この会議に参加するにあたって、ジョシュア王太子は一つの覚悟を決めていた。ウェヌス王国の王太子として自分が為すべきことをしようと。何の力のない自分であっても正しいと思うことを貫く勇気を持とうと。
その覚悟を胸に秘めて会議の成り行きを、時に会話に参加しながら、見守っていたジョシュア王太子。ゼクソン王国との戦いに会議の結論が向かおうとした、その時に抱いていた疑念は確信に変わった。密かに自分に接触して、自分の知らなかった情報を与えてくれた者どもに真実はあるのだと判断した。
「待て!」
ジョシュア王太子は気持ちを奮い立たせて、一気に会議をまとめようとするランカスター宰相に待ったをかけた。
「……王太子殿下には何か異論が御座いますか?」
怪訝そうな顔で問い掛けてくるランカスター宰相。ジョシュア王太子の意図をはかれない様子だ。
「あるに決まっておる。今の状況で何故、ゼクソンに攻め込むという結論が出るのだ? 大将軍は勝ち目について何ら納得の行く根拠を話していないではないか」
「僕は勝つよ。約束する」
「大将軍は我が国の状況が分かっていない。次は決して負けは許されない。これで負けた場合、我が国は大国としての威信を失い、他国からの侵略を受ける羽目に陥るだろう」
「……それはちょっと大げさじゃないかな?」
健太郎自身も自分の言葉に根拠がないのは分かっている。ジョシュア王太子の話を脅されているように感じていた。
だが、そう感じることがジョシュア王太子の言う通り、状況を分かっていない証なのだ。
「大げさではない。小国に連敗などとなれば、我が国の力を侮る国が出てくるであろう。そして西方には覇権を争うウェストミンシア王国がいるのだ。ウェストミンシア王国が弱体化した我が国を大人しく見ているとは思えないな」
「……その国は強いのかい?」
ウェヌス王国と大陸の覇権を争うウェストミンシア王国。その国がどういう国であるか健太郎は分かっていない。聞いたことがないはずはないのだが、大陸の覇権を争う国があるというナビゲーションを見たくらいの気持ちで流していたのだ。
「国力では我が国に並ぶ唯一の国だ。兵力では五分。ただ問題は、我が国の位置だな」
「位置?」
「大陸の中心に位置する我が国は南を除いて、他国に囲まれている。三方から攻め込まれるようなことになれば、さすがに防ぎ切れない」
「…………」
大陸で最強だと思っていたウェヌス王国の意外な弱点。それを知らされて、健太郎は考え込んでしまう。
実際には南にも、大陸最小国ではあっても、密かに勢力を伸ばしている仮想敵国はあるのだが、それは今の時点では分かっていない。分かったところで何も変わらない。
「その隙を見せない間に攻め込むのです」
黙ってしまった健太郎に替わって、ランカスター宰相が口を開いてきた。
「隙も何もウェストミンシア王国は、我が国の現状を知っているはずだ。ゼクソン王国に攻め込むことこそ、隙を見せることになるのではないか?」
「……王太子殿下は講和を望まれるわけですか?」
ジョシュア王太子がゼクソン王国との戦いを望んでいないと分かって、ランカスター宰相はこの問いを発した。だが、これも事実を歪めている。
「講和も何も、すでにゼクソンと我が国は講和を結んでいる」
ジョシュア王太子は誤魔化されることなく、事実を口にした。先の戦いで結ばれた講和は破棄されたわけではないのだ。
「……ではゼクソン王国に謝罪するというのですか?」
講和の継続が前提となれば、ウェヌス王国は講和を破ってゼクソン王国に攻め込んだのだと認めることになる。この点をランカスター宰相は取り上げてきた。
「非があれば謝罪するのは当然ではないか」
「王太子殿下。大国ウェヌスが小国であるゼクソン王国に詫びるなどあってはならないことです」
大国としての矜持を持ち出してきてジョシュア王太子を説得しようとするランカスター宰相。幼い頃からジョシュア王太子を知っているランカスター宰相は、刺激するツボを心得ている。
「その小国に何度も負けているのだ。今更、何を言う?」
だが、それさえも今回は通用しない。今のジョシュア王太子はランカスター宰相の言葉を全て疑っている。ずっと自分を支えてきてくれたはずのランカスター宰相をここまで疑うのは悲しいことではあるが、そうせざるを得ない状況なのだ。
「……どんな戦いでも負けることはあります。しかし、小国に謝罪することは、大国としての威信に傷がつきます」
「先ほどから謝罪というがゼクソン王国はそのようなことを求めておるのか? 宰相はゼクソン王国との交渉について、何も話をしておらん。まずはそれを説明して、その上でどちらが良いかを判断するのが筋であろう」
ランカスター宰相は多くのことを自分に隠しているとジョシュア王太子は知った。その一つがこの件だ。
「……そうですね。では説明致しましょう。ゼクソン王国は今回の我が国の領土への侵入について賠償金を求めております。その上、エステスト城砦周辺を正式にゼクソンの領土と認めるようにと。結果はどうあれ、我らは善意で兵を出したのです。とても受け入れられる内容ではございません。この様な条件ですので話すことも致しませんでした」
ジョシュア王太子に求められて、ランカスター宰相はゼクソン王国側との交渉内容を説明した。ランカスター宰相の言う通り、ウェヌス王国が受け入れるには一方的な内容だ。
だが、この説明でジョシュア王太子はまた一つ、ランカスター宰相の嘘を知ってしまった。
「それは誰と交渉しておるのだ?」
「ゼクソンの外交担当官ですが」
「我が聞いている条件と少し違っているようだな」
「それは……何か誤った情報が王太子殿下のお耳に入ったようで」
ランカスター宰相の眉が顰められる。何かがおかしい。ようやくランカスター宰相もそれに気付き始めた。
「誤った情報が入ったのは宰相の方ではないか?」
「そのようなことはございません。私は実際にゼクソン王国の担当者と会って話をしております」
「会って? ゼクソン王国側は交渉の場はエステスト城砦でと言ってきておるが、宰相はいつの間にエステスト城砦に行ってきたのだ?」
「……どういうことでしょう?」
ジョシュア王太子の説明にランカスター宰相の目が細められる。間違いなく自分の知らない動きがある。それへの警戒が表情に浮かんでいた。
「もしかして話をしたのは罷免された文官ではないか? そのような通知も来ていたようだ。その者は反乱に加担した疑いがあるので、罷免されたようだな。つまり、何の権限もないどころか、ゼクソン王国にとっては罪人だ」
「……そうでしたか。それは私が迂闊でございました。では、新しい担当者と話を致します」
内心の動揺を押し隠して、ランカスター宰相は何食わぬ顔で話している。
「話すと言っても内容はもう聞いておる。話すとすれば結論を話すことになるな」
「ではその内容をお聞かせください」
「ゼクソン国内にいる捕虜の引き取りだな。条件は前回通り、返還金を用意すること。数は四千程らしいが、軍に戻ることを良しとしない者がいる様で、戻すか戻さないかは、捕虜の希望を優先する」
「……兵を返さない口実ではないですか?」
戻りたがらない兵士がいるとはランカスター宰相には思えない。
「しかし、戻す捕虜を減らせばゼクソンに入る返還金は少なくなる。あえて、その様な真似をするかな?」
「……他には?」
ジョシュア王太子の説明はランカスター宰相も納得してしまうもの。捕虜の返還についての話を止めて、次の条件をランカスター宰相は尋ねた。
「ゼクソンに残ることを希望した兵の家族のゼクソンへの移住許可。許可だけで良いそうだ。住む場所などはゼクソン側が用意すると」
「それは怪しい。ゼクソンにそのような余裕があるとは思えません」
「返還金をそれに当てると言っていた」
「……そうですか。まあ、確かにそれであれば」
ランカスター宰相の疑念について、またもジョシュア王太子の口から納得の説明が出てきた。これが逆にランカスター宰相にゼクソン王国の意図を分からなくさせた。
「エステスト城砦だが、城砦はゼクソンの保有であることを正式に認めるようにと」
「やはり、そう来ましたか。その様な条件は認められません」
ようやくランカスター宰相も納得する条件が出てきた。この場合の納得は、ウェヌス王国が受け入れ難い条件という意味でだ。
「しかし、これはゼクソン王国の将軍を我が国に引き抜こうとしたことの代償だそうだ。そのような策を弄したのか?」
「……私は知りません」
ランカスター宰相の知らないところで、そんな策略が為されるはずがない。
「そうか。ではケンだな。ケンの所から軍使を出したそうではないか」
だがジョシュア王太子はそれを追及することなく、健太郎が行ったと決めつけてきた。今ここでランカスター宰相を追求したところで、どうにもならないと分かっているのだ。
「えっ、でも、それって話がついていて」
「なるほど。ケンが段取ったことではなくても、策を弄したのは事実であるのだな?」
「……そうだね」
あっさりと策の存在を認めてしまう健太郎。策謀の類など得手とはほど遠いジョシュア王太子よりも劣る単純さだ。
「では要求されても仕方がないのではないか?」
健太郎が白状したところで、ジョシュア王太子はランカスター宰相に問いを向けた。
「しかし、領土割譲などは」
問われたランカスター宰相は納得していない様子だ。その態度を見て、ジョシュア王太子はさらに条件についての説明をしようと口を開いた。
「エステスト城砦だけだ。その周辺にウェヌスとゼクソンの交易所を置きたいという申し出があった」
「交易所?」
怪訝な顔のランカスター宰相。やはりゼクソン王国の意図がつかめない。
「両国の間での正式な交易はない。講和を結んだのだ。そういうことを始めてもおかしくはないはずだな」
「それはそうですが」
「但し、条件がある」
「やはり……どんな難題を?」
今度こそ悪条件がジョシュア王太子の口から出ると考えたランカスター宰相。
「両国の間で五年間の不可侵条約を結ぶことが条件だそうだ。講和から一歩進んだな」
「馬鹿な……」
まさかの内容に動揺を隠せないでいる。
「何が馬鹿なのだ?」
「グレン・ルートはウェヌスを恨んでいるはず。なぜ、そのような友好を深めるようなことを考えるのです?」
ゼクソン王国が提示してきた条件は、真にウェヌス王国との友好を求めているのではと思わせる内容。それをグレンが望んでいるはずがないとランカスター宰相は考えている。
「おかしいか? 一国の王として、個人の感情を捨てて、国の利を優先させるのは当たり前だと思うが」
「何か魂胆があるはずです。その様なうまい話を受け入れてはなりません」
ゼクソン王国との友好関係。それも五年間の不可侵条約など冗談ではない。それではゼクソン王国に伸ばせる手がかなり制限されることになる。
「そうか」
「そうです」
「宰相が聞いても我が国に良い話なのだな?」
「…………」
ランカスター宰相は自分の失敗を悟った。ジョシュア王太子にまんまとやられたことに呆然としている。
「では我としては、この選択をしたい。これで良いかな?」
「お待ちください! そのような簡単に決めて」
一気に結論を出そうとするジョシュア王太子に、ランカスター宰相は最後の抵抗を見せる。
「出兵を簡単に決めるよりはマシだ。条件はこれから更に詰めていく。そこで齟齬があれば交渉を止めれば良い。伸ばされた手をこちらから振り払う必要はないのではないか?」
「しかし……」
「ああ、こうも言っていた。この条件で交渉がうまく行かない場合は、ゼクソンとしては我が国の悪意を感じざるを得ないと。その場合、ゼクソンはより信義に厚い国を頼ることになるだろうと。大国の悪意に晒され続けるよりは、それを守ってくれる国の庇護下に入った方が民は幸せだろうと」
「……つまり、ウェストミンシア王国への従属も辞さないと?」
ウェヌス王国から守れる力があるのはウェストミンシア王国しか存在しない。
「やはり、そういうことか。なるほど、そうされては困るな。我が国は東西から挟み撃ちだ。それに敗れれば覇権は一気にウェストミンシア王国に握られることになる」
「…………」
ランカスター宰相は全力で頭を回転させている。ウェストミンシア王国のゼクソン王国が従属したとして、その状況がウェヌス王国、ではなくランカスター家にとってどうであるのかを考えている。
「交渉を進める。それで良いかな?」
「……はい。では、直ぐに発ちます。エステスト城砦で宜しいのですね?」
結論を得る時間はなかった。そうであれば、まずは交渉の主導権を取り戻すべきと考えたランカスター宰相だったが。
「いや、宰相が出向くまでもない。別の者を行かせることにする」
ここでもジョシュア王太子に先手を打たれていた。
「……誰を?」
「それは……グレン国王代行と対等に話が出来るだろう者としか言えんな。出来れば、より友好的な条約にしたいと思っているのだが、失敗しては使者を選んだ我が恥ずかしいからな」
「……分かりました」
グレンと対等に話が出来るとなれば、トルーマン前元帥しかいない。そして、トルーマン前元帥が出たとなれば、ランカスター宰相に付け入る隙はない。
国政の場でジョシュア王太子が初めてランカスター宰相の意向を退けて、我を通した瞬間だった。このことに内心では喝采を叫んでいる臣下もいる。
だが、これがウェヌス王国にとって吉となるか凶となるか。それはまだ、誰にも分かっていない。
◇◇◇
城で会議が行われている頃。裏町の古ぼけた建物の一室で二人の男女が向かい合っていた。
「君が……」
呆然としているのは騎士とは思えない粗末な恰好をしたジャスティン。その視線の先にいるのはフローレンス、フローレンスと名乗っているアンナだ。
「何? あんたもあたいにフローラを重ねるくち?」
見惚れている様子のジャスティンだが、そうされているアンナは不機嫌そうだ。フローラに似ていると思われることは、アンナにとって屈辱なのだ。
アンナはフローラに遠く及ばない自分を知っている。それだけでなく自分自身を見られていないことが悔しくもある。
「あっ、嫌。そんなことはない。君はフローラとは違う。違うけど……」
慌ててアンナの言葉を否定するジャスティン、だが最後まで言葉にすることは出来ずに口籠もってしまう。
「……いいから用件を話してよ。ゆっくりしている暇はないんだ」
アンナは城を抜け出してこの場所に来ている。買い物をするという口実で出てくれば、いつものことなので文句を言われることはないが、それでも長く外出するわけにはいかない。
それで行動を疑われては、この先困ってしまうからだ。
「そうだな。じゃあ状況を説明する。何とかジョシュア王太子に真実を伝えることには成功した。まだ半信半疑のようだったが、今日の会議でそれを見極めるとは言ってもらえた」
「……それで?」
ジャスティンの話はアンナには難しい。アンナは細かいところまで分かっているわけではない。真実と言われても、それが何か分からないのだ。
「……そうか。すまない。余計な情報を君の耳に入れるなと団長に言われていたのを忘れていた」
「どうせ、あたいは難しいことは分からないよ」
「そうじゃない。知らなければ、いざという時に惚けることが出来る。何も知らない相手だと分かれば、万一の時が来ても見逃されるかもしれない」
「……あたいの為か」
「そう。君には勇者の情報を教えてもらうけど、それ以上のことをしてもらうつもりはない。接触するのも俺だけだ」
ジャスティンがアンナと会っているのは、勇者から聞き出したい内容を伝える為。この先は聞き出せた情報をジャスティンが知る為に、アンナと定期的に会うことになる。
「それで何を聞けば良いの?」
「一番は勇者の近くにいる者が何を企んでいるか。特にランカスター家に近い者の情報は欲しい」
「周りの奴ら……それは難しいよ。あたいは会議の席にはいられない」
アンナの立場は健太郎専属の侍女。会議の場にはいられない。
「ああ、それは仕方がない。あくまでも勇者の口から話されることで関連しそうなことを教えてくれればいい。下手に探るような真似をすれば、君が危険だ」
「そう……」
「軍事の話は全般的に。特にいつどこに軍を動かすかは重要だ」
「勇者の軍だけで良いの? それであれば簡単だ」
戦場にアンナを同行させようとまでする健太郎だ。どこに行くかはすぐに耳に入る。
「ああ、それで問題ない。他の軍はこちらでも情報入手出来る」
ジャスティンはその他の軍にいるのだ。必要なのはウェヌス王国軍とは関係なく勝手に動く勇者軍の情報だけだ。
「……ねえ、そんなんで、あたいはレン兄の役に立つのかな?」
ジャスティンが頼む内容はアンナにとって簡単なもの。それがグレンの役に立つ情報なのか不安に思ってきた。
「役に立つと思う。勇者の行動は読めない。その読めない行動は本人だけの考えではなく、誰かに唆されている部分が大きいと俺たちは考えている」
「それが、さっき言ったランカスター?」
「それが一番怪しいってことだ。だが絶対とは言えない。背後に誰がいるかを読み違えれば、勇者の行動も読み損なうことになる。だから見極めが必要なんだ」
「……何となく分かった。でも一つだけ言えるのは、勇者って人の意見に流されやすいから、誰か一人の言うことだけを聞くかな?」
一緒にいる人や本人の気分によって、言っていることがコロコロ変わる様子をアンナは何度も見ている。
「それは俺たちもよく分かっている。だから面倒なんだ。背後といったけど、それを一人に絞るつもりはない。とにかく勇者を動かそうとする人物が誰かを知りたいんだ」
健太郎を操ろうとするのは何らかの企みがあるからだ。ジャスティンはその企みを持つ人物を片っ端から洗おうとしている。とにかく情報を集めてしまえば、グレンが何とかすると考えているのだ。
「……分かった。とにかく気になった情報はあんたに伝えるよ」
「ああ、頼む。次は?」
「……また来週の同じ時間に。この時間は重要な会議があるみたいだから、あたいは自由時間なんだ」
「そうか……」
それ以外の時間にアンナの自由はない。ジャスティンはそう受け取って表情を暗くする。
「同情はいらない。これはあたいが自分で決めたことだから」
「……そうだな。悪かった。じゃあ、また来週」
「ああ。また来週」
グレンの側に残れなかった者たち。そんな彼らも動き出していた。