トキオにある勇者軍の鍛錬場はかなり大きい。トキオはもともとあった街を軍事に特化した形に造り上げた拠点。区画整理という言葉では済まない大規模工事を行って、広大な敷地を確保した上で軍事施設を作っているので、どれも余裕があるのだ。
その広大な鍛錬場に健太郎は一人で、ぽつんと立っている。まだ早朝。鍛錬の為に人々がこの場に現れるまでには、まだ時間がある。そんな時間に、本来怠け者である健太郎がいることが珍しいのだ。
ゆっくりと剣を振り上げ、それを一気に振り下ろす。風斬り音が周囲の静寂を打ち破り、巻き起こった突風が地面の土を舞上げる。
「……絶対に普通の人より上だよな」
それを確認し、健太郎は呟きを漏らした。自分の力を確かめているのだ。
「僕は強い。これは間違いない」
勇者に相応しい力を自分は身につけている。それは間違いないと思う。実際にこんなことをしなくても健太郎の実力は分かっている。彼に敵う騎士など誰もいないのだ。
「……勇者ってこういうことじゃないのか」
勇者としてこの世界に召喚されたからには、それに相応しい待遇が用意されているはずだった。待遇は用意されている。必ずしもウェヌス王国が最初から予定していたものではないが、健太郎は大将軍として軍の頂点の地位にあり、爵位も与えられている。
だが健太郎の求める待遇はこういうものではない。勇者としてというより、物語の主人公としての待遇だ。
その強さを人々に認められ、その力で多くの人々を助け、感謝され、愛される。それが自分を待っている近い未来だと、この世界に召喚されたと分かった時、健太郎は考えていた。元の世界では出会うことも出来ない美女とのロマンス。好敵手との激しくも、充実した思いを抱ける戦い。絶対的な悪との戦いと、結果得られる勝利。この世界の全ての人々が自分を称えるはずだった。
だが現実はどうか。思っていたような立場に自分はいない。地位は得た。贅沢も出来ている。美しい女性も手に入れた。だが、誰も本心から自分を称えてくれない。称えられているのは自分の敵、絶対の悪であるはずの存在。
「……それがそもそも違う。グレンが悪のはずがない。グレンは……グレンの心の奥底には、人への優しさがある。これは間違っていないはずだ」
健太郎にはどうしてもグレンが絶対的な悪だと思えない。グレンだけだった。本気で自分のことを考え、時に厳しく、時に優しく、自分を支えてくれたのは。グレン本人は優しくした覚えはないだろうが、健太郎はこう感じていた。
グレンだけが自分の苦しみを理解してくれた。この思いがある限り、健太郎はグレンを真の敵とは思えないのだ。
「選択肢を間違えたのかな? だとしたら、あそこだよな。僕が助けるべきはグレンだった。それを少し余計なことを考えたばかりに間違ったのかもしれない」
ゼクソン王国とアシュラム王国に嵌められた戦い。あの時にグレンの側を離れなければ、グレンを側から離さなければ、状況は変わったかもしれないと健太郎は思う。
それをグレンの考えを盗んだ後ろめたさから距離を取ってしまった。その罰が今なのかもしれないと思う。
確かに状況は今とは変わっているかもしれない。だが、それもまた健太郎が思うようなものではなかったはず。健太郎はこの世界の主人公ではない。誰かの為に用意されたストーリーなどないのだ。
「リカバリ出来ないかな。なんとかグレンの勘違いを正して、仲直りして、僕の軍に呼び戻して。そうすればきっと本来の形になるに違いない」
グレンを側に置き、その力を用いれば、確かに今よりも事態は好転するだろう。だがそうなることはない。グレンが健太郎に従うはずがないのだ。
だが健太郎はそれを望んでいる。それを願うくらいに追い詰められているのだ。グレンは自分を超える存在ではなく、自分の為に働いてくれる人間。そう思いたいのだ。
「どうすればいい? どうすればグレンの気持ちを……分かんないよ。フローラ、僕はどうすれば良いのかな?」
良い策が思い付かず、とにかく何かに縋れないかと天を仰ぎ見る健太郎。だがそんなことをしても無駄だ。健太郎が頼ろうとしたフローラは、天にいないのだから。仮にいたとしても答えを返してくれるはずがない。
◇◇◇
素早い行動は健太郎の数少ない長所の一つ。ただし、多くの場合で考えなしに行動だけが先行する為に、良い結果が得られるどころか、ろくでもない結果になる。今回も考えなしに健太郎は行動を起こした。
ただ幸いであったのは、それが他人を巻き込むものでなかったこと。そうなる方法が思いつけなかっただけだが。
「これは何という花なのかな?」
健太郎の手にあるのは、すっかり花びらが飛び散って茎だけになった花束。仮に花が残っていたとしても、健太郎にはそれが何かは分からなかっただろうが。
「今度、花屋に行って聞いてみよう。置かれているってことは、きっとフローラの好きな花に違いない」
健太郎が訪れているのはフローラのお墓。早朝の思考から、何故か健太郎はこれに辿り着いた。グレンのご機嫌取りということなのだが、この健太郎の行動を彼が知るはずがない。万が一、知ったとしても喜ぶとは限らない。
結局、健太郎の自己満足で終わることになる。
「……割と綺麗だな。誰か手入れしてくれているのかな?」
ここを訪れた目的は、フローラの墓の掃除。グレン以外に身寄りのないフローラの墓なので、きっと荒れているだろうと考えたのだ。
「グレン……なわけないか。誰だろう? そういう仕事の人がいるのかな?」
なんて独り言を呟き続けながら、健太郎は痛んだ花を地面に置き、その残骸を払い、片付けを行っていく。
持ってきた桶に入っている水を墓石にかけ、布で磨いていく。
「……そういえばこの国って宗教ないな。お墓参りの時って、何を言えば良いのだろう?」
掃除が終わったところで、お祈りを。そう思ったのだが、この世界では何を口にすれば良いか、健太郎は分からない。この世界の宗教を知らないのだ。
「南無阿弥陀仏はないよな……アーメンかな?」
なんてことを考えているが、ではお経を唱えられるのかとなると出来るはずがない。当然、聖句も知らない。
「……ああ、聞けば良いのか」
この場所に健太郎は一人で来ているわけではない。本人は一人で行動したいのだが、護衛が付いてきてしまうのだ。ただこの場合、それは好都合。この世界での祈りの言葉を尋ねようとしたのだが。
「大将軍。お下がりください」
「はっ?」
「この場を離れましょう。さあ、急いで」
護衛騎士は慌てた様子で、この場を離れるように告げてきた。健太郎には何がなんだか分からない。
「まだお祈りが終わっていない。こういう時って、なんて言えば良いのかな?」
「それはあとで」
「あとでって、僕は今聞きたいのだけど」
「いや、ですから」
「あとからじゃあ、意味がないだろ?」
事情が分かっていない健太郎は、素直に護衛騎士の言うことを聞こうとしない。お祈りの言葉をしつこく尋ねている間に、手遅れになってしまう。
「どうして貴方がここにいるの?」
「えっ?」
問いかけてきた声は女性のもの。フローレンスを同行させていない今、その声は同行者のものではない。では誰なのかと、健太郎が声のした方向に視線を向けてみれば。
「……メアリー様」
キツい目で自分を睨んでいるメアリー王女が立っていた。
「貴方はここで何をしているの?」
健太郎の目的を問い質すメアリー王女。その表情には明らかに怒りが浮かんでいる。
「……フローラの墓を綺麗にしようと」
「貴方にそんなことをされても、彼女は喜ばないわ。今すぐここを去りなさい。そして二度と来ないで」
フローラの死に健太郎は責任がある。そう思っているメアリー王女にとっては、健太郎はこの場にいることすら許せない。
「……メアリー様も僕がフローラを殺したと思っているのですか?」
自分に向けられた態度の原因など、健太郎にだってすぐに分かる。グレンにも、裏町の人にも言われていることだ。
「ええ、そう思っているわ」
「どうして? 僕は殺していない」
健太郎にはフローラを殺したという自覚がない、どうしてそんな風に言われるのか分からない。
「直接手を下さなくても、死の原因を作ったのは貴方。それは事実だわ」
「……僕は、フローラに変なことはしていない」
どこからを変なことと言うか、その基準は人ぞれぞれだ。
「それの真偽は分からないわ。でも、貴方が責められるべきことは、それだけではない」
「他に何が?」
「分かっていないの? それとも惚けているの?」
「分かっていない。僕は何をした?」
「……貴方、どうしてグレンが死んだなんて彼女に嘘を教えたの?」
「嘘……い、いや、でもその時は生きているなんて分かっていなくて」
健太郎に嘘をついたつもりはない。その時はそれが真実だと思っていたのだ。これが健太郎の間違い。
「亡くなったとも分かっていなかったはず」
「えっ?」
「彼女が自殺した一番の原因は、グレンの戦死を悲観してだと思うわ。でも、彼女にそう思わせた責任も貴方にある」
「……で、でも……皆そう思っていた」
状況はグレンの死を示していた。これは健太郎の責任ではない。メアリー王女もグレンの死を聞かされたわけではなく、戦場の状況から戦死だと判断したのだ。
「でも、それを彼女に告げる必要はなかったわ。彼女には生死を判断出来る情報なんて届かないはずよ」
メアリー王女が知ることが出来た情報を、フローラは入手出来ない。一般庶民に戦地での情報など、まして負け戦の情報など、わざわざ伝えるはずがないのだ。
「……僕はフローラを保護しようと思って」
「何から? 彼女には保護者がいたわ。まさか、それを知らなかったとは言わせないわよ」
グレンがトルーマン前元帥に指示された仕事で騎士団官舎に籠もっていた時、健太郎がその執務室に何度か通っていたことをメアリー王女は知っている。その場にフローラとローズがいたことも。
「それは……えっ、どうしてだ?」
「ここにきてまだ惚けるつもり?」
「い、いや、違う、そうじゃなくて……どうして、そんなことになったのだろうと思って。僕はどんな指示を出したのかな?」
「それが惚けているというのよ!」
往生際の悪い健太郎に切れてしまったメアリー王女。
「違う! そうじゃない! 僕は本当に、どうしてフローラをお城に連れてこようなんて思ったのか分からなくて」
「……本気で言っているのかしら?」
必死に訴える健太郎。ここまでだとメアリー王女も、少し考える気持ちになった。
「こんなところで嘘はつかない! でも……どうしてフローラを迎えに行かなかったのだろう?」
「……別の用事があったのではなくて?」
「フローラに会うよりも大事な用が?」
「普通はあるわよね?」
「……そうですね」
健太郎の立場であれば、本気で仕事を行えば、かなり忙しいはず。まして戦争が一区切り、それも敗北という結果で終わったばかりの時。私的な用事を優先している場合ではない。普通の人は。
「良く分からないけど、貴方には指揮官としての責任があるわ。それはどのような経緯で、そうなったにしても変わらない」
「……はい」
「お墓参りをしたいの。そこをどいてもらえるかしら?」
健太郎といくら話しても無駄。これまで何度もそう感じる時があった。今回もそれだと思って、メアリー王女は話を打ち切った。
メアリー王女に場所を譲って、そのまま出口に向かう健太郎。「そこをどけ」が、この場を去れという意味であることくらい、健太郎にも分かる。
「あっ……花の種類聞けば良かった」
墓地の出口まで来たところで、健太郎はこれに気が付いた。それでも今更、戻れない。またメアリー王女に親の敵でも見るような目で睨まれるだけだと分かっている。
「今度、来た時に調べよう」
健太郎の長所には粘り強いという点もある。多くの場合、人からは無神経と受け取られることが多いが。
◇◇◇
健太郎とメアリー王女がお参りをしている墓地にはフローラの遺体など眠っていない。フローラは生きて、ウェヌス王国南西部にあるエドワード大公領にいるのだ。
四季の移ろいを感じながら、静かで落ち着いた暮らしを過ごしていた。のだが、ここ最近は少し様子が違う。来客が多いのだ。しかも。
「ローラ、悪いけど、お茶のお代わりを頼めるかな? 少し後で良いから」
「……分かった」
来客との会話を楽しむ時間もなく、すぐにその場を離れるように言われてしまう。このところ、ずっとそうだ。
「ごめん。あとでゆっくりと皆で話そう」
フローラの不満を感じ取って、エドワード大公は謝罪を口にする。
「そうね。楽しみね」
それに笑みを返して、フローラは部屋を出て行った。
「……さて、分かったことを教えてもらえるかな?」
扉が閉まってから、少し間を空けたところで、エドワード大公は口を開いた。
「グレンの地位はゼクソン王国国王代理。代理といっても国王はまだ赤ん坊ですので、実権はすべてグレンのものです」
訪れた部下が語り始めたのは、ゼクソン王国の状況。グレンの動向でもある。
「……前ゼクソン国王はそれを認めているのかな?」
「不満を持っているという噂はありません。息子が国王であり、一人前になれば国王代理の地位は返上するということで、それに納得しているのでしょう」
「そう……臣下はどうなのかな?」
「申し訳ございません。そのあたりは情報が乏しくて。反乱を起こした臣下の処分についても聞こえてきません」
この件については、グレンは外に漏れないように情報統制を徹底していた。追放処分となった将軍たちの情報から、ルート王国の存在が知られるのを恐れているのだ。
「混乱はないかな。内輪で揉めている余裕はないはずだからね」
「はい。その様子が見られれば、我が国はまた攻め込むでしょう」
「……それでまた負けると、かなり厳しいね」
「負けますか?」
内乱の中で攻め込むのだ。まず負けることはないと部下は考えていた。
「内輪揉めが策略であれば負けるね」
「策略ですか……」
「どちらにしても賭けに出る必要はない。ゼクソン王国との戦いは終わりにしなければならない。兄上が止められれば良いけど」
ゼクソン王国とはこれ以上、戦うべきではない。グレン相手に戦っても国力を消耗するだけだとエドワード大公は考えている。
「はい。再出兵は王太子殿下がなんとか押しとどめたようです」
「えっ?」
「エドワード大公がお知恵を貸したのではないのですか?」
「……そうか。兄上はうまくやってくれたようだね」
出来の悪い兄。そのジョシュア王太子が、再出兵を止められたことは、エドワード大公には意外だった。
「今回はです。次も上手く行くとは限りません」
「そうだね」
「エドワード様は王都に戻られるべきです。そうしないとランカスター侯爵家の専横は止められません」
「……そうしたいが、私には国政に関わる権限がない」
大公という地位には何の実権もない。権力を与えない為の地位なのだから、当然だ。
「それは王太子殿下に用意していただいて」
「……それは追々。今はまだ表に出るべきではないと思う」
「どうしてですか?」
「王家の力は弱い。敵を討つには不意をつかないと。その為に私は影に隠れていたほうが良いと思う」
「そうですか……」
エドワード大公の話は理解出来る。だが部下は彼が影のままでいることには不満だった。表舞台に出て活躍して欲しいのだ。
「その為にはまだまだ情報を集めないと。あの件は何か分かったかな?」
「……絶対とは言えません。しかし、恐らくは間違いはないかと」
「曖昧だね? 何が分かったのかな?」
「エイトフォリウムの皇帝に娘がいたのは確かなようです。ただその娘は恐らくは別人です」
エドワード大公が求めている情報の一つは、フローラのこと。フローラが本当にエイトフォリウム帝国の皇帝の血筋かを調べさせていた。
「別人……それは間違いなく?」
「はい。名前が明らかになりました。娘の名前は、ソフィア・ローズ・セントフォーリアというそうです」
「ソフィア・ローズ……ローズか」
「はい。グレンと共にいた女性の名がローズです」
「繋がったね」
フローラとエイトフォリウム帝国が繋がった。エドワード大公はそう考えた。少し勘違いが入っている。ローズはフローラがエイトフォリウム帝国皇帝の娘、腹違いの妹だなんて知らなかった。知らないで一緒に暮らしていたのだ。
「これがあって、ストーケンドに人を送りました」
「ローズがエイトフォリウム帝国皇帝の娘であれば、グレンはそこにいる可能性が高いからね」
一つ情報が繋がれば、その先も見えてくる。ローズとグレンの繋がりから、エドワード大公の部下たちはエイトフォリウム帝国の都であったストーケンドに注目した。
「はい。ですが、探れませんでした」
「……どうして?」
「戻ってきません。恐らくは殺されたのではないかと」
「つまり、それだけの警戒をする理由が、今のストーケンドにはあるということだ。ただ……どうすれば良いかな?」
警戒はストーケンドに何かある証。グレンがいるのは確定したようなものだとエドワード大公は考えたのだが、今のままでは連絡の取りようがない。
「今はゼクソン王国の国王代理なわけですから」
「拠点をゼクソンに移している。その可能性はあるけど……出来ればストーケンドにいて欲しいね」
「どうしてですか?」
「目立たない。ゼクソン王国に人を送ろうとすれば、気づかれないのは難しい」
ゼクソン王国との国境にはエステスト城塞が、その後方にはエスブロック城塞がある。ゼクソン王国はもちろん、ウェヌス王国にも知られる可能性は高い。それはエドワード大公の望むところではなかった。
「とにかく、何とか方法を見つけて接触するしかありません」
「そうだね……考えてみよう」
「それと……どうされるのですか?」
「彼女のことかい?」
「はい」
フローラはグレンの妹というだけでなく、エイトフォリウム帝国の皇家の血筋。それだけで彼女の重要性を部下は感じている。
「……尚更、何も出来なくなったね。僕は彼女には落ち着いた暮らしをさせてあげたい。余計なことに巻き込まれて、辛い思いをさせたくない」
「……確かにそうですね」
フローラに暗い政争の世界など似合わない。彼女と何度も接している部下はそう思う。彼女には明るく穏やかな暮らしが似合うと思う。それを考えると、フローラの本当の素性は邪魔でしかない。こう考えるこの部下は、エドワード大公の謀臣にはなれないだろう。