エリック・ハーリー千人将、アシュリー・カー千人将を筆頭にした騎士団の帰還は、ウェヌス王国に驚きを持って迎えられた。彼らはすでに忘れられた存在だったのだ。
早速にジョシュア国王臨席の下、帰還報告の場が設けられた。居並ぶ重臣の中、両名を先頭に四十五名の騎士が玉座の前に立っている。
「陛下。エリック・ハーリー」
「アシュリー・カー。他四十三名。アシュラム王国より無事帰還致しました」
「おお。よく戻ってきてくれた。しかし全部で四十五名か」
二千名の部隊のうち戻ってきたのは、わずか四十五名。手放しで喜べる状況ではない。
「虜囚の身となったのは三百名ほどいたのですが、過酷な労働に耐えかねて多くの者が命を失いました」
捕虜となった数でさえ三百。どれほど過酷な戦いであったかこの数字だけで分かる。アシュラム王国からすれば大国ウェヌスとの戦いとなれば、勝てるときには徹底して勝たなければならないという思いがある。非情というよりは生き延びる為に必要だから行ったことだ。
「……すまぬ。王国はお前たちを救うために何の手も打てなかった」
アシュラム王国に捕虜がいるであろうことは分かっていた。だが、ウェヌス王国がアシュラム王国との交渉に動くことはなかった。ランカスター侯爵家が求めていたのは騎士団の大敗。騎士の解放に動くことはなかった。
「それは……いえ、恨み言がないとは申しませんが、それを言っても詮無きこと。陛下のその御言葉で全て水に流します」
「そう言ってくれるか。だが帰還した者たちの苦労には何とか報いてやりたい。全ての者を一階級昇進ということで良いかな」
「陛下!?」
ジョシュア王の言葉に慌ててランカスター宰相が声を上げた。
「何か問題があるのか?」
「一階級の昇進となりますと、千人将は将軍という事になります」
亡くなった騎士を特進させてもそれは名誉が与えられるだけ。だが生きて戻ってきた騎士にはその後の実権が伴う。ランカスター宰相としては簡単に認めるわけにはいかない。
「それは問題か? ケン、大将軍としてどう思う?」
「……別に良いと思うけど」
苦労してきた人に報いるのは当然、健太郎はそう考えている。
「では決まりだな」
「ちょっと待ってください! 大将軍、軽々しく了承の言葉を口に出さないでもらいたい」
「えっ、まずかった?」
「将軍が一気に二人も増えることになる」
「……そっか。じゃあ駄目かな?」
何が駄目かと聞かれると健太郎には答えられない。鍛錬については真面目に取り組むようになった健太郎だが、こういったところは相変わらずだ。
実際には少し変わっていて、大将軍という地位に以前ほど興味がなくなってのことなのだが周囲にはそれは分からない。
「ほう。いつの間にか大将軍となった勇者様は、我らの労苦など何の評価にも値しないと言うのか」
「エリック?」
「そうではありませんか? ケン大将軍様」
「そんな言い方はないだろ?」
短気なところも変わらない。性格までは簡単に変わるはずがない。
「嫌味の一つも言いたくなる。あの戦場で何があったか。大将軍は知らないわけではないだろう?」
「それは……」
今更ながらではあるが、健太郎はウェヌス王国に戻ってきてから、第一次アシュラム戦役についての報告書を読んでいた。細かなところまでは理解出来なかったが、自分が間違いを犯してしまっていることだけは分かった。
「ありもしない策略を口にして勇者様は軍を崩壊させた。そういうことではなかったのか?」
「…………」
「まあ、そうでないのかも知れない。今となっては責めても仕方がないことだ」
「そ、そうだよ」
ハーリー千人将が追及を止めたのは、実際にはゼクソン王国に策略の事実はあったからだ。この話を持ち出したのは健太郎に後ろめたさを感じさせたかったから。その目的は充分に果たされている。
「しかし、私たちが味わった苦しみを何ら評価されないのでは悲しいことだ」
「……ごめん」
「では?」
「陛下の言うとおりで」
ハーリー千人将の思惑通り、健太郎はジョシュア王の口にした昇進を認めてきた。
「大将軍!」
それに慌てるランカスター宰相だが、こうなってしまうとどうにもならない。
「いいだろ? 皆、大変な思いをして帰ってきたんだ。それに報いるのは当然だ」
「二人も将軍としてどうする?」
「それは考えれば良い。ああ僕の軍の将軍はどうかな? 大将軍の僕の下に将軍がいるのはおかしくないよね?」
「それはお断りする」
「どうして?」
健太郎の提案をハーリー千人将は即時に否定した。ハーリー千人将には健太郎の下で働くつもりなど全くない。それはカー千人将も同じだ。
「ずっと虜囚の身だったのだ。すぐに元の通りに働けるとは思えない」
「それは少しずつ」
「少しずつなんて余裕が我が国にあるのだろうか? 私はそうは思えない」
「でも……」
また他人に拒否された。そうされても仕方がないと分かっているが、それでも、やはり心は痛む。
「しばらくは国軍の国内任務をこなして勘を取り戻したい。将軍としての仕事はその後でお願いしたい」
ハーリー千人将が拒むのは健太郎の下で働きたくないというだけではない。やらなければならない仕事があるからだ。
「国軍の国内任務って、王都周辺の盗賊討伐だよね? そんな任務を?」
「それだけではない。叛乱勢力の討伐もある」
「それだって変わらない」
盗賊も叛乱勢力も健太郎にとって変わりはない。実際に多くの場合はそうだ。かつてのソフィアたちのようにウェヌス王国打倒などと訴えていても、中身は盗賊と変わらないのが叛乱勢力と呼ばれるもののほとんどだ。
だがそんな勢力の討伐にハーリー千人将が拘るはずがない。
「虜囚になっている間、初めて国軍兵士とじっくりと話す機会を持てた。彼らが言うには国内のあちこちにそういった勢力の本拠地があるそうだ。それを一つ一つ潰していこうと思っている。地味な任務だが戦いの勘を取り戻すには丁度良いと思う」
「ハーリー千人将!」
これまでとは別の意味で、ランカスター宰相は大声をあげた。
「何でしょうか?」
「その本拠地とはどこにあるのだ?」
「それは色々と。一言では説明出来ません」
「……具体的な場所を掴んでいるのか?」
「さすがにそこまでは。南部の山中と聞いておりますが、具体的な場所は色々な情報を分析して割り出すことになります。これまでの討伐任務の結果が参考になるでしょう」
「そうか……」
ランカスター宰相の顔にわずかに安堵の表情が浮かぶ。これまでの討伐任務の対象は盗賊と何ら変わらない者たちばかりのはず。ランカスター宰相が気にする相手ではない。
「何か気になることが?」
「いや、何もない」
「しばらくはそうさせて頂きたいと思います。陛下、いかがでしょう?」
「良いのではないか。ずっと外ばかりに目が向いていて内が疎かになっているかもしれん。叛乱勢力という大層なものでなくても盗賊を征伐するだけで民は喜ぶだろう」
「では、陛下のお許しを得たということで、そうさせて頂きます」
「おお、そうせよ」
なんとなく流れのままに決まった叛乱勢力の討伐。だが、その後の新将軍二人の行動は素早かった。瞬く間に部隊の編制を終えて、二手に分かれて王都を出陣した国軍部隊。その目的地がランカスター侯爵家でさえ所在を知らなかった銀鷹傭兵団の主要拠点であったことを彼が知ったのは、それから四か月後のことだった。
銀鷹傭兵団はその根をずたずたに引き裂かれることになる。
◆◆◆
ウェヌス王国に長く敵対し続けた銀鷹傭兵団の拠点討伐。それはジョシュア国王を大いに喜ばせた。その功をもって二将軍を大将軍になどと言う始末だったが、それは幾らなんでも時期尚早とランカスター宰相は押し止めた。
健太郎もさすがに自分と同列に二人も並ぶことは良しとしなかったおかげだ。だが、それで止められるのは一度きり。次に二将軍が功績を上げれば、再度、大将軍へという話が持ち上がるのは間違いない。騎士団側がそれを強く推挙してくることは目に見えているのだ。
結局、二将軍が健太郎の勇者軍に所属することは、それで立ち消えになった。
「裏でグレン・ルートが糸を引いているのは間違いありません」
「そんなことは分かっておる! 何故、それを止められなかったかと聞いているのだ!」
アルビン・ランカスター宰相の言葉に激高するランカスター侯爵。長い年月をかけて育て上げた組織が壊滅的ともいえるダメージを受けたのだ。怒らないではいられない。
「銀鷹には警告を発していました。それをまともに受け取らないから」
ハーリー将軍とカー将軍が率いる国軍が叛乱勢力討伐に動いたことは銀鷹傭兵団には忠告していた。アルビンは、責任は銀鷹傭兵団にあると訴えた。
「分かるはずがない! 襲撃を受けた場所はごく一部の者しか知らないのだ!」
それを否定するのは銀鷹傭兵団の管理者である弟のロイド。当主であるランカスター侯爵の怒りをまともに受けるようなことになれば、待っているのは身の破滅。そうならないように必死だ。
「捕らわれたヘロン将軍が吐いたのではないか?」
「それはない。ヘロンが知っているのはせいぜい一カ所だけだ」
「生き延びた者はどれくらいだ?」
兄弟の言い争いを無視してランカスター侯爵は、今回の襲撃の情報を伝えに来たスパロウに被害状況を尋ねた。
「……二十人です」
「それは多いのか?」
「五分の一になりました」
「……終わったな」
中核であったメンバーが五分の一にまで減ってしまった。それを聞いてランカスター侯爵は銀鷹傭兵団の維持を諦めた。
「待って下さい! 実際に活動している者はその何十倍、何百倍もいます!」
銀鷹傭兵団は枝葉を入れれば、その実数が把握出来ていないほど大勢いる。それをスパロウは訴えたのだが。
「それを、残った二十人で操れるのか?」
枝葉は枝葉。動かす者がいなければ機能しない。
「組織を再編して司令部を再構築します」
ランカスター侯爵家の支援がなくなれば銀鷹傭兵団の存続は難しくなる。スパロウは何とか、繋ぎ止めようと必死だ。
「それを待っている暇はない。だが人数を増やすのは悪くないな」
「ではすぐにそれに着手します」
「いや。我が家の者を出そう。今後は我らが直接、銀鷹傭兵団を管理する」
「そんな!?」
銀鷹傭兵団はランカスター侯爵家の支援を受けているが、それはあくまで協力の見返りであって従属しているつもりはない。だがランカスター侯爵家の人員を受け入れるようなことになれば、そういうわけにはいかなくなる。
「我らの方が余程うまく使える。それを情報秘匿の為などと、つまらん口実を使って独占するからこのようなことになるのだ」
「しかし、ランカスター家の者を使えばそれに気付く者も出てくる。それではせっかく張った根が離れてしまうことになる」
「もう気付かれているのではないか?」
「何だって?」
「そう考えれば辻褄が合う。分かった上で従っている振りをする者がいた。そういった者がグレン・ルートに情報を流したのだ」
「…………」
ランカスター侯爵の指摘にスパロウは考える素振りを見せた。それほど長い時間ではない。そんなことが出来る者など限られているのだ。
「心当たりがあるようだな?」
「……あるとすればクレインしかいない。だが奴は表の情報しか知らないはずで」
「そう思わされていたのではないか? 無知を装ってお前らに自分は無害だと思わせ、まんまとグレン王の下に移った。今回の件はお前たちの自業自得だな」
「……奴は殺す」
「当たり前だ。しかし今更だな。事態の解決にはならない。いずれは末端も潰されることになるのではないか?」
「そこまで割れるはずがない。全容を把握している者はいないのだ」
銀鷹傭兵団は、中核メンバーがそれぞれ別系統の組織を動かす形を取っている。末端があばかれることがあっても、影響はその系統の組織だけで留まるはず。
「何の根拠もないことだ。そういえば王都にも拠点があったな。そこはどうなっている?」
「……無事だ」
「それがおかしいとは思わないのか? グレン王はそこが銀鷹の拠点だと知っているはずだ。まさかとは思うが、出入りを繰り返していたのではないだろうな?」
「…………」
ランカスター侯爵の問いにスパロウの顔が青くなる。銀鷹傭兵団は王都にある鷹の爪亭を何も考えることなく拠点として利用していた。ウェヌス王国の王都であるから大丈夫なんて考えはグレンに対するには甘すぎる。
「くだらん。何のことはない。それでもう知れているではないか」
「しかし本拠地への出入りは警戒に警戒を重ねて」
「グレン・ルートはゼクソンを手中に治めたのだ。ゼクソンの諜報組織は幾らでも使える。それとも銀鷹の傭兵は一国の諜報部門に優る力量があるのか?」
「それは……」
スパロウには決して劣るものではないという自信はある。だが、それをこの場で言っても何の意味もない。事実として銀鷹傭兵団の主要拠点は襲撃を受けているのだ。
「まあ良い。こちらも頼り過ぎた。グレン・ルートは我がランカスター家の総力を使って叩き潰す」
「どうやって?」
「それを今から相談するのだ。勇者軍は動かせそうか? どうだ?」
ランカスター侯爵は問いをアルビンに向けた。
「名目としては遠征調練を用意しました。行軍訓練と行軍先で演習を行うというものです。戦争直後に行うのは異例ではありますが、遠征訓練そのものは珍しいことではありません」
勇者軍を動かすための名目をアルビンは用意していた。戦うには軍を移動させるだけでなく、物資の調達も必要だ。それを堂々と行うにはこういった名目が必要だったのだ。
「勇者が邪魔をすることはないのか?」
「表向きは実戦ではなく演習です。勇者は興味などないでしょう。最悪同行すると言い出しても、まさかルート王国に向かっているなど分かりません。勇者はルート王国の存在など知らないはずですから」
「だが現地に着けば分かるのではないか?」
「分かったとしても勇者に戦いを止めることなど出来ません。指揮は大隊長たちに行わせます」
「ふむ……」
戦いに持ち込むことはどうやら出来そうだと分かった。それでもランカスター侯爵は浮かない顔のままだ。
「……勝てるのか?」
戦いに持ち込めてもグレンを討てなければ意味は無い。これについて、もう失敗は許されない。グレンを逃してしまえば無断で軍を動かしたことがウェヌス王国に知られてしまう。それだけではない。それをネタにグレンが何を仕掛けてくるか分からない。
「腕輪を使います」
ランカスター侯爵の問いに答えたのはロイドだ。
「腕輪……嵌める算段は?」
腕輪を使ってグレンの力を抑え込む。それは分かるが、どうやってグレンの腕に嵌めるかの問題がある。
「グレン・ルートが信頼する者の弱みを握りました。それで脅します。恐らくうまくいくでしょう」
「失敗する可能性はないのか?」
「それは絶対とは言いません。ですがグレンを討つ為の備えは時間をかけて整えています。腕輪に頼らなくても討つことは出来ます」
「ふむ。では討ち取った後の算段は?」
ロイドの言葉を聞いてランカスター侯爵はグレンを討ち取った後のことを考え始めた。グレンを討てると確信したわけではない。絶対などないと分かっているランカスター侯爵は覚悟を決めただけだ。
「それですがグレン・ルートが死んだ場合、ルート王国に今いる者たちは四散する可能性が高いと」
「そこまでの忠誠を?」
「それは分かりませんが、グレン・ルートあっての国という意識が強いのでしょう」
「まあそれは良い。だが王妃だけは確保しろ」
ルート王国の主要人物は最初から生かしておくつもりはない。生かして捕らえたいのはセントフォーリア皇家の血を引くソフィアだけだ。
「……自害するのではないかと」
「何と!?」
「そう口にしたわけではないようですが、帝国の痕跡を残さないと言っていたそうですので、そういうことになるのではないかと思われます」
「……それを許すわけにはいかん。何としてもセントフォーリア皇家の血筋は手に入れるのだ」
簒奪の正統性。それを何としてもランカスター侯爵は手に入れたかった。一度は手にしたつもりでいたので、尚更、執着心が強くなっている。
「姉が駄目でも妹がいますが」
「どうやって連れてくる?」
攫うのは容易ではないと以前、報告を受けていた。
「強引な手を使うしかありません。ですが調べた限り、守りはさらに堅くなっており、攻めるには中隊規模の軍勢が必要です。これはトルーマンの手配と思われます。他にも側近共がなにやら動いています」
「形振り構わぬか……謀叛を疑われる心配はないのだろうな」
「はい。ジョシュア王も知ってのことでしょう」
エドワード大公とジョシュア王は間違いなく繋がっている。以前から推測されていたことだが、それが確信に変わった。
「……言うまでもないが、王家は後回しだ。グレン・ルートが全てなのだ。その存在が全てを狂わせる。それさえ消し去ればもう邪魔者はいない。エイトフォリウムもゼクソンも、アシュラムにも、また付け入る隙は出来る」
グレンが王家を一つにまとめたなどという事実誤認もいくつか含まれているが、認識に大きな誤りはない。ランカスター侯爵の野望をことごとく挫いているのはグレンなのだ。
「お任せください」
グレンを殺す。この直接的な解決法にランカスター侯爵家は動くことになる。今動かせる総力をもって。
◆◆◆
グレンはルート王国に帰還していた。勇者軍の動きを探知してのことだ。ランカスター侯爵家に当たり前にある防諜という考えが、健太郎にはない。全くないわけではないのだが、それに備える力がないのだ。これは健太郎だけの責任ではない。その下の幹部たちも対策を施す必要性を訴えることなく、放置していたのだ。扱いやすいというだけで、ろくな人材を勇者軍に置かなかったランカスター侯爵家の失敗だ。
「それで敵はいつ頃くるの?」
久しぶりの再会ではあるがソフィアの関心は戦いに向いている。ルート王国が初めて軍隊に攻められることになるのだ。普段通りではいられない。
「どうだろう。ひと月は掛からない。二週間後ってところかな」
「ええっ? そんなにすぐなの?」
まさかそんなに切迫している状況だとソフィアは思っていなかった。
「それくらいじゃないか? 一ヶ月も掛かるようだと奇襲にならない。まあ、二週間後でも奇襲にはならないけど」
「そんな急で平気なの?」
「急じゃない。準備はずっと前からしていた。ようやくその時が来たって感じだな」
この日が来ることは国を興すと決めた時から分かっていた。それからずっと兵を鍛え、城壁を強固にし、様々な防衛手段を用意してきたのだ。
「そう……そうなのね。じゃあ、私も焦るのはやめるわ。疲れたでしょう? 部屋で少し休めば」
「えっ? まだ明るいけど……まあ久しぶりだし、ソフィアがどうしてもっていうなら」
「違うから。それにそういうことをマリア様の前で言わないで」
「あっ……そうだった」
マリアもルート王国に一緒に来ている。エステスト城砦で勇者軍の動きを知った時に、グレンはゼクソン王国に留まるように告げたのだが、それでは自分一人が逃げるようだとマリアは主張して離れようとしなかったのだ。
「もういい。この勘違い変態男とマリア様を部屋まで案内してもらえる?」
ソフィアに言われて後ろに控えていた侍女が進み出てきた。少しふくれ面のその顔を見て、ようやくグレンはそれが誰か気付く。
「アンナ?」
「やっと気付いた。レン兄、ひどいよ」
「ほんと、ひどいわよね? いつ気付くかと思っていたのに」
ソフィアがグレンに部屋で休めといったのはこれが理由だ。一向にアンナの存在に気が付かないグレンに焦れて、目立つように前に出させる口実だった。
「ごめん。そうか来ていたのか。今は何を?」
「格好の通り侍女よ。私なんてこれくらいしか役に立てないもの」
「十分だろ? でもそうか。アンナに侍女をしてもらうのは良いな。これまでは世話をしてくれる人がいなくて、マリアも不自由だっただろうし」
こう言ってグレンが振り返ると、マリアはじっとアンナを見詰めていた。
「えっと、彼女はアンナ」
「……知っているわ。でもフローレンスって呼ばれていたはずだわ」
マリアはアンナの顔を知っている。彼女が健太郎に色々と引っ張り回された時に会っているのだ。
「そうか。ウェヌスで見てるか。フローレンスは偽名。細かいことは後で説明する。とにかくウェヌスの裏町の出身で俺の知り合い。妹みたいなものだな」
「妹ね」
それを言うマリアの目には、グレンへの疑いの色が浮かんでいる。
「……純粋に妹だから。血がつながってなくて妹も変だけど」
「そうね。もう一人、血の繋がっていない妹がいたわね」
誤解を解こうとしたグレンの言葉は逆効果だった。マリアの目が疑いから怒りへと変わっている。
「……違うから」
マリアの視線に怯えるグレンに少し面白そうに笑みを浮かべながらアンナが助け舟を出す。
「マリア様。レン兄の言っていることは本当です。レン兄は私を妹みたいに可愛がってくれました。でも、それ以上のことはありません。それに私には好きな人がいますから」
「まさか?」
アンナの話を聞いたマリアは驚きの表情を浮かべている。
「もし色狂いの馬鹿男を思い浮かべているならすぐに消して下さい。いくらマリア様でも私、怒ります」
「そうよね」
健太郎ではないと分かって、マリアは納得した様子だ。愛人であったアンナが健太郎への恋愛感情を否定するほうがおかしな話なのだが。
「ではご案内します」
「ええ、お願いするわ。グレンは?」
「あ、俺は少し皆と話してから。マリアは先に休んで。移動ばかりで疲れてるだろ?」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせていただくわ」
アンナの先導で部屋を出て行くマリア。その背中を興味深げに見つめていたソフィアは部屋の扉が閉まったところで口を開いてきた。
「マリア様でもやきもち焼くのね」
「……あれはリアの影響だ。俺から目を離すとすぐに女が増えるから気をつけろなんて馬鹿なことを言うから」
「そう……」
ヴィクトリアの考えにはソフィアも全面的に賛同だ。どこかに行って戻ってくる度にヴィクトリア、マリアと妻が増えてきている。ソフィアはアシュラム王国でも結婚してくるだろうと覚悟していたくらいだ。
「マリアもそれに乗っかって、お目付役のつもりなんだ」
「だから付いてきたの? これから戦争が始まるこの場所に」
「違うから。ゼクソンに残るように言ったのに自分だけ安全な場所にいるのは嫌だって聞かなくて」
「……愛されてるわね」
「それ嫌み?」
「まさか。嬉しいのよ。君を大切に思う人が増えることが。アンナちゃんはちょっと違ったみたいだけど」
ソフィアもアンナが次の側妻かと密かに思っていたのだが、それは違うとさっき分かった。
「アンナはな……」
「あれ? もしかして相手知っているの?」
「……知らない。知っていても教えない」
「どうしてよ。教えてくれても良いじゃない。誰なの? ねえ、誰?」
「アンナの許しなく言えないから」
「いいじゃない。誰にも言わないから教えて」
「駄目」
「いいじゃない」
なんて下らないやりとりをしばらく続ける二人。戦いを間近に控えた今だからこそ、こうして普通の時間を楽しみたいと考えていた。次の戦いはグレンにとってひとつの区切りとなるはずの戦い。失敗の許されない戦いだ。その緊迫した思いに押しつぶされてしまわない為に。