ツヴァイセンファルケ公国軍の動きは、完全にツェンタルヒルシュ公国の意表をついた。自国領に入ってきたことには気付いていた。王国軍の部隊、ソルたちがいる臨設第九〇一部隊を警戒して、東の領境の監視は厳しくなっていたのだ。万の軍勢が近づいてきていることに気付かないはずがない。
だがそのツヴァイセンファルケ公国軍が敵だという認識を、ツェンタルヒルシュ公国軍は持っていなかった。ツヴァイセンファルケ公国軍が伝えてきた「貴国からの申し出に応じて、王国軍へ共同で対処することになった。具体的な作戦について協議したい」という嘘を信じてしまったのだ。もちろん、上層部に確認は行った。だがツェンタルヒルシュ公国が使者を送ったのは事実。共闘を申し出た側が、協議を拒絶するわけにはいかない。こう考えて、ツヴァイセンファルケ公国軍の侵入を許してしまったのだ。
ツェンタルヒルシュ公国が真実に気づいたのは、領境近くの防衛拠点が落とされた後。さらに奥深くに侵攻されることになった。
騙し討ちで東部の重要軍事拠点を落とされてしまったことで、防衛線は機能せず。再構築を行おうにもツヴァイセンファルケ公国軍の進軍が速すぎて、対応が追いつかない。ツヴァイセンファルケ公国はかなり以前から侵攻を計画し、現地を調べ、準備をしてきたのは明らかだ。
このまま一気に公都までの侵攻を許してしまうことになる。まさかの情報が入ったのは、クレーメンスがその覚悟を決めた直後だった。
「……もう一度、説明してくれ」
「ツヴァイセンファルケ公国軍の背後から王国軍が奇襲をかけました。それにより、ツヴァイセンファルケ公国軍の侵攻は完全に止まっております」
「王国軍が……我々を救った?」
同席している妹のビアンカと顔を見合わせるクレーメンス。どうしてこのようなことが起きるのか。王国に対する共闘を呼び掛けた相手のツヴァイセンファルケ公国が攻め入ってきて、敵であるはずの王国がそのツヴァイセンファルケ公国軍を攻撃。進軍を止めてくれた。誰が敵で、誰が味方なのか。まったく予想していなかった報告を受けたクレーメンスは、頭の整理が追いついていない。それは視線を向けられたビアンカも同じだ。
「そうなります。その後も王国軍はツヴァイセンファルケ公国軍への攻撃を継続。我が軍も反撃に出ております。結果として挟撃する形になりましたので、今も優勢に戦いを進めているものと思われます」
「……王国軍の数は?」
「およそ三千です」
「最初に確認した部隊か……ツヴァイセンファルケ公国軍はかなり手強いとの報告を受けていたが? 最初の奇襲で大きく数を減らしたのか?」
最初の奇襲が成功したのは分かる。三分の一以下の数でも、相手の不意を突けたのであれば、勝利するのは難しくない。だが、正面からの戦いになれば数の差は大きい。ましてツヴァイセンファルケ公国軍はかなり強いという報告を、クレーメンスは受けている。その強さの理由についても分かっている。ツヴァイセンファルケ公、レアンドルが自ら出陣してきたか、彼と、自分と同じ力を持った者がいる、どちらかだろうと。
「詳細までは、まだ把握出来ておりませんが、何人かの敵将を討ち取ったことは分かっております。ただ、王国軍との初戦以降、戦場に姿を見せないことからの推測でありますので、誤情報である可能性はあるとのことです」
「王国軍の将はサー・ルッツだと聞いていたが?」
王国の将は優れた騎士でもある。個の強さもナイトの称号を得る、それが全てではないが、条件であるのだ。ではツヴァイセンファルケ公国軍の将を討ち取ったのはルッツか、となるとクレーメンスは疑問を感じてしまう。これがバルナバス、もしくはディートハルトであれば、まだ受け入れられるが、ルッツの実力は二人には遠く及ばないというのがクレーメンスが知る評価なのだ。
「はい。王国軍からそう伝えられております。ただこれも、現地で確かめられる者がおりませんので、正確ではない可能性があります」
ルッツの顔を知る者が、現場にはいない。確かめる術がないのだ。
「……王国の五将とは想像以上の強者たちだな」
王国の戦力を測り間違えていた。バラウル家の力を得ていたであろうツヴァイセンファルケ公国の将を討ち取る力が五将にはある。
「ベルムントでも野心は抑えきれなかったということか」
考えられる可能性は、亡くなったベルムント王から力を与えられていたこと。ツヴァイセンファルケ公、レアンドルと同じようにバラウル家の力を利用して、自国の戦力を増強しようとしたということだ。クレーメンスはそれを行っていない。自分以外に、バラウル家の力を持つ者を作りたくはなかった。自分を脅かす存在になることを恐れたというのもあるが、それよりも、人々にとって災厄となる可能性のある人物を増やすことなど許されないと考えたのだ。
「公?」
「ああ、すまない。続けてくれ」
「王国軍からは、ツヴァイセンファルケ公国はさらなる軍勢を送ってくる可能性があるとのこと。可能であれば、南にいる王国軍の東部への移動を許可願いたいとのことです」
戦った結果、ツヴァイセンファルケ公国軍に公国主であるレアンドルはいないことが分かった。そうであれば、次に備えて、今の戦場からは離れたい。なんてソルの考えを実現する為には、代わりになる軍勢が必要になる。ツェンタルヒルシュ公国軍に単独で引き継いでもらっても良いのだが、どうせならツヴァイセンファルケ公国を徹底的に追い込みたいのだ。レアンドルが公都にいる余裕を失わせるくらいに。
「王国軍を……五千の軍勢の移動か……」
今回は救われた。だからといって王国を全面的に信用することなど出来ない。王国は自国に侵攻する準備を整えていた。南にいるバルナバスの軍勢がそうだ。狼を追い払うのに虎を呼び込むようなもの。簡単に決断出来ることではない。
「……兄上。民のことを考えれば」
ツェンタルヒルシュ公国が滅びることになってもかまわない。こうビアンカは思っている。彼女はもう、ずっと前から、浮世を離れたいのだ。人の死を見たくないのだ。
「しかしな……」
ビアンカの気持ちをクレーメンスは理解している。公国主の座に固執してもいない。だが戦うことなく、降伏することには抵抗を感じる。ユーリウス王相手では尚更、という思いもある。
「……クレーメンス様。王国軍は恐ろしく強いです。東で戦っていた我々はそれを目の当たりにしました」
「戦っても勝てないか?」
「……正直申し上げて、そう思ってしまった者は少なくないと思われます。我々が止められなかったツヴァイセンファルケ公国軍を、王国軍は三千で圧倒してしまいましたから」
これを言う彼自身もそうだ。王国軍には勝てないと考えている。今回、新たな王国軍を自国に入れることを拒んでも、結果は同じ。拒否した分、状況は悪化する可能性もある。
「そうか。五将とはそれほどか」
「あっ、いえ、サー・ルッツも強いですが、恐怖を感じるほどではありません。恐ろしいのは王国軍の中でも、近衛特務兵団。三百ほどの部隊ですが、戦場で他を圧倒する存在感を示しておりました」
「近衛特務兵団……ルシェル王女が率いる部隊のことか?」
近衛特務兵団の名はクレーメンスも知っている。ベルムント王が亡くなってすぐに新設された部隊。それを設立した王国の意図が気になり、少し調べさせていた。部隊の詳細を掴むまでもなく、ユーリウス王の野心が見えたので、調査は途中で終わっているが。
「はい。ただ、ルシェル王女は戦場にはいないと思われます。現地で部隊を率いているのは、確か、ヴェルナーという騎士です。ただそのヴェルナーでもありませんで」
「どういうことだ? 結局、王国軍の何が脅威なのだ?」
「近衛特務兵団の第二隊です。数は二百ほどですが、神出鬼没な動きでツヴァイセンファルケ公国軍を翻弄しております。脅威なのは動きだけではありません。その攻撃力も圧倒的で、一度、ツヴァイセンファルケ公国軍を真っ二つに引き裂いてしまいました」
恐怖を感じている相手、とは思えない騎士の語り口だ。まるで憧れの将の活躍を喜んでいるかのように、クレーメンスには聞こえる。
「……そんな真似が出来るとすれば、異能者の部隊だな?」
ナーゲリング王国に異能者で編成された部隊がある。この情報はクレーメンスには届いていなかった。ツェンタルヒルシュ公国軍にもないわけではない。だがその部隊に同じような活躍が出来るとは、クレーメンスは思えない。騎士の話が極端に誇張されたものでなければ、だが。
「はい、間違いなく」
「率いているのは誰だ? その、ヴェルナーだったか、その男ではないのだろう?」
「紹介されておりませんので、はっきりとは分かりません。黒髪の、まだ若い男であることは遠目に見て、分かっております。あっ、あと、兵たちは、その人物はソルと呼ばれていると聞いたと言っておりました」
「えっ……そんな……?」
小さく驚きの声を漏らしたのはビアンカ。彼女はソルという名を知っている。その愛称で呼ばれていた人物を知っている。
「どうした?」
「その人の瞳の色は!? 青紫ではありませんか!?」
「ビアンカ!? どうした!?」
いきなり大きな声で、問い詰めるかのように騎士に迫るビアンカに驚くクレーメンス。彼はソルという名を聞いても、思い当たることはなかったのだ。
「……イグナーツかもしれません」
「なんだと……?」
「ルナ王女はイグナーツのことを、ソルと呼んでいました。自分以外にはそう呼ぶことを許さない、きっと二人にとっては大切な呼び名だったのだと思います」
ビアンカは一度もソルと呼んだことがない。ルナ王女の気持ちを考えて、ではなく、他の人たちは皆、イグナーツと呼んでいたので、それが普通だっただけだ。
「ベルムントの息子が生きていて、しかも近衛特務兵団、いや、この戦いに参戦しているというのか……」
「瞳の色を確認すれば分かります。印象的な青紫色。ルナ王女の赤紫とは対のような……生まれた時から……二人は……決まっていた……」
ビアンカの瞳から涙が零れ落ちる。ソルとルナ王女の瞳は対のよう。生まれた時から二人の人生は重なることが決められていた。そんな風に思っていたことを思い出したのだ。その二人の人生を終わらせてしまった自分の罪を、思い出してしまったのだ。
◆◆◆
物事が想定していなかった方向に動き始めた。本来、その中心にいるはずの人たちを置き去りにして。第一報を聞かされたユーリウス王の気持ちは、そんな感じだった。
何がどうなっているのか。まったく状況の変化に付いて行けていない。自分の思惑から外れた方向にばかり、物事が進んでいく。
そんなことはあってはならない。ナーゲリング王国の中心は王である自分なのだから。自分の思う通りに動かない王国など、受け入れるわけにはいかない。
こう考えても虚しいだけだ。現実に事態は動いているのだから。
「ツェンタルヒルシュ公国に侵攻したツヴァイセンファルケ公国軍は当初、およそ一万。かなりの被害を与えているということですので、現在は八千か七千か。とにかく一万の軍勢がツヴァイセンファルケ公国からいなくなったことになります」
「……だから?」
「サー・ディートハルトは作戦実行の許可を求めておられます」
どういう形であれ、ツヴァイセンファルケ公国内から一万の軍勢がいなくなり、すぐに戻れない状況に陥っている。兵力の分散は実現したのだ。ディートハルトはこれを侵攻を開始する絶好の機会と見た。
「一万でツヴァイセンファルケ公国を落とせるのか?」
「今であれば、というご判断です。ツヴァイセンファルケ公国との領境近くにも三千から五千の軍勢が集結しているとの情報が入っております。これで確認出来た数は二万です」
ツヴァイセンファルケ公国がさらに多くの軍勢を抱えていたとしても、間違いなく、その質は悪い。常備軍一万は公国の国力に基づき決められた数だ。その倍以上の数を抱えるのは財政上、かなり厳しいはず。戦いに備えて、急ぎ増強したと考えているのだ。
「オスティゲル公国が動くのではないか?」
「ノルデンヴォルフ公国との戦いで、それどころではないと思いますが……」
「……そうだったな。なるほど、確かに良い機会だ」
とにかく難癖をつけたくて、オスティゲル公国の話をしてみたが、それは間違い。すでにノルデンヴォルフ公国とオスティゲル公国が戦っていることは王国にも伝わっている。ユーリウス王も聞いている。
「では、ご許可を?」
「ツェンタルヒルシュ公国の降伏を確実にするのが先ではないか? リベルト卿はどう思う?」
すでにツヴァイセンファルケ公国からの降伏の意思表示も届いている。ツェンタルヒルシュ公国は王国とは戦っていない、という形に拘り、降伏という言葉は使われず、クレーメンスの引退願いとなっているが。
「ツェンタルヒルシュ公国内のツヴァイセンファルケ公国軍を壊滅に追いやることが必要と考えます。その為には、まだツヴァイセンファルケ公には働いてもらう必要があるのではないかと愚考致します」
ユーリウス王が意味もなく決断を先延ばしにしようとしているのは明らか。だがこの場合、その意向に沿うのは、謙虚ではない本当の愚考。現場の将が、今が戦機と判断しているのだ。その機を逃すわけにはいかない。
「……そうか。では前線に向かっているヴェストフックス公国軍が合流次第、侵攻を開始するように伝えろ」
「ヴェストフックス公国軍を待って、ですか?」
「そう聞こえなかったか?」
「いえ……承知しました。サー・ディートハルトにはそのように伝えます」
すでにヴェストフックス公国軍は前線に向かっている。だが到着にはまだ時間がかかる。一万の大軍の移動を考えれば、伝書鳩と早馬を使って伝令を届ける使者のほうが、先に到着する。侵攻開始が遅れるということだ。それを決めたユーリウス王の考えは理解出来ないが、反論を許さぬ雰囲気をあからさまにされれば、騎士は命令をそのまま受け入れるしかない。
「軍はそれで良い。あとは、フリッツ局長」
「はい」
フリッツ情報局長の顔に緊張が広がる。無理難題を言われることが、すでに分かっているのだ。
「王都で戦場の様子が語られていると聞いた」
「……はい。先日ご報告した通りです」
「良く考えてみれば、大問題だ。軍の機密が漏れているということだからな」
「……はい」
軍の機密でも何でもない。国民の不安を和らげるために、勝ち戦の情報を広めるのは当たり前に行われること。その常識に沿って、情報局が行ったことなのだ。
「すぐに噂を消せ」
「……承知しました。すぐに指示致します」
出来ません、とは言わない。それは許されない。では出来るのかとなると、ほぼ不可能だ。すでに噂は王都の外にも広がろうとしている。情報局の想定を超える早さで広まっているのだ。
王国の窮地を救うため、彗星のごとく、現れた若い英雄。それはルシェル王女が見い出した王国の切り札だった。この噂は、それを創作した情報局の担当者が思っていた以上に、人々の心を捕らえてしまったのだ。