アシュラム王国の都メイプルで二ヶ月の時を過ごすことになった健太郎。とはいっても健太郎が自由を許されているのは城内だけだ。それでさえ破格の待遇というものだが、健太郎にとっては不自由で仕方がない。
街に出ることが出来るのであれば、それなりの期間は退屈しないで済む。メイプルはアシュラム王国の都なのだ。ウェヌス王国の王都には劣るとしてもそれなりに栄えている。まして今はゼクソン王国軍の駐屯や新たに統治者となったグレンに面会しようと国中から多くの人々が集まっていることがあって、メイプルの街は普段以上の賑わいを見せているのだ。
もっともそんなことになっているとは健太郎は分かっていない。城から一歩も外に出られない上に、余計なことを教えないようにというグレンの通達が徹底されていて、健太郎の耳には何も入ってこないのだ。
健太郎が自ら情報を集めようとしても同じ。グレンの通達、だけでなく健太郎の女癖の悪さは城内に広まっていて侍女などは全く健太郎に近づこうとしない。健太郎は退屈になるばかりだ。
そうなるともう健太郎が向かう先は一つしかない。グレンのところだ。
「俺の邪魔はするなと言ったはずだけど?」
健太郎を見たグレンの第一声がこれだ。
「邪魔はしない。退屈だから話し相手になってもらおうと思っただけだ」
「それを邪魔と言うんだ。俺は忙しい。お前の相手をしている暇はない」
これが自分を追い返す口実ではないことは健太郎にも分かる。グレンの執務机は書類で一杯。さらに文官たちがそれぞれ書類を持って並んでいる状態だ。その中の一人が自分の話を邪魔している健太郎を恨めしそうに睨んでいる。
「分かった。大人しくしているよ」
健太郎はグレンと話をするのを諦めた。だからといって部屋を出て行くことはしない。どうせ何もすることはないのだからグレンの仕事ぶりを見ていようと思ったのだ。グレンは王だ。王の仕事には健太郎も大いに興味がある。
「……もう少し細かく予算を算定してもらえますか? 無駄遣い出来るほど、この国が豊かではないことは、この国の文官である貴方なら知っていますよね?」
「はっ、はい。申し訳ございません。やり直して参ります」
グレンの軽い叱責を受けて文官は顔を青くしている。グレンの言葉遣いが丁寧なのは気になるが、いかにも王に仕える臣下らしい態度、健太郎の基準でだが、というものを見て健太郎は楽しそうにしている。自分がそうなる時を夢見ているのだ。
「急いで下さい。提案そのものはすごく良い内容だと俺も思います。出来るものならすぐに取り掛かりたい。その判断の為に詳細な予算が必要なのです」
「……は、はい! 頑張ります!」
大声で返事をして文官は駆け足で部屋を出て行った。その表情に喜びが浮かんでいるのを健太郎は見た。王の言葉で怯え、別の言葉では喜ぶ。臣下というものは大変だなと思う。
「……何故、今これを?」
「それはもちろん陛下のご威光を国の隅々まで行き渡らせる為です。陛下のご尊顔を拝命した民衆は必ずやこの国の未来に希望を抱くことでしょう。その為の巡幸です」
「却下」
「えっ?」
グレンを喜ばせるつもりの自分の案が一言で切り捨てられて、文官は驚いている。
「人々の暮らしの実態を把握する為ということであれば、少し考えてもいいかと思ったのですけど、そんな理由であれば中身を聞く必要はありません」
「いや、しかし陛下のご威光を」
「俺の威光なんて人々は求めていません。人々が必要としているのは自分たちの暮らしを良くしてくれる政治。そして俺が求めているのはその為に尽力してくれる文官です。俺のご機嫌取りに懸命になるような文官じゃない」
「わ、私は……」
グレンの言葉に文官は顔を真っ青にさせている。それだけではない。体を小刻みに震わせてもいる。国王であるグレンに遠回しにお前は必要ないと言われたのだ。そうもなるだろう。
「勘違いをしているようなので言っておきます。貴方たちが忠誠を向ける相手はここにいるウォーレン殿です。それを忘れて俺の歓心を買おうという人は、将来必ず問題を起こします。そういった人の排除を俺は躊躇いません」
このグレンの言葉を聞いて、健太郎は初めてグレンの隣に机を並べている少年に気がついた。その少年が元アシュラム王国の王太子であり現アッシュベリー大公家の嫡子であることを、将来はその少年がアシュラム王国の王となることを知らない健太郎は、どうしてグレンが自分以外に忠誠を向けろというのか分からないでいる。
「も、申し訳ありません!」
「その謝罪は私ではなくウォーレン殿に」
「申し訳ございません。王太子殿下」
「……大丈夫。僕は全然気にしないから、陛下に精一杯仕えて」
「はっ……」
そう言われてもそのグレンの機嫌をこれ以上ないほどに損ねてしまっている。城勤めも今日限りと思い、酷く落ち込みながら文官は部屋を出て行こうとする。
「次はいつになりますか?」
「えっ?」
その背中に掛けられた声。グレンの声だ。
「文官を遊ばせておく余裕はこの国にはありません。今回が駄目であったならすぐ次の提案を持ってきて下さい」
「……よろしいのですか?」
「質問の意味が分かりませんが、出来るだけ早くと言っておきます」
「……はい! すぐに取り掛かります!」
首を免れた。その喜びで文官の声が大きくなる。つい先ほどまでの酷く落ち込んだ様子は一切消えて、やる気に満ちた表情を見せて文官は部屋を出て行った。
「申し訳ありません。陛下に気を遣わせてしまいました」
その文官の背中が見えなくなったところでウォーレンがグレンに声を掛けた。おそらく今の文官は今あったことを他の人たちに話す。その文官が話さなくても、この場には別の文官がいる。その人たちが話すだろう。
それでウォーレンを蔑ろにする文官はいなくなる。今現在、統治者であるグレンがそうしろと命じているのだ。
「別に気を遣ってなどいません」
「でも」
「ここでウォーレン殿に恩を売っておけば、俺の息子に酷いこと出来ないでしょ? 俺の息子が王になる頃にはすでにウォーレン殿は立派な王になっているはずですので、助けてもらわないと」
「……ええ、それはもちろん。ご恩返しは必ず致します」
恩を売るのは息子の為。まだずっと先の時の為にグレンがそこまでのことを考えていると知って、健太郎は感心した。ここまで周到さを見せるグレン相手では大国であるウェヌス王国も苦戦するはずだと。
この先もグレンは文官の話を聞いて、それが良いものであれば褒め、悪いものであれば叱責するを繰り返した。共通しているのは部屋を出る時にはどの顔も、程度の差はあるが、やる気に満ちた表情を見せていること。部屋の入り口近くの椅子に座っている健太郎にはそれが良く見えた。国政のことなど健太郎には分からない。それでもその顔を見ていると、この国はきっと良い国になると思える。
グレンの優秀さを、公には認めていないが、健太郎は良く知っている。グレンが自分の部下であった時、何度も助けてもらっているのだ。だがグレンの真価は人に仕えている時ではなく、人を使っている時に最大限に発揮されるのだと健太郎は知った。グレンは王になるべくしてなったのだと。
「陛下!」
急に部屋に駆け込んできたのは文官ではなく騎士だった。
「どうした?」
「……ランドックが」
「……分かった。すぐに行く。すみません。続きは後で」
文官に断りを入れて、慌ただしく部屋を出て行くグレン。健太郎には何が起こったのか、さっぱり分からない。分からないので、付いていくことにした。
◆◆◆
グレンが向かった場所は病院、ではなく病院と思うくらいに沢山のベッドが並んでいる大部屋だった。そのベッドには怪我をした人たちが寝ている。さすがに健太郎にも分かった。今回の戦争で怪我をした兵士たちの為の部屋だと。実際には健太郎の思っているのとは少し違っていて銀鷹傭兵団に従っていた部隊との戦いで怪我をした兵士たちなのだが、戦傷者であることに違いはない。
その大部屋の中をグレンは急ぎ足で進んでいく。ここまで来ると健太郎にも何が起きているのか分かった。誰だかは知らないが、グレンと親しい兵士の容態が悪いのだろうと。
「ランドック!」
グレンの声が大部屋に響く。だが、その声に応える者はいない。グレンも返事がくるとは思っていない。まだ死ぬな、という思いで名を呼んだだけだ。
ようやく辿り着いたベッドには全身に包帯を巻いた男が寝ていた。
「……ランドック。聞こえるか?」
今度はさきほどとは違い小さな声でグレンは声を掛ける。
「……だ、だん、ちょう」
「ああ、いい。無理に返事をするな。簡単には諦めるなよ。もっと生きるんだ」
「……そ、そう、してえけど、ど、どうやら、むりだ」
グレンにランドックと呼ばれた男は、途切れ途切れの言葉でグレンに答えてくる。
「話すな」
「……む、むだ。さ、さいご、だから、は、はなしを、してえ」
「ランドック……」
ランドックはもう自分の死を悟っている。最後の力を振り絞ってグレンと話をしようとしているのだ。それが分かってしまうと、もうしゃべるなとは言えなくなる。
「お、おれは、し、しあわせ、だった。あ、あんた、に、あえて、ま、まっとうな、みちに、もどれた」
「俺じゃない。お前はもう罪を償っていた。そんなお前を俺は戦争に引きずり込んだんだ」
ランドックは元銀狼兵団の兵士。罪を犯して採掘場で強制労働をさせられていたランドックは、グレンの誘いに乗って銀狼兵団の兵士となったのだ。
「そ、そうじゃ、ねえ。あ、あんたは、おれに、ゆ、ゆめを、あたえて、くれた。こ、こんな、おれでも、く、くにのために、は、はたらける。ひとの、ために、な、なれるって」
「ああ。お前が頑張ったおかげでゼクソンはウェヌスの侵略をはねのけることが出来た。ゼクソンの人たちが幸せに暮らしているのはお前のおかげだ」
グレンとランドックの会話を聞いて健太郎は気まずさを覚えている。健太郎は侵略した側の人間。その侵略から自国を守ろうとした人の気持ちを今初めて知った。自分が考えていた正義は何だったのか。それを初めて考えた。
「あ、あんた、と、はなれる、のは、さみし、かった。だが、あ、んたは、もどってきて、くれた。そ、それが、す、すごく、うれし、くて、おれは、ま、よわず、ぐんに、もどった」
銀狼兵団が解散した時にランドックはゼクソン王国に残って普通の暮らしをすることを選んだ。グレンに付いていきたいという思いはあった。だが兵士として働いて、ゼクソン王国への愛国心が生まれたランドックは祖国を捨てられなかったのだ。そんなランドックにとってグレンがゼクソン王国に国王代理として戻ってきたことはとても嬉しいことだった。またグレンの下で働けることを喜んだ。
「……すまない。軍にもどらなければ、こんなことには……」
「ち、ちがう。そ、そうじゃ、ねえ。お、おれは、ま、まんぞく、している。うまれて、きて、こうして、しんで、いけることを、よろ、こんでいる」
「ランドック……」
「じ、じぶんの、くにだけ、じゃねえ。よそ、のくに、まで、まもれ、た。お、おれは、せ、せかいを、し、あわせ、にする、ために、たたかえ、た。そ、そうだろ?」
「ああ、そうだな。お前は世界の為に戦った」
「……お、おれは、ここで、さ、さよなら、だけど、あ、あんたは、つ、つづけて、くれ」
「……続ける?」
「こ、この、せかい、を、す、すべての、ひとびと、を、し、あわせに、してやって、くれ。おれ、みたいに。そ、そのため、に、た、たたかい、つづけて、くれ」
「…………」
「た、たのむ。あ、あんた、なら、できる。お、おれは、し、しんじ…………」
ランドックは最後まで言い切ることは出来なかった。何か言いかけたまま動きを止めてしまったランドック。その口を、見開かれたままの目をグレンは閉じると、そのまま何も言わずに出口に向かって歩き出す。
「グレン? おい、グレン!」
そのグレンを呼び止めようとする健太郎だが、その声に反応を示すことなく、グレンは大部屋を出て行ってしまう。
「……死んだらそれで終わりって、ちょっとどうなんだ?」
ランドックが死ぬと、さっさとこの場を離れていったグレンを非難する健太郎。
「貴方は何も分かっていない」
その健太郎にグレンを呼びにきた騎士が文句を言ってきた。
「僕が何を分かっていないというのさ?」
「陛下は誰かが危篤になる度にこの場所を訪れている。ランドックが特別なわけじゃない。全員の死を見届けているのだ」
ここにいる負傷者は魔法では回復出来ないダメージを受けた人たち。多くが死の時を待つ人々だ。
「……そんなことを?」
「常に出来ることではない。だからこそ出来る時はそうしたいとおっしゃられて。たしかに誰かが亡くなっても陛下は涙をお見せにならない。だがな、涙を見せないからといってそれで泣いていないわけではないのだ」
健太郎にこう告げるとその騎士もまた出口に向かって歩き出す。それと入れ替わるかのように看護師らしき人々がランドックの亡骸を運び出していく。一人残された健太郎。その時になって初めて気付いた。自分に向けられた周囲の冷たい視線を。それは何も知らずにグレンを批判した自分に対する抗議の視線だと。
◆◆◆
健太郎はグレンとの付き合いは深く、それなりにグレンのことは理解しているつもりだった。だが一日ずっと側で見ていたグレンは、健太郎の知らないグレンで、そのことに健太郎は酷くショックを受けた。
自分はグレンの何を見ていたのか、どうして自分はグレンをライバル視出来たのか。これを考えると健太郎は恥ずかしくなった。自分は勇者だという言葉さえ空しくなる圧倒的な敗北感。それを感じてしまった。
夜ずっとその日一日のことを思い返してみた。それで分かったのは、グレンは決して自分の好意を認めないこと。自分の功績を誇らないこと。昼間は計算高いと思っていたことが、あえてそう思わせるようにグレンがしているのではないかと思えた。グレンは人に認められたくない。自分とは正反対だ。それでいて誰もがグレンを認め、グレンと共に歩みたいと考える。これも自分とは正反対だ。
負けを認めなければならない。そうでないと自分はこの先、どう生きていいか分からなくなる。普段であれば決して受け入れられない思いが、今は素直に心に広がっていく。その理由は分かっている。
昼間。グレンに遅れてベットが並ぶ大部屋を出て、戻る道が分からなくて迷い込んだ廊下の外れで偶然聞いた声。「ちくしょう」とその声は呟いていた。
何もかもが完璧に見えていたグレンの声だ。自分よりも遙か高みにいるグレンが、人の目を忍んで後悔の呟きを漏らしている。
それを知った健太郎は自分が恥ずかしくなった。自分は今まで何をしていたのだ。グレンの弱みを垣間見たことで、健太郎はそう思えた。
そこからは昔、グレンに言われたこと、結衣が言われていたことを何度も思い返してみた。自分はグレンに言われたとおり、この世界を生きているか。そうではなかった。ではどうすればいいのか。残念ながら答えは出なかった。だが幸いなことにここしばらく時間は沢山ある。その時間を使ってじっくりと考えてみようと健太郎は思った。
――そして翌日。まだ夜明け前に起き出して、健太郎は鍛錬を行う為に調練場に向かった。何度か朝の鍛錬は行っているが、ここまでの早起きは初めてだ。いきなりやる気になっている自分を恥ずかしく思いながら、鍛錬場に辿り着いた健太郎の目に映ったのは。
すでに汗を流しているグレンの姿だった。
「……なんだ? お前でもこんな早起きするのか?」
「ああ、いや、今日が初めてだ」
見栄をはりそうになる自分をとどめて、健太郎は正直な答えを返す。
「そうか……俺の邪魔はするなよ。お前と違って俺は鍛錬に回せる時間が少ないんだ」
一日中、政務に追われているグレン。その様子は昨日ずっと見ている。その忙しさを言い訳にすることなく、こんな時間に起きて鍛錬をしているグレン。昨日の夜に感じた敗北感が健太郎の胸に広がっていく。だが、それは決して不快ではなかった。それどころかどこか気持ちが楽になっていくように感じている。
「グレンは凄いな」
心に湧いた思いを健太郎は素直に言葉にした。
「……何を企んでいる?」
「企んでないから。素直に感心しているだけさ。皆がグレンを敬っている。皆がグレンに期待している。それが僕は羨ましい」
健太郎も馬鹿ではない。周りの人たちが内心では自分を馬鹿にしていることに気付いている。分かっているから、ちょっと下に見られているような発言をされるとそれに過剰に反応してしまうのだ。
周囲の自分への期待がとっくに消え去っていることも分かっている。だから虚勢を張って、それを誤魔化そうとしてしまうのだ。それによって更に自分から人が離れてしまうと分かっていても。
心から信頼出来る相手など健太郎にはいない。周囲は自分の苦しみなど理解しようとしない。ただ一人、それに気付いてくれた人は、自分の過ちのせいで敵となってしまった。
もし時を戻せるなら。空しい後悔が健太郎の胸に広がった。
「……俺はお前が羨ましい」
「えっ?」
グレンのまさかの言葉に健太郎は驚いた。
「周囲の期待を裏切り続けても平気でいられるお前の心の強さが羨ましい」
「それって……」
褒め言葉ではなかった。それが逆に健太郎を納得させた。だが。
「世界を平和に、皆を幸せに。そんなことを言われても、どうすればいいか俺には分からない。俺は自分の復讐の為に周りを利用しているだけだ。そんな俺にどうして期待する? どうして騙されていることに気付かない? 本当は俺に人の上に立つ資格なんてないのに……」
「グレン……」
ここまでグレンが本音を語ったのを健太郎は初めて聞いた。それを自分に話すグレンは、きっと心が弱っているのだろうと思った。自分の心の強さを羨ましいと言ったのは本気だったのだと。
だが自分の心が強いわけではないことを健太郎は知っている。グレンの心が弱いわけではないことも健太郎は分かっている。グレンと自分の違いは人の思いを真剣に受け取っているかどうか。望まない期待に正面から向き合って苦しんでいるグレンと、それから顔を背けて自分の世界だけで生きている自分。その違いだと。
「……グレン。一番付き合ってもらえないか?」
気がついた時には健太郎はグレンに立ち会いを申し込んでいた。
「邪魔するなって言ったはずだ」
「一番だけだ。一番だけ真剣に。いや、もちろん模擬剣でだけど、本気でって意味で」
健太郎はグレンと戦いたかった。手加減なしの全力でグレンと戦いたかった。
「……いいだろう」
その健太郎の真剣な思いが伝わったのか、グレンは立ち会いを了承してきた。向かい合う二人。グレンは両手に剣を握っていた。
「二刀?」
「本気でって言ったのはそっちだ」
「……そうだね。じゃあ、始めよう」
剣を構えて気合いを入れる。全力で、これまでの戦いのどれよりも全力で健太郎はグレンに立ち向かうつもりだ。
「う、うおぉおおおおっ!!」
雄叫びをあげてグレンに向かって踏み込む健太郎。他に誰もいない調練場で、恐らくは世界最強であろう二人の戦いが始まった――。
◆◆◆
二ヶ月後。迎えにきたウェヌス王国の使者とともに健太郎は帰国することとなった。とくにイベントなどない。健太郎がメイプルの城にいたことは周知のことではあるが、公式に記録されることはない。大国ウェヌス王国の大将軍が強盗で捕まっていたなど、記録に残せることではないのだ。
ひっそりとメイプルの街を離れようとしている健太郎。それでも一応はグレン他数人が見送りに出ている。非公式であっても外交の場。礼儀としてそうしないわけにはいかないからだ。
「……二ヶ月間、ありがとう」
「お礼を言われるようなことはしていない。こっちは犯罪者を収監していただけだ」
健太郎のお礼の言葉へのグレンの答え。それに健太郎は苦笑いを浮かべている。今はこのグレンの言葉を嫌みと思うことはない。グレンのいつもの言い訳だと分かる。
「グレン……僕はこれからも頑張るから」
グレンに本気の立ち会いで負けてからずっと、健太郎は剣の鍛錬に一日のほぼ全てを費やしてきた。そうでもしなければグレンには勝てないと思い知ったからだ。
「ウェヌス王国の大将軍であるお前に頑張られてもな。俺が喜ぶと思うか?」
「……そうだね」
ウェヌス王国に戻れば、またグレンとの戦いが待っているかもしれない。グレンに勝ちたいと思っている健太郎だが、それは殺し合いでではない。そんな立場の自分が少し寂しかった。
「では我々はそろそろ」
迎えにきた使者がグレンに出発を告げる。
「ええ。何事もないと思いますが、一応は道中お気を付けて。それでは失礼します」
使者に挨拶を返すとグレンは背中を向けて城に戻っていく。
「グレン! 僕は頑張るから!」
その背中に向かって健太郎はもう一度頑張ると告げた。グレンが喜ぶかどうかは関係ない。これは健太郎なりのグレンへの誓いなのだ。
「さあ、大将軍。もう行きましょう」
健太郎の声に何の反応も示さないまま、グレンは遠ざかっていく。それを見て、使者が健太郎に出発を促した。
「……ああ、分かったよ」
グレンの反応がないのを残念に思いながらも、その場から離れようとする健太郎。その耳に届いたのは。
「勝手に頑張れ!」
「えっ?」
「お前がどれだけ頑張ろうと俺はそれ以上に頑張るだけだ! だからいくらでも頑張れ!」
背中を向けたまま「頑張れ」の言葉を返してきたグレン。その背中が健太郎には滲んで見えた。これがこの世界に来て流す二度目の嬉し涙。最初に涙を流した時も、きっかけはグレンの言葉だった。
これまで贅沢な暮らしを楽しんできたつもりだったが、それは嬉し涙を流すことなどない空虚な毎日だったのだとはっきりと分かった。
グレンの背中を追いかけたい。この思いを堪えて健太郎は後ろを振り返る。今、グレンに頑張ると誓ったばかり。次にグレンと話をするのはその約束を果たしてからだと心に決めて。