静寂の中、キーボードを叩く音だけが部屋に響いている。その音にまでオペレーターの緊張を感じ取ってしまうのは、恐らくは聞く側の気持ちのせい。感情を聞き取れるような鋭敏な耳を持っている人は、この場にはいない。
白衣を着た人々は精霊科学研究所の職員。その中でも重要な研究に携わっている人々だ。だからこそ、これから行おうとしていることに対して、恐れを感じてしまうのだ。
「……始めよう」
それは月見望も同じ。より詳しい情報を知っている望は、他の人よりもずっと緊張しているかもしれない。
「始動します」
望の指示を受けて、オペレーターがモニター上のスイッチをタッチする。それで装置は動き出す。
「……対象に変化なし」
部屋の壁に据えられているモニターを見ている研究員が報告をしてきた。モニターに映っているのは、おかっぱ頭の女の子。部屋の椅子に座って、微動だにしていない桜だ。
「出力五〇パーセント……脳波反応ありました」
続けてオペレーターの報告。彼の視線はモニターに映っている数値に釘付けだ。
「……微弱だな。出力をあげよう」
オペレーターの報告を受けて、モニターをのぞき込んだ望。不満そうな顔で、また指示を出す。
「七五パーセントまであげます」
指示を受けて操作パネル上の手を動かすオペレーター。
「……反応は?」
「反応値、上昇しています。確認してみますか?」
「……いや、まだ早い。もう少し続けよう」
こう言って望は、桜が映っているモニターに目を移す。椅子に座っている桜に動きはない。その様子を見るだけでは成功するかなど分からないのだが、大人しくしていることについては一安心。その気持ちが望にため息をつかせた。
「効果がありそうだな?」
その望に声をかけてきたのは、ここまで黙って眺めているだけだった斑尾教授だ。
「問題は、どの程度まで効果があるかです」
「そうだな。だが、この洗脳実験が成功すれば、我々は最強の兵器を手に入れることが出来る。夢に大きく近づくことになるのだ」
「……ええ。そうですね」
嬉しそうに語る斑尾教授。その斑尾教授に、我々ではなく俺の夢だ、なんて言葉を告げる必要はない。告げたとしても、あとでどうとでもなるが、この場にいる全員に対処するのは面倒だ。
「しかし……このような研究を進めていたとは。しかも、短期間で成果を出すとは、さすがは月見くんだな」
「いえ、たまたまです」
短期間で成果を出したわけではない。十年近い月日をかけて、何度も実験を重ねて、得られた成果だ。
「鬼である彼女に有効となれば、普通の人相手でも間違いなく効果はある。そうなると……」
「教授、少し黙っていてもらえませんか?」
「……すまない」
浮かれた様子の斑尾教授に苛立ちを覚えた望。その言葉に斑尾教授は、素直に従った。これで教授はしばらく口を開くことはない。望の命令なのだ。
ただ斑尾教授は命令とは受け取っていない。それを考えることは許されていない。彼こそが望の最初の実験体。個の精霊力だけでなく、精霊科学による洗脳実験を受けた人物なのだから。
「……確認してみよう。装置を止めてくれ」
斑尾教授を黙らせたところで、望は実験に戻る。オペレーターに洗脳装置の停止を指示して、椅子に座る。
「……停止しました」
「ありがとう。じゃあ、始めるか」
目の前にある小さなレバーを押し倒し、マイクのスイッチをオンにする。
「……桜。僕だ。分かるかな?」
マイクに向かって、桜に話しかける望。
『……お兄ちゃん?』
スピーカーを通して聞こえてきた桜の答えは、望を満足させるものだった。
「そうだよ。お兄ちゃんだ」
『……どうしたの? どうして、お部屋に来て話さないの?』
「お兄ちゃんは今、遠くにいるんだ。でも桜と話したいから、こうして遠くにいても話せるようにしてもらった」
桜の問いに、適当な答えを返す。兄は部屋まで会いに来る、という認識は残っている。それは分かった。
『……会って話さないと、つまらないよ』
「そうだけど……会いに行くのを邪魔する奴がいて」
一歩踏み込んでみる望。ここから先が、実験としては本番だ。
『えっ? そんな人いるの?』
「……尊って奴。そいつが邪魔するんだ」
『……その人……桜も知っている人?』
この答えを聞いた望は、大きく息を吐いた。尊の名を出しても、桜の記憶は元に戻らなかった。とりあえずだが一つ山を越えたというところだ。
「……ああ、知っている。僕たちを裏切った男だ」
『ひどい……そんな人、殺してしまえば良いのに』
「殺したいのだけど、かなり強くて」
『じゃあ、桜が……桜が……その人、本当に殺して良い人なのかな?』
「大丈夫だから! 桜は気にしなくて平気だ!」
殺すということを考えたことで、桜の反応がおかしくなった。そう判断した望は慌てて、その思考を止めようとした。
『……大丈夫って、何が大丈夫なの?』
「桜が危ない真似する必要はない。僕に任せておいて」
『……でも、かなり強いって』
「そうだけど方法はある。それを成功させる為に、桜に教えて欲しいことがあるんだ」
これが次の山場。これで成果を得られれば、今日のところは目的を果たしたことになる。
『……何?』
「そいつは凄い剣を持っている。それを取り上げてしまえば余裕で勝てるのだけど、どこに隠しているか分からなくて。桜、知っているかな?」
『剣……ああ、剣』
「知っているのか!?」
期待していた通り、桜は剣を知っている。それが分かった望は、思わず大声を出してしまう。
『お兄ちゃん、うるさいよ』
「あっ、ああ、ごめん……それで、剣は」
『……体の中かな?』
「体の中?」
予想していなかった答えに、戸惑う望。残念ながら求める答えを得るには、もう少し洗脳が必要かと考えたのだが。
『剣って、そういうものだよね? その人を倒して剣を得た人が、この国を統べる』
「……そういうことか」
続く桜の説明で納得した。尊を討ち、その体から取り出した剣を得た者が、この国の新たな歴史を作るのだと。
『……お兄ちゃん。なんか頭が痛い』
「ああ……少し休むと良いよ。お話の続きは、また今度しよう」
『……分かった』
ここまでの成果を得られるとは、望は思っていなかった。マイクのスイッチを切って、心の興奮を収めようと一度、大きく深呼吸をする。それでも沸き立つ気持ちは抑えきれない。あまりに順調過ぎる状況に疑問を持つこともない。
「特殊戦術部隊の百武指揮官に、古志乃尊を研究所に連れてくるように伝えてくれ」
「分かりました」
「それと急いで洗脳装置の移設を」
「えっ? 実験は続けないのですか?」
移設は簡単ではない。桜の部屋に備えられた洗脳装置は、かなり大規模なもの。普通の人に使う物とは違うのだ。小規模な装置の存在など、この職員は知らないが。
「被験者を古志乃尊に代えて行う。それほど期間は必要ないだろうから、また移設することになる。そのつもりで移設をしてくれ」
尊は完全に洗脳する必要はない。必要なことを聞き出したあとは殺す。そうでなければ求める剣は手に入らないのだから。
だが、事はそう上手くはいかない。筋書きを描いているのは望ではないのだ。そして、その筋書きを描いている存在は。
(お兄ちゃん、ごめんね。でも、大丈夫。お兄ちゃんなら簡単には殺されないものね?)
尊が死ぬことまでは望んでいない。使命を果たそうという強い意志はあっても、兄を思う気持ちは消えていない。兄だけが生き残れば、それで良いと思っているのだ。
◇◇◇
拘束されていた特殊戦術部隊の拠点から連れ出された尊。護衛兵士、ではなく逃亡を防ぐ目的でつけられた兵士たちが同乗する、これもまた指揮車両ではなく護送車に乗せられて、移動している。
行く先は教えられなかった尊だが、精霊科学研究所に向かっていることは途中で分かった。富士の樹海の、研究所に行く度に強くなっていた、気配は、尊には容易に感じられるのだ。
では何の為に自分は精霊科学研究所に連れて行かれるのか。それを考えても答えは出ない。分かるのは月一回の桜との面会の約束を守る為ではないことだけ。それ以外の用であれば、ろくな事ではない。
桜の思惑とは関係なく、尊に殺されるつもりはない。すでに相手側が敵意を露わにしている状況で、危地に飛び込む必要などないのだ。
(……潮時だね)
事は佳境に入っている。諦めることは残念ではあるが、無謀な真似をして命を落とすようなことになれば、全てが終わってしまう。尊はそう判断した。
両手を拘束されたままで、護送車の床に鎖で繋がれている尊。さらに護送車の前後は、完全武装の兵士が乗った装甲車に挟まれている。かなり警戒厳重だが、そんなものは尊には関係ない。
「……聞いて良いですか?」
「えっ? 何だ?」
いきなり尊に話しかけられて戸惑う兵士。それでも話を聞く姿勢は見せた。
「貴方たちは悪い人ですか?」
「はっ?」
「精霊科学研究所が、望が何をしようとしているか分かっていて、協力しているのですか?」
「……言っている意味が分からない。精霊科学研究所が何の為の研究機関かくらいは知っているが、それを知っていることでどうして悪い人になる?」
尊の意味不明な問いに真面目に対応する兵士。たまたまなのか、本来の性格なのかは分からないが、この態度は本人、そして同乗している他の人々にとって幸いだった。
「知らないってことか……じゃあ、殺さなくて良いかな?」
「おい、君。一体、何を考えている?」
「怪我、しないでね?」
「なっ!?」
ただ軽く腕を振っただけ。兵士たちにはそう見えた。だが尊を護送車に繋いでいて鎖は、その腕の振りだけで断ち切られ、兵士たちがそれに気付いた時には、彼が護送車の後方に移動するのを許していた。
「動くな!」
「撃つぞ!」
慌てて尊に向けて銃を構える兵士たち。
『何があった!?』
無線から聞こえてきた声。前を走る装甲車に乗っている百武指揮官の声だ。
「移送対象が、逃走しようとしております!」
『撃て!』
尊が逃走しようとしていると聞いて、間髪入れずに攻撃の指示を出す百武指揮官。だが、それは一拍遅かった。再度振られた尊の腕。今度は手に持っている剣がはっきりと見えている。頑丈な護送車の車体を、簡単に切り裂いてしまう剣が。
「うっ、うわぁああああっ!」
尊の立っている場所から、真っ二つに割れた護送車。車体を引きずり、火花を散らしながら進む前の方に残れた兵士たちは幸いだった。
尊のいた後方は、後ろを走っていた装甲車に跳ね飛ばされ、その破片が道路上を舞っている。
『確保しろ! 急げ!』
無線の声が響く。それに反応出来たのは前後を走っていた装甲車の兵士たちだ。急停車した装甲車から降りてくる兵士たち。周囲を警戒しながら、道路に転がっている護送車の破片の近くに倒れている人影を囲む。さらにその中から二人が、前に出て破片に近づいていく。
「……違う! 味方だ!」
地面に倒れていたのは護送車に乗っていた兵士の一人。尊ではなかった。
「探せ! 近くにいるはずだ!」
「熱探知反応は!?」
装甲車に装備されている探知装置の反応を尋ねる百武指揮官。だが、その問いに返ってきたのは。
『……それ何?』
「なっ!?」
尊と思われる声だった。装甲車の一台が、運転席に残っていた兵士を振り落として、走り出す。
「逃がすか!」
尊が乗っていると思われる装甲車に向かって、腕を伸ばす百武指揮官。その指先から飛び出したのは新型スピリット弾。
放たれた四発のスピリット弾は勢いを増して、装甲車に向かっていくのだが――装甲車の手前で大きく逸れてしまった。走り去っていく装甲車。
「……外した?」
信じられないという顔で呟く百武指揮官。
「指揮官! 早く乗ってください!」
その彼にもう一台の装甲車が近づいて来た。
「分かった! ヘリの出動も要請しろ! 急げ!」
装甲車に乗って逃走する尊を追う百武指揮官。だが彼が目的を達成することはなかった。