第七七四特務部隊の本部には陸士たちの机もある。ほとんど使われることのないその机だが、今はそこに尊が座っていた。教科書を開いて熱心に勉強をしている尊。だが熱心さと勉強の進みは必ずしも比例するわけではないようだ。腕を組んで「うんうん」唸っているばかりで一向に先のページに進まない。
「どこが分からないのかな?」
見かねて立花防衛技官が声をかけた。それに対する尊の答えは。
「……全部」
「えっ?」
「算数は苦手」
「そうか……勉強は苦手なんだな」
長く行方不明になっていたのであれば学校に行っていないはず。尊が勉強を出来ないのも当然だと立花防衛技官は思った。
「国語は終わり」
「……終わり?」
得意ではなく終わり。これでは国語もやはり苦手なのではないかと立花防衛技官は思う。
「社会と理科はもうすぐ」
「もうすぐ……」
どういう基準で尊が言っているのか全く分からない。
「算数はまだまだ」
「まだまだ……ああ、これか」
理解していない様子の立花分隊指揮官に気付いた尊が机の端に積まれている教科書や問題集を指さした。それを手に取って立花分隊指揮官はようやく意味が分かった。国語の問題集は最後まで答えが書き込まれている。国語の勉強は終わったと尊は言いたかったのだと。
「……どうして算数は苦手なのかな?」
小学生や中学生向けの教材だ。難しいものではない。だが小一から中三までとなればそれなりの量があり、全てを終わらせるのは容易ではないはず。他の教科はそれが出来ていて算数だけが全然進んでいないのが立花分隊指揮官は不思議だった。
「意味が分からないから」
「だからその意味が分からない理由」
「……分数の計算なんていつ使うのですか?」
「いつ……いつだろう?」
日常生活で分数そのものを使う機会。立花分隊指揮官はそれを考えてみたが、すぐに思い付かなかった。
「役に立たない勉強はやる気がおきない」
得意不得意というよりも単にやる気の問題。それを知って立花分隊指揮官の顔に苦笑いが浮かぶ。尊の気持ちは分かるがそれを言ったら学校の勉強のどれだけが役に立つかと思ってしまう。
「……そう決めつけるものではない。学問は何が役に立つか分からないものだからな」
不意に割り込んできた声。声の主はとても軍人には見えない白髪の痩せた老人だった。
「貴方は?」
始めて見るその人物。立花分隊指揮官の胸に警戒心が湧く。
「精霊科学研究所の所長だ」
「えっ?」
七七四に配属されて精霊科学研究所を知らないはずがない。そこの所長だと知って立花分隊指揮官は驚いている。
「君が尊くんか?」
斑尾所長はそんな立花分隊指揮官を放っておいて尊に話しかけている。
「はい。そうですけど」
「学べるものは全て学ぶべきだ。さっきも言った通り、どこで役に立つか分からないからな。それを無駄と捉えるようでは大成は出来ん」
「はぁ……」
「私の研究もそうであった。精霊科学がまともな研究とは誰も認めてくれんかった。だがどうだ? 何の役にも立たないと思われた研究が日本を救おうとしている」
オカルト研究家。科学者と認める人など誰もいなかった。その斑尾所長が今や国家プロジェクトの責任者となっている。この事実を興奮気味に話す斑尾所長だが。
「救うかどうかはまだ決まっていません」
尊の反応は冷めたものだった。
「……ふむ。では救う可能性があるに変更しておこう」
尊の言葉を受けて自分の言葉を訂正する斑尾所長。興奮は一瞬で冷めたようだが、とくに不機嫌な雰囲気もない。尊の顔を興味深げに見つめている。
「あの……ここにはどのようなご用件で」
二人の会話が途切れたところでまた立花分隊指揮官が口を開いた。いくら精霊科学研究所の所長とはいえ部外者であることに変わりはない。立花分隊指揮官は自由にさせておくわけにはいかないと考えている。
「彼に話があってきた。それと彼と同じ部隊の天宮杏奈くんの顔も見てみたくてな」
「天宮も、ですか」
「もうすぐここに来るはずだ。君のところの部隊長が呼びに行っている」
「はい?」
葛城陸将補に呼びに行かせた。斑尾所長の説明をそう捉えた立花分隊指揮官だが。
「正確には私の書記官が、です」
葛城陸将補本人が正確な説明をしてきた。
「同じようなものだ」
「まあ、それについてはどうでも良いです。それよりも勝手に話を進めないでいただけますか?」
「話は進めておらん。挨拶と世間話をしていただけだ」
「その挨拶、というか紹介も私の役目なのですが……話を始めますか?」
文句はまだ言い足りないが時間を無駄にもしたくない。というより斑尾所長にはとっとと用件を済ませて帰ってもらいたい。
「女の子が来ておらん」
「彼と話をするのに彼女がいる必要はありません」
出来ればいないほうが良いが葛城陸将補の本音。
「……それはそうだな。では本題に入ろう。尊くん、君に聞きたいことがある」
「何でしょうか?」
「スピリット弾を君のように扱うにはどうすれば良い」
いざ話を始めるとなれば回り道はしない。斑尾所長も本来は時間を無駄にしたくない性質だ。
「……それを教えるとどうなるのですか?」
「精霊兵器の研究が進む」
「そうではなくて僕にはどんな利益があるのですか?」
「何?」
まさか尊からこのような問いがくるとは斑尾所長は思っていなかった。
「会うのは初めてですけど、貴方との間にはすでに約束があるはずです。その約束に今の様なことは含まれていません」
「……ふむ。確かに」
斑尾所長は尊の言い分を認めた。ここで下手なことを言えば最初の約束も反故にされると思ったからだ。
「まずは最初の約束を果たすこと。他のことはその次ではないですか?」
「困ったな。最初の約束は簡単ではない。それは君も分かっているはずだな?」
「はい。でもそれに見合った約束を僕もしたつもりです」
簡単に果たせる約束ではない。そうだから尊はここにいるのだ。
「……見返りに別のことを用意したらどうかな?」
「新しい別の約束という意味ですか?」
「その通りだ」
「……僕には他に求めるものがありません」
少し考えて尊はこれを口にした。尊が求める見返りはない。これでは新しい約束は成り立たない。
「……君が望む時に妹に会わせてやる。これでどうだ?」
「えっ?」
驚きの声をあげたのは尊ではなく立花防衛技官。行方不明であった尊の妹の所在も明らかになっていると知って、驚いたのだ。
「……何故、君が驚く?」
「あっ、いえ、妹がいると初めて知りましたので」
咄嗟に嘘をついてしまう立花防衛技官。本人を目の前にして尊のことを調べていたとは言いづらい。
「……まあ良い。どうかな? この条件は」
「僕と妹は好きな時に会えないのですか?」
それが見返りになり得ることに尊は疑問を呈してきた。
「それは……研究所の出入りは厳重に管理されているのでな。いつでも会えるというわけにはいかない」
「それが自由に会えるようになる?」
約束をすれば研究所に自由に出入りすることが出来る様になるのか。そうはならないと思っての問いだ。
「……いや、すまない。月一回は必ず会わせるでどうだ?」
適当なことを言って尊を騙すことは困難。そう判断して斑尾所長は実現出来る条件を提示し直した。そうなるとあまり魅力的とは思えない条件になってしまう。
「……じゃあ、それで」
「えっ? 良いのか?」
まさかの合意。斑尾所長は思わず問い返してしまった。
「良い」
「では約束だ。それでスピリット弾を自由自在に扱うにはどうすれば良い?」
尊の気持ちが変わらないうちにと斑尾所長は問いを発した。
「お願いすればいい」
「……はっ?」
「お願いすれば聞いてくれる」
「……君はスピリット弾と意思疎通が出来るのか?」
何を馬鹿なことを、では斑尾所長は終わらせない。それは過去、自分を馬鹿にしていた人たちと同じ態度だ。
「出来ない」
「ではどうして君のお願いを聞いてくれる?」
「……彼女がやっているのと同じ」
「彼女?」
「天宮さん」
指を伸ばしながら天宮の名を告げる尊。その指の先には三峯秘書官の後に付いて部屋に入ってくる天宮の姿があった。
「……彼女も出来るのか」
「彼女だけじゃない。この間の戦いでは敵も同じことをしていた」
「……分かった。何だ、そういうことか」
前回の戦いの話が出たところで斑尾所長は尊が何を言っているのか分かった。尊の行ったことは特別なことではない。七七四のメンバー、そして鬼であれば出来ることだ。精霊力もしくは鬼力を物質化して遠隔操作するということなのだから。
「僕は約束を守った」
「あ、ああ。ただもう一つだけ教えてくれ」
「約束」
「一つだけだ。何故、君はそれが出来る?」
精霊力を身につけた人であれば、得手不得手はあっても、誰でも出来るかもしれない。だがそれを身につけられないはずの、適合率ゼロパーセントであるはずの尊が何故出来るのか。
その答えは斑尾所長の頭の中にはない。そしてそれが分からなければ兵器の強化は実現しない。誰でも尊のように武器を使えるようにすることが斑尾所長の目指す成果なのだ。
「……出来るから」
「……そうか」
尊には答える気がない。だからといって斑尾所長は諦めたわけではない。また別の機会を探ろうと判断しただけだ。少なくとも月一回は会えることになったのだ。
「桜にはいつ会える?」
「……三日後に研究所まで来てくれ。道案内は葛城陸将補に」
「分かった。僕からも一つ聞いて良い?」
「答えられるものであるなら」
「貴方は誰?」
「えっ?」
「貴方は誰?」
「斑尾。精霊科学研究所の所長だ。最初に自己紹介をしたつもりだが……それに分かっていて話をしていたのではないのか?」
自己紹介を聞いていなかったにしても、すでに約束があると尊は言った。それは斑尾所長が何者か分かっていなければ出てこない言葉だ。
「……名前は聞いてない」
「そうだったかな」
口数が足りないというか、独特な話し方をする尊。斑尾所長はそれに戸惑いを覚えている。
「僕の話は終わり。あとはどうぞ」
会話の終わりを宣言して数学の問題集を開く尊。この態度もまた斑尾所長を困惑させるものだった。
「紹介しましょう。彼女が天宮陸士です」
その斑尾所長に葛城陸将補が天宮を紹介する。用件をとっとと終わらせる。この意思は変わっていない。尊と斑尾所長の会話を聞いて、さらにその思いは強くなったくらいだ。
「ふむ、彼女が。斑尾だ。よろしく」
「……初めまして。天宮です。よろしくお願いします」
天宮の表情には警戒の色が浮かんでいる。斑尾所長が何者かは分かった。だが尊との会話の内容は天宮に不信感を与えるものだったのだ。
「かなり優秀だと聞いている」
「いえ、それほどでも」
「そうだ。君も今度、研究所に遊びに来ると良い。歓迎しよう」
「……機会があれば」
喜んで、とは天宮は口に出来なかった。斑尾所長への不信感がそれをさせなかった。
「さて用件は済んだ。出口に案内してもらえるかな?」
斑尾所長はあっさりと天宮との話を終わらせて帰ろうとする。それもまた葛城陸将補に怪しさを感じさせるものだが、引き留める気にもならない。
「三峯くん。頼む」
「はい。では斑尾所長、こちらへ」
三峯秘書官の案内で部屋を出て行く斑尾所長。その背中を見て葛城陸将補は、そして立花分隊指揮官も深く息を吐く。
「ねえ、僕も君に聞きたいことがある」
そのちょっとした間に天宮が尊に話しかけた。
「……何かな?」
迷惑という気持ちを隠すことなく顔に出して、尊は問題集から顔をあげた。それはかなり天宮の感情を刺激するものだったが、問いを優先する為に何とかそれを押さえ込む。
「君は今、何歳なの?」
「……何歳に見える?」
「誤魔化さないで。僕は実年齢を聞いているのよ」
「どうしてそれを聞くのかな? 僕の年齢に興味を持つようなことがあったのかな?」
「それは……」
と言葉を詰まらせてしまうのが天宮の甘さ。尊のかまかけにまんまと嵌まってしまっている。
「僕のことをこそこそ調べる時間があれば剣の練習でもすれば? 君に死なれると僕が困るって何度も言っているよね?」
「どうして貴方が困るのよ」
「それに答える義務はない……けどいずれ知ることになるかな?」
尊の視線は葛城陸将補に向いている。葛城陸将補の考えを確認しようと考えているのだ。
「私は話すつもりはなかったが、研究所に行けば知られるのではないかな?」
「彼女も研究所に?」
「斑尾所長は諦めが悪いほうだ。機会を強引に作ってしまうだろう」
「……そう。じゃあ、彼女に説明しておいて。自分の口から話す気にはなれない」
こう言うと尊は問題集と筆記用具を片付けて席を立とうとする。
「どうして自分の口で話さないの?」
「葛城陸将補のほうが話が上手そうだから。僕が話すと余計なことまで口にしてしまいそうだ」
「余計なことって何?」
どちらかというと天宮はその余計なことを聞きたいのだ。尊の言うとおり、葛城陸将補の口からでは肝心なことは誤魔化されると分かっている。
「……僕がここにいるのは妹が君と同じような目に遭ったから」
「えっ?」
尊は天宮の望む通りに余計なことを語り始めた。天宮が何となく頭に描いていたこととは全く異なる話だ。
「言っておくけど、髪を短くして、男の子のような言葉づかいをしても無駄。力を使わなくても意味がない。君は……認めたくはないけど可愛いから男の欲望を刺激する。欲望は『穢れ』を生む」
「そんな……」
「『穢れ』を生むか生まないかは相手の問題だ。それが嫌なら顔を潰せば? 出来ないだろうけど」
「…………」
「ほら余計な話だった。一応、君に気を使ったつもりだったのにそれを分からないで求めるから。これに懲りたらもう僕に興味を持たないで。君はただ生き残ることだけを考えていればいい」
席を立って部屋を出て行く尊。もう天宮はそれを止めることが出来なかった。
「……どういうことか聞いても構いませんか?」
黙り込んでしまった天宮に代わって、恐る恐るという感じで立花分隊指揮官が葛城陸将補に事情を尋ねる。立花分隊指揮官には最後の話もまったく意味が分からない内容だった。
「……他言は無用。これは言うまでもないな」
「はい」
「彼と彼の妹は鬼に襲われていたところを保護された。といっても我々が現場に到着した時には鬼は全員死亡。気を失っている妹を彼が抱きかかえていた」
「……それが天宮くんと同じというのは?」
「それについては初めて聞いた。話してもかまわないか?」
葛城陸将補は天宮に了承を求める。それに天宮は小さく頷くことで答えた。
「まず鬼とは何かを話そう」
「はあ……」
今更、鬼の講義。そう思った立花分隊指揮官の反応は薄い。
「鬼とは精霊力を身につけた人間が『穢れ』に犯された状態を言う」
「はっ?」
だが葛城陸将補の説明は立花分隊指揮官の知る内容ではなかった。
「私はそう考えている。『穢れ』が何かはまだ良く分かっていない。古志乃くんが言った欲望もその中の一つに過ぎん」
「……あれはどういう意味なのでしょうか?」
「あれはつまり……七七四の男子隊員が天宮くんに恋心を抱いて、自分の物にしたいという強い欲望に心が囚われると鬼になる可能性があるというものだ。実際に一度だけだがそれがあった」
「そんな……」
立花防衛技官の視線が天宮に向く。その結果どうなったのかは想像がつく。初めて二人に会った時の尊の言葉を立花防衛技官は覚えていた。
「七七四では職場恋愛は禁止だな」
空気が重くなったのを感じて冗談を言う葛城陸将補だが、今この状況で笑いを取れるはずがない。
「……約束とは何ですか?」
呟くような声で天宮が問いを発してきた。自分の話になったことで逆に気持ちが定まったのだ。
「彼の妹を助けること。その代わりに彼には七七四の仕事をすることを頼んだ。君のサポートだな」
「妹を助けるとは? もう助けたのではないのですか?」
「鋭いな……彼の妹は穢れている。つまり鬼だ」
「えっ……」
「その穢れを払うこと。それが彼との約束だ」
「鬼を普通に戻せるのですか!?」
もしそうであるなら自分は何の為に戦っていたのか。こんな思いが天宮の心に浮かんでいる。これは勘違いだ。
「出来るのだろうな。正直、彼と約束した時は出来るとは思っていなかった。だが今は何らかの方法があると思っている」
穢れを払う方法はまだ見つかっていない。少なくとも尊の妹にそれをしようとしている精霊科学研究所では。だが葛城陸将補はいつかそれが出来ると考えていた。
「……『YOMI』ですね」
天宮には葛城陸将補の考えが分かった。鬼でありながら正気を保っていた敵。あれが『穢れ』を払った結果なのではないかと。
「そうだ。そうなのだが……まあ、研究はまだまだこれからだ」
葛城陸将補は尊、そして妹の桜は『YOMI』と関係があったと考えている。尊たちを襲った鬼は『YOMI』のメンバーではないかと。そうであるなら何故、妹の桜は穢れたままなのか。尊と桜にとって『YOMI』は最初から敵だったのか。この辺りのことは、今は分からない。
だがいずれそれも分かる時が来る。尊が前線に出続ければいつか相手もその存在に気付く。そうなった時に相手がどういう反応を見せるかだ。
葛城陸将補はこう考えているが、すでに『YOMI』は尊の存在に気付いている。葛城陸将補が考えているよりも遙かに早く、事は動き出すのだ。