敗戦の第一報が入った時点では、動揺はしても戦争である以上はそういうこともあると冷静に受け止めていた軍上層部も、続報が入るにつれて大混乱に陥っていった。
王都とエステスト城塞の間を多くの軍使が行き来し、情報のやり取りが行われた結果、決められたのは進攻作戦の一時停止と国境防衛の強化だった。
それしか決められなかったのだ。戦場の情報があまりに少なく、ゼクソン内で何が起こったのかが全く伝わってこない。分かっているのは、万を超える騎士や兵の行方が知れないという事実だけだ。
仕方なく、唯一戦いの様子を知っている勇者親衛隊を呼び戻し、状況を確認することにした。軍の大会議室には今、その確認を行った騎士が報告に立っている。
「つまり、勇者親衛隊は砦に仕掛けられた罠を看破し、ゼクソンの裏切りを知って速やかに後軍にその情報を伝えるべく前線を離れたと?」
苦々しい表情を見せながら、トルーマン元帥は報告内容をなぞるようにして確認している。
「はい。そう報告を受けました」
「後軍と合流後は、アシュラム・ゼクソン連合の二万に挟み撃ちにされる事態を避ける為にゼクソン領内から退却。国境の守りを固めに入ったと?」
「はい」
「それで実際に攻められたのか?」
「いえ」
「アシュラムもゼクソンも国境に攻め寄せてきてはいないのだな?」
「はい」
念の為の確認だ。敵軍が国境を越えてきたなどという重要情報がトルーマン元帥の耳に入っていないはずがない。
「……ゼクソン側からは何か言ってきておるのか?」
「それが言ってきております」
「何と?」
「突然、軍を引いた理由を説明してもらいたい。同行した兵団はどうなったのだと問い質す使者がエステスト城塞に現れたそうです」
「……どう思う?」
騎士の報告を聞いたトルーマン元帥は、ゴードン大将軍に問いを向けた。自分だけの考えで判断すべきことではないと考えたからだ。
「偽装ですな」
「であろうな。しかし、何故それを行う?」
「ゼクソンが確かに裏切ったという証拠は? そういった報告はあるのか?」
トルーマン元帥の問いに答える代わりに、ゴードン大将軍は騎士に問い掛けた。
「それが……」
「ないのだな?」
「はい」
「こういうことです。裏切りの証拠を掴まれていない自信がゼクソンにはある」
騎士に確認を終えたところで、ゴードン大将軍はトルーマン元帥の問いに答えた。
「それを掴まないまま行動に移ったのか……少し甘いな」
これを口にするトルーマン元帥の顔には苦笑いが浮かんでいる。
「さすがに外交までには頭は回らなかったのでしょうな」
「……回りそうだが。話を聞いてみるか。小僧を呼べ」
「あの……」
トルーマン元帥の命を受けた騎士は戸惑った様子を見せている。トルーマン元帥は、ゴードン大将軍も認識を誤っているのだ。
「客将のグレンを呼べと言っている。直接説明を聞きたい」
「……戻られていません」
「国境にいるのか?」
「いえ。ゼクソン領から戻られておりません」
「何だと……?」
騎士の話でようやくトルーマン元帥は自分の間違いに気が付いた。
「グレン殿はハーリー千人将の傍にいたそうだです。その為に離脱が遅れたのではないかと報告を受けております」
「…………」
まさかの報告を耳にしてトルーマン元帥は大きく目を見開いたまま固まってしまった。
「あの?」
「離脱の指示は誰が出したのだ?」
絶句してしまったトルーマン元帥の代わりにゴードン大将軍が話を続ける。
「勇者です」
「まさか、裏切りを見破ったのは勇者だと?」
「そういう報告になっております」
「それが事実であれば意外と頭が回る。事実でなくても、違う意味で頭は回っているか」
後ろの言葉は政治的な意味を指している。どちらにしてもゴードン大将軍にとって意外であることに違いはない。
「勇者殿をお呼びしますか?」
「……いや、良い」
「はい」
「少し席を外してもらおう。この場に残るのは閣下と儂、それとスタンレー大将軍だけだ。三人で話をしたい」
「「はっ」」」
ゴードン大将軍の指示で、他の将たちが席を立って会議室を出て行った。
「閣下。目を掛けていた者を失って落ち込むのは分かりますが、そろそろ気を取り直して頂けますかな」
将が出て行ったところで、呆然としているトルーマン元帥にゴードン大将軍は声を掛けた。
「……あれは本当に死んだのか?」
「状況的にはそう考えた方がよろしいかと」
「間違いないのか?」
「閣下、失ったのは彼だけではありません」
「そうではない! 生きて、恨みを持ってゼクソンにいるということは無いのであろうな!?」
グレンを失ったことへの悲しみ。これだけがトルーマン元帥が動揺している理由ではない。
「どういうことですかな?」
「……いや、何でもない……さて何の話だ?」
「閣下の嫌いな政治の話です」
「……責任問題か」
侵攻作戦が失敗したのは間違いない。しかも侵攻軍の半分を喪失するという大敗だ。かなり大きな責任問題に発展するのは確実だ。
「責任は儂が取る。それで収めろ」
「……よろしいのですか?」
あっさりとトルーマン元帥が責任を負うと言い出したことで、却ってゴードン大将軍は何か裏があるのではないかと疑いの視線を向けている。
「保身など図るつもりは無い。そして儂の後任はお前だ」
「ほう」
さらに元帥の座をゴードン大将軍に渡すという言葉まで出てくる。軍としての敗戦は痛いが、話の通りになればゴードン大将軍にとっては怪我の功名というところだろう。
「但し、お前を後任に推す上で条件がある」
「何ですかな?」
トルーマン元帥は条件があることを示した。ゴードン大将軍にとっても当然のことで驚きはない。問題はその中身だ。
「責任問題は儂一人で収めろ。他の将に一切責任問題を波及させるな」
「それは勿論です」
「それとゼクソンの裏切りの証拠を何としてでも掴め。その上で交渉に入るのだ」
「交渉? ゼクソンを攻めるのではなく交渉ですか?」
今回は負けた。だが次も同じ結果になるとはゴードン大将軍は全く思っていない。交渉を持ち出してきたトルーマン元帥の考えが分からなかった。
「全ての騎士や兵が殺されたとは思えん。捕虜にされている者がいるはずだ。それを何としても取り返せ」
「……グレンですかな?」
「小僧が捕虜とされていれば勿論だ。だが、それだけが目的ではない。先軍と中軍にはエリック、アシュリーを始めとした次代を担う優秀な将がいる。それを何としてでも取り返さねばならん」
「……なるほど。そういう理由ですか」
次代を担う騎士たちに手柄を立てさせる為にという編成が、敗戦によって裏目に出ている。
「二千の騎士。この穴は大きすぎる。責任問題を儂一人に留めろというのも、この為だ。中堅の将官を失った我が軍は今、その力を大きく損ねている。ゼクソンやアシュラムへの報復はその穴を埋めた後だ」
「分かります。なるほど、それで内心はともかく私を後任に」
「政治だからな。お前の得意とするところであろう」
国王の懐柔、文官との調整など、事態の収拾に必要なのは政治的な能力だ。ゴードン大将軍の、使い方はともかく、能力はトルーマン元帥も買っている。
「しかし、まずはゼクソンの裏切りの証拠ですか」
「国境付近に部隊を張り付けろ。山を越えて逃げてくる者がいないとも限らん」
「確かに」
「それと」
「何ですかな?」
「交渉の内容をもう一度洗い直せ。あまりにうまく嵌りすぎている。他人のことは言えんが、ゼクソンを何故ここまで信じてしまったのか。今となっては不思議だ」
「……ふむ。取り込まれた者がいる。そうお考えですか?」
ゼクソン王国の思い通りにウェヌス王国は動いた。そうなるように働きかけた者が内部にいることをトルーマン元帥は疑っている。
「あって欲しくはないがな」
「いえ、あり得る話です」
「それと、これは余談だが。勇者はどうなる?」
「……残念ながら、閣下の望み通りにはなりませんな」
「責任を問われることはないか」
トルーマン元帥は健太郎が自分の力でゼクソン王国の裏切りを見破ったとは思っていない。
「それどころか、逆に称えられることになるでしょう。ゼクソンの裏切りを看破し、二千もの兵の命を救った。中軍から今のところ一人の帰還者もいないわけですから、勇者がいたからこそとなります」
「人の考えを盗み、しかも考えられていたであろう策を無にしたとしてもか?」
グレンであれば必ず対策を考えていたはずだとトルーマン元帥は考えている。少なくとも自分は無事に帰還出来る方法は。
それが上手くいっていないとすれば、それを邪魔した者がいたという考えになる。
「その証拠がありません。そして、勇者を称えなければ、軍はともかく国としての衝撃は更に深くなります」
「敗戦の中でのわずかな希望か。それが虚構であっても人々はそれを必要とするのか」
「攻められる恐怖を和らげる為です」
「攻められることはない。侵攻は失敗しても国の守りを担う辺境軍、地方軍は全く揺らいでいない」
逆に攻めてきて欲しいくらいだとトルーマン元帥は思っている。そうすれば地の利を得た状況で、確実に相手を打ち倒せる。
「人は分かり易い説明を求めるものです。勇者がいれば大丈夫。今回は負けたが、次は勇者が勝たせてくれる。それで安心するのです」
「そうなっても構わないのか?」
「いえ、いささか不味い状況です。この状況よりも、勇者が他人の功を奪ってまで、名声を得ようとしている事実が」
「……野心が生まれたか」
「恐らくは」
「……それとも戦うわけか。完全な政争だな。負けることはないだろうな?」
軍を守る為には健太郎に権力を持たせるわけにはいかない。そうなれば、これまでやってきたことが全て無駄になってしまう。
「戦いに絶対はありません。しかし、勝つ為にあらゆる手は尽くしましょう」
「そうだな。スタンレー大将軍、今聞いた通りだ。悪いがゴードン大将軍に譲ってくれ」
「はい。それが軍の為であるなら、否応はありません」
「話はこれで終わりだ……では、しつこいようだが、グレンのことだ」
「はい」
内心ではややうんざりしながらも、ゴードン大将軍は話を聞く姿勢を見せている。次期元帥の座につけるのだ。ここでトルーマン元帥の機嫌を損ねるわけにはいかないという思いだ。
「もし生きていたら、何としても我が国に連れ戻せ。軍に置く必要はない。我が国のどこかで、のんびり暮らせるようにしてやれ」
「それは?」
能力を軍で活かすつもりがないのに、グレンに拘る意味がゴードン大将軍には分からない。
「敵に回すなという意味だ。あれを決して他国の軍に入れさせてはならない」
「彼の能力は分かりますが、何故そこまで?」
「あれは……ジン・タカノの一人息子だ」
やや躊躇いながらもトルーマン元帥は、ゴードン大将軍が知らない真実を告げた。納得させるには、この情報が一番だと考えてのことだ。
「ジン・タカノ……それは、まさか!?」
ゴードン大将軍の反応は、トルーマン元帥の考えていた通りのものだった。
「本人は知らない。知ったとしても、あれは穏やかに暮らすことを望むだろう。死んだのであれば良い。だが生きていたとしても余計なことは考えるなよ。あれを敵に追いやるような真似は決してするな」
「……これを知る者は?」
「この三人だけだ」
「分かりました。心しておきます」
「頼む」
この日を最後にトルーマン元帥は退役することになった。だが、トルーマン元帥の願う通りには物事は進まない。生粋の軍人であるトルーマン元帥には、政争というものは理解出来る範疇ではなかったのだ。
国を傾ける危険を冒してでも、自己の利権を求める政争というものは。
◆◆◆
「はっ? 今何と申されましたか?」
敗戦に終わった侵攻作戦の総括の場。国王や王太子が臨席するその場で、報告を終えたゴードン大将軍は、ジョシュア王太子の耳を疑う発言に戸惑っていた。
「聞こえなかったのか? ゴードン大将軍も責任を取って、職を辞するべきだと言ったのだ」
「……何故ですか?」
聞き間違いではなかった。
「侵攻作戦の大半はゴードン大将軍によって策定されたと聞いている」
「それは誤解です。私自らが策定作業を行うわけではありません」
「だが、計画についての承認はしているだろ?」
「もちろんです。そうでなければ、正式なものにはなりません」
「では、やはり責任がある」
「……しかし、それを言ったら」
それを言ったら、承認権限を持つ全ての者に責任があることになる。そして当然、国王もそれに含まれる。
「別に計画に携わった者全てに責任を取れと言っているわけではない。代表して上の者が責任を取るべきだと言っているのだ」
「それについては既に閣下が責任を取られております」
「トルーマン元帥一人で済むような問題か? 我にはそうは思えない」
「軍の頂点に立つ元帥閣下が退役されたのです。事は大きいと思います」
「それで、その後はゴードン大将軍が?」
自分の後任はゴードン大将軍にというトルーマン元帥の意向は、既に公のものとなっている。
「閣下のご推挙を受けております」
「それがおかしくないか? 責任を負うべき者が昇進するなんて」
「しかし、誰かがならなくてはいけない立場です」
「そうだな。つまりゴードン大将軍でなくても良いわけだ」
「……陛下はいかがお考えですか?」
ジョシュア王太子には全く取りつく島はないと考えたゴードン大将軍が頼ったのは国王だった。だが、ゴードン大将軍の期待は見事に裏切られることになる。
「うむ。この件に関しては、ジョシュアに任せようと思っておる」
「何と!?」
「これも、ようやくに自覚というものが出てきたようでな。近頃は色々と考えておるようだ。若いうちに経験を積むのは良いことだ。今後は政務の多くをジョシュアに任せようと思っておる」
「…………」
これが、現国王が愚王と言われる所以だ。とにかく政務に興味がない。それを利用して、ゴードン大将軍も国王を思うがままに操ってきたのだが、政務を丸ごと放り出すとは、さすがに大将軍の想像をはるかに超えた無責任ぶりだった。
「そういうことなのだ。今回の件は父上より全権を任されている」
「……では王太子殿下はどのようなお考えなのですか?」
「まず、元帥職にはスタンレー大将軍に就いてもらう」
「……そうきましたか」
ここで初めてゴードン大将軍は、スタンレー大将軍の隠されていた野心を知った。いささか手遅れではあったが。
「大将軍の座が空になるので、その座にはケンについてもらう予定だ」
ジョシュア王太子は更に大将軍に健太郎を指名してくる。有り得ない抜擢だ。
「馬鹿な……」
ゴードン大将軍の口から思わず内心の思いが漏れた。
「何かおかしいか? 今回の敗戦の中で、唯一戦功をあげたのはケンだ」
「だからといって、いきなり大将軍はさすがに抜擢が過ぎるのではありませんか?」
「ケンには異世界の知識がある。それを活かすには軍の上層部に置いて、権限を与える必要があるのだ」
更に最悪なことをジョシュア王太子が話し出す。
「……異世界の知識があっても、軍事の知識はありません」
「そういう常識が物事の変化を押し止めているのだ。そうは思わないか?」
「急減な変化は物事に歪を生み出します」
ジョシュア王太子の考えをゴードン大将軍は否定し続ける。健太郎を大将軍に登用するなど、絶対に認められないことだ。
「……軍を去るゴードン大将軍には関係のない話だ。そういった凝り固まった価値観は、これからの軍、そして王国には不要なのだよ」
「…………」
ゴードン大将軍の執拗な反対にジョシュア王太子は怒りで応えた。これでもうゴードン大将軍も、少なくとも、この場では何も出来なくなった。
「ご苦労だった。ゴードン大将軍、いや、ゴードン元大将軍。下がって良い」
「…………」
何の返事もすることなく、ゴードン大将軍は、その場を引き下がっていった。最後に一度だけ、脇に並ぶスタンレー大将軍を憎々しげに睨んで。
それに勝ち誇ったように、今まで隠していた野心を露わにした厭らしい笑みで応えるスタンレー大将軍。
「さて、スタンレー元帥。他の賞罰はいかがする?」
「はっ。信賞必罰は守らなければなりません。まずは罰の方ですが、侵攻軍の総大将であるハドスン将軍にも処分が必要でしょう」
「どのような処分が妥当かな?」
「地方軍への異動。これは避けられないかと」
これでゴードン元大将軍閥の主だった者は本人も含めて全て騎士団から消え去ることになる。
「なるほど。仕方がないだろうね。将軍職が一つ空くな」
「それについては、性急に決める必要はないかと思います。ケン大将軍が言っていた文民統制。それの最初の人事にしてはいかがでしょうか?」
「ほう。早速採用するのか。軍を文官と武官に分けて、文官が上に立つと言うものだな」
「はっ」
この二人の会話に軍側が一気にざわついた。文武は王の下で同列。今の話は、この常識を覆す内容だ。
「しかし、異世界は進んでいる。そうすれば軍の暴走や反乱は起こらないからな。中々、優れた制度だ」
「私もそう思います」
そんなはずはない。文官側にも貴族という政治勢力、それも自勢力の利権ばかりを考える勢力が残っている限り、制度だけ変えても暴走や反乱は起こる。より貴族の勢力が強い文官側が統制に入れば、尚更それは起こるだろう。ジョシュア王太子はこんなことも分からないから愚か者だと評されるのだ。
そしてスタンレー大将軍改め元帥はというと、薄々感づいてはいても、それを否定することはない。それをすればせっかく手に入れた元帥の地位を手放すことになるからだ。
「では、しばらく賞罰はお預けかな?」
「そうなります。これから、ゆっくりと時間を掛けて、判断するべきだと思います」
「分かった」
◆◆◆
裏町の宿屋周辺は騒然とした雰囲気に包まれていた。多くの騎士が集まっている中で、声を張り上げているのはローズだ。
「フローラから手を離しなさい!」
「うるさいぞ! 何だ、その口の利き方は!?」
「手を離せと言っているのよ! フローラを攫ってどうしようというの!?」
騎士たちの真ん中にはフローラがいる。そのフローラを助け出そうとローズは文句を言っているのだが、騎士たちは全く聞く耳を持たない。
「人聞きの悪いことを言うな! 我らはケン様に保護するように言われてきたのだ!」
騎士たちは健太郎の指示でこの場に来ていた。勇者親衛隊の騎士たちだ。
「そんな必要はないわよ! フローラに保護なんて必要ない!」
「身寄りもない女性がこんな場所に一人で住んでいて良いわけないだろ!?」
「一人じゃないわよ! 私が一緒よ!」
「それでは不安だと言っているのだ! これはケン様の好意だぞ!」
グレンが死んだことでフローラは天涯孤独の身となった。それを案じて健太郎はフローラを引き取ろうとしているのだが。
「それが余計だと言っているのよ! 本人の意志を無視して連れて行くなんて人さらいと一緒よ!」
フローラがそれを望むはずがない。
「嫌がっていないだろうが!」
「それは、貴方たちが、グレンが死んだなんて嘘を言うからよ!」
「嘘ではない!」
「フローラ! フローラ! 気をしっかり持って!」
ローズの懸命の呼びかけにもフローラは何の反応も示さない。全く感情を失った顔で、ただ突っ立っているだけ。グレンが死んだ。これを知らされて絶叫した後は、ずっとこのような状態なのだ。
「フローラ! 目を覚まして! グレンが死んだなんて嘘よ! こいつらが騙しているのよ!」
「貴様! いい加減にしろ!」
「きゃっ!!」
ローズの言葉に苛立った騎士の一人がとうとう手を出してきた。騎士の平手打ちを顔面に受けてローズは地面に倒れ伏した。
「甘い顔を見せていれば良い気になりおって! 平民風情が調子に乗るな!」
「……フローラを返しなさい」
「この! まだ、そんな口を利くか!」
「んぐっ!」
騎士のかかとをまともに腹に受けて、ローズはうめき声をあげて地面を転がっている。
「そんな手荒な事しなくても、女なんていくらでも黙らせられるぞ」
そこに別の騎士が、下卑た笑みを浮かべて割り込んできた。
「おい、任務中だぞ」
「こんな大勢でやる任務じゃないだろ? よく見れば良い女じゃないか。傷つけるなら違う方法が良いな」
騎士は地面に倒れているローズの顔を無理やり自分の方に向けさせて、ニヤニヤと笑っている。この騎士が何をしようとしているか、この笑いだけで分かる。
「……や、止めて」
「ほら、少し可愛くなった。もっと可愛くしてやるよ」
ローズの髪を掴むと、騎士は無理やりローズを引き起こしていく。
「嫌っ! 止めてっ! 離して!」
大声を上げながら、それに懸命に抵抗するローズ。
「静かにしろっ! 優しくしてやるからよ!」
「離してっ! 誰か! 誰か助けて! グレンッ!」
「うるせえ! 静かにしろ!」
ローズの頬に騎士の平手が飛ぶ。一度だけではない。ローズの胸倉をつかんだまま何度も何度も。やがてローズは首をぐったりと後ろに倒して動かなくなった。
「やっと静かになった」
「……げ、下種、野郎」
血まみれのローズの口から呟きが漏れる。
「うるせえ!」
それに激高した騎士が更にローズの顔に、今度は拳を振るった。糸の切れた人形のようにクルクルと回って、ローズは地面に崩れ落ちていく。
「おい! やり過ぎだ! 言っておくがその女も二人の知り合いだぞ!」
「……嘘だろ?」
騎士の顔が一瞬で真っ青に変わる。虎の威を借りる狐が、その虎を怒らせては終わりだ。
「まさか知らなかったのか?」
「やばいな。殺すか」
謝罪という考えはこの騎士にはないようだ。物騒な台詞を口に出してきた。
「この衆人環視の中でか」
周囲では裏町の住人たちが怯えながらも様子を伺っている。これだけの騒ぎを起こしていれば人も集まるだろう。
「……俺は何もしなかった。それで良いよな?」
「ああ、それが無難だ。問題ない。この娘さえ手に入れてしまえばケン様はこんな場所に来ることはないだろう」
「……なるほどな。じゃあ、お楽しみはこの次にしよう」
ローズがこんな状況だというのに、フローラは一言も発することなく、虚空を見詰めたままだ。完全に正気を失っている。
そんなフローラを取り囲むようにして、勇者親衛隊の騎士たちは、城へ帰って行った。
「ぐっ……ぢ、ぢきしょう……」
血だらけも顔で地面に倒れているローズ。その口から悔しそうな呟きが漏れた。
「おい、大丈夫か?」
そのローズに宿屋の親父さんが声を掛けてきた。
「……だ、大丈夫に、み、見える?」
「手当をしよう。さあ、俺の肩に掴まれ」
ローズを引き起こそうと、手を差し伸べる親父さん。その手をローズは乱暴に払いのけた。
「……お、おまえ、の、せ、世話には……なら、ない」
「馬鹿なことを言うな。ひどい怪我だ」
「……ま、又、た、ただ……み、見ていた、だけ、ね?」
騎士たちの無法をただ黙ってみていた。それをローズは怒っている。
「騎士に逆らえばこの場所が」
「……い、言い、わ、け、ばかり……あ、貴方、たち、には、たっ、頼らない。フローラは、私が、助ける……」
血だらけの顔をそのままに、ローズが宿屋を去っていったのは、それから半刻後だった。これっきり、ローズが宿屋に姿を現すことはなかった。