多くの木々が空に向かって伸びている。その先は雲ひとつない晴天。青々とした空に太陽が浮かんでいる。だが陽の光は生い茂る葉に遮られて、ほとんど地上に届かない。届く必要もない。陽の暖かさを、青空の美しさを喜ぶ余裕など、地上で殺し合いを行っている人々にはないのだから。
「陣形を整え直せ! 敵の勢いを止める!」
フェリクスの号令が森の中に響いている。その命令に応えて、隊列を組み直す兵士たち。
その兵士たちの目の前に現れたのは味方の兵士たちだ。
「中央を空けろ!」
フェリクスが率いる部隊が隊列の中央に隙間をあける。その隙間に正面から駆けてきた兵士たちが吸い込まれていった。
「逃げ遅れた兵士はいないか!?」
「いない!」
フェリクスの問いにクリストフが答える。後退してきた部隊はクリストフが率いているのだ。
「敵が来るぞ! 備え!」
木々の隙間に移る影がその数を増している。敵が接近しているのだ。迎撃態勢に入るフェリクスの部隊。真っ先に反応したのは、後方にいる魔法士部隊だ。
幾つもの魔法が先に向かって飛んでいく。その魔法の直撃を受けた影が地に倒れていった。
「魔法士部隊、下がれ!」
初撃が終わっただけで、フェリクスは魔法士部隊に向けて後退を指示する。最前線に長く魔法士をとどめておく余裕はないのだ。
「……来るぞ……来るぞ……耐えろ!」
木々の間からもの凄い勢いで飛び出してきた影。それは勢いを弱めることなく、リリエンベルク公国軍に突撃をかけてきた。その勢いに耐えきれず、先頭の兵士たちが地面に倒れてしまう。
「突け! 前に出させるな!」
一斉に突き出される槍。それは味方の兵士が吹き飛ばされながらもなんとか足を止めた魔人、熊のような巨体で、手には鋭い爪を持つ魔人に向かって、伸びていく。
「なめるなぁっ!」
だが槍の多くは魔人の体に届く前に、振り回された腕に弾き飛ばされていった。
「下がれ! 後退だ!」
フェリクスの口から飛び出した後退の指示。兵士たちは一気に下がることなく、魔人の動きに気をつけながら、前を向いたまま、じりじりと後ろに下がっていく。
「逃がすか! ……あっ?」
兵士を追いかけようと足を前に踏み出した魔人。その目の前を通り過ぎた影。それにわずかに遅れて、伸ばしていた右腕が地に落ちた。
「やっぱり凄いな、この剣……あっ、でも外れか」
落下の勢いだけで、といっても結構な高さから落ちてきたのでそれなりに勢いはあるが、魔人の腕をまったく抵抗を感じることなく斬り落とした。両親から貰った剣の斬れ味に感心しているジグルスだが、結果として切り落としたのは腕だけ。奇襲は失敗だ。
「……き、貴様ぁああああっ!」
激高した魔人が残っている左腕を振り回してくる。それを避けながら、ジグルスは先に後退しているフェリクスたちの後を追った。
逃がすまいと後を追う魔人。その足を止めたのは、先ほどとは比べものにならない強力な魔法だ。燃え上がる魔人の体。それでも前に進もうとする魔人に、光の刃が伸びていく。
「ぐぁああああっ!」
炎に包まれたまま地に落ちる魔人の左腕。両腕を失い暴れる魔人の体に、振るわれる幾筋もの剣。エカードたちによる攻撃だ。
「……なるほどな。魔人は主人公たちに任せれば、少しは楽出来るか」
その戦いの様子を見ていたジグルスは、強力な魔人を倒すのは主人公たちに任せれば良いのだと考えた。問題はどうやって主人公たちがいる場所まで魔人を引き込むか。その方法を考えなければならないと。
◆◆◆
それなりに手強い、と思われる、魔人を討ち取った。リリエンベルク公国軍に戦場の主役を奪われていたエカードたちにとっては、久しぶりに満足のいく戦果だった。だがユリアーナにとって残念なことに、エカードたちはそれを喜ぶことなく、戻ってくるとすぐに次の戦いに向けて真剣な話し合いを始めてしまった。しかもその話し合いにユリアーナは参加を許されなかった。
時間つぶしに陣営内の散策に出たユリアーナ。といっても、ただブラブラと歩いているだけではやはり退屈だ。そうであれば自分の天幕でゴロゴロしていても同じだと考えて、引き返そうとしたところで。
「ええ、無理! そんなの絶対に出来ないから!」
「最初から諦めてどうする!? 出来る出来ないを考える暇があれば、まずやってみる! これが俺たちのやり方だ!」
「それは鍛錬の話! これは違うだろ!?」
「同じだ! どちらも辛く厳しいものだからな!」
「それ! 無理だって言っているようなものだろ!?」
大勢の笑い声が響く。何を話しているのかユリアーナにはよく分からないが、楽しそうではある。何が行われているのかと笑い声が聞こえてくる場所に近づいていったのだが。
「あっ……」
そこにはユリアーナが気まずくなる相手、ジグルスがいた。
「……えっと……何か御用ですか?」
怪訝そうな顔をして、用件を尋ねてくるジグルス。
「別に……」
「誰かを呼びに来たのではないのですか?」
「どうして私が……」
「……打ち合わせを行っているのでは?」
この時間、エカードたちが打ち合わせを行っているのをジグルスは知っている。打ち合わせ相手はリーゼロッテと同行したフェリクスなのだ。
「……私は参加させてもらえないの」
「ああ、リーゼロッテ様相手ですからね」
「……軍議に私情を持ち込むのはどうかと思うけど」
「リーゼロッテ様は貴女を外せなんて要求はしていません。そちらが勝手に気を使ったのではないですか?」
軍事は公務。リーゼロッテが私情を挟むことなどない。エカード側の誰かが気を使って、ユリアーナを外したのだ。
「……そうかもね」
そんなことを考える人物に、ユリアーナは心当たりがある。クラーラが最有力、そしてエカードが次点だ。エカードが決めたこととなると、今のユリアーナにはひっくり返すことは出来ない。
「……それで用件は?」
「だから別にないわよ」
「散歩ってことですか?」
「まあ、そうね」
「そうですか」
本当に用はないのだと考えたジグルスは、途端にユリアーナに対する興味を失った。何か良からぬことを考えて、自分たちに近づいてきたのではないかと警戒していたのだ。
「……何を話していたの?」
「……散歩にそれ必要ですか?」
「歩いていて興味が引かれる何かがあれば、詳しく知りたいと思うものでしょ? 何もなくただ歩いているだけで散歩が楽しいなんて思う人はいないわ」
「確かに……ただ、話していたのはつまらないことです」
「面白そうに笑っていたじゃない」
ジグルスは自分を誤魔化そうとしている。そうユリアーナは考えている。そうされる覚えがあるからだ。
「……どうすれば告白が成功するか」
「えっ?」
「おい!? 勝手に話すな!」
焦った様子で声をあげてきた兵士。これがジグルスの話が嘘ではない証明になった。
「誰にとは言っていない」
「そうだけど……」
「誰なの?」
「それがなんと」
「おい!?」
「……内緒です」
笑みを浮かべて、相手は秘密だと告げてくるジグルス。その笑みが自分に向けられたものでないことはユリアーナには分かっている。ジグルスはユリアーナではなく、兵士を相手にしているのだ。
「……楽しそうね?」
「明日には死ぬかもしれない身ですから。楽しめる時は楽しまないと」
今は戦争中、それも最前線にいるのだ。この場にいる全員が、いつ命を落としてもおかしくない。そんな時だからこそ、普通でいようとジグルスたちは心がけているのだ。実際は普通ではなく、少し無理をして普通らしくしているのだが。
「……そうよね。こっちは皆、真面目で」
「別に不真面目にしているつもりはありませんけど……まあ、貴女たちは自分たちが死ぬなんて考えていないでしょうからね」
実際は全員がそう思っているわけではないことはジグルスにも分かっている。ただユリアーナだけに特定するのも不自然だと考えて、こういう言い方を選んだだけだ。
「……いつかは死ぬわ」
「それはそうでしょう。永遠の命なんて、人には与えられていません」
「……永遠の命なんて……罰でしかないわ」
「だからといって、わざわざ縮める必要もありません」
「えっ……?」
ユリアーナの瞳が驚きで大きく開かれている。
「驚くところですか?」
そんな反応をされるようなことを言ったつもりはジグルスにはない。当たり前の話をしただけのつもりだ。
「……貴方の兵士は」
「俺の兵士なんていません」
「……貴方の……仲間は貴方の為に死ぬ覚悟が出来ているのではなくて?」
命を失うほどの大怪我を負った兵士が、カロリーネ王女の魔法で回復してすぐに戦いに赴こうとした場面をユリアーナは見ている。ジグルスの側で戦い続けたいとその兵士は言っていたのだ。
「俺の為なんてことはないです。ただ……そうですね。同じ死ぬのであれば、その死に意味を持たせたいとは思っているかもしれません」
「死の意味……そんなものあるかしら?」
「分かりません。ないからこそ求めてしまうのかもしれない。結局はその人がどう感じるかではないですか?」
死に意味があるかどうかなど分かるはずがない。人の価値観、思考はそれぞれ違う。生ききったと思える人もいれば、そうでない人もいる。その思いも本当の思いなのか、そう思い込もうとしているだけなのか分からない。それはきっと本人にも。
「……そうかしら?」
「だから分かりません。人それぞれ死ぬ時にどう思うかなんて分かるはずがありません。考える間もない時だってある」
ジグルスの前世がそうだった。自分の人生についてじっくりと考えることなく、恐らくは死に、この世界に転生することになった。転生してから少しは考えたが、すでに新しい人生を得ている身では、それほど深く悩むことはなかったのだ。
「それはそうね……」
「……もしかして考えたことがあるのですか?」
ユリアーナの反応は、ジグルスが知る普段の彼女ではない。死の話題がそうしているのかとジグルスは考えた。恐らくは彼女もまた一度人生を終えた身なのだ。
「何を?」
「死の、いや、生きることの意味か」
「……あるわよ」
「あまり良い結論ではなかったようですね?」
今の雰囲気からは予想通りではあるが、それがなければ意外な反応。ユリアーナは物語の主人公。ジグルスが知る限り、それを利用して、好き勝手を行っているはずなのだ。
「……だって、私は人殺しだもの」
「……戦争に関わっていれば、そうなるのでは?」
内心では酷く驚いているジグルス。ユリアーナが言っているのはおそらく前世での話。彼女は人を殺しているのだ。
「……そうだけど……そうだとしても人殺しは駄目じゃない?」
「それは誰が決めたことですか?」
「……そう。貴方はそう言うのね?」
「悪いことだと思っていますよ。でも兵士が全員、悪人ではないことを俺は知っていますから」
人を殺したくて殺しているわけではない。そうでない人も中にはいるかもしれないが、それ以外の多くの人殺しを強いられている人々を、単純に加害者だと言って良いのかとジグルスは思う。
「でも人殺しは悪」
「戦争が悪なのではないですか?」
「……戦争なら何をしても許されるの?」
「それを言う貴女は何が許されて、何が許されないか知っているのではないですか? 少なくとも許されないことは知っていますね」
「…………」
全てが許されるはずがない。こう思っているから出た問いだ。ジグルスの言う通り、全てとは言えなくても、許されないと思う感覚をユリアーナは持っている。
持っていることをジグルスに見透かされたことが、ユリアーナは恥ずかしかった。
「……ひとつ聞いて良いですか?」
「何?」
「貴女の目的は何ですか?」
ユリアーナは何をしたいのか。ずっと疑問に思っていた問いを、ジグルスは本人に向けた。ユリアーナは主人公としてやるべきことをやっていないとジグルスは思う。ゲームシナオリオまで無視している気配があるのだ。もちろん、こんな問いを向けても、求める本当の答えが得られるはずがないと分かっている。
「……何も」
「何も?」
「……私はただ、自分の役割を果たしているだけよ。それは私がやりたくて、やっているわけではないわ」
「……それって」
思いがけない言葉が聞けた。だがそれについて深く聞くことは躊躇われる。聞き方を間違えると、自分が転生者であることがユリアーナに知られてしまうかもしれないのだ。
「ジーク!」
「えっ?」「あっ……」
ジグルスの名を呼ぶ声。リーゼロッテが戻ってきたのだ。
「……何をしているのかしら?」
これを聞くリーゼロッテの視線はジグルスを向いているが、問いの向け先はユリアーナだ。
「彼女、暇らしいです」
「……打ち合わせに出ていなかったものね。暇なら参加すれば良いのに」
「……参加するなと言われたから」
「そう。貴女の参加を決めるのは私ではないわ。上がそう言ったのであれば、そうするしかないわね?」
ユリアーナを参加させるかどうかは部隊の長であるエカードが決めること。リーゼロッテがどうこういう話ではない。ということをあえてリーゼロッテは言葉にする。ユリアーナに勘ぐられるのが面倒だからだ。
「ええ。だからこうして暇つぶしをしているの」
「貴女が暇でも他の人まで暇とは限らないわ」
「分かっているわよ。邪魔するつもりはなかったのだけど……少し話があって」
「そう……では話せば良いわ」
ジグルスとの会話を邪魔するつもりはリーゼロッテにはない。邪魔したい気持ちがないわけではないのだが、だからこそ受け入れなくては思ってしまうのだ。
「……今日は止めておくわ」
「今日は?」
こういった点でリーゼロッテは敏感だ。ユリアーナがあえて言葉にした「今日は」の意味を正確に読み取った。
「……話をしにくるくらい良いでしょ?」
「悪いとは言えないわ。でも、部隊の邪魔をするのは止めて」
「邪魔しないから。そうよ。そもそも今日、貴女たちを助けたのだって私の提案のおかげなのよ。私が待っているだけでなく、助けに行くべきだって言ったの」
恩を売っているが実際は、ただ待っているだけでは何の戦功も得られないまま今日の戦闘も終わってしまうと考えて、ジグルスたちの功を横から奪い取ろうとしただけだ。
「そう……ありがとう」
「えっ……?」
「あかげでこの先の戦いがやりやすくなったわ。ずっと皆に無理をさせているのが心苦しかったの」
リリエンベルク公国軍はぎりぎりのところで戦っていた。奇襲の成功を重ねることで敵に注目され、隙を見せれば攻撃を集中されるようになっているのだ。単独行動はもう限界にきていた。
「…………」
「でももう少し戦術を詰めないと……ジーク、打ち合わせを出来るかしら?」
「もちろん」
「では……ごめんなさい。今日は引き上げてもらえるかしら?」
「ええ、良いわ。今日は、引き上げる」
わざとらしく「今日は」を強調するユリアーナ。それに対してリーゼロッテは苦笑いを浮かべるだけで済ませた。ここでもめても仕方がない。無理に追い払っても、結局は戦場で顔を合わせることになるのだ。わざわざ悪感情を強める必要はない。
会議が出来る大きめの天幕に向かって歩き出すリーゼロッテたち。
「……ジーク。何よ、自分だけが特別だ、なんて顔して」
リーゼロッテが気を使っても無駄。ユリアーナは悪感情を向けている。それほど強いものではない。自分が失ってしまったものを持つ、それ以上のものを持っているリーゼロッテへの小さな嫉妬だ。