夜の野営地に並ぶ多くの天幕。その幾つかの中からは、今夜も嬌声が聞こえてくる。行軍の最初の頃は少なかったそれも今ではかなり数も増え、聞こえる声も大きくなってきている。
グレンは、この状況を批判する気にはなれなくなっていた。戦地に近付くにつれて起きた変化が、死への恐怖によるものだと知ってしまったからだ。
夜の静けさは人を不安にさせる。考えなくても良い様々なことが頭に浮かんできてしまう。そんな不安への対応は人それぞれだった。連れてきた女性との情事で紛らわす者。ただ、じっと耐えている者。そして少しでも強くなろうと、もしくは何も考えることが出来ないようにしようと、ひたすら体を動かす者。
グレンが選んだのは最後の体を動かすことだ。
最初のうちは良かった。日中の行軍で十分に疲れ切っていて、横になれば何かを考える間もなく眠ることが出来た。
だが今はそうはいかない。それが行軍に慣れてしまった為なのか、死への恐怖が高まったせいなのかはグレンにも分かっていない。
ただ眠れなくなった。それで、ある時からグレンは夜にも体を鍛えることにした。
野営地の外縁に焚かれている篝火に向かって歩いて行く。
見張りの騎士がいるが咎められることはない。こうして夜に出歩くのはグレンだけではないからだ。そして見張りの騎士の中にも同じことをしている人がいるからだ。
野営地をわずかに離れ、周りに誰もいないことを確かめると、グレンは腰に差してあった剣を抜いた。
いつもの様に始めはゆっくりと、そして徐々に動きを速めていく。
縦横斜め。あらゆる角度で剣を振る。それが終わると次は、一振りで止めることなく、振り下ろし、切り上げ、横に薙ぎ、立て続けに剣を振っていく。
流れる様な動きの中で、気持ちは澄み、感覚が研ぎ澄まされていく。かつて数百の盗賊相手に戦った時のように。
「ふうっ」
その感覚が湧きあがったところで、グレンは剣を止めて、大きく息を吐いた。
そしてまた最初から、今度は利き腕を変えて同じことを始める。体の動きとともに、徐々に高まっていく感覚。それが頂点に達する前に剣を止める。
グレンが恐れるのは死だけではない。それとは真逆の強烈な戦いへの欲求。これをグレンは恐れ始めていた。
「何なんだ、一体」
沸き上がる苛立ちが、そのまま口から出る。戦いへの欲求は人殺しへの欲求と同じ。そんな思いがグレンにはある。戦いを欲する自分の気持ちがどうにも許せなかった。
結局、今日も疲れを感じるまでには至らずに鍛錬を止めた。
今日に限っては鍛錬を止める、もう一つ理由がある。研ぎ澄まされた感覚がとらえた気配。それを避けたかったからだ。
その場を去って、足早に自分の天幕に戻るグレン。だが残念ながら相手の方が一歩早かった。
「グレン!」
「……この様な時間にお二人でどうされましたか?」
呼びかける声に、グレンは嫌々顔を向けた。健太郎、そしてその隣には結衣もいる。
「いや、結衣が眠れないと言うから散歩を」
「そうですか。野営地の中ですから何も問題はありませんが、一応、お気をつけて」
そのままグレンは自分の天幕に戻ろうと、健太郎たちに背中を向けた。
「ああ、気を付ける…………そうじゃない!」
残念なことに健太郎は誤魔化されてくれなかった。
「何か?」
「せっかく会ったのだから話をしよう」
「今日はもう遅いですから。お休みなさい」
「ああ、お休み……違う!」
「楽しそうですね?」
お約束を繰り返す健太郎に、グレンは冷めた声で問い掛ける。元々相手をしたくない二人だが、気持ちが揺れている今は、少し話すだけで苛立ちが募ってしまう。
「そうじゃなくて、僕は話をしようと言っているんだ」
「何の話でしょうか?」
「色々と」
具体的な話題があるわけではない。グレンにとっては最悪の状況だ。城内の食事室で雑談していた時と違い、話を止めてくれるメアリー王女はいないのだ。
「でもお二人で散歩の途中ではないのですか? 邪魔してはいけませんから」
「別に邪魔じゃない。結衣が一人で出歩くのは嫌だというから仕方なく付き合っているだけさ」
「野営地とは言え、夜は夜ですから。早く天幕に戻って」
「違うわよ。野営地だから恐いのよ」
あくまでも話をするのは回避しようとグレンはしているのだが、ここで結衣まで会話に入ってきてしまった。
「……何故?」
「何か最近騎士たちが私に迫ってくるの。それが怖くって」
「気のせいではないですか? ほら、聖女様はよく勘違いをされます」
「しないから」
グレンの頭に浮かんだのは従卒のポールの言葉だ。自意識過剰、一言で表現するとこれになる。
それを否定する結衣。実際に今回は結衣の勘違いではない。ポールたちが、聖女様は実は男好きだ、という噂をそれとなく流したせいだった。
「まあ、それが事実だとしても勇者様が一緒であれば大丈夫ですね。自分も安心して眠れます。では」
「違う!」
「……違いましたか?」
なかなか健太郎たちを振りきれないグレンだった。
「もしかして、僕って避けられてる?」
「まさか」
明らかに避けているのだが、それを、もしかしてと聞く健太郎に内心でグレンは驚いていた。
「じゃあ、話そう」
「はい。ではどうぞ」
「……ここじゃなくて天幕で話そう」
「他の方の迷惑になりますよ?」
「他の人なんていないよ」
「えっ? 一人でひとつの天幕を使っているのですか?」
「グレンもそうだよね?」
「……知ってましたか」
自分の天幕で話すのだけは避けようとしたグレンの最後の抵抗も失敗に終わりそうだ。
「将校以上は全員がそうだって聞いているから」
「そういう話は覚えているのですね」
「何?」
「別に。では行きましょうか」
グレンはまだ諦めていなかった。健太郎の天幕に向かって、歩き出そうとしている。
「グレンの天幕でも良くない?」
「ああ、良いね。そうしよう」
結衣の余計な一言に、健太郎がすぐに同調する。こうなると思って、抵抗を続けていたのに事態は最悪の方向に進んでいる。
「天幕はどれも同じですが?」
「それでも人の家に遊びに行くような感じで面白いよ」
「人の家は遠慮するものだとは異世界では教わらないのですか?」
「……記憶にない。さあ、行こう」
グレンの最後の最後の抵抗もあっけなく流されてしまった。
――健太郎たちと共に自分の天幕に戻ったグレン。実際に天幕などグレンの言った通り、何も変わることなどない。真ん中に支えの棒がある以外は何も置かれていない、はずだった。
「何もないのね?」
「天幕ですから」
「でも、鏡とか水桶とかも無いわよ?」
これを言う結衣の天幕には鏡も水桶もあるということだ。
「戦場に鏡なんて必要ですか? それに水なら天幕の外にいくらでも用意されています」
「私は女性だから。地面に寝ているの?」
「……それ以外にどこに寝ると言うのですか?」
また変なことを聞いてきた。地面に寝ていないとなれば結衣はどこに寝ているのか。
「簡易ベッドを借りれば良いのに。固いけど地面よりはマシでしょ?」
これはグレンの予想通り。行軍を急ぐ先軍は運んでいないはずの重量物が、何故か野営地にあった。
「……それ誰が運んだのですか?」
「知らないわよ。そんなこと」
「……それで話とは何ですか?」
結衣とこれ以上話をするよりはマシかと、グレンは健太郎に話を振った。
「ああ……グレンは今の軍って少しおかしいと思わないか?」
「はっ?」
まさかの話題にグレンは驚いた。いつもの様にくだらない話を始めるものだと思っていたのだ。
「僕がこんな話をするとおかしいかな?」
「おかしいですね」
グレンは間髪入れずに同意してみせた。
「……僕も一応、色々と考えたのさ。グレンと離れてから色々とね」
「はあ」
「この世界にも目を向けてみた。色々な人に会って話を聞いてみたりした」
「それは……良いことですね」
結衣にそのようなことを言った覚えがあるグレンとしては、健太郎の行動は褒めるしかない。実際に悪いことではない。ただ、それをしたのは健太郎なのだ。
「そうだろ? それで知ったのさ。ウェヌス王国の軍はおかしいって」
やはり、話が変な方向に向かっている。
「あの、どうおかしいのですか?」
「一部の人間ばかりが贔屓されている。派閥って奴だね。派閥って知っているかい?」
「まあ」
「軍には派閥があって、その派閥の人間だけが優遇されている。それ以外の人たちは、頑張っても認めてもらえないのさ」
「……そうでしょうか?」
グレンには健太郎が言うような思いはない。そうであれば、自分が国軍の中隊長になることなどなかったはずだとグレンは考えている。
グレンの昇進にはトルーマン元帥の意向が影響を与えている。そうだとしても自分が元帥派閥だという意識のないグレンには贔屓されたという気持ちはない。
「今の親衛隊員たちは皆そうさ。頑張ってきたのに、その努力を認められなかった」
健太郎の考えが、勇者親衛隊の騎士の話から生まれていることが、これで分かった。そうであれば。ろくなことではない。
「一つ聞いてよろしいですか?」
「何かな?」
「色々な人というのは親衛隊の騎士の方たちだけですか?」
「違うよ。他の人の話も聞いた」
「そうであれば良いのですが」
グレンは疑いの目で健太郎を見ている。色々な話を聞いても、健太郎は結局、自分がそう思いたい話だけしか頭に残らないのだ。
「……まあ、確かに彼らの素行に少し問題があることは僕も知っているよ。でも、彼等も元からああだったわけじゃない。努力しても報われなくて、それどころか疎外されて。それで気持ちが荒んでいったのさ」
グレンの雰囲気を珍しく敏感に察して、健太郎は親衛隊の騎士たちを庇う発言をする。だが、これはグレンには逆効果だ。
「それは誰の言葉ですか?」
「彼等に決っている。自分たちだって、元々は高い志を持っていた。でも報われないと思って諦めてしまったって」
「志とは?」
「さあ。そこまで深くは聞けないよ」
「そうですか」
そんなものを持っているはずがないとグレンは思っている。彼らの実力がそれを証明している。騎士が持つ志に力がいらないはずがない。その力を高める努力をした形跡が親衛隊の騎士たちにはない。
「彼等みたいな騎士は他にも大勢いると思う。努力しても報われなくて、それで悲しい思いをしている騎士たちがね」
「一つ分からない点があります」
「何?」
「努力とは必ず報われるものなのですか?」
これを聞くグレンはそうではないと思っている。
「それはそうさ。そうじゃないと努力が報われない」
「えっと……?」
「ちょっと言い方がおかしかったな。つまり、努力を認めてあげないと、誰も努力なんてしなくなるって意味さ」
「努力とは人に認められる為に行うものなのですか?」
グレンは努力を惜しまない。だが、ただ努力をしているというだけで、人から認められようとは思わない。
「えっと……」
「異世界はやはり考え方が違うのですね。自分は努力は人に認められる為でなく、自分の為に行うものだと思っていました」
「いや……それはそうだ」
グレンの言葉の正しさは健太郎にも分かる。
「合ってましたか。それで報われるとは、努力のおかげで成果をあげられることだと思っていました。成果を上げれば人に認められる。そういうことではないのですか?」
「……でも、全ての人が成果をあげられるわけじゃない」
「それはそうです」
何を当たり前のことを言っているのだとグレンは思っているのだが、健太郎はこれを当たり前とは考えない。
「じゃあ、やっぱり報われない人が出るじゃないか」
「成果もあげないのに認めろと?」
「そういう言い方だと少しおかしく感じるけど。要は全ての人は平等であるべきだってことさ」
グレンの言葉に戸惑っていた健太郎がこれについてはやけに堂々と話している。平等という言葉を健太郎は絶対正義だと思っている。この言葉を出せば、全てが正当化されると。
「その言い方のほうが異常ですけど?」
だが、グレンは健太郎の思うようには反応しない。
「えっ、どうして?」
「平等って何を指されていますか?」
「えっと……」
「全ての国民は健康で文化的な生活を営む権利があるってことよ」
言葉に詰まった健太郎の代わりに、結衣が口を挟んできたのだが、グレンには結衣の言っている意味も分からない。
「全く分かりません」
「もう。こんなの常識でしょ?」
自慢げにグレンに話す結衣だが。
「それは異世界の常識では?」
「……そうね」
すぐに恥ずかしい思いをすることになる。
「それと今の言葉と努力の繋がりも分かりません」
「……そうね。ちょっと違ったかも」
「つまり、あれだ。一部の特権階級だけが良い思いをしているのはおかしいって話さ」
「……それ、まさか公言されていませんよね?」
健太郎の言葉はかなりの問題発言だ。あまり思い出したくないトルーマン元帥の忠告をグレンは思い出してしまった。
「おかしいかな?」
「特権階級とは具体的に何を指しているのですか?」
「上の人達」
具体的でもなんでもない答えを健太郎は返す。
「……軍で言う将軍などを指しているのですか?」
「あっ、そうそう」
「特権というのですか? 役職が上の方々は、それこそ成果をあげて今の地位にいるのだと思いますが?」
高い役職は功績の証。少なくとも軍においてはそうだとグレンは考えている。何もしないで階級があがる制度などグレンは知らない。
「そうだけど……でも偉くなったからと言って、贔屓は良くないだろ?」
「贔屓……誰をですか?」
「自分の派閥の人間」
「そのような人いますか?」
グレンには贔屓されて偉くなった人の心当たりがない。
「えっ、知らないの?」
「知りません」
「軍にはゴードン大将軍の派閥とトルーマン元帥の派閥があって。あっ、そうか、グレンはトルーマン元帥の派閥の人間だから、僕の言っていることを認めようとしないのか」
健太郎でもグレンをトルーマン元帥の派閥の一員だと思っている。これにはグレンは少しショックを受けた。
「かなり誤解があるようです。ゴードン大将軍はともかく閣下は派閥などお持ちでありません」
内心のわずかな動揺は綺麗に消し去ってグレンは健太郎にトルーマン元帥の派閥の存在を否定する。
「でも」
「では閣下の派閥の人間とは誰ですか?」
「誰だろう? そこまでは聞いていない」
「それはないからです」
「でもゴードン大将軍の派閥の人間は知ってる。エリックもそうなんだよな。ちょっとガッカリだ」
「……ハーリー千人将は少なくとも千人将に相応しい実力はお持ちだと思いますが?」
親しいはずのハーリー千人将を、自分の思い込みで悪くいう健太郎にグレンはがっかりだ。今更、がっかりでもないが。
「えっ、どうしてグレンがエリックのことを庇うんだ? 仲悪いよね?」
「好き嫌いで能力は評価しないと思いますが? それをしていたら軍なんて成り立ちません」
「……でも実際に」
「あの、派閥の意味も違うような気がします。異世界の派閥とはどういうものなのですか?」
「自分の言うことを聞く人間をたくさん集めて、それでそういう人間をどんどん偉くして権力を握っていく」
こういう派閥もあるが、本来の派閥ではない。
「派閥とは考えを同じくする人が集まって、その考えを実現しようと活動するものでは?」
「……結局は同じだろ?」
「違います。勇者様は、言うことさえ聞けば、相手が実際はどう思っていようと、どんなに無能であっても引き上げると言っています:
「そういうことだ」
「自分が言っているのは、仲間にするに相応しい人間と徒党を組むということです。大きく違うと思いますけど?」
「……まあ、少し違うかな」
ようやく少し自分の誤りに健太郎は気付いてきた。
「全然違います」
「別に言葉遊びをするつもりはない」
「したくてしているのではありません。そんなつもりもありません」
ただの言葉遊びではなく、健太郎とグレンの言っていることは実際に違っている。
「でもグレンだって騎士には批判的じゃないか?」
「自分がいつ騎士を批判しましたか?」
「執務室で話している時に、ずっと騎士団が問題だって言っていただろ?」
「それは行軍を行う上での話です。それに問題は騎士団だけではありませんでした」
これは嘘だ。グレンは実際に騎士には批判というより否定的だ。だが、これを正直に話す必要はない。
「そうかもしれないけど」
「かもしれないではなく、そうです」
これは曖昧にしてはいけない。健太郎に曖昧にしておくと、平気でグレンはこう言っていたなどと他で話しかねない。そういう点では、健太郎に打ち合わせの内容を聞かせたのは失敗だった。
「どうしても認めないつもりか?」
「何を認めろと言うのですか?」
「グレンだってこの国には不満があるはずだ」
「国にまで広がりました」
懸念した通り。健太郎は、グレンは自分と同じ考えだと思っている。しかも騎士への批判にとどまらず、国への不満までだ。
「でも、そうだろ?」
「無いとは言いません。自分の住む国がもっと良い国であって欲しいと思うのは当然です」
「それを良くしようと思わないのか?」
「あの、自分は一国民ですけど? そういうことは、自分よりも遥かに上の方たちが考えることです」
「そうじゃない。良いか? 国を変えるには国民一人一人の意識を変える必要がある。そういった国民の気持ちが集まって国を変えていくんだ」
また健太郎は異世界にいた時の考えを持ち出してきた。こうなるとグレンとは全く話がかみ合わなくなるというのに。
「……反乱を起こそうとしているように聞こえます」
「そうじゃない。どう言えば分かってもらえるかな。僕達が育った国はね、一番偉い人は投票で決めるんだ。国民が選んだ人が一番えらい人になる」
「国民って、そんなに少ないのですか?」
「一億くらいかな」
「はあっ!? 何ですか、その数字は?」
一億という数字をこの世界の人たちが使うことはない。一億人と言われても、想像も及ばない数だ。
「それくらいだと思うけど」
「そんな人数でどうやって話し合うのですか?」
「だから投票だって」
「トウヒョウ?」
「えっと、偉くなって欲しい人の名前を紙に書いて、それを集めて数を数える」
「……凄いですね。一億枚の紙って、どれくらいの大きさになるのですか? しかもそれを数えるなんて」
グレンは変なところに感心している。一億という数のインパクトが強すぎるのだ。
「……えっと一億はない」
「さっき一億と言いましたけど?」
「投票出来るのは成人した人だけだ」
「では何人ですか?」
「……分からない」
どれだけの人が選挙権を持っていたのかなど健太郎は知らない。
「三分の二くらいですかね。それでも……」
グレンは成人がどれだけの割合かで考えようとしているが、これは無駄だ。
「いや、実際には投票しない人もいるから」
「それでは全員で決めることにはなりません」
「選ぶ権利があるだけで、投票するかしないかは個人の意思だから」
「……良くわからないです。この話は何かに繋がりますか?」
健太郎の話す投票の仕組みがグレンには全く理解できない。時間の無駄だと思えてきた。
「えっと……ああ、つまり商人であっても、料理人であっても、誰でも国の一番えらい人になれるって話さ」
「それ無理です」
健太郎の説明をグレンはあっさりと否定する。
「いや。なれるから」
「無理です」
「そういう制度なんだよ!」
正しくは異世界では成り立つ制度だ。
「でも、誰かの名を紙に書くわけですよね? そして一番多く書かれた人が選ばれる」
「なんだ、分かっているじゃないか」
「例えば自分が住んでいる宿屋の親父さんであっても」
「そう。宿屋の親父でも」
健太郎はグレンが自分の話を理解したと思って満足気だ。だがすぐに勘違いだと分かることになる。
「でも親父さんの名を知っている人はごくごくわずかです。実は自分も親父さんとしか呼んでいないので知りません」
「えっ?」
「たまに行く服屋の店員の名も知りません。いちいち名乗りませんから。恐らく人々が一番名前を知っている人は、国王陛下だと思います。すでに陛下は一番偉いのですから、やるだけ無駄です」
「あれ? どうしてそうなる?」
健太郎は立候補について話していない。だが話したとしても、やはりグレンは否定するだろう。この世界で立候補者の名を国全体に広めるだけで大変なことだ。何とか名を知ったとしても、それがどういう人物なのか分からない。
「陛下でなければ家族の名を書くことになるでしょう。子沢山の人が有利ですね?」
「そういうことじゃあ……」
「違うのですか?」
「子沢山だから選ばれるって、ちょっと違う」
それ以前にどれだけ子沢山であったとしても、その数で選ばれるはずがない。
「村長かもしれません」
「ああ、それは有り」
「子沢山は駄目で村長は良いのですか? 先ほどは誰でもと言いました」
「それは国の政治をするのだから、それなりの能力がないと」
「はい。つまり、小さな頃より施政者としての教育を受けている陛下ということです。そして軍もそうです。能力があるから上にいるのです」
「……あれ?」
まんまとグレンの論理に乗っかって、健太郎は否定出来なくなっている。
「つまり、今の在り方は正しい」
「……どうしてこうなった?」
「話は以上ですか?」
「……誤魔化されないぞ。とにかく言いたいことは、僕は色々考えた。そして、どうして僕がこの世界に召喚されたか分かった」
「……それは?」
この話にはグレンも強く興味を引かれた。次の言葉で、一瞬で消え去るのだが。
「世界を変えるためだ。この世界を僕が生まれ育った世界の様に、平和で豊かな国に変える為」
「…………」
世界を変える。グレンにとっては夢物語を通り越して理解も出来ない。しかも異世界と同じようになどと言われては、聞く気にもならなくなった。
「僕は少しだけど、異世界の優れた知識を持っている。それをこの世界で活かせば、きっと出来るはずだ」
「はあ……例えば?」
それでも知識という言葉で、つい問いを返してしまうグレン。
「教育とか。元の世界では、子供は全て教育を受ける権利を持っている。お金持ちでも貧乏でも。国の基は人だ。人を育てる教育はすごく大切だ」
「……はい」
「後は医療とか。お金のない人でも、医者にかかれる」
「…………」
「怪我や病気で体に障害を持ってしまった人への保障。働けなくても最低限の生活は出来るようにしないと」
「…………」
「なあ、凄いと思わないか?」
グレンの反応がほとんど無いことに、さすがの健太郎も気がついた。
「実現出来れば」
「そうだろ?」
実現できるとグレンは思っていない。いつもの会話パターンなのだが、健太郎は今回も気が付いていない。
「でも、タダで色々なことをしてもらえるってことですよね?」
「そう」
「ではタダで提供する人はどうやって生活するのですか?」
「それは国が保障する」
「……よく分かりませんが、凄いお金が必要そうです」
「だから、国を豊かにしなければならない。その為には田畑を増やして、モノを作って、商売を盛んにして」
「…………」
国を豊かにしようなんて考えは、この世界にも当たり前にある。それが簡単ではないから、この世界の施政者たちは苦労しているのだ。
それから、ずっと、まるで熱に浮かされたように健太郎はグレンに語り続けた。グレンにとってはただただ苦痛の時間だ。
健太郎の話には具体的な方策が何もない。ただ実現出来ない夢を語っているだけに聞こえた。
――そして、翌朝。
「いやだ、そのまま寝ちゃった。私ったら……あれ?」
健太郎の延々続く話に退屈し、それでいて、ちょっとした期待を込めて、我慢することなく寝てしまった結衣。目が覚めて早速、白々しい言葉を口に出したのだが、グレンの姿はどこにもなかった。
「どうしてフラグが立たないの!?」
グレンにとって全く意味のない夜は終わった。