放課後の部室。勉強会は終わり、今は居残りたい生徒がそれぞれ好きなことをして過ごす時間だ。寮生活のジグルスはいつも居残り組。部屋に戻っても特に何かやることがあるわけではない。そうであれば夕食の時間まで部室に残って、生徒たちが持ち寄った本を読んでいたほうが良い。そう考えてのことだ。
いつものように読書で時間を潰しているジグルス。だが、今日の彼は普段とは熱心さが違う。本にまったく集中出来ていないのだ。その原因は。
「ち、ちょっと、マリアンネ。ふざけないでよ」
「そうやって恥じらうリーゼロッテは、やっぱり可愛いわ」
「だから、からかわないで」
「羨ましいな。スタイルが良くて」
「変なところを触らないで!」
じゃれ合うリーゼロッテとマリアンネの様子に気持ちを持って行かれているのだ。二人の、というよりマリアンネの一方的なおふざけは、ここ最近はいつものこと。ジグルスも見慣れた光景のはずなのだが。
(……マリアンネ様はやっぱりそっちなのかな?)
今のジグルスは二人に対する見方が変わっている。主人公のユリアーナと直接話して知った新たな事実。それをジグルスはここ数日考えていた。
この世界は自分が知る【ブルーメンリッター戦記】の世界ではない可能性がある。では主人公が口にした【薔薇と百合の騎士団】とはどういうものなのか。
頭にある可能性はボーイズラブ、ガールズラブの物語ではないかということ。これはユリアーナとの会話のすぐ後に思い付いたことで、ジグルスはそうでないことを願って別の可能性を考え続けているのだが、どうしても思い付かない。自分が転生者であることがバレてしまうのを覚悟して、ユリアーナに真実を聞こうかと考えたくらいだ。
(……リーゼロッテ様は嫌がっている……嫌がっているよな? 違うのか?)
敵役ではあるがリーゼロッテも主要キャラの一人。GLの対象である可能性は高い。そう考えてジグルスはここ数日、これまでとは異なる目で観察しているのだが、どちらという確信は持てないでいた。
(マリアンネ様は怪しいな……パーティー候補の一人だから当然か)
マリアンネは主人公であるユリアーナと共に魔人と戦うメンバーの一人になる可能性が高い。そうなるとそうであってもおかしくない。実際に目の前のマリアンネは盛んにリーゼロッテの体に触ろうとしている。
(そうなると……主人公とマリアンネ様が……いやぁ……)
マリアンネが主人公の仲間になるきっかけを考えて、ジグルスは動揺している。ユリアーナとマリアンネのGLを想像して。
(……あれ? えっ? まさか、エカード様とレオポルド様が……あっ、変な想像した。消えろ。頭から消えろ)
今度はBLのほうを想像してしまって焦っている。
「……ちょっと、ジグルス」
「えっ? あっ、はい」
名前を呼ばれてジグルスがマリアンネのほうを見てみれば、彼女だけでなくリーゼロッテも不審そうな目でじっと自分を見つめていた。
「貴方、何をしているの?」
「何を……読書を?」
「何故、疑問形? 本なんて読んでないのでしょう?」
「ああ……ちょっと考え事を」
これは嘘ではない。考えていた内容は言えないが。
「何を考えていたの?」
マリアンネは容赦なく考え事の内容まで聞いてくる。
「えっと……」
「いやらしいことでしょ?」
「えっ……?」
何故自分が考えていたことが分かるのか。そう思ったジグルスは呆然としてしまった。ジグルスらしくない迂闊な反応だ。
「あっ、当たった」
「…………」
マリアンネの当てずっぽうに引っかかってしまった。
「へえ。ジグルスにもそういう欲求があるのね?」
「い、いや、俺はそんなことは考えていません」
「嘘つき。リーゼロッテの体に触りたいのでしょ?」
「ちょっと!」「マリアンネ!」
ジグルスとリーゼロッテの声が重なる。二人とも顔が真っ赤だ。
「でも、駄目ぇ。これは私だけの特権なの。ねっ、リーゼロッテ」
「貴女にそんな特権を与えたつもりはないから」
「えっ、それはつまり私じゃなくて?」
「違うから!」
真っ赤な顔でマリアンネの問いを否定するリーゼロッテ。マリアンネの問いの意味を、リーゼロッテの反応の意味を分からないほどジグルスは馬鹿でも鈍感でもない。
(……リーゼロッテ様は違う)
頭の中で考えるだけで恥ずかしいのだが、リーゼロッテは自分のことを好きでいてくれている。GLの対象ではないとジグルスは判断した。自惚れを恥じることになっても、こう思いたいのだ。
(あれ? でもマリアンネ様もレオポルド様の浮気に怒って……ん? 主人公と関係を持ったはずだよな?)
マリアンネは婚約者であるレオポルドが主人公と浮気したことを怒り、リーゼロッテの側にいるようになった。相手のレオポルドも主人公と浮気をしたということは、そういうことだ。
(……どういうことだ? 結局、スタート地点に戻った)
この世界はどちらのゲーム世界なのか。思考が振り出しに戻ってしまった。それはそうだ。この結論がはっきりと出ないままにジグルスは、主人公が正しいという前提で考えを進めしまっていたのだ。
「また、変なこと考えている」
「……違います」
「……ジーク。やはり、陛下とのお話で何かあったのではないですか?」
マリアンネとは異なりリーゼロッテは、国王との面談で、何か悩まなければならないことがあったのではないかと疑っている。
「いえ、陛下とのお話はすでにご説明した通りです」
「そう……ジークのお父上については私も調べてみたわ。でも詳しいことは分からなかった」
「そうですか……」
ジグルスの父親は何者であるのか。この情報をリーゼロッテたちは持っていない。ジグルスにとっては不思議なことだ。
「リーゼロッテには悪いけど、それは怪しいわね」
マリアンネもジグルスと同じような疑念を持っていた。ジグルスの父親はリリエンベルク公爵家に従う貴族。どこよりも詳しい情報を持っているのはリーゼロッテの実家であるはずなのだ。
「……何か隠していると言うの?」
「だって……男爵位は恐らくリーゼロッテのお爺さまであるリリエンベルク公が与えたのよね?」
「多分」
クロニクス男爵家の爵位は王国が直接与えたものではない。何者か分からない相手に、最下級の男爵とはいえ爵位を与えるはずがない。ジグルスの父親が王国騎士だと考えているなら尚更だ。
「素性が分からない相手に爵位を与える?」
それはリリエンベルク公国でも同じ。そうマリアンネは考えている。
「王国の誤解である可能性は残っているわ」
リーゼロッテはマリアンネの疑いを否定する。ジグルスの父親が正しくハワード・クロニクスであれば素性は明らか。爵位を与えてもおかしくないのだ。
「そうだけど……他の公家も王国と同じように疑っているわ」
タバートもエカードもジグルスの父親は王国騎士だと言っていた。それは実家から得た情報であるはずだ。
「でも、マリアンネ。ジークのお父上がそういう人であるなら何故、王国に戻らないの? 言われるほどの大活躍をしたのであれば褒美は望むままよ」
「うーん。その主張はちょっと通用しないわね」
「……そうね」
ジグルスの父親が王国に戻らない理由はある。妻がエルフなのだ。この世界のエルフ族は人間を嫌い、そのほとんどが世界のどこかに隠れ住んでいる。ジグルスの母親もローゼンガルテン王国の都に来ることを喜ぶとは思えない。
「まあ、本人に聞くのが一番なのよね? それでどうなの?」
マリアンネは問いをジグルスに向けてきた。彼女が言うとおり、ジグルスが父親に確かめるのが一番間違いのない方法だ。
「一応、手紙は出しました。まだ到着していないでしょうけど」
「まだ着かない? ジグルスの実家はそんな辺鄙なところにあるの?」
「辺鄙は辺鄙ですけど、まだ公国にも着いていないと思いますよ」
「いつ出したの?」
「陛下に会ってすぐ。伝えると約束しましたから行動を起こさないのはマズいと思って」
「……それでどうして着かないの? 飛竜便だとリリエンベルク公国までは一週間くらいで着くでしょ?」
飛竜便。言葉の通り、飛竜で運ぶのだ。飛竜はこの世界におけるもっとも速い移動手段。それに次ぐのが走竜、地を走る竜だ。もっと速く移動する動物はいるのだが、実用化されている中では走竜が地上を走る動物では一番だ。
いずれも軍事利用から始まった移動手段。それが情報伝達にも活用されるようになったのだ、という設定になっている。
「……普通便ですから」
「……何故?」
普通便は旅人が利用する乗り合い馬車で運ばれる。つまり、人が持って運ぶのと同じだけの期間が必要になる。
「安いから。というか他の選択肢は考えていませんでした」
「……そうね」
飛竜も走竜も高い。庶民が利用出来るものではない。ジグルスが庶民感覚を持っているのをマリアンネは忘れていた。
「速く到着したからといって返事がすぐ来るとは限りません」
「陛下の呼び出しを無視すると言うの?」
「今更です。これまでも無視しています」
「それもそうね……ジグルス、貴方大丈夫なの?」
陛下の呼び出し、つまり命令を無視して、ただで済むのか。これまでは公国内にいたから手出し出来なかったかもしれない。だが今、ジグルスは康応のお膝元。王国の都にいるのだ。
「やっぱり、そう思います?」
「普通は思うわよね?」
「そうですよね……でも、両親もこうなることを分かっていたと思うのです。これはあくまでも陛下が誤解していないと仮定してですけど」
ジグルスを都に送り出すのは、自ら人質を差し出すようなもの。そんな馬鹿な真似を両親が行うとはジグルスには思えない。
「人質を出すことで、陛下からお許しを貰おうとしたのかもしれないわよ」
「えっ……」
「マリアンネ。ジークのご両親がそんなことをするはずがないわ。本当に身に覚えがないか、何かお考えがあるのよ」
「どんな?」
「それは……」
どのような考えがあるのかと聞かれても、リーゼロッテは答えを持っていない。
「リーゼロッテ。少し嫌なことを言うけど、実家は頼りにしないほうが良いわよ?」
「……どうしてかしら?」
いざとなればリリエンベルク公爵家の力でジグルスを逃がす。リーゼロッテの考えをマリアンネは否定してきた。
「そんな真似をすればリリエンベルク公国は王国に逆らったことになる。大問題になるわ」
ジグルスの逃亡を幇助すれば、それはリリエンベルク公爵家もまた国王の命令に公然と逆らったことになる。そんな危険を冒すはずがないとマリアンネは考えている。
「でも、それでは……」
「大丈夫です。本当に危険が迫るような事態になれば、自分で逃げます」
「そんな簡単に言わないで」
ジグルスは自分を心配させないように、負担をかけないようにこんなことを言っている。リーゼロッテはそう受け取った。
「簡単ではないですが、なんとかなります。これでも身を隠すのは得意なほうですから」
「そうかもしれないけど、逃亡となるとまた話は違うわ」
ジグルスが気配を消すことが得意なのはリーゼロッテも知っている。ほぼ一年、存在に気付くことがなかったのだ。だが逃亡はそれだけで成功するものではない。まして国に追われることになるのだ。
「最悪の状況ばかりを考えても時間の無駄です。何もない可能性だって、その可能性のほうが高いのですから」
リスクを想定して、それにどう対処するかを考えるのは時間の無駄ではない。そんなことはジグルスも分かっている。ただこれは自分が解決すべきこと。リーゼロッテを、彼女の実家を巻き込んではいけないと考えているのだ。
「ジーク……」
「そんな暗い表情はリーゼロッテ様には似合いません。俺はリーゼロッテ様の笑顔が好きなので、楽しい話をしましょう」
「…………」
ジグルスに笑顔を好きと言われて、リーゼロッテは頬を染めている。純情過ぎる。まんまとジグルスに話を逸らされてしまうとマリアンネは思っているのだが、この雰囲気を壊すのもどうかと思って、何も言わないでおいた。
だがこのマリアンネの気遣いは、一部、無駄に終わる。
「残念ながら暗い話だ」
「……また盗み聞きですか?」
現れたのはタバート。これまでどこで話を聞いていたのだということだ。
「盗み聞きなどしていない。扉を開ける時に、たまたま君の話が聞こえただけだ」
「そうですか……」
疑いの気持ちは消えないが、これを深く追求しても意味はない。もっと大事なことがあるのだ。
「それで暗い話とは何なのですか?」
リーゼロッテがその大事なことをタバートに尋ねた。
「ああ、また合宿が行われる」
「この時期に?」
学院の行事にこの時期の合宿などない。それをリーゼロッテは知っている。
「時期は三ヶ月先の予定だと聞いている」
「……どういうことかしら?」
予定にない合宿。それも三ヶ月先の予定が今、伝えられた。何かがおかしいとリーゼロッテは感じている。先にタバートが暗い話だと言っていたことも、気持ちに影響しているとしても。
「合宿場所は前回と同じ。ただし参加者は選抜される」
「前回と同じ? あの場所は閉鎖されているのではなくて?」
魔物が出現してまだ一年も経っていない。立ち入り禁止はまだ続いているはずだとリーゼロッテは考えた。
「閉鎖はされている。その閉鎖されている場所で合宿を行うというのだ」
「また魔物と戦うことに……いえ、魔物と戦うことが目的なのね?}
「ああ、そうだと思う。参加者は数人の代表者が決められ、その代表者が決めることになる。これはまだ推測だが、俺と君、そしてエカードが代表者に選ばれるのではないかな?」
「……そういうことなのね。でも……ラヴェンデル公爵家はどうするつもりかしら?」
自家のまだ若い子弟が、危険な合宿に参加することになる。それを公爵家が素直に受け入れるとは思えない。
「当然、クレームを入れている。だが学院、いや、王国は強行するつもりのようだ。前回、一人の怪我人も出なかったことから危険ではなく、それどころか貴重な経験になると言われたと聞いた」
「……私はまだそれを知らされていないわ」
「そのようだな。何か裏がある。これを考えると、気持ちが暗くなるだろ?」
「そうね……」
王国が何やら怪しい動きに出ている。しかも公爵家の反発があっても無理に押し通そうとしている。まだ学生の身のリーゼロッテであるので情報は少ないが、このようなことは初めて聞いた。
「……タバート様、キルシュバオム公爵家は動いていますか?」
ここでジグルスがタバートにキルシュバオム公爵家、エカードの実家の動きを尋ねた。
「いや、まだ確認していない」
「それは動きがない、それとも動いているかを確認していないのどちらですか?」
「……後者だ」
タバートは他家の動きまでは確認していなかった。リーゼロッテにこうして話に来たのが、そのつもりなのだ。だがジグルスに言われて、確実に情報を聞けるであろうリーゼロッテよりも、キルシュバオム公爵家への探りを先にすべきだったと反省した。
「そうですか……もしかするとキルシュバオム公爵家は合宿の実施を認めているかもしれません」
「何故、そう思う?」
「王国に三公爵の全てを敵に回す覚悟はあるでしょうか?」
「なるほど。キルシュバオム公爵家の了解を得た上で、俺の家に。それからリリエンベルク公爵家に、という考えか」
キルシュバオム公爵家はすでに了解していると言われれば、タバートの実家も不参加を訴えることに躊躇いを覚えるようになる。キルシュバオム公爵家は必ずそれを批判してくる。正面からは何も言わなくても。他家にラヴェンデル公爵家は魔物が怖くて逃げたくらいの陰口は平気で言うだろうと想像出来る。
そして二公爵家が了承してリリエンベルク公爵家だけが不参加はあり得ない。
「その可能性はあります」
「……それが事実であれば、父上は動揺するかもしれないな。王国とキルシュバオム公爵家が結託しているということだ」
王国と四公国の静かな勢力争いに、新たな局面が生まれることになる。大袈裟かもしれないが、その勢力争いを行っている当事者である公爵であれば、あらゆる事態を想定しておくことは当然だ。
「私も実家に伝えて、探りを入れてもらうわ」
「ああ、頼む。俺はこれで戻る。早く家に帰ったほうが良さそうだ」
「そうね。私ももう戻るわ」
まだ学生である彼等が王国内の権力争いに巻き込まれたかもしれない状況。それを考えると、始めにタバートが口にした通り、気持ちが暗く、重く沈んでしまう。
(……あの女……なにを企んでいる?)
ジグルスはその元凶は主人公にあると考えている。この世界がどのような世界であってもゲーム世界である以上は、主人公を中心に物語が動くはず。このような異常事態には必ず主人公が絡んでいるはずだと。
そしてその場合、災難が降りかかるのは敵役であるリーゼロッテなのだ。ジグルスは最近少し緩んでいた気持ちを引き締めた。物語は終わっていない。リーゼロッテはまだ危機から逃れたわけではないのだ。