ローゼンガルテン王国と魔人軍の戦いはその状況を一変させた。だがローゼンガルテン王国はまだ事態を把握しきれていない。各地から次々と新しい情報が届いてはいるが、あまりに予想外の状況に分析が追いついていないのだ。それでもある程度、情報が揃い、仮説が立ったところで重臣たちを集めた会議が開かれることになった。
状況を完全に把握出来るのを待っていては手遅れになる。そう考えられた結果だ。
「ラヴェンデル公国およびキルシュバオム公国に侵攻してきた魔人軍は、ほぼ撤退しました」
「ほぼ、というのは?」
王国騎士団長の報告にある曖昧さを国王は指摘する。ここでの決断に間違いは許されない。可能な限り、事態を正確に把握したいのだ。
「ラヴェンデル公国の前線に残る魔人軍は三分の一以下……森の中ですので正確な数までは把握出来ておりませんが、感覚としてはこれくらいの数になったようです」
「……キルシュバオム公国は?」
聞き直してもやはり曖昧さを消えない。だがラヴェンデル公国については仕方がないと国王は諦めた。森の中に潜む敵の数を調べることは難しい。それは分かっているのだ。
「一万もいないのではないかという報告です」
「そこまでか……」
キルシュバオム公国の魔人軍は五万。戦いの中で数は減らしたはずだが、それでも一万まで減るとなると、かなりの数が撤退したことになる。
敵の数が減るのは悪いことではない。問題はその理由だ。
「一方でゾンネンブルーメ公国に侵攻した魔人軍はその数を増やした模様です。現在把握しているだけで十万。その魔人軍が西に向かって進軍しております」
「止められないのか?」
「まだ分かりません。魔人軍の先陣は魔物を中心としております。数は多くてもそれほど強敵ではありません」
「……では今以上に数が増え、魔人が多く加わった場合はどうだ?」
キルシュバオム公国で戦っていた魔人軍は魔人の比率が高いと報告を受けている。その魔人軍はゾンネンブルーメ公国に移ったとすれば、どうなるのか。
可能性としてはかなり高いものだ。魔人軍はゾンネンブルーメ公国での戦いに集中する為に、他の公国から軍を引き上げたというのが今考えられている仮説なのだ。
「正直、厳しいと思います」
ゾンネンブルーメ公国はもともと苦戦していた。そこにさらに敵の数が増え、その上に質まであがるとなれば対抗するのは難しい。
「……ゾンネンブルーメ公国まで魔人に奪われることにならないだろうな?」
リリエンベルク公国に続いて、ゾンネンブルーメ公国まで魔人に奪われる事態になればローゼンガルテン王国はどうなるのか。国王は不安を覚えてしまう。
「そうならない為の手を打たなければなりません」
「具体的には?」
「ラヴェンデル公国とキルシュバオム公国に派遣していた軍を呼び戻します。特に花の騎士団は急ぎ帰還させるべきです」
主戦場はゾンネンブルーメ公国に変わる。そうであれば主力である花の騎士団はゾンネンブルーメ公国に移さなければならない。
「……そうだな」
王国騎士団長の考えは国王にも分かる。考える必要もないことだ。ただ、リリエンベルク公国の時は何故それを行おうとしなかったのか。手遅れだったという理由だろうが、なんとなく釈然としない。
「恐れながら帰還準備を命じる使者はすでに送っております。あとは正式に帰還命令を発するだけですが、よろしいですか?」
「ああ、かまわない。他の部隊は?」
「状況を確認しながら順次帰還させる予定でおります。魔人軍の今回の動きが陽動である可能性はまだ残っておりますので」
ゾンネンブルーメ公国の魔人軍の増援部隊がどのようなものか、まだ分かっていない。これで、キルシュバオム公国で戦っていた相手が現れたことを確認出来れば、魔人軍はゾンネンブルーメ公国に兵力を集中させようとしていると決めつけても良いのだろうが、まだはっきりしていないのだ。
「そうか……分かった。ゾンネンブルーメ公国の件で、他に何かあるか?」
「今の段階では特にございません」
「では……リリエンベルク公国だ」
「……リリエンベルク公国奪回作戦の実行はもう少し先になると思います。ゾンネンブルーメ公国で敵に大打撃を与えられれば良いのですが」
「そうではない。公国内の様子はどうなっている?」
リリエンベルク公国奪回が先になることなど言われなくても分かっている。国王が気になっているのは、今の状況だ。リリエンベルク公国内がどのような状況になっているのか知りたいのだ。
「……領境まで逃げてくる人はほぼ途絶えました」
領境まで辿り着いても、その先には行けないと分かれば、逃げてくる人だっていなくなる。ましてリリエンベルク公国南部には魔人軍は届いていない。いつ来るか分からないという怯えはあっても、いつ通してもらえるか分からない領境で野宿しているよりはマシだ。
「魔人軍はリリエンベルク公国のどれくらいを支配下に置いているのだ?」
「分かりません」
「リリエンベルク公国軍はまだ戦っているのか?」
「分かりません」
「……斥候は送っていないのか?」
王国騎士団長はリリエンベルク公国内の様子はまったく把握していない。それが国王には信じられない。
「送っておりますが、誰一人として戻ってきません」
「なんと……」
「かなり支配は進んでいるものと思われます。領境の守りを固めることも急がせております」
ゾンネンブルーメ公国に魔人軍が戦力を集中させたのであれば、ローゼンガルテン王国軍にとって都合が良い。出来るだけ多くのダメージを与えた上で撤退させ、リリエンベルク公国領の奪回に臨むことが出来るのだ。
これまでのように戦力を各地に分散させた状態で、リリエンベルク公国から魔人軍に侵攻を試みられることに比べれば、ずっと戦い易いはずだ。
「……リリエンベルク公国内に物資を運んでいる商人がいたな。あれはどうなった?」
「最近は動きを確認出来ておりません。商いの相手がいなくなったことで、無茶なことをしなくなったのではありませんか?」
「そうか……」
国王の淡い期待はさらに薄れていく。リリエンベルク公国は魔人の手に落ちた。奪回の時が来るまで公国で暮らしていた民は苦しむことになるのだ。そう国王は考えた。
国王は、ローゼンガルテン王国は分かっていない。自分たちがリリエンベルク公国を切り捨てたように、リリエンベルク公国もローゼンガルテン王国を切り捨てようとしていることを。それはまだ一部の人たちの考えではあるが、少しずつリリエンベルク公国はその方向に動き出している。
◆◆◆
リリエンベルク公国内にいる人々の中で、もっとも明確にローゼンガルテン王国を切り捨てようとしているのはジグルスだ。ローゼンガルテン王国はリリエンベルク公国を見捨てた、という感情的な理由からではなく、そうしなければこの先、動けないからだ。
「……俺が聞くのも変な感じだが、ローゼンガルテン王国の斥候を消してしまって本当に良いのか?」
会議の席でフレイが尋ねているのは、リリエンベルク公国内に侵入してくる王国の斥候を殺すようにジグルスが命じたこと。この会議でその結果が報告されたのだ。
「かまわない。俺の目的はリリエンベルク公爵家を守ること。その為にはローゼンガルテン王国は邪魔だ」
「リリエンベルク公爵家はローゼンガルテン王国の臣下だ。刃を向けてはマズいだろ?」
個人的にはフレイも斥候を殺すことに抵抗はない。だがジグルスはローゼンガルテン王国の人間として育っている。その彼が味方を殺す命令を下す理由が気になるのだ。
「ローゼンガルテン王国の斥候がいる前で、俺たちがリリエンベルク公爵家の味方をしたらどうなる?」
「……どうなる?」
「少しは頭使えよ」
「人間の考えなど分からん」
「……少し理由にはなっているか……人間は魔人に味方がいるなんて考えない。詳しい事情まで調べれば理解するかもしれないが、上っ面だけではリリエンベルク公爵家は魔人と通じていると考える可能性のほうが高い」
結果、リリエンベルク公爵はローゼンガルテン王国の敵として認識される。そのような事態を避けるというのが理由の一つだ。
「なるほどな」
ローゼンガルテン王国の斥候をリリエンベルク公国内に入れない理由として、フレイも納得するものだった。
「ですが、完全に隠しきることは不可能ではないですか?」
だがナーナは納得しなかった。斥候ではなく、ローゼンガルテン王国軍がリリエンベルク公国内にやってきた時のことを考えたのだ。
「ナーナさんはちゃんと頭を使っている」
「おい? しかも何故、さん付け?」
頭を使っていないと暗に言われたことだけでなく、ナーナは、さん付けで呼ぶことにフレイが文句を言ってくる。
「そうですよ。私は貴方の母代わり。そんな他人行儀な呼び方はしなくて結構です」
「いや、だから……」
ナーナは勝手にジグルスの母代わりを自称している。ジグルスにとっては迷惑な話で、だからこそ、さん付けで呼んで距離を取っているのだ。それをナーナは分かってくれない。
「母代わりって……バルドル様にまったく相手にされなかったくせに……」
ナーナのバルドルへの気持ちは完全に片想い。母代わりを名乗る資格はない。というジグルスでは言いにくいことをフレイが代弁したのだが。
「……バルドル様は照れ屋なのです」
それさえもナーナには通じなかった。
「その話は良いから。ナーナさんの指摘通り。ローゼンガルテン王国がリリエンベルク公国奪回に動き、公国内に軍を送ってくれば知られることだ。その時どうするかは、今はまだ決められない」
「それって……」
選択肢はそれほど多くない。いずれにしても思い切った対応になる。
「時間が必要だ。魔王軍を早く追い払いたい一方で、ローゼンガルテン王国の侵入は先延ばしにしたいって矛盾だけど」
リリエンベルク公爵家をどうするかはジグルスが決められることではない。リリエンベルク公爵家の人たちが決めることで、場合によっては領民たちの意思も確認する必要がある。今は出来ないことだ。
「時間が必要なのは分かります。人間に受け入れてもらうのは大変ですから」
「ナーナはまだマシだ。俺なんて未だに逃げられる」
「それは……見た目ですね」
有翼人であるナーナの外見は天使。この世界の人々は天使という存在は知らないが、それでも羽根があること以外はほぼ同じ外見であり、さらにナーナが美人であることもあって抵抗を感じないのだ。
「はあ、人間のその感覚も理解出来ない。俺は結構、良い男だと思うけどな」
フレイも醜いわけではない。だがヴェアヴォルフ族、狼男であるフレイは人間とは外見が違い過ぎる。どうしても恐れられてしまうのだ。
「獣化しなければ良いのに」
「こっちが本来の姿。何故、わざわざ人間に合わせる必要がある?」
ヴェアヴォルフ族は人間に似た外見になることも出来る。だがフレイはそれに抵抗を感じているのだ。
「そういう考えを改めることも必要だ。歩み寄りってやつ? 嫌われるよりは好かれたほうが良い。外見ではなく中身で好かれるようになれば、外見がどうであろうと逃げられなくなる時が来るかもしれない」
基本は外見が違うというだけで嫌悪感を持つ人間が良くないとジグルスも思う。だが魔人の側にも努力は必要だ。自分たちの内面が人間とそれほど変わらないと理解してもらう為の努力が。
「……努力する」
「頼む。あと考えを変えて貰わなければならないのは……グラニか。どうだった?」
ジグルスは問いをグラニに向けた。グラニは半馬半人のセントール族の族長だ。
「説得は難航している。王を運べというのであればまだしもエルフを、となると……」
ジグルスがセントール族に求めたのはエルフ族を乗せて、移動や戦闘を行うこと。半馬のセントール族に対しての要求としては普通だと思っていたのだが、そうでなかったのだ。
「馬になれといっているつもりはない。協力して戦って欲しいと言っているだけだ」
人を乗せるということにセントール族は強い抵抗を示している。馬扱いは嫌だという理由だ。
「そう説明した。しかし、同じことだと」
「……セントール族には弱点がある。足は他の獣人系種族よりも速い。でも体が大きくて小回りが効かないせいで、戦場では良い的だ」
「それは……分かっている」
「エルフと共に行動すれば、彼等の魔法で守られる。攻撃面でも中距離、近距離の両方で戦力になれる」
矢も、ある程度の魔法もエルフ族の魔法で防げる。セントール族の弱点を補えるのだ。さらにエルフ族が得意な弓矢での攻撃、セントール族も使えるので中距離攻撃で威力を発揮出来る。弓を槍に持ち替えれば近距離での戦いも可能だ。
図体が大きいので積極的に近距離戦をやらせる気はジグルスにはないのだが、それは今言うことではない。
「……それも分かっている」
「それでどうして?」
戦闘において各種族が持つ得意能力を最大限に発揮させる。ジグルスはそれを考え、思い付いた一つがこれだ。それにここまで抵抗を感じることが理解出来ない。これは味方を死なせない為の戦法とも言えるのだ。
「ではこうすればいかがですか? セントール族を王の近衛にするのです」
「えっ?」
ナーナの提案はジグルスがまったく考えていなかったこと。しかも近衛にすることで、何故解決するかも分からない。
「……それであれば」
「ええっ?」
グラニが提案を受け入れる様子を見せたことで、ジグルスはさらに驚くことになる。
「ではそうしましょう。近衛の名誉をセントール族に渡すことに抵抗がないわけではありませんが、適任といえば適任です」
「……仕方ないな」
フレイも渋々といった様子でナーナの考えに同意した。
「ああ、名誉か……そうだな。確かにセントール族は俺の近衛に相応しい」
求めているのは名誉。馬のように扱われることにセントール族が屈辱を感じているのであれば、近衛という名誉を与えることで相殺すれば良い。名誉という言葉を聞いて、ジグルスにも理解出来た。
戦術的にも悪い考えではない。ジグルスの足もまた獣人系種族に比べれば大いに劣る。どれだけ鍛えていても先天的に走ることに長けている彼等には敵わないのだ。
セントール族を近衛とし、その速度を使えることでジグルスも戦場で置き去りにされることはなくなる。王がいる部隊が近衛であればセントール族は近衛なのだ。
「はっ。我等、セントール族。必ずや王の近衛に相応しい働きを見せてごらんにいれます」
「ああ、俺も期待に応えてくれると信じている」
何故こういう時だけは敬語になるのだろう、なんて疑問を頭に浮かべながらもグラニの誓いに相応しい言葉をジグルスは返す。こういう態度にも少し慣れてきた。獣人系種族の人々がこんな風に態度をがらっと変えなければ、もっと戸惑うことはなくなるだろうが。
こんな感じでアイネマンシャフト王国は少しずつ形を整えていく。まだどこにも認められていない、小さな小さな国ではあるが、ジグルスの下に集った人たちは、着実に一つの国になろうとしているのだ。