国軍が王都から出陣した。中隊単位に分かれての密やかな出立だ。王都から少し離れた場所で集合して、ゼクソン国境の砦に向かうことになる。
密やかなと言っても見る人が見れば分かる。毎日のように王都から国軍部隊が幾つも出て行って戻らないとなれば、それはもう戦争しか考えられないからだ。緩やかにではあるが、すでに一般の民衆の間にまで戦争の噂が広がっていた。
国軍の三分の一が出立した後の、少し閑散とした国軍調練場。そこでグレンは一人鍛錬を行っていた。纏うのはメアリー王女から送られた騎士服と鎧兜。そして、武具職人が意地で作った剣を持っての鍛錬だ。
体の動き、剣の動きを一つ一つ確かめるように素振りをしていく。その動きを徐々に速め、複雑なものに変えていく。大まかなところは、職人の工房で調整済み。今は武具の具合を確かめるというより、体にそれを馴染ませているところだ。
しばらく、それを続けたところで、グレンは満足そうに一つ大きく頷いた。
「やっぱり、自分専用は国軍の支給品とは違うな」
こんな呟きがグレンの口から漏れる。
「当たり前だ。支給品は個人の体になど合せられんからな」
声を掛けてきたのはトルーマン元帥だ。グレンは構えを解いて、声のした方に振り返る。
「もう終わりか?」
「閣下がいらっしゃったのが見えたので」
誰もいない演習場だ。近づく人がいれば、すぐに分かる。
「邪魔したか」
「いえ。体に馴染ませているだけですから。それも時間が掛かることなく終わりそうです。今の時点で既に国軍から支給されている武具を超えていますから」
「ザットのお手製らしいな?」
「ザットという名だったのですか?」
トルーマン元帥の言葉で初めて、グレンは職人の名を知った。
「聞いておらんのか?」
「自分のことは何も話さない人でしたから。ただただ剣と防具の話だけ」
ザットは極端に無口で、必要な時以外は一切口を開かない男だった。職人とはこういうものだと思って、グレンは何とも思わなかったが。
「あ奴らしいな。あれは人に興味を持たない人間だ」
「閣下は親しいのですか?」
「……いや、仲は悪いな。一方的に嫌われていると言ったほうが良いか」
「何かされましたか?」
「いや、何もしなかったことを怒っておるのだ」
「それは……」
トルーマン元帥の話しぶりで、何となくただの好き嫌いの問題でないことは分かる。
「その話は良い。お前らがまとめた計画案の資料に目を通した。その話をしたくて来たのだ」
「呼んでくだされば伺いましたのに」
「部屋では話したくない。この場所は丁度良かった」
「問題がありましたか?」
今、この場所で話すのが都合が良いとなると、人に聞かせられない内容だとしか思えない。
「いや、細かい所までは見きれておらんが、良く出来ておる。まあ、不十分な点もあるが、それもまとめてあったな」
「時間も知識も足りませんでした」
寝る間も惜しんで作業をしたが、グレン自身が満足いくものは出来上がらなかった。それをグレンは悔しく思っている。
「そうだな。だが、今の知識、与えられたわずかな時間であれだけのものを作ったのだ。儂は十分に満足しておる」
「それはありがとうございます。彼等も喜びます」
「彼等は使えそうか? お前の目から見てだ」
「今のままであれば。彼等には騎士としての変な拘りが、まだありませんから」
トルーマン元帥の質問に対するグレンの答えは条件付きだ。その条件が、いかにもグレンらしくて、トルーマン元帥は苦笑いを浮かべている。
「正式に騎士となれば変わるか?」
「そうでなければ騎士としてやっていけないのでは無いですか?」
集団で生きていくには、自分を押し殺すことが必要だ。今の騎士団には、これが必要で、それが問題だとグレンは思っている。
「……そうだな」
「せっかく作った計画案ですが、あれはあまり役に立ちませんね?」
「そうでもない。役に立てられるところもある。行軍に地方軍を関わらせる案は、すぐに出来そうだぞ?」
「それくらいですね」
「それでも……いや、それで満足するお前ではないか」
グレンは完璧主義者だ。状況によって妥協する柔軟さはあるが、本質はそうだとトルーマン元帥は思っている。だからこそ、現状に対する様々な不満が生まれるのだと。
「根本が変わらなければ、本当の効果は現れません。今回の仕事をやって、つくづくそう思いました」
「騎士は不要か?」
「それを口にしてよろしいのですか?」
「その為にこの場所で話をしておるのだ」
二人の会話を聞く者はいない。グレンだけでなく、トルーマン元帥も本音を語れる。
「では不要です。騎士個人の功名を求めて戦っていては軍は強くなりません。自分はそう思いました」
「行軍だけではないか」
「行軍一つをとっても騎士のせいで無駄が多い。そう言わせて頂きます」
「そうか……もしお前が全ての権限を持っていて、全てを思い通りに変えられるとしたらどうする?」
「それを話すことの意味を見いだせません」
そんな立場に自分がなるはずがない。そんな存在は、国王ただ一人なのだ。今のグレンが、自分であればと話すことは、国王を批判するに等しい。
「慎重な男だ。ここだけの話に留めておく。それを聞いて何かをする事はしない。少なくとも、お前が軍に関わっている間はな。これでどうだ?」
「……話す事が多過ぎます」
「では、大勢だけで良い」
「……騎士団は解散します。騎士という身分も失くします。軍の調練は、兵としての調練と部隊や軍を率いる将校の訓練の大きく二つに分けます。その上で、兵の調練は各兵種毎に細分化したものと全体の連携調練。将校訓練は小隊単位、中隊単位と徐々に上げていく調練にします」
「なるほど」
「将校になるのに家柄や身分は関係ないものとします。平民出身の国軍の一兵士であっても、人を率いる才を持つ人はいますし、騎士だかといって、その才があるとは限らないと思っておりますので」
「そうだな」
生まれた家で、その人の才能が決まるわけではない。騎士の家で生まれた人は子供の頃から騎士になるべく教育を受けてはいるが、グレンはその程度の差は、本格的な調練や実戦を経験すれば、すぐに覆ると思っている。
「しかし、これは不可能です。騎士身分を失くすことでさえ無理があるのに、最終的には貴族制度の廃止にまで話が波及していく可能性がありますから」
軍における身分制度を廃止し、それが効果を及ぼせば、改革は政治、文官制度へと繋がる可能性がある。そして文官の高官の多くは有力貴族家の人間なのだ。貴族制度の否定など許すはずがない。
「その通りだ」
「……驚かれないのですね? 閣下もすでに同じことを考えていましたか」
グレンはかなり過激なことを話している。それに対して、トルーマン元帥の反応は薄かった。
「いや、考えたのは儂ではない。儂は聞いただけだ」
「同じことを考えた人がいましたか」
「ああ……お前の父親だ」
「なっ!?」
トルーマン元帥が自分の父親について知っていることは分かっていた。だが、こんな話をする間柄だったとは、グレンは全く想像していなかった。
「……お前の父親はかつて、我が国の軍の関係者だった。だが、今お前が言ったと同じような事を堂々と公言してしまい、それによって、この国に疎まれ、憎まれ、嵌められて、追い払われた。お前の父親がこの国を恨むのも当然だ。そして儂がザットに嫌われているのはこれが理由だ。儂はお前の父親を救う事をしなかった。当時はまだ……いや、これは言い訳だな」
「……何故、今それを?」
トルーマン元帥の話は、さらにグレンの父親との近さを感じさせるものだ。グレンが本当に尋ねたいのは、何故今まで黙っていたのかだが、これを聞くのは怖かった。
「計画案を読んでいて、何となくお前も同じ事を考えているのだろうと思った。幸いにもお前にはこうした慎重さがある。自分の考えを危険なものとして、それを心の内に留めておく分別がある。残念ながらお前の父親は世間知らずでな。正しい事は正しいと考えてしまった。急ぎ過ぎたのだ」
「そうでしたか」
「父親と同じ轍を踏むな。それを伝えたかった」
「はい」
「まだ早いのだ。時代はそこまで進んでいない。お前の父親は未来を知っていて、それを考えた。お前は知らずに同じ考えに辿り着いた。そういう点ではお前の方が父親より優秀だな」
「…………」
グレンの考えを裏付けるトルーマン元帥の言葉。グレンはこれを聞きたくなかった。
「……少し口が過ぎたようだ。今の話は忘れろ」
「……はい」
「生きて帰れ。お前にはまだやって欲しい事がある。理想には届かなくても、それに近づける力がお前にはあると儂は考えている」
「……必ず戻ってきます」
「言いたい事は、これだけだ。邪魔をしたな」
「いえ」
そのまま二度と振り返ることもなく、トルーマン元帥は調練場を去っていった。トルーマン元帥が残した言葉に、グレンの言葉は乱れている。
自分の父親の存在。このところ、ずっと心の奥底に押しやっていたそれが、浮き上がってくる。それを振り払うように、グレンは一心不乱に剣を振り続けた。
◆◆◆
計画案の策定任務は、トルーマン元帥の言葉で終了となった。
もう官舎に泊まりこむ必要はない。グレンは従卒たちに任務の終了を宣言して解散とし、自分の宿屋に戻った。
久しぶりの自宅。ゆっくりと休む……という考えはグレンにはない。
「……あっ、もう。はっ、はあ……ねえ、もう……もう無理」
「嫌だ」
「また獣……。ねっ、ねえ、もう無理だよ。お願い許して……」
グレンの首に腕を回して、その耳元でローズは喘いでいる。
「……それ良いな」
「何?」
「許して。何かゾクゾクした。よし、頑張ろ」
嬉しそうに、ローズの胸に顔をうずめるグレン。この男はやはり少し変態なのだ。
「そうじゃない!」
その頭をローズは思いっきり引っ叩く。
「……急に普通に戻るなよ」
「もう離れて。本当に君は困った男ね。帰ってきて、いきなり部屋に連れ込むってどういうつもりよ?」
グレンを両腕で押しのけると、ローズは口を尖らせて文句を言う。
「だって、すっとご無沙汰だったし」
「しかも部屋に入って、いきなり人を裸にして」
「押さえ切れなくて」
「それからもう何回? 休む間もなく、ただ貪るように」
「……貪るって」
「その通りでしょ? さすがの私も傷つく」
ローズは完全にふくれっ面だ。ここまでの反応は珍しい。
「どうして?」
「ただの性欲のはけ口」
「そんな事ない」
「そんな事ある。全然優しくないもの。自分のことしか考えてない」
「……ごめん」
ローズがかなり本気で怒っているとようやく分かって、グレンは謝罪の言葉を口にした。
「少し落ち着いた?」
「まあ」
「良かった」
グレンが反省の色を見せたところで、ローズの怒りもすぐに収まる。ローズはグレンに甘いのだ。
掛け布団をまとうと、床に散らばっている服を拾い始める。ローズが文句を言った通り、部屋に入るなり、剥ぎ取るようにして、グレンはローズの服を脱がせていったのだ。
それを一つ一つ拾うと、ローズはそれを身につけ始めた。
「見ないでよ。恥ずかしいな、もう」
「……ローズのそういうところ、俺好きだな」
ローズに文句を言われても、グレンは笑みを浮かべたまま、見続けている。
「何が?」
「何度肌を重ねてもそうやって恥ずかしがる」
「変なこと言わない」
「そうだけど。ローズにはずっと、今のままでいて欲しいな」
グレンにとって、ローズがみせる距離感は、実に心地良いものだ。一線を越えない心遣いが、自分を大切にしてくれているように思えるのだ。
「……またズルい台詞」
「えっ、そう?」
「ずっとなんて言われても、いつまでか分からない。それは約束じゃないわ」
永遠なんて約束は信用できない。守れる保証のない約束は嘘と同じだ。少しひねた考えではあるが、全く間違ってもいない。
「……そういう捉え方もあるのか」
「そうよ。まあ、どんな約束でも同じだけどね」
「そうか?」
「死ぬまで一緒にいよう。でも、人はいつ死ぬか分からない。明日かもしれない。そんな約束は嬉しくないわ」
「縁起でもないこと言うなよ。俺、戦争に行くのに……」
「そうだった。そっか……そういうことね?」
何かを思いついたローズ。意味ありげな視線をグレンに向けている。
「……何?」
「いきなり私の部屋にきて、こうしている理由」
「理由? それは、ずっとご無沙汰だったから」
「嘘つき。自分の部屋に行きたくないんでしょ?」
「……そんなことない」
まったくその気持ちがないとは言わない。ただ、それよりもトルーマン元帥から知らされた事実に惑う自分の心を落ち着かせたかったからだ。
「部屋で待っているフローラちゃんと向き合うのが怖いから」
だがグレンが否定しても、ローズは自分の考えが間違いではないと信じて、受け入れようとしない。
「それは誤解。フローラを避けるためにローズを抱くって、それはさすがにだろ?」
心の鬱憤を晴らす為に抱くのもどうかと思うが。
「どうだかね? でも、向き合わなければいけないのは事実よ」
「そうか?」
「もう分かっているくせに」
「……何が?」
フローラの話になるとグレンはとことん煮え切らない。これがローズの言う、向き合うことから逃げている、ということだと分かっていない。
「じゃあ、はっきりと言ってあげる。フローラちゃんは君に女にしてもらいたいのよ」
「それは……」
「もう、異性として見て欲しいなんて気持ちは超えているの。自分を君の物にして欲しいのよ。大人の女性として扱って欲しいのよ」
「……俺には出来ない」
グレンにとってフローラはとても大切な存在で、その気持ちが強くなり過ぎて、自分が触れることも許せなくなっている。
「それを逃げていると言うの。フローラちゃん……ちゃん付けはもう失礼ね。フローラは待っているわよ。そして安心を求めているわよ。君とずっと、それこそ、ずっと一緒にいて良いのだって安心をね」
「……そんな関係にならなくても、俺はフローラと」
「君は本当に女心には鈍感ね? 女はね、愛されているという実感が欲しいの。その実感を持てないと一緒にいる事が不安なの。フローラの場合は少し違うかな? 君は一緒にいてくれると分かっていても、それが君の負担にならないか心配しているの」
「…………」
「ちゃんと向き合ってあげて。彼女のことを愛しているなら」
「でもローズは……」
ここでローズの気持ちを持ち出すのは優しさではなく、愚かさだろう。フローラについて話すローズがどういう気持ちかをグレンは分かっていない。
「私の事を考えてくれるのは嬉しいけど、私は大丈夫」
「どうして? ローズは俺のこと好きじゃないのか?」
さらにダメ男な発言を口にするグレンだった。ローズに対する甘えだ。ただ、グレンがここまで、だらしなく甘えられるのはローズだけという面もある。
「好きよ。君が好き。でも私はもう覚悟が出来ているの。君は私の体に夢中。どうして、この言葉を繰り返していると思っているの? 私はそれで良い。そう思っているからよ」
「……違う。俺はローズの体ではなく、ローズのことが好きだ」
「フローラよりも?」
あえて厳しい質問をローズはグレンに投げかける。ここでグレンがフローラから逃げることを許しては、良い結果にはならないと思ってのことだ。
「……分からない」
「そんなこと言わないで」
グレンの答えはローズの思っていたものと違っていた。それを聞いてローズは眉を顰める。嬉しくはあるのだが、同時に苦しくもあった。
「本当なんだ。おかしいだろ? ローズもフローラも好きだなんて。本当に好きなのかと不安に思ってしまう」
「君は間違いなくフローラのことが一番好きよ」
「それが分からない。前ははっきりとそう言えた。でも、今はそれを口に出来ない」
グレンは自分で自分の気持ちが分からなくなっている。どうしてこうなったのか。それも分からない。
「……嬉しいこと言ってくれるね。それでもちゃんとフローラと向き合って欲しい。それは私の為でもあるのよ? 君はずっと今のままでと言ったけど、その自信はないの」
「どうして?」
「君が好きでいてくれる。そう思うと欲が出てくるの。もしかして、自分が一番に成れるのかな、なんて。それが私を苦しめるの。フローラを裏切っているという思い。一番には成れないと知った時にどんな気持ちになるのかって不安。この二つが私を苦しめるの」
「……そうか」
傷つき、傷つけるよりは、自分の想いを押し込める方を選ぶ。ローズの切ない気持ちを知っても、グレンは何も言えない。
「曖昧なままであって欲しいという気持ちもある。でもね、やっぱり、それは駄目だと思うのよ」
「……分かった。でも、すぐには結論は出ないと思う」
どちらか一人を選ぶ。今はこれを考えることさえ、グレンは出来ない。
「分かっているわ」
「……ありがとう」
「行って。きっと待っているわよ」
「ああ」
ローズに勧められて、部屋に戻ろうとするグレン。その足が扉の前で止まった。振り返って、ゆっくりと口を開く。
「……ローズ」
「何?」
「俺、本当に君が好きだから。これは嘘じゃないから」
「……行って」
更に言葉を続けようとするグレンを拒否するように、ローズは背中を向けた。その背中をしばらく見詰めていたグレンだったが、結局、掛ける言葉が見つからずに黙って部屋を出た。
扉を閉めて、すぐにその場を離れた。残したローズへの思いを断ち切るために。
すぐには自分の部屋には戻らない。水場に行って、ローズとの情事の残り香を洗い落としながら、自分の決心を固めていく。
それは長い時間続いた。すっかり冷えた体と頭。それでようやくグレンは自分の部屋に向った。
ゆっくりと扉のノブを回す。扉を開けて中に入ると、複雑な表情をしたフローラがベッドに腰掛けていた。
「起きていたのか?」
「まだ、そんなに遅くないよ」
「そうだな」
向き合う。そんな思いがあっても何を話せば良いのか、グレンには思いつかなかった。
「ローズさんは?」
「あっ、えっと疲れて寝ているかな?」
「疲れてね……」
ローズの頬がわずかに膨らむ。不満なのだが、ローズとの約束もあるので、フローラは文句を口にしないでいる。
「……何?」
なんとも思わせぶりなフローラの言い方に、グレンの心に動揺が広がる。
「別に」
「何か怒っているのか?」
「別に……」
「怒っているだろ?」
フローラが我慢していることも分からずに、グレンはしつこく怒っている理由を尋ねてしまう。
「じゃあ、何を怒っていると思ってるの?」
「……フローラを放って、ローズと一緒に居たこと」
「正解」
「ごめん」
「酷いよ。久しぶりに帰ってきたのに」
とうとうフローラも我慢が出来なくなって、文句が口を出る。
「……ごめん」
「帰ってくるの楽しみにしていたのに」
「ごめん……じゃあ、話をしようか?」
フローラが泣きそうになっているのを見て、グレンは何とか慰めようとしている。
「何の?」
「何が良い? フローラの好きな事で良いけど」
「じゃあ、お兄ちゃんの事」
「……そういう好きじゃあなくて」
この好きを話すために部屋に戻ってきたことを、もうグレンは忘れてしまっている。
「じゃあ、お話は良い」
「えっ?」
「その代わり、今日は一緒に寝る」
「えっと、同じ布団でってこと事?」
「そうだよ」
ずっと帰ってきていなかったので久しぶりではあるが、同じ部屋で寝るだけなら特別でも何でもない。そんなことをフローラが望むはずがない。
「……良いよ。じゃあ、そうしよう」
「うん! じゃあ、着替えるから後ろ向いて」
「あ、ああ」
「お兄ちゃんも着替えたら?」
「そうする」
クローゼットから着替えを取り出すと、グレンはフローラに背中を向けて、着替えを始めた。
後ろではフローラもゴソゴソと着替えを始めているのが分かる。とりあえず、それに変な気持ちが起きないことに安心するグレン。
「もう良いか?」
「まだ。もうちょっと」
「分かった」
「ベッドの方で良いよね?」
宿代の節約の為に、二人は一人用の部屋にずっと寝泊りしている。ベッドは一つ。グレンはいつも床で寝ていた。
「俺はどっちでも平気だけど、フローラはベッドが良いだろ?」
「じゃあ、ベッドね」
「分かった」
「……もう良いよ。着替え終わった」
グレンが振り返ると、すでにフローラはベッドに横になっていた。
「早っ」
「今日は忙しかったの。眠いの我慢して待っていたのに、なかなか帰ってこないから」
「だから、ごめんって」
「ちょっと早いけど寝ようよ。お兄ちゃんも疲れているよね?」
「どうだろ? 疲れているようないないような?」
まだまだ行けるところをローズに止められた。中途半端な状態なのだが、フローラが聞いているのは、この疲れているかではない。
「何それ?」
「まあ、疲れているのかな?」
こう言いながらグレンはベッドに近づいた。グレンの寝る場所を開けようと、フローラが布団の中で横に動いている。
その隣に横になろうと、グレンが布団をめくると。
「…………」
フローラの透き通るような白い肌が真っ直ぐに目に入ってきた。下着一枚つけていない真っ白な裸体だ。
「……ちょっと恥ずかしいかな?」
「フローラ……」
「隣に来て」
「いや、それは……」
「私を見て」
「……見てる」
見てはいけないと頭では思っているのだが、グレンは目を離すことが出来なかった。
「私もう大人だよね?」
「……そうだな」
胸のふくらみも腰の括れも、グレンの頭の中にあるフローラの裸と違っている。子供だったフローラの記憶が、上塗りされていくようにグレンは感じている。
「私とお兄ちゃんはもう兄妹じゃないよね?」
「……そうだな」
「じゃあ、お願い。私を女として見て」
「それは……」
「……やっぱり恥ずかしいね」
こう言いながらもフローラは裸体を隠すわけではなく、体を起こして、固まってしまっているグレンに抱きついてきた。
「フローラ?」
「こうすれば見えないよね?」
「そうだけど……」
確かに裸にどぎまぎすることはなくなった。だが、柔らかな感触はそれはそれで、かなり刺激的だ。
「私、お兄ちゃんの恋人になりたいの。ローズさんみたいに」
「……フローラ。それは違う」
「何が違うの?」
「二人共が恋人なんておかしい」
「……じゃあ、私はどうすれば良いの?」
「ずっと一緒にいれば良い。フローラがそれを望むなら、俺はずっとフローラの側にいるから」
これはグレンの望みでもある。家族としてフローラの側にいて、ずっと守ってあげたいのだ。
「ずっと一緒にいたい。でも不安なの。お兄ちゃんは私の為に頑張ってくれた。それは嬉しいけど、私はお兄ちゃんに何もしてあげられてないの」
「そんな事ない。フローラがいてくれるから、俺は頑張れるんだ」
「本当に?」
「本当だ。フローラは俺の救いだ。今まで辛いことは沢山あったけど、フローラの笑顔を見ると、俺も笑っていられた。それで俺はずっと救われていた」
両親を亡くし、どうすれば良いか途方に暮れていたグレンを救ったのはフローラだ。フローラを守らなければならない。この思いがグレンに力を与えていた。
「そう。良かった」
「フローラの事は好きだ。妹としても、一人の女性としても」
「本当!?」
異性としてのフローラへの想い。これを初めてグレンは口にした。それを聞いて、フローラは表情には喜色が浮かんでいる。
「本当。でも……正直に言うと妹のままでいて欲しいという気持ちのほうが強いのかもしれない。いや、はっきりとそう思っているわけじゃないけど……」
「……そう」
途端にフローラの表情が曇る。自分との関係を違うものにする気持ちは、グレンにはない。そう受け取ったのだ。
「ローズにフローラと向き合えと言われた。ちゃんと一人の大人の女性として見てやれと」
フローラの落ち込みに気づいていながら、グレンはローズの話を持ち出した。そうしなければならないと思ったからだ。
「ローズさんが……」
「ローズはそういう女性だ。俺と同じくらいにローズはフローラのことを大切に思っている。そういう人の存在を無視してはいけないと俺は思う」
「……そうだね」
ローズの優しさはフローラも分かっている。グレンのことで悩んでいるフローラを、いつも励まし、助言をしてくれていたのは彼女なのだ。
「時間が欲しい。結論を急ぐことなく、俺たちの関係が自然のままに動く時間が。このままかもしれない。変わるかもしれない。結論は分からないけど、無理はしたくない」
「……うん、分かった」
グレンの気持ちはフローラも分からなくはない。兄としてでなく男としてグレンが好き。それは間違いないと思っている。
だが兄妹として育った二人の時間は、とても幸せなものだった。兄妹から男女になった時、その時間を超える幸せが二人に訪れるのか。この不安は以前からあったのだ。
「一緒に寝よう。今は兄妹として」
「うん!」
「……ちゃんと服着てから」
「ちぇっ」
◆◆◆
翌朝。まだ早い食堂にグレンとフローラの姿があった。
今日は出陣式。そのあとは、そのまま官舎で一晩を過ごして早朝に出陣となる。今日でしばらくのお別れなのだ。
「じゃあ、行くから」
「うん。気をつけて」
別れの挨拶を口にしながら、名残惜しそうにグレンの服を掴むフローラ。その手を優しく離すと、グレンはフローラの頭を優しくなでる。
「もう。子供扱いしないで」
「俺にとってフローラはまだまだ子供だ」
「……いつか一人前の女性として認めさせるから」
「その日が来るのを楽しみにしている」
出口に向かうグレン。その背中にフローラの声がかかる。
「お兄ちゃん! ううん! レン!」
「…………」
自分を名で呼ぶフローラ。その意味はグレンには分かっている。
「愛してるから!」
「……俺もだ」
振り返ることなくフローラに答えると、気持ちを振り切るようにして、グレンは大きく一歩を踏み出す。
そのまま外に出たグレン。その視線が入り口の扉に向く。
「遠慮した?」
「……気付いてたか」
扉の陰から、気まずそうにローズが姿を現した。
「俺と暫く会えないのに見送らないはずがない」
「あっ、うぬぼれてる」
「ローズにはいくらでもうぬぼれられる」
「……あれで良いの?」
グレンとフローラの関係は変わらないまま。そうであることにローズは気が付いている。
「今はいい。先延ばしとかじゃなくて……今は」
「……そっか」
「……行ってくる」
ローズに近づいて、グレンはその体を強く抱きしめると、そのまま唇を重ねた。
「ん……必ず帰ってきて。私たち二人の為に」
「約束する」
「……あとは誰と別れを惜しむの?」
「えっ? い、いや、そんな人いないから」
思わず頭に浮かんでしまった人。それを慌ててグレンはかき消した
「本当かな? でも平気。私は君に夢中だから」
「……俺もだ」
グレンにとって何よりも嬉しい台詞。それを聞けたグレンは笑みを浮かべて、騎士団官舎に向かった。