エステスト城砦に銀狼兵団が籠って三か月以上が経つ。状況はグレンの望む通りには進んでいない。進んでいるのは、予想通りの方向だ。
勇者軍はあれ以来、全く姿を現さない。そしてゼクソン軍の方も。
「いい加減に城砦を引き渡したらどうだ?」
「それが出来ないことは何度も説明したはずですが?」
ゼクソンからはシュナイダー将軍が何度も城塞に足を運んで、グレンを説得しようとしている。現れるのはシュナイダー将軍とその伴の者たちだけ。軍そのものは領内から一歩も出てきてはいない。
「我が国はウェヌスとの講和に入っている。戦争はもう終わりだ」
「まだ講和は結ばれていないのではないですか?」
「そうだとしても、時間の問題だ」
「分かりません。なぜ、これほど講和を急ぐのでしょう?」
ウェヌス王国の先軍を崩壊させ、難攻不落といわれたエステスト城塞まで落とした。これだけ有利な状況を、ゼクソン王国は自ら手放そうとしている。
「分かっているはずだ。我が国が講和に入ると思っていたからこそ、この城砦を奪ったのだろう?」
「講和を結ぼうと考えていたことは知っていました。ですが、城砦を奪えた状況で講和を急ぐ理由が分かりません」
エステスト城塞の奪取が、ゼクソン王国を更なる戦争に引きずり込む策でもある。だが、それは今のところ不発に終わっている。
「……金がない」
「金?」
「戦争を続けられるだけの金が我が国にはない」
「……だったら最初から戦争なんてしなければいい」
ゼクソン王国の国庫にどれだけの貯えがあるかなど、さすがにグレンも知らなかった。まさかの理由に呆れている。
「したくてした戦争ではない。ウェヌスが攻めてくれば、金がなくても戦うしかない」
グレンの言っているのは前の戦い、ウェヌスを罠に嵌めるような真似はしなければ良かったと言っているのだが、シュナイダー将軍には通じなかった。
「……それで講和条件は何を提示しているのですか?」
「それは……」
グレンの問いにシュナイダー将軍は言葉を詰まらせた。
「話せないと。なるほど、つまり自分はもうゼクソンにとっては味方ではなく、邪魔者に過ぎないわけですか」
「そうではない。ただ内容を話せば、グレン殿はそれを利用しようとするだろう。講和が結ばれない方向に動く可能性もある」
「それは味方に対する考え方ではありません」
シュナイダー将軍はグレンの裏切りを前提に考えている。ただ、これに関しては、グレンは強く文句は言えない。出来るのであれば、邪魔をするつもりはあるのだ。
「元々目指すものが違うのだ。我らはゼクソン王国を第一に考えているが、グレン殿はそうではない」
「確かに」
「城砦を引き渡してもらいたい。いつまでも籠っていても仕方がないはずだ。やがて物資も切れる。そうなれば……」
「それはゼクソンが補給してくれないからです。兵糧さえあれば、いくらでも籠城して見せますけど?」
「……それを我が国は望んでいない」
「明け渡し先がウェヌスになってもですか?」
「それは……」
予想していた言葉だ。だが、それに対する解決策をシュナイダー将軍は持っていない。
「ゼクソンが銀狼兵団を切り捨てたのであれば、こちらも遠慮する必要はない。条件の良い方に明け渡すだけです」
「ウェヌスが受け入れるはずがない」
「何故、そう思うのですか?」
「銀狼兵団がどれだけウェヌス王国の兵を殺したと思っているのだ。そんな相手をウェヌスが受け入れるはずがない。仮に受け入れたとしても、いずれ処分されるに決まっている」
「そうかもしれませんね」
「そして城砦をウェヌスに明け渡した時点で、我が国も銀狼兵団を受け入れるわけにはいかなくなる。頼る国を失くして、この先どうするつもりだ?」
「ついに脅しですか」
グレンにとってはすでに予想済のこと。シュナイダーがそれを口にしても苦笑いを浮かべただけだ。
「こちらもそれだけ追い詰められているということなのだ。これは分かって欲しい」
「なるほど……分かりました」
「分かってくれたか」
「お話は分かりました。それについてどうするかは、ウェヌスとの交渉を終えてから回答します」
「ウェヌスが交渉になど」
「すでに使者が来ております」
「何?」
「使者を呼びつけておいて、話をしないのでは失礼でしょうから」
「……受け入れるはずがない」
ウェヌス王国からの使者が来ていると知って、シュナイダー将軍は動揺を隠せないでいる。脅したつもりが、逆に怯える結果になっている。
「それは話をしてみないと。とにかく、ゼクソンの意向は分かりましたので、今日はもうお引き取り下さい」
「……また来る」
「それはどうぞご勝手に」
「……グレン殿。ウェヌスとの永遠の講和などはない。必ず再戦の機会はあるはずだ。それを待つのが最善の策だと思う」
「それが最善かは自分が決めることです」
「……そうか」
席を立って、シュナイダーは部屋を出て行った。扉が閉まったところで、グレンも立ちあがって身支度を整える。ウェヌスの使者と会う為だ。
「……ウェヌスの使者も相手が相手だからな。どうやら手詰まったみたいだ」
こんな独り言を呟きながら、グレンはウェヌス王国の使者のところに向かった。
◆◆◆
ウェヌス王国の使者との交渉は、城砦内ではなく麓に天幕を立てて、その中で行われる。城砦内に入れたくはない相手だからだ。
グレンが馬で乗りつけて、天幕の入り口を潜ると、ウェヌスの使者は呆れ顔でグレンを迎えた。
「使者だというのに中にも入れてもらえんのか?」
「閣下を城砦内に入れるわけにはいきませんから」
「もう儂は閣下と呼ばれる立場ではない」
「その立場ではないトルーマン前元帥が使者ですか? 話を聞くまでもないようです」
ウェヌスの使者として現れたのは、トルーマン前元帥だった。退役したトルーマン前元帥が使者となれば、ウェヌス側には本気で条件交渉を行うつもりがないことになる。
「儂は特使というやつだ。きちんと外交の担当者もいる。ハシム・ヨーゼス。外交担当文官だ」
「ヨーゼスだ。国内での調整は私が行う。これは正式な外交交渉だと我が国も受け取っている」
「そうだとしても、それであるなら尚更、トルーマン前元帥は必要ですか?」
「それなりに考えた結果だぞ? お前相手に交渉するには、儂が適任だと考えたのだからな」
ウェヌス王国からすればそうだ。トルーマン前元帥はグレンの上司であった人物。しかも、実質的には直属といえるような関係だ。説得の使者として、これほど適任者はいない。
「そうかもしれませんが、こちらの言うことを聞く気はないと宣言しているようなものです」
一方でグレンから見れば、それは情で訴えられるだけで、求める条件を引き出せないことになる。
「それはお前、ではなく、ゼクソンが悪い。ろくに戦況も把握せずに講和の使者など送るからだ」
「戦況も把握せずに、ですか?」
「最初、ゼクソンの使者はエステスト城塞がお前の手に落ちたことを知らなかった。それで我が国に足元を見られる結果になったのだ」
「ああ……半分は自分のせいですね。ゼクソンにはこんな事をするなんて、あらかじめ伝えていませんでしたから」
「ほう。ゼクソンは信用出来んか?」
「……それに答えろと?」
交渉相手にわざわざゼクソン王国との間に溝があることを話す必要はない。
「答えんでもいい。お前の行動がそれを示している。しかし……そんな相手の下で何故、戦った?」
「それ以外に方法がありませんでしたので」
「やはりな。ゼクソンに本当の意味で仕えたのではないのだな?」
「はい。ゼクソンでも客将です。お互いの利害が一致したので、協力し合っただけです」
「ゼクソンの利は分かる。何と言ってもお前が一軍を率いて戦ってくれるのだからな。だが、お前の利は何だ?」
トルーマン前元帥は、グレンの動機をまだ知らない。勇者軍は報告を上げていないのだ。健太郎が妹を殺したのが原因ですなど、公に出来るはずがない。
「勇者を討つ機会を持てます」
「……そうか。妹の敵討ちのつもりか」
「ご存知だったのですね?」
「後から話を聞いた。それを知れば、お前が勇者を恨むであろうことも分かっていた。しかし……それをゼクソンに利用されるとは思わんかった」
「どうも過大な評価を受けていたようで」
「……前の戦いで何をしたのだ? いや、生きていたという事実が示しているか」
「そのことよりも、銀鷹傭兵団のせいです」
「何!?」
グレンの口から銀鷹傭兵団の名が出て、トルーマン前元帥は驚いている。
「銀鷹傭兵団は前回の戦いから、ゼクソンに協力しています。自分が捕虜になったと知って、引き渡しを盛んに要求したようですね。それでゼクソン国王の興味を引いてしまったみたいです」
「……それで?」
「自分は銀狼兵団という軍を率いています」
「そうか……そうだな」
トルーマン前元帥の顔にあからさまにほっとした表情が浮かんだ。だが、その表情は続くグレンの言葉ですぐに曇ることになる。
「父親の話は聞きました」
「……そうか」
「銀鷹傭兵団からではありません。別の筋からです」
「どう思った?」
「かなり衝撃を受けました。自分の努力は何だったのかと思って」
「ん?」
グレンの言葉はトルーマン前元帥の思っていたものではなかった。ウェヌス王国への恨み事を聞かされると思っていたのだ。
「父親が何者であるかなどは関係ありません。ああ、それも少し傷つきました。勇者や聖女と同じなんて」
「まあ」
「それよりも、努力で身に付けたつもりの自分の力が、血によるものと知ったことの方が傷つきました」
「……お前の価値は個人の武にあるわけではない。ジンであれば、今回のような真似は出来んだろう」
「そうだと良いのですが。まあ、これについては気持ちの中で整理がついています。今はもう何とも思っていません」
「そうか……ウェヌス王国についてはどうだ?」
トルーマン前元帥は自らこれを尋ねた。この先、話を続けるにはグレンの気持ちを確かめておく必要があると思ったからだ。
「追放ということに関しては納得できない部分はありますが、恨みはないです」
「そうなのか?」
「父親がウェヌス王国から出なければ自分は生まれておりません。生まれていたとしても、違う自分でしょう」
追放されなければ、母親と会うことはなかった。別の女性と結婚したとすれば、その二人の間の子はグレンではない。
「……そうなるか」
「それにトルーマン前元帥が言った通りです。父親は急ぎ過ぎたのでしょう。異世界で正しいことがこの世界でも正しいとは限らない。そういうことだったのだと思います」
「そう割り切れるか……」
「勇者と聖女を見ていたのが大きいですね。父親のことを恨みに思うのは、勇者と聖女が言っていることを認めるようなものです。自分はそんな気になれません」
「それは喜んで良いものか、微妙だな」
グレンが認めたくないという勇者と聖女はウェヌス王国にいるのだ。
「ウェヌスにとっては喜ぶべきことではありません」
「そうだな」
「何故、放置されているのですか? ウェヌス軍はどんどん悪い方向に向かっていると思います」
「……儂にはそれを止める権限がない」
トルーマン前元帥は退役の身である上に、もともと政治事は得意ではない。
「ゴードン元大将軍にもないのですか?」
「駄目なようだ。あれは敵を作り過ぎた。伝手を辿って働きかけようとすれば、その相手が左遷されることになる。手を出せんのだ」
手を出せば出すほど、影響力を失う結果になる。それをする者は、それだけゴードン元大将軍を警戒しているのだ。
「苦肉の策が辺境師団ですか」
「それが精一杯であった。そしてそれも無駄だったな」
「はい」
「お前であったらどうする?」
「……トルーマン前元帥が望まれる答えを自分は持ちません。今の自分にとっては、ウェヌス軍の弱体化は望むところですから」
「そうか……先に用件を済まそう。交渉をする用意があるということだが?」
「分かっていますよね? こちらの要求は勇者の首です」
「そうだろうな。それを差し出した場合は?」
「エステスト城塞を明け渡します」
「そう来るか。どうなのだ?」
ここでトルーマン前元帥は初めて隣に座るヨーゼスに視線を向けた。実際の外交調整は外交担当文官であるヨーゼスが行うのだ。条件交渉となればトルーマン前元帥では答えられない。
「無理です」
「持ち帰るまでもなくか?」
トルーマン前元帥は、健太郎の首でエステスト城塞が返ってくるなら安いものだと思っている。
「これは申し上げてよろしいのか……」
「かまわん。持ち帰らないのであれば、この場で全てを、はっきりさせなければならない。必要なことは話すべきでないか?」
「……分かりました。勇者軍はすでにアシュラム国境に向かいました」
「えっ? 今?」
それにグレンが軽く驚きの反応を見せた。
「ウェヌス領内に侵攻してきた。辺境師団も大きな被害を受けている。防ぐには、無傷の勇者軍を出すしかない」
「それは分かりますが、今か……」
「何かおかしいのか?」
「ゼクソンはもう戦う気がない。それが伝わっていないのかと思って」
「それは?」
「アシュラム一国が飛び出して来ても、我が国は幾らでも防げるということだ。騎士団も国軍も、そして東方辺境師団もゼクソンとの戦いで大損害を被った。だが、領内を守るだけであれば、まだまだ余力はある」
ヨーゼスの疑問にトルーマン前元帥が答えた。
「つまり……どういうことなのでしょう?」
「負ける為に出てきたようなものだ」
「なるほど。それは我が国にとっては良いことですね」
「ですから、こちらにとっては何故今、という疑問になるのです」
ウェヌス王国にとって良いことはグレン、というよりゼクソン王国に悪い影響を与えることになる。
「まあ、我が国にとって良いのであれば」
「……自分にとっては悪報です。つまり、今は勇者を差し出すなんて議論は出来ない。だから交渉は無理ということですね?」
「勇者の首を差し出すことは出来ない」
「……やっぱり手詰まった。いない相手と戦うわけにもいかないし。ウェヌスとの交渉はなしですね」
グレンがウェヌス王国に求めるものは健太郎の首だけ。それを得られないとなれば交渉することに意味はない。
「いや、それは待って欲しい」
交渉を終わらせようというグレンにヨーゼスが継続を求めてきた。
「何か?」
「エステスト城塞の引き渡しについては、我が国としても望むところだ」
「それはそうでしょう。ですが、こちらは得るものがありません」
「ウェヌス王国においてしかるべき地位を与える」
「それは無用です」
ヨーゼスの提案を、グレンは全く悩むことなく却下する。
「何故だ? 先ほどから聞いているとウェヌス王国に対しての遺恨はないように思える。あくまでも勇者に対する恨みであって」
「その勇者がウェヌス軍の頂点にいるのです。それとも、勇者の対抗馬として担がれろとでも言うのですか?」
「…………」
黙り込むヨーゼス。外交担当としては、少し迂闊だ。
「図星でしたか。それは今の立場でなくてもお断りですね」
「そこを何とか」
「いや、普通に考えてみてください。勇者と味方を殺した将。兵士はどちらに付きますか?」
「……まあ」
健太郎がどれほど愚かであっても、味方を殺したグレンを選ぶ可能性は少ない。まして、多くの兵士は健太郎の愚かさを知らない。勇者の肩書だけで信頼を寄せることになる。
「そういうことです。勝ち目はありません。なので交渉は終わりです。後はゼクソンとの交渉の中で頑張ってください。エステスト城塞を差し出させるのは難しいとは思いますけど、可能性がないわけではありません」
「可能性があるとすれば何だろう?」
「それ自分に聞きますか? まあ教えますけど」
「えっ?」
聞いてはみたが、まさかグレンが話すとはヨーゼスは思っていなかった。
「良かったですね。ついさっき脅されたばかりで少し気分が悪いのです。そういう相手に誠意なんて必要ありません。ゼクソンが欲しているのは金ですよ。ゼクソンは内政につぎ込む金が欲しい。それを手に入れられるなら、エステスト城塞を売るかもしれません」
「なるほど」
「それが、どれだけの金額になるかは分かりません」
「それはそうだ。そして、それを決めるのが外交だな」
「はい。そしてその相手は私ではありません」
ここから先はゼクソン王国との正式の交渉。トルーマン前元帥とグレンには関係のない話だ。交渉はこれで終わり、なのだがトルーマンは席を立とうとしない。
「セクソンには残らないのだな?」
グレンのこれまでの話はこれを示している。
「恐らくは。ウェヌスと講和を結んだゼクソンにいる意味はありませんから」
「そうか。そうなると次はアシュラムか?」
グレンの目的は健太郎の首、ウェヌス王国と戦うことだ。最もそれが出来る可能性が高いのはアシュラム王国だ。まさに今、戦っている最中なのだ。
「それも考えていたのですが、どうでしょう? ちょっと戦い方が。侵攻して、それで負けてはしばらく戦争なんて出来ないでしょうから」
「ではどうするのだ?」
「さすがにそれはお話し出来ません。まだ、はっきりと決めているわけでもありません」
追われる身になるかもしれないグレンだ。行き先を教えるわけにはいかない。
「そうか。今はここまでか」
「はい」
「何かあるか?」
「交渉とは関係なく、一つ聞きたいことが」
「何だ?」
「今、ウェヌスで王家に成り代わる力がある。もしくは、それだけの野心を持っているとすれば、それは誰ですか?」
「……何故、それを聞く?」
「理由は言えません」
「儂はその辺は詳しくないが、力だけであれば、ランカスター侯爵家であろうな」
「そうなりますね。分かりました」
トルーマン前元帥の返答に納得した様子のグレン。答えが分かっていて、聞いたのだと分かる。
「それを確認する理由は?」
「言えません」
「そうか……」
「では、今度こそ交渉は完了ということで」
「……分かった」
トルーマン前元帥としてはまだまだ聞きたいことはあるのだが、グレンには、もう何も話す気がないのだと理解して、交渉の終了を受け入れた。
丁寧な礼をして天幕を出ていくグレン。やがて馬の駆ける音が聞こえ、それが遠ざかって行った。
「よろしいのですか? 彼をウェヌスに戻したいのは誰よりもトルーマン様では?」
「ああなってはもう聞く耳を持たん。それは交渉の余地がないと同じことだ」
「そうですか」
「それにあれにはまだやることがある」
「勇者を討つことは諦めませんか」
「恐らくそれだけではないな。ちなみにお主はランカスター家とは?」
グレンが意味もなく、あんな質問をするはずがないとトルーマン前元帥は思っている。ランカスター家には何かあるのだと。
「系列がどこかと聞かれれば、スコット家です。私自身にはその意識はありませんが敵対派閥になります。まともにやり合えば、勝ち目などないですけど」
「そうか。ランカスター家には何か不穏な動きがあるのか?」
「あり過ぎてどれのことか」
ウェヌス王国貴族の中で、もっとも権勢を誇っているのがランカスター侯爵家だ。陰に日向に様々な動きがあって、それを全て掴んでいる人など誰もいない。
「そうだな。簒奪を企んでいる可能性は?」
「……さすがに、そこまでは聞いたことはありません」
簒奪などいう物騒な言葉が出てきたことで、ヨーゼフの表情にはひどく緊張している様子が見えている。
「調べておいたほうが良い。あれがああいった聞き方をする時は、自分が聞きたい時ではなく、相手にそれを伝えたい時だ。何かあるのだ。ランカスターには」
「……心に留めておきます」
◆◆◆
ウェヌス王国南西部。少し先に進めば、なだらかな稜線が続く山地が広がるその場所にエドワード大公の屋敷はある。
それほど大きな屋敷ではない。だが屋敷内にある、周囲の自然をそのまま取り込んだ大きな中庭は、季節ごとにその装いを変え、住む者の目を楽しませてくれる。
その中庭にテーブルと椅子を出して、エドワード大公は来客を迎えていた。
「……まさか、そのようなことになっていたとは」
「はい。我が国にとっては悪夢と言える状況です」
「我が国にとっての悪夢は、敵国にとっては良いことだね?」
「まだ情報はそれ程入っておりませんが、銀狼兵団の噂は徐々にゼクソン王国内で広まっているようです。民は歓喜に沸いていることでしょう」
「英雄の誕生か……」
大国ウェヌス王国を打ち負かしたのだ。ゼクソン王国で英雄視されるのは、ほぼ間違いない。
「そう言ってよろしいかと」
「ゼクソン王国で英雄になるなど、本意ではないだろうにね」
エドワード大公の視線が館の方に向かった。その視線が捉えているのは、少し片足を引き摺りながら、こちらに向かって歩いてくる一人の女性だ。
「ローラ様! そのようなことは!」
エドワード大公と話をしていた騎士が慌てて立ち上がった。
「大丈夫。こうやって動いた方が良いとお医者様も言っていたわ。それと様も余計です。私は侍女ですよ?」
騎士の言葉に、女性は華やかな笑みを浮かべて返事をしてきた。その美しさに、無礼を承知で騎士は見惚れてしまう。
「エドワード様。お茶をお持ちしましたわ」
ローラと呼ばれた女性は、お盆の上から慣れた手つきでテーブルにお茶を移していく。
「ありがとう、ローラ。でもローラ。君も人のことは言えないね?」
「えっ? 何がですか?」
「僕のことはエドと呼ぶように言ったはずだよ?」
「でも……」
侍女の身で大公を愛称でなど呼べない。それだけではない。彼女にとってエドワード大公は恩人なのだ。
「じゃあ、これは命令だ。畏まった話し方は禁止。身分なんて関係なく、普通に接してくれるほうが僕も気楽な生活を楽しめるからね」
「……分かったわ。楽しいお話は出来ている? 会うのは久しぶりよね?」
「楽しいのかな?」
「楽しくないの?」
「難しい話だから」
「そう。じゃあ、私は引っ込んでいるわ」
「そうだね。楽しい話になったら呼ぶよ」
「ええ。分かったわ」
また奥のほうに戻っていく女性。やはり片足を引きずっている。足が不自由なのが、その動きで分かる。この場にいる人たちにとっては、周知の事実ではあるが。
「よろしいのですか?」
「今はまだ知らせるべきではない。それにどうやって説明する? 君は実はローラなんて名前じゃないなんて言っても、彼女は混乱するだけだ」
「……そうですね。知らないままのほうが幸せでしょう。反逆者の妹だなんて」
「……ああ、そういうことだよ」