ようやく魔人軍に動きがあった。膠着気味であった戦況もこれで動くはずだ。ローゼンガルテン王国軍にとって待ちに待った、なんていえる状況ではない。一日でも早い戦争の終結は強く望んでいるが、 激しさを増すことまで求めているわけではない。だが今回の動きで、戦争はローゼンガルテン王国全土に広がる可能性が出てきたのだ。
「キルシュバオム公国に魔人軍が……それで数はどれくらいだ?」
報告を聞いたラードルフ総指揮官は渋い顔を見せている。伝令が届けた情報はキルシュバオム公国に魔人軍が現れたというもの。それをこの戦場に、それもかなり急いで届けたことの意味を考えたのだ。
「自分が王都を発った時点では詳しい情報は入っておりませんでした。聞いているのは十万を軽く超える大軍であるという情報くらいです」
「十万を超える……同等以上であることは確かか」
ラードルフ総指揮官が率いている西部方面軍が対峙している魔人軍より少し規模が大きい。それを多いと見るか少ないと見るかは微妙なところだ。それに魔人軍の強弱は数だけでは判断出来ない。
「一軍六千を送るようにという命令が出ております」
「……それはこの軍からか?」
何故、戦闘状態にある西部方面軍から王国軍の半分となる兵力を抜こうとするのか。ラードルフ総指揮官には意味が分からない。
「はい」
「そんな馬鹿な。何故、わざわざこの軍から兵を抜く必要がある?」
戦いは一時に比べれば、かなり落ち着いているが、それでも決着がついたわけではない。目の前に広がる森の中には十万、よりは減ったはずだが、大軍がいるのだ。
「そう言われましても……勅命ですので」
「なんだって?」
ラードルフ総指揮官は耳を疑った。こんな馬鹿げた命令が勅命であるはずがない。あって欲しくない。
「陛下直々のご命令であります。一軍の将はエカード・マルクに任せるとのご命令も同時に発せられております」
「……馬鹿な。彼は……キルシュバオム公爵家の差し金か?」
王国騎士になってまだ二年目のエカードが一軍の将になる。そんな人事はあり得ない。だがラードルフ総指揮官はそうなる可能性を思い付いた。エカードの実家、キルシュバオム公爵家が手を回した可能性だ。
「陛下からのご命令であることしか私には分かりません」
裏でどのような工作が為されたにしても、伝令は国王の命令として受け取っている。勅命であることは間違いないのだ。
「陛下は何故このような無茶を……」
キルシュバオム公爵家が手を回したにしても、何故、国王はそれを受け入れたのか。ラードルフ総指揮官には理解出来ない。
「陛下のご命令はそれだけかしら?」
「えっ? あの、貴女は?」
割り込んできた声はまだ若い女性のもの。王都から来た伝令の騎士にはその女性が何者か分からない。
「リリエンベルク公爵家のリーゼロッテですわ。今はリリエンベルク公国軍の指揮官を務めています」
「貴女がリリエンベルク公国軍の指揮官ですか……」
リリエンベルク公国軍が八百人程度だということも伝令の騎士は知らない。年若いリーゼロッテが指揮官だと聞いて、驚いている。
「それで質問の答えは?」
「……あ、はい。編成された軍には花の騎士団(ブルーメンリッター)の称号を与えるというご命令も預かっております」
伝令の騎士の答えを聞いたリーゼロッテは後ろに立つ、これも若い、騎士らしき人物に視線を向けた。ジグルスだ。リーゼロッテの視線に頷きを返すジグルス。質問を考えたのはジグルスで、求める答えを得られたということだ。
「ありがとう」
「いえ……」
御礼を言われた騎士は戸惑ったまま。質問の意図が分からないのだ。
「軍を与えるだけでなく、騎士団の称号まで……どういうことなのだ?」
キルシュバオム公爵家のエカードに兵を与え、ブルーメンリッターという独自の騎士団を名乗ることも許す。王国騎士にとってはあり得ない厚遇だ。ラードルフ総指揮官にはますます命令が理解出来なくなった。
「分かっているのであれば総指揮官に教えてあげればどうだ?」
その厚遇を受ける立場のエカードがここで口を開いてきた。エカード本人もこの勅命の意図が分かっていないのだ。
「この場で話せと?」
ただ話を向けられたリーゼロッテはすぐに話そうとしなかった。
「勿体ぶるような内容なのか?」
「いえ、違うわ。機嫌が悪くなる人が出ると思って気を使ったの」
「……かまわないから話せ」
その機嫌が悪くなる人が誰かとなれば、ほぼ確実に自分だとエカードは思う。苦い顔を見せながらも、リーゼロッテに話すように促した。
「貴方がそう言うのであれば……英雄を作りたいのではないかしら?」
「なんだと?」
「話せと言ったのは貴方だわ」
「……別に怒っていない。驚いただけだ」
これは嘘だ。リーゼロッテの説明を聞いた直後のエカードの表情には明らかな怒気が浮かんでいた。ただその怒りはリーゼロッテに向けられたものではない。
「申し訳ありませんが私には意味が分からない。英雄を作るとはどういうことでしょうか?」
ラードルフ総指揮官はリーゼロッテの言葉の意味を理解出来ないでいた。
「言葉の通り、ローゼンガルテン王国は魔人との戦いにおいて英雄を必要としているのですわ。精神的な支柱ということでしょうか?」
「……それは……しかし英雄というものは」
作られて生まれるものではない。ラードルフ総指揮官はそう考えている。
「過去の歴史の中にも作られた英雄はいましたわ。もちろん、まったく実力が伴わないではただの嘘になってしまう。それに相応しい人が選ばれたのではないですか?」
「……確かに」
実力だけでは英雄にはなれない。その活躍を喧伝し、人々を喜ばせ、期待を持たせなくてはならない。この人がいれば戦いに勝てると。「英雄を作る」という言葉は奇異に感じるが、その中身は特別なことではないのだとラードルフ総指揮官は理解した。
「それに何故、俺が選ばれる?」
リーゼロッテの話は分かる。だが自分が選ばれた理由がエカードには分からない。
「それは私には分からないわ」
「……君には分からなくても、君の参謀は分かっているのではないか?」
そもそも「英雄を作る」という考えもジグルスから出たものだとエカードは思っている。発言する権限のないジグルスの代わりに、リーゼロッテが代弁しているだけだと。
「どうかしら? 何か分かる?」
リーゼロッテの問いにジグルスは、腰を折って彼女の耳元に顔を近づけ、小さな声でなにやら話している。そういった振る舞いはエカードには嫌味にしか感じられない。
「……それで?」
「可能性として考えられるのが一つだけあるわ。英雄として選ばれるに相応しい戦功をあげたこと」
「馬鹿にしているのか?」
この戦場でもっとも戦功をあげたとすればそれはリリエンベルク公国軍。それを率いるジグルス、は公には指揮官と称していないのでリーゼロッテだ。自分ではないとエカードは考えている。
「もっとも魔人を討ったのは貴方たちの部隊だわ。違うかしら?」
最後のリーゼロッテの問いかけはエカードに向けたものではない。
「えっ? 私ですか?」
伝令の騎士に向けられたものだ。
「戦いの様子は伝わっていないのですか? 少なくとも王国騎士団には届いていると思うのですけど?」
「ああ、はい。王国騎士団の活躍、その中でも若い騎士たちのめざましい活躍は噂になっています」
「だそうよ?」
「…………」
この戦場で大活躍している若手の騎士たちの噂は、王都の騎士団内で広がっている。リリエンベルク公国軍ではなく王国騎士団が活躍しているとなっているだけで意図的なものを感じる。すでに英雄作りは始まっているということだ。
「だからといってこの軍から六千も抜くことはないと思うが……リリエンベルク公国軍の参謀殿はどう思う? 面倒なやり取りは不要だ。自由な発言を許す」
リーゼロッテの説明を考えているのはジグルス。それはラードルフ総指揮官にも分かっている。直接意見を求めてきた。
「……たんに実戦経験を買われただけではありませんか?」
「なるほど。他に魔人軍と戦っている軍はいないな」
対魔人軍の実戦経験を持つのはこの軍しかない。英雄が率いる精鋭騎士団を求めるのであれば、この軍から部隊を抜くのは当然だ。
「今はまだ知らないだけかもしれませんけど」
「……分かりやすく話してもらうと助かる」
「キルシュバオム公国に魔人が現れたという情報はおそらく一月以上前のものだと思います」
「……そのくらいだろうな。なるほど。戦いはもう始まっているか」
魔人軍の出現を確認して、すぐに王都に飛竜を向かわせる。王都に着くまでには二週間くらいはかかる。そこからすぐに決断して、この戦場に飛竜を飛ばしても、同じように二週間かそれ以上。どれだけ急いだとしても一ヶ月以上前の情報なのだ。キルシュバオム公国における戦況は、すでに変わっていてもおかしくない。
「恐らくは他の公国でも」
「なんだと?」
「いくらなんでもこの戦場から、いきなり六千を抜くなんてあり得ません。そのあり得ないことをあえて行う理由があるとすれば、予備の部隊がなくなったから、という可能性が考えられます」
ローゼンガルテン王国の中央部には予備役招集を含めて、五万の軍がいるはずだ。その軍を動かせばキルシュバオム公国の魔人軍には対処出来るはず。あくまでも十万という数だけで考えればだが、実際の戦力を把握する前にこの戦場から六千もの兵を抜くなんて高リスクな選択を行うはずがない。少なくともジグルスであればそんな真似はしない。
「……そういう情報は?」
「…………」
ラードルフ総指揮官から問いを向けられた騎士の表情は苦しげだ。その反応で事実が分かる。
「あるのだな。口止めされた理由は……」
またラードルフ総指揮官の視線がジグルスに向く。話を聞きたいという意味ではない。口止めの理由はリリエンベルク公国軍をこの戦場にとどめておきたいからだと考えたのだ。
「ち、違います。リリエンベルク公国に魔人軍が現れたという情報は入っておりません」
ラードルフ総指揮官の考えを読み取って、それを否定する伝令の騎士。
「ではゾンネンブルーメ公国は?」
「……報告は届いておりました」
リリエンベルク公国に魔人軍が現れていないという情報を信じてもらう為に、真実を話すことになった。リリエンベルク公国にも魔人軍が現れたと思われては、確実にリリエンベルク公国軍はこの戦場を去る。そう考えた結果だ。
「そう来たか。この状況は……」
「動きを早めただけ。いくつか手順を飛ばして、一気に戦場を分散する形を作ったのでしょう」
いずれはこういう形になった。ただ魔人軍はその前にローゼンガルテン王国軍を翻弄し、戦力を消耗させる機会を作ろうとしていた、とジグルスは考えている。
「……なるほど。西へ東へと翻弄されることはなくなったか。良かった、と言えるのかな? ああ、これへの答えは無用だ」
ラードルフ総指揮官が口にしたのはただの愚痴、もしくは嫌味だ。答えなど必要としていない。
「魔人軍の戦力としては、西部は比較的劣ると考えられております。優先すべきは他の戦場というのが王国の判断です」
何故、この戦場を疎かにするような決断となったのか。その理由を伝令の騎士は説明してきた。ラードルフ総指揮官の怒りを感じてのことだ。
「それだけが……まあ良い。勅命であれば背くわけにはいかない。エカード・マルク。聞いていた通りだ。六千を率いてキルシュバオム公国へ向かえ」
「…………」
「勅命だ。まさか逆らうつもりか?」
「……いえ。分かりました」
国王の命令に背くわけにはいかない。納得は出来ていないが、それでもエカードはこの戦場を離れ、キルシュバオム公国に向かうしかない。
「……リーゼロッテ殿」
ラードルフ総指揮官にとって一番の問題はリリエンベルク公国軍がどう出るか。最悪の答えに怯えながらも確認しようとリーゼロッテに声をかけた。
「実家から帰還命令は届いていませんわ。ただ状況の確認はさせて頂きたいと思います」
「もちろんです。飛竜を自由に使ってください」
ホッとした表情のラードルフ総指揮官。とりあえずリリエンベルク公国軍がすぐにこの戦場を去ることはなくなった。もちろん、明日にも帰還命令が届くかもしれないが。
リリエンベルク公国が主戦場になる。この考えは王国騎士団の将であれば誰もが持っている。必ずリリエンベルク公国に魔人軍は攻め込むはずなのだ。
◆◆◆
戦場に伝令の騎士が到着する少し前。リリエンベルク公国の中心都市であるシュバルツリーリエでは、これまで以上に軍が慌ただしく動いている。予定通りではあるが、予想よりも早い魔人軍の侵攻。その情報が北部から飛び込んできたのだ。
準備は整っている。そうはいってもそれで絶対に魔人軍の侵攻を防げる保証などない。そもそも公国一国で対抗出来る相手ではないのだ。
「リリエンベルク公、きちんと説明をしてくだされ」
忙しくしているリリエンベルク公爵に纏わり付いているのは王国から送られてきた使者だ。各公国の状況を確認するという名目で送られた使者の一人だ。
「貴様まだいたのか!? 説明ならもう行っただろ!」
この状況で更なる説明を求めてくる使者の行動は、リリエンベルク公爵には嫌がらせにしか思えない。
「……行ったって……私は分かるように説明して頂きたいと申しているのです!」
「今の状況を見ても分からないのか? 貴様のその頭の中は空っぽか!?」
魔人軍が現れた。これ以上に何を説明すれば良いのか。詳しい情報を知りたいのはリリエンベルク公爵のほうなのだ。
「な、なんですと!? あまりに無礼な言いよう! 私は陛下の使者! 言ってみれば!」
使者は勅使ということになっている。国王の代理人である使者には、それに相応しい礼儀を見せるべき。そう訴えようとした使者だが。
「うるさい! とにかくさっさと都に帰って、援軍を送ってこい! これを伝えるくらいは、その空っぽの頭でも出来るだろ!」
「……なんと」
今は戦時中。細かな礼儀など守っている場合ではない。そうであるのにこの使者は到着するなり、勅使だからと贅沢な接待を求めてきた。
なんとか我慢して、それなりに応えてきたリリエンベルク公爵だったが、溜めてきた怒りがこの状況で爆発してしまった。
「魔人軍の数が分かりました!」
二人の会話に割って入ってきた声は伝令のもの。
「どれほどだ!?」
リリエンベルク公爵にとっては使者との会話とは比べものにならない重要な話だ。
「確認出来ただけで三万ということです!」
「三万……少なすぎる」
三万という数はあまりに少なすぎる。実際にはどこかに潜んでいるのか、それとも他に理由があるのか。報告を聞いて、考えを巡らすリリエンベルク公爵。
「……分かりました。公国の状況については正確に陛下にお伝えします」
この使者の声など聞こえていない。魔人軍の戦力について考えることに没頭している。
最後の言葉さえ無視されたと思って、憤懣やるかたないといった様子でリリエンベルク公爵の前から足早に去って行く使者。そんな姿もリリエンベルク公爵には見えていない。