国王との謁見を終えた日向たち五人が案内された部屋には、黒いローブをまとった男性が待ち構えていた。杖を持ったその姿は誰が見ても魔法使いだ。
「よくまいられた異世界の方々。儂はパルス王国の宮廷筆頭魔法士を務めるグランという」
見た目の通り、その男は魔法使い。この国では魔法士と呼ぶようだが。
「すでに王に聞いているであろうが、皆のステータスを確かめさせてもらう。なに、別に特別なことをするわけではない。ここにある水晶に手を当てるだけじゃ」
「質問いいかな?」
真っ先に口を開いたのは日向。この先、生きていく為には多くのことを知らなければならない。遠慮なんてしていられないのだ。
「ん? かまわんぞ。何でも聞くがよい」
「それで何が分かるのかな?」
「ああ、これか。この水晶は人の魔力を測るものだ。また属性についても調べることが出来る」
「属性って?」
想像はついているが、きちんと確認することにした。思い込みで行動するのは危険だと考えているのだ。
「魔法の属性のことだ。魔法属性には火、水、風、土、そして光の五属性がある。水晶の光の色によって、その者が持った属性を判断するのだ」
「魔力は? 数値とかで分かるの?」
「数値? いや、そこまではわからん。あくまでも目安じゃ」
「HPとかMPとかはないのか?」
日向が聞きたいのはゲームのステータスのように体力や魔力の量が数値で見られないのかということ。ファンタジー小説では普通に存在したりしているものだ。
「何じゃそのなんとかピーというのは?」
「ないのか……それはギルドカードでも分からないの?」
「なんじゃ、ギルドカードを知っておるのか?」
「まあ……それでも数値化されない?」
ギルドカードはこの世界に存在していた。そうなるとそれについても詳しく聞きたくなるが、今は目の前の疑問を解決させるのが先だ。
「ギルドカードで示されるのはもう少し詳しいかの。それでも数字にはならん」
「……そう。それだと力が分からないな」
「なんじゃ。お主たちの世界では人の力が数字で示されるのか?」
「いや、それはないけど」
現実にはそんなことはない。グランの問いを受けて、日向は自分がすごく馬鹿な質問をしているように感じて、少し恥ずかしくなった。
「ではそんなことを聞くな」
「ごめんなさい。話を先に進めて」
「話を進めるも何もない。実際にそれぞれを測定するだけじゃ」
「じゃあ……とりあえず、勇者様からですね?」
「そうだな。ではユート殿、始めるか」
日向は勇者からと言っただけなのに、グランはそれを優斗ととらえた。これでグランも優斗が勇者であると決めつけていることを日向は確認出来た。別にそんなことは初めから分かっているが、そうであるならこの測定は意味がないのではないか。
測定を受けることに積極的でない日向の小さな抵抗だ。グランには伝わっていないが。
グランに呼ばれた優斗は少し緊張した面持ちで、目の前にある水晶に両手をあてた。途端にピンクに光り出す水晶。火は赤、水は青、風は緑、土は黄。日向は属性の色をそう考えていた。ではこの水晶が示すピンクとは何なのか。
日向の中では勝手な想像が膨らんでいる。主人公特有のハーレム全開属性のピンク。どんな女も一目ぼれさせる超特殊属性。そんなことを考えて笑いをこらえるのに必死だ。
「これは……うむ、間違いないじゃろう」
だがグランのほうは大真面目な顔で水晶を眺めている。最初は少し驚いていたが、じっくりと水晶を眺めると、納得した様子で顔をあげた。
「さすがは勇者というところじゃな。属性は火、そして光だ」
「あの、それは?」
さすがと言われても、火属性と光属性の何がすごいのか優斗には分からない。
「魔法というのは普通一つの属性しか使えないはずなのじゃ。儂が知る限り、複数属性が使える者など神話の中の魔術師くらいだ。しかしユート殿の水晶の赤と白がまざったこの色は間違いなく二つの属性をユート殿が使えることを示している」
「ではやはり僕は勇者なのですね?」
「ああ。魔力も光の具合からみて、一般人をはるかに凌駕しておる。間違いないだろう」
「そうですか」
笑みを浮かべる優斗。「やはり」などと言ったところをみると優斗自身もそれなりに自信はあったのだろう。それとも周りから勇者であると言われてその気になっていたのか。
そんなことは日向にとってはどうでも良い。日向は優斗の属性がピンク属性ではないことを残念に思っている。
「では、次はミリア殿」
「……はい」
続けて美理愛。優斗と同じように少し緊張しながら水晶に両手をあてる。
「これは!」
優斗の時以上にグランが驚いている。驚いている理由は明らか。美理愛の光は、先ほどの優斗の光を超えた眩しさだ。
色は空色と表現するのが正しいのか。さきほどのグランの説明から光と水属性だと考えられる。
「あの……私は?」
「ミリア殿も勇者ということじゃな」
「私もですか?」
「うむ。光の強さはユート殿を超えている。しかし、これは……二人も勇者が?」
一度の召喚で一人のはずの勇者が二人。さきほどの国王の説明とは異なる事態が起こっている。それに焦っているのは日向だけ。召喚された人間が全員この世界の人を超える力を持っていたら。彼は自分に力があろうがなかろうが勇者なんてやるつもりはないのだ。
「よーし。次は俺だ。見てろよ」
それと正反対に張りきっているのは冬樹。自分も二人に続けとばかりに両手を水晶にあてた。
「うーむ。魔力はあるようだが……」
冬樹が手を当てた水晶は、実にムーディーな光を放っている。間接照明。何人かの頭の中にそれが浮かんだであろう。
「あれ?」
「冬樹、恥かしいね」
「うるさい! じゃあ、夏がやってみろよ」
冬樹に言われて夏が手を当てると水晶が示した色は……黒。
「ふむ。これはこれで珍しいな。魔力がほとんどないとは」
「そう。じゃあ、次は日向だね」
判定結果を気にした様子もなく、夏は日向に振る。
「何故、君が呼び捨てにする?」
「いいじゃん。固いこと言わない。あたしのことも夏でいいよ」
「君のことを……」
「なーつ!」
「……夏だね……わかったよ」
面倒くさい女。そんな言葉を呟きながら日向は水晶の前に立った。さすがの日向も少し緊張しながら水晶に両手を置く。結果は黒。グランの判定では魔力はないということになる。
「はっ! なんだ日向。お前、夏と一緒で魔力なしか。そんなんじゃ、勇者になんてなれないぞ」
日向が自分よりも下と考えて、冬樹は嬉しそうだ。
「最初からなる気なんてない。それに君も勇者は無理だからね。五十歩百歩ってところだ」
「なっ!」
「ふーん。日向の色って、あたしのより更に黒いね。漆黒って感じ」
言い争いになりそうになっていた二人をまったく気にすることなく水晶を見つめていた夏が、こんなことを言いだした。
「はあ? 変わらないよ。黒は黒だ」
「そうかもしれないけど。あたしの黒とは少し違うじゃん。ほら」
そう言って夏はまた水晶に手を置いた。確かに夏の言う通り、同じ黒でもほんのわずかだけど灰色がかっているよりに見えないこともない。つまり同じ色でも微妙な違いがあるということ。
「こら、勝手に水晶に触るな」
勝手に水晶を使っている夏をグランが注意してきた。水晶はパルス王国にとって、大変貴重なものなのだ。
「まっ、いっか。これで測定はお終いだね。お爺さん」
「お爺さん? 儂はまだまだ若い。まったく、異世界の若者というのは礼儀というものを知らんな。まあ、確かにこれで終わりじゃ。儂は結果を王に報告に行く、皆はここで待っておれ」
そう言うとグランはそそくさと部屋を出て行った。
判定結果は日向にとって良いものではない。勇者をする必要はなくなった。だが魔力が全くないとなると、傭兵ギルドで仕事を行うのは厳しいことが想像される。
日向は国の世話にならずに生活するつもりだ。だが生活の糧を何で得れば良いのか。それを今考えても結論は出ない。日向はこの世界のことをまだ何も知らないのだ。
「君たち、あまり落ち込まないほうが良いよ」
考え込んでいる日向や同じように黙り込んでいる夏の様子を見かねたのか、優斗が声を掛けてきた。
「そうよ。元々、私たちはただの学生じゃない? 勇者なんてならないほうが良いのよ」
二人の慰めは日向にとってはピントはずれのもの。日向には初めから勇者になる気などないのだ。ただ中等部の三人の中で唯一それに落ち込んでいる人がいた。
「うるさいな! どうせお前たち二人は勇者で、俺たちは一般人だよ!」
冬樹だ。慰めの言葉なんて彼にとっては侮辱されているに等しい。冬樹の口から出たのはこんな台詞だった。
「そんな言い方は良くないな。それに僕たちは君たちより年上だよ? どうも君たちは、礼儀というのが出来ていないね。桜花学園の生徒として恥ずかしくないのかい?」
「はっ! どうせ俺達は学園の落ちこぼれさ。あんた達みたいなエリートさんとは違うんだよ」
「……俺たちって言うな」
冬樹に文句を言う日向。冬樹と日向では悩んでいることが違う。一緒のように言われたくない。
「なんだよ! お前だっていつも赤点ぎりぎりだろ! それが落ちこぼれじゃなくてなんだんだ!?」
「赤点取ってる奴に言われたくない。それに僕は……まあ、いいや。それでどうするつもり?」
「……どうするって何がだ?」
「僕は最初から勇者なんて関係ないところで生きていこうと考えていた。君たち二人はどうするの?」
「俺は……俺は諦めないからな。今は駄目でも訓練して強くなればいいんだ!」
「そう……分かった。まあ、ゲームでもレベルの低い時は弱いものだからね」
「そういうことこと! レベルが上がっていけば俺だって……!」
日向の何の根拠もないいい加減な慰めに途端に元気になる冬樹。
「……レベルがあればね」
「ん? 今何か言ったか?」
「いや、別に」
「冬樹。単純すぎ……それに日向も変に冬樹を煽らないで」
「別に煽ってない。自分のやりたいことは自分で決める。それだけのことだよ」
「そうだけど……」
「失礼!」
彼等がそんな話をしているうちに、一人の騎士が部屋にやってきた。国王からの迎えの使いだ。
「勇者のお二人には至急、王の下に来るようにとの伝言です」
「ああ、わかりました」
「僕たちは?」
「残りの者には部屋を用意している。そこで休んでいてもらおう。あまり好き勝手に出歩かないように」
日向たちに用はない。測定前からそのような雰囲気だったが、実際の待遇でも差を付けることになったようだ。
「食事は? まさか、飯も出さないとか言わないよね?」
「それについては私は聞いていない。後で案内の者がくるから細かいことはその者に聞いてくれ。王を待たせるわけにはいかないからな。さあ勇者様、こちらです」
日向に対するものとは違う丁寧な態度で、優斗と美理愛を案内する騎士。その騎士について二人は部屋を出て行った。
「なんだ、あれ!?」
騎士の失礼な態度に冬樹が怒っている。
「まあ、こんなものだよ。
勇者じゃなければ僕たちはただの無駄飯食い。部屋を用意してもらっただけマシじゃない?」
冬樹の感情的な様子とは対照的に日向は淡々とそう告げる。
「無駄飯食いっていうけど、まだ飯食ってないぞ」
「それはさっきの騎士が言った通り。後で聞くしかない」
「日向はなんでそんな落ち着いていられるんだ!」
「落ち着いていないのはお前だけ。少しは夏を見習ったら? それと僕のこと勝手に名で呼ばないで」
「お前だって、さっきから俺をお前呼ばわりだろ!」
「呼び捨てにはしていない」
「なんだと!」
日向の挑発に乗って激高する冬樹。といっても日向に冬樹を挑発しているつもりは全くない。本人としてはただ事実を述べているだけなのだ。
「もう、冬樹うるさい。いいじゃん。お互いに名前で呼べば。これからずっと一緒にいるんだから」
「ずっとじゃない。この城を出るまでだよ」
日向の態度は夏に対しても変わらない。
「理屈っぽいなぁ。そんなんじゃ友達なんて出来ないよ」
「……別に友達なんて求めていない」
ためらうように日向がそんな言葉を口に出した。これまでの落ち着いた、それでいて皮肉さを感じさせる雰囲気とはあきらかに違う様子。夏は何でと問いかけようとした言葉を飲み込んだ。
「……とにかく名前で呼び合うこと。いいね?」
「……わかった」
逆らう方が面倒そうなので、日向は名前で呼び合うくらいは受け入れることにした。
「じゃあ、これからどうするか話をしない?」
「はっ? なんで?」
「なんでってあたしも魔力がないって判定されたの。この世界でどう生きるか考えなきゃいけないのはあたしも一緒じゃん」
「そうだけど……それで? 何か案があるの?」
「具体的にはないけど……日向は、この世界はどんな世界だと思う?」
「異世界」
「そうじゃなくて、もっと具体的に」
「そんなのまだ分からない。分かっているのは、剣と魔法の世界ってことくらいかな。文明は……よく分からないな。判断するには材料が少なすぎる」
ふざけて答えを返したつもりはない。今分かっているのはそれだけということだ。それさえも絶対とは言い切れないと日向は思っているが。
「ゲームかファンタジー小説の世界だものね」
「もしかしたら、夢の世界かもしれない」
「夢か。夢ならさめれば終わりだけど……」
夢であって欲しい。そういう思いはある。だがそうではないという感覚が夏の心の中にはある。
「さめるまでは現実だと思って行動するべきだろうね。魔物がいて、魔族との争いがある。下手するとあっという間に天国行きだ」
「やっぱ、そうかな?」
「夢じゃなければ、そういうことだよね?」
夢であることを期待して、何もしないでいれば間違いなくそうなる。この世界は平和な元の世界とは違うはずなのだ。
「どうする? 俺たち?」
冬樹も冷静になる時間が出来たことで不安になってきた。これまでの態度とは違って、少しすがるような感じで問いかけている。
「どうするって冬樹は勇者を諦めてないんだよね? まあ、頑張って」
「他人事みたいに言うなよ」
「他人事だから。少なくとも冬樹には魔力があることが証明された。勇者は無理でも、ギルドで生活できる可能性があるってことだ」
「そうだけど……じゃあ、日向と夏はどうするんだ?」
「それを今考えている」
冬樹にはこう言ったが、今結論を出せる問題でないことは分かっている。国王が言うとおりだとすれば基礎の魔法はこの世界の人間であれば誰でも使えることになる。そうなると魔法を使えない自分たちが、この世界で生きていくのは厳しいだろう。
この世界で僕は落ちこぼれだ。日向の口元に浮かんだ笑みは他人に対する皮肉ではなく自嘲だった。
「諦めるのは早いんじゃないかな?」
日向の考えていることが分かっているかのように夏がそう言いだす。
「どうしてそんなことが言えるのかな?」
「日向とあたしは本当に魔法が使えないのかな? この世界の人の常識が必ずしも真実じゃないってよくあることよ」
「それこそファンタジー小説の世界だ」
「そうかもしれない。でも世の中の常識が真実じゃないことは、元の世界でもあるんじゃないかな?」
「……それは否定出来ない」
否定は出来ないが、ただ期待しているだけでもいられない。夏の勝手な考えなのだ。
「それを調べてみない?」
そうであることは夏本人も分かっている。夏もそれほど楽観的な性格ではないのだ。
「調べる? どうやって……なるほど、ここは一国の王がいる城。色々な本があるはずか。それを調べてみるってのも一つの手だね?」
「そうね。そうなると本を閲覧できる権限が必要ね」
「それは国王との交渉だね。謁見の時に最低限の知識は学ばせることは約束している。あとは勝手にそれをやらせてもらえるか」
自分たちに隠したいこともあるかもしれない。恐らくはある。そうなると約束が、こちらの希望通りに守られるかは微妙だ。
「それが出来たとして何から調べる?」
「まずはこの世界のこと。他にどんな国があるのか、人間以外の種族は。魔族がいるってことは他にも種族がいる可能性がある。あとは……国同士、種族同士の関係性かな」
「なんで、そんな事調べるんだ? まずは魔法だろ、魔法」
冬樹には日向の選択が理解出来ない。戦う力のことしか考えていないのだ。
「もう……冬樹も少し考えなよ。勇者じゃないって分かった途端にこれだよ? この国はあまり良い国じゃないよ。それに魔族との争いもある。城を出たら、出来るだけ早く別の国に行くべきだよ。もっと安全で安心できる国に」
「ああ、そうか」
夏は違う。冬樹よりも遙かに深く考えていた。日向にはそれが意外であり、少し気持ちが楽にもなる。人に頼る気持ちはないが、全てを自分だけで何とか出来ると考えるほど傲慢でもないのだ。
「あとは物価とかも。ただ、それは本に書いてあるかわからないな。その時、その時の物価をいちいち本になんてまとめないだろうから」
「それは、あたしが調べるわ」
「……じゃあ任せる」
本に書いていないことを夏はどうやって調べるつもりなのか。日向は少し疑問に思ったが、調べると言うのなら任せることにした。
「あとは?」
「魔法は当然として……あとは職業だね。魔法を使えなくても出来る仕事があるか」
「そうね。あとは地図も欲しいけど……無理かな?」
「どうだろう? この世界で、地図にどれだけの価値があるか分からない。機密扱いの可能性もあるね」
「そうだよね。あとは何かあるかな……」
実際に地図を手に入れられるかどうかは今は分からない。今考えることはこれからの行動。とにかく思い付くことをあげていくことだ。
「……おい、お前たち」
そんな日向と夏の会話に完全に置いて行かれている冬樹。たまらず口をはさんできた。
「何?」
「何でそんなに次から次へと色々なことが思いつくんだ? 俺、ついていけないんだけど」
「それは頭の出来が違うんじゃないか?」
「なんだと! 赤点ぎりぎりの奴らとの差なんて、わずかだろ!」
日向の言葉にすぐに頭に血を上らせてしまう冬樹。これは冬樹だけの問題ではないが。
「僕は赤点ぎりぎりしか取れないんじゃなくて、赤点ぎりぎりを取ってるんだよ」
「なんだ? 何が違うんだ?」
冬樹には日向の話の意味が分からなかった。
「わざと赤点ぎりぎりにしてるって意味よ。それくらい分かりなよ」
その答えを冬樹に教えてあげたのは夏。
「なんでそんなことを?」
意味は分かったが、そんな真似をする理由が分からない。普通は分からない。
「面倒くさいからだよ。下手に良い点を取ると偏差値が高い高校に行かせようとして先生どもがうるさい。中学を卒業したら僕は大学に戻るつもりだからね」
「大学に戻るって? 日向は同い年だろ」
日向の言葉には冬樹だけでなく夏も驚いている。日向の言葉の意味。大学に戻るということは、一度大学に行っているということ。日向と自分たちは同い年。その日向が何故大学に。
「僕が日本に来たのは四年前。その前は飛び級使って大学で勉強していた。家庭の事情で日本に来ることになったけど、日本には同じような制度がないからね」
「飛び級って……それ何歳の時だよ?」
「九才かな?」
「……お前すごいな」
九才で大学生など常識の範囲ではない。冬樹はそのことに素直に感心の声をあげた。
「別に……人より少し頭が良いってのは親からもらったものだ。自慢できるものじゃないから」
だが日向は褒められて喜ぶどころか却って不機嫌になっている。
「それでもなあ。いいな。試験なんて楽勝だろ? うらやましいぜ」
「うらやましい? 本当にそう思う?」
冬樹の羨ましいの言葉で日向の雰囲気が変わった。元からきつい目つきを更に厳しくして、冬樹を見ている。
「それは……そうだろ?」
冬樹もその雰囲気の変化に気づいたようだ。少しおどおどした感じで返事をした。
「……両親は僕のせいで離婚した。僕の頭が人よりも良いことを知った瞬間から、母親は飛び級で大学に行かせようと必死。もっと自由に育てたかった父親と意見が対立した結果だ」
「それは……」
「僕は母親に引き取られたけど、母親は金もないのに変わらず僕を大学に行かせようとした。それまで働いたことなんてなかったらしいのに、学費を稼ぐために朝から晩まで働いてた。そして僕が大学に入ってまもなくの頃だ。連絡が入って病院に行ったら、冷たくなっていた母親がいた」
「「えっ!?」」
「過労死って奴だ。僕の母親は、僕がちょっと人より頭が良かったせいで死んだ……どう? これでもうらやましい?」
「…………」
「…………」
声を荒らげることなく、涙を堪えて声を震わすでもなく、日向はただ淡々と母親のことを話した。それが却って日向の心の痛みの深さを二人に感じさせる。
返す言葉が見つからない。ただ黙って日向を見つめるだけ――
「……はぁ……ごめん。つまらないこと話した。忘れて欲しい。ちょっと頭を冷やしてくるね。遠くまでいかないから、先に迎えが来たら呼んでくれると助かる」
言葉をなくした二人を見て軽くため息をついた後、これを告げて日向は部屋を出て行った。
「冬樹……」
「わるい。まさか、あんな事情があるなんて思わなくて。ちょっと軽い気持ちで言っただけなんだ」
「それは分かるけど……」
夏としても正直それほど冬樹を責める気持ちはない。冬樹に悪気がないのは分かっている。まさか日向の家庭にこんな事情があったなんて二人に分かるはずがない。それは日向も分かっている。だから謝罪を口にしたのだ。
「怒ってるかな?」
「怒ってはいないんじゃない? 多分あれは余計なことを話したと思って、少し恥ずかしいんだよ」
「何でそんなことが……そうか、夏もだったな。わるい。俺また無神経なこと言った」
「大丈夫。それにあたしの親は生きてるし」
夏の両親も離婚している。夏の場合は日向と違って親を亡くしたわけではない。離婚したのも自分のせいではない。だから夏と日向の考え方は少し異なるのだ。
(親なんてどうでも良い。あたしがそんなことを言ったら日向は怒るかな? 日向は自分のせいで母親を亡くしたと思っているのだろうか。そうだとしたら……なんか悲しいな)
自分は不幸だと思っていた。でも自分と同じ、もしかしたそれ以上に不幸な人が目の前に現れた。感じた気持ちは同情でも自分の方がマシという優越感でもない。そうであることに少し夏はほっとした。
ただ自分の心の中に、何に対するものか分からない悲しみが広がっているのを感じていた。