広がっていく。
「父上は家のことしか考えていない。気を悪くしないでもらいたいけど、僕とユイが結婚してもランカスター侯爵家には何の利もない。決して許してはくれない」
結衣との関係を父であるランカスター侯爵が反対している。それどころか慌てて政略結婚を整えようとしている。だから一緒に逃げよう。これが、レスリーが結衣を連れ出した理由。もちろん嘘だ。レスリーは結衣に対して、そこまでの想いなど持っていない。
「じゃあ、どうするの?」
「西の大国。ウエストミンシア王国に逃げる」
「西? 正反対じゃない?」
「追っ手を巻くためだ。東に逃げたと思わせて、途中で進路を西に変える。そこからは表街道なんて使わない。人目に付かないように西に向かって国境を越える」
ここまでは、わざと足取りを掴ませる為に堂々と街道を使い、街道沿いの街に宿泊もしてきた。追っ手に正反対の東、ルート王国かゼクソン王国に逃げたと思わせる為に。
結衣であればそれもあり得るとウェヌス王国は考えてくれるだろうとレスリーは期待しているのだ。
「……大丈夫かしら?」
「逃亡路はもう調べ終わっている。まず見つかることのない道だ」
レスリーが手に入れた逃亡ルートは、銀鷹傭兵団から得たものだ。ウェヌス王国内で密かに移動する方法を、銀鷹傭兵団は数多く持っている。その一つだ。
「西の国は受け入れてくれるの?」
「それは……ユイにも手伝ってもらいたい。ウェヌス王国についての僕の知識だけでも価値はあると思うけど、絶対とは言えないから」
「手伝うって、私は何をすればいいの?」
「ユイの異世界の知識。これは誰も持たないすごく価値のあるものだ。それをウエストミンシア王国で役立ててもらう」
レスリーが結衣を連れてきたのはウエストミンシア王国への手土産のつもりだ。結衣を使ってウエストミンシア王国に自分を売り込み、ある程度の地位を手に入れる。
さらにウェヌス王国への侵攻に力を貸すことで、その地位をより高いものにする。これがレスリーの考えだった。
「……役に立つかしら?」
「ウェヌス王国の人たちはユイの価値を分かっていない。でもウエストミンシア王国は違う。今の国王は建国以来の名君と呼ばれている人だ。きっとユイの知識を役立ててくれる。ユイもその方が嬉しくないか?」
「そうね……ええ、それは嬉しいわ」
この世界に来てから結衣は本当の意味で人に認められていない。それを結衣はずっと不満に思っていた。レスリーは見事にその点を突いて、結衣をその気にさせた。
「結衣。ウェヌス王国はもう駄目だ。僕は君がウェヌス王国の滅亡に巻き込まれるようなことになって欲しくない。だから一緒に逃げよう。新天地で幸せに暮らそう」
「ええ……ええ、レスリー。私も貴方と幸せに暮らしたいわ」
運命の出会い。周囲の反対。二人だけの逃亡劇。ようやく結衣が、異世界に来てからずっと望んでいたヒロインらしいイベントが起きた。あくまでも「らしい」であって、ヒロインではないことは、明らかではあるが。
◆◆◆
銀狼傭兵団。ランカスター侯爵家が考えた通り、それはグレンが率いる傭兵団だ。ウェヌス王国と戦うことなく、ランカスター侯爵家を滅ぼす。これをどう実現するかを考えた結果、この形をグレンは選んだ。
ジョシュア王を支援して、政争によって滅ぼすという手もあるが、それには時間が必要だ。その時間を掛けて簒奪の証拠を揃えても、内戦を嫌う人たちは多く、軍を送り込むという強硬策はすぐに採れないかもしれない。たとえ採れても、確実にランカスター侯爵家の人々を殺せるとは限らない。
こうしたことを考えた結果、グレンはやはり自ら動くことにした。
問題はウェヌス王国とゼクソン王国との同盟だが、それを解決する方法は簡単だ。これもランカスター侯爵家が考えた通り、ゼクソン王国の国王代理を退くこと。公式にはグレンの地位は、ゼクソン王国の国王代理のみ。その座を捨てれば、何者でもないただの人だ。
かなり強引な理屈だ。だが、ジョシュア王は理解してくれた。ジョシュア王でなくても、簒奪を企むランカスター侯爵家を滅ぼせるのであれば、それくらいのことは目をつむってくれる。
それでも一応は変装をして、自分であることを隠してはいる。銀髪と黒装束という印象が強すぎるおかげで、髪を染めて普通の傭兵らしい格好で紛れ込んでいれば、力を出しすぎなければという条件もあるが、まず気づかれない。
指揮についても問題ない。貴族家軍相手であれば、グレンが直接指揮を執らなくても、負けることはない。そのように鍛えてきたのだ。
実際に銀狼傭兵団は、ランカスター侯爵家軍を圧倒している。一気にけりをつけないのは、決戦の前に出来るだけ敵を削っておきたいから。逃がさないように、わざと耐えさせているのだ。
それももう間もなく終わり。ランカスター侯爵家の領主館がある街まで、もうすぐだ。
「……問題は街をどう落とすか」
今は最終決戦を直前に控えて軍議中。グレンに同行している元ゼクソン王国軍のカール・イエーガーが、議題を口にした。
「正攻法では数が必要だ。その数が我が軍にはない」
それに答えたのは同じく元ゼクソン王国軍のホルスト・ハスラー。あとはカイルがグレンに同行している。
「敵を引き出す方法はないですか?」
そのカイルが問いを投げかけた。街に籠もられては厳しい。そうであれば野戦に持ち込む方法を考えるしかないと考えたのだ。
「……軍を引き出せても、ランカスター侯爵本人は出てくるかな?」
カイルの問いに、イエーガーが否定的な問いを返す。
「確かに……そうなると……」
ランカスター侯爵本人が戦場に出てくることは考えにくい。自分が的であることに気づいていないはずがないのだ。
「街に攻め入る機会は一度だけある」
「……敵が街に逃げ込むのに紛れてですか」
イエーガーの考えはカイルも分かっている。敵が街に逃げ込む時には、門が開く。その時に一緒に突入するという方法だ。
「タイミングが難しい。それに街の中に入れても、味方の突入まで単独で敵と戦わなければならない」
方法は三人とも分かっている。だがそれを実行に移す上での細かな部分を、まだ詰めなくてはならない、のだが。
「それは俺がやる」
「「「陛下!」」」
グレンが自ら危険な役目を買って出た。
「陛下じゃなくて団長」
「……団長。団長自らが危険な役目を担ってどうするのです?」
グレンを危険な目に合わせるわけにはいかない。カイルはグレンの意見に反対だ。
「どうするって、俺が一番適任だ。俺なら敵を一時、足止め出来る。その隙に後続が突入してくれば、それでほぼ勝ち」
「……魔道ですか」
確かにグレンには他の人が持たない魔道がある。それを使うことで敵を止めることが出来る。この四人の中から誰かがとなれば、確かにグレンしかいない。
「後続が突入を遅れなければ危険もない」
「しかし……」
「他に方法がなければ、これを実行するしかない。違うか?」
「……はい。その通りです」
「では――」
作戦は決定。あとは細かい部隊間の連携を確認するだけ、のつもりだったのだが。
「狼殿」
突然、会議の場にヤツが現れた。会議に割り込んでくるのは、重要な情報があることを示している。
「何かあったか?」
「お逃げ下さい」
「何だって?」
「ウェヌス王国軍がやってきます。その前にこの場を離れて下さい」
「何故だ? 何故、ウェヌス王国軍が動いた?」
ウェヌス王国軍が動くはずがない。ジョシュア国王がそれを許さないことになっている。それでも動いたということは。
「ジョシュア王は弑されました」
「な、なんだって?」
裏切りではなかった。少なくともジョシュア国王は裏切っていなかった。
「詳細は後ほど、ご説明します。今はとにかくウェヌス王国軍から逃れて下さい」
「……分かった。撤退だ! 急ぎ、撤退する!」
「「「はっ!」」」
ウェヌス王国に何かが起こった。それも恐らくは自分にとって良くないことが。だからこそ、ヤツはウェヌス王国との接触を避けさせようとしている。そういうことだと理解して、グレンは撤退を決めた。
もう少しで復讐を果たせた。そんな思いを抱きながらもグレンはヤツの言葉を信じることにした。