月の文庫ブログ

月野文人です。異世界物のファンタジー小説を書いています。このブログは自分がこれまで書き散らかしたまま眠らせていた作品、まったく一から始める作品など、とにかくあまり考えずに気の向くままに投稿するブログです。気に入った作品を見つけてもらえると嬉しいです。 掲載小説の一覧(第一話)はリンクの「掲載小説一覧」をクリックして下さい。よろしくお願いします。 

勇者の影で生まれた英雄 #12 女性たちの密約

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 ドーン元中隊長の家を出て、宿屋に戻るグレンの足取りは重い。表には出さなかったが、心の中では大きく動揺していたのだ。
 地方貴族から逃げているグレン。だが逃げなければいけない相手は、地方貴族どころか国そのものであったのだから動揺するのは当たり前だ。
 ドーン元中隊長には心当たりはないと言ったが、実際には心当たりはあり過ぎる程ある。
 両親が健在だった頃は、ただ怪しげだった父親の知り合いたち。だが国軍に入った後のグレンには分かる。彼らが纏っていたのは戦場の雰囲気だ。それも今の自分が持つそれよりも、もっと濃厚な。
 子供であった当時は分からなかった父と彼らの会話に出てきた言葉の意味。国軍の兵士、そして色々と軍のことを勉強してきた今のグレンにはそれが分かる。
 銀鷹傭兵団という傭兵団かどうかは別にして、グレンはとっくに父とその知り合いが戦争に関わる何かをしていたと分かっていた。
 そして、グレンの心を乱している、もう一つの思い。
 自分がドーンの言うような力ある傭兵団に関わりがあるのなら、どうして、その傭兵団の人たちは自分たちを助けてくれなかったのか。両親を亡くし、貴族に追われる恐怖に震え、日々の生活に不安を感じていた自分たちをどうして彼らは放っておいたのか。
 これが甘えであることはグレンにも分かっている。だが、自分も今の自分ではなかった。まだ子供だった自分は甘えてはいけなかったのか。大切な妹を守ろうと心に決めながらも、自分たちの置かれた状況に絶望して、全てを投げ出そうと考えたことは、一度や二度ではないのだ。
 今、その時の絶望を超える思いがグレンの胸に広がっている。一国を、それも世界の強国を相手にして、自分たちの身を守らなければいけないというプレッシャーに押し潰されそうになっていた。

 こんな思いを胸に抱えながらも、グレンは宿屋に辿り着いた。普段であれば、何も考えずに入り口に向かう足が手前で止まる。

「鷹の爪亭か……」

 宿屋の看板に書かれている名前を小さく呟く。ある事実を連想させるその宿屋の名前を。
 いつまでも止まっていても仕方がないと、グレンは足を踏み出して宿屋に入った。相変わらずの賑わいをみせる宿屋の食堂。そこに踏み入ったグレンに奥から声がかかった。

「お兄ちゃん! こっち、こっち!」

 フローラの声だ。声がしたほうに視線を向けてみれば、奥のテーブルで、満面に笑みを浮かべたフローラが、飛び跳ねながら大きく手を振っていた。

(……そうだよな。そうなんだよ)

 フローラの笑顔を見て、グレンの心の中から鬱屈した思いが消えていく。
 あの笑顔に何度助けられたか。あの笑顔を守る為に自分は生きているのだ。この強い思いが胸を満たしていく。

「遅かったね?」

 テーブルに着いたグレンにフローラは、又、笑顔を向けてきた。

「ああ。これが最後だから。話すことが沢山あって」

「そう。中隊長さんは、これからどうするの?」

「田舎の街に引っ越すそうだ。そこで仕事を見つけて生活するらしい。そういう生活も良いよな? どんな街かは知らないけど、王都よりは静かだろうから」
 
 街の喧騒などではなく、ここ最近の自分の周囲の騒がしさをグレンは鬱陶しく感じている。

「そうだね。私達の村も静かだったものね」

「フローラも、そういう生活の方が良いか?」

「えっと……どうだろう?」

 良いと言えば、今の生活に不満があるように思われそうで、フローラは答えに困ってしまう。

「二人で又、静かな村で生活するなんていうのは嫌か?」

「あっ、それなら良い」

 グレンと一緒であれば、どこでも、どんな暮らしでもフローラは良いのだ。

「そうか。じゃあ、そろそろ考えないとな」

「えっ? それってお兄ちゃんも軍を辞めるってこと?」

「元々、いつまでも続けるつもりはなかったし」

「……そうだね。お兄ちゃんにはもっと良い仕事があると思うよ」

 軍で偉くなって忙しくなったグレン。それによって寂しい思いをすることが増えたフローラにとって、グレンが軍を辞めることは大歓迎だ。

「良い仕事見つかるかな?」

「大丈夫だよ。それに私も今みたいに働く。そうすれば生活出来るよね?」

「まあ。でもフローラに働かせるのはな」

 とにかくフローラに対しては過保護なグレンだった。

「何言ってるの? 兄妹二人で助け合わないと」

「そうだな」

「……ねえ、私の存在を無視しないでくれる?」

 二人の会話が盛り上がってきた中、ローズの冷めた声が割って入ってきた。

「あっ、居たのですか?」

 声を掛けられて初めて、グレンはテーブルの反対側に座るローズに視線を向けた。

「白々しいわね。ずっと居たわよ」

「珍しいですね? フローラと二人で食事なんて」

 犬猿の仲。二人の関係を表現するのに、一番の言葉がこれだ。

「此処しか空いてなかったのよ。相変わらずの混雑でね」

「そうですか。でも、もう終わったのでは?」

 グレンは空になっている皿を指さしながら、こう言った。

「私、邪魔?」

「うん」「まあ」

 実に正直な兄妹だった。

「兄妹揃って……ねえ、国軍を辞めるつもりなの?」

 邪魔者扱いは慣れている。気にすることなくローズはグレンに質問してくる。

「部屋に戻る気はないのですね?」

「だって気になるじゃない。どうなの?」

「いつかは辞めるつもりでしたから」

「それはそうだけど、早過ぎない?」

 ローズはこう言うが、実際は早いということはない。二年という拘束期間を終えて、兵士は無理だと辞めていく者は多いのだ。ただグレンの場合は、誰が考えても軍人に向いているので皆が驚くだけだ。

「他に仕事がないから国軍に入っただけです。もう十七ですし、国軍での経歴は信用になりますからね? 今なら、他の仕事にも就けるかと思って」

「もう十七って……なんだか嫌味に聞こえるわ」

 つまり、ローズはもっと年上ということだ。分かっていたことなので、グレンもフローラも何も言わないが。

「そのつもりはありません。子供とは思われない年齢になったというだけのことです」

「そう。辞めてどこに行くの?」

「それを聞いてどうするつもりですか?」

「……別に」

 わざとかと思える程の白々しい返事。

「まさか、付いて来ようなんて考えていませんよね?」

「えっ? 駄目だよ。私達の邪魔しないで」

 グレンの話を聞いて、フローラもローズに文句を言ってくる。

「……あのさ。二人は兄妹よね? そんな新婚みたいな」

「…………」

 ローズの問いに、フローラは思わせぶりな沈黙で返した。

「ちょっと!? まさか、兄妹で?」

 当然、こういう反応になる。

「何を想像しているのですか? 変なこと考えないで下さい。フローラが言ったのは家族水入らずを邪魔しないで欲しいって意味です」

 ローズの反応をみて、グレンが勘違いを指摘してくる。グレンの勘違いとも言えるのだが。

「そ、そうよね。全く仲が良すぎるのも問題よ」

「えっ? 兄妹の仲が良いことのどこに問題が?」

 二人きりの兄妹だ。仲良くするのが当たり前とグレンは思っている。

「シスコン、ブラコン同士じゃあ、他の異性が入る隙間がないって言ってるの」

「……それか」

 フローラのブラコンは別にして、自分のシスコンにはあり過ぎるほど自覚があるグレンだった。

「別に良いのに。私、お嫁に行くつもりないもの」

 グレンが反省の色を見せたところで、フローラがそれを否定してきた。

「それは駄目だ」

 だがグレンもフローラの言い分を直ぐに否定する。

「……どうして?」

「女性は結婚して幸せになるべきだ」

「今も幸せだもの。結婚なんてする必要ないよ」

 仲の良い二人だが、この点については決して二人の意見が一致することはない。

「ほら見なさい。仲が良すぎるから、こんなことになるのよ」

 ローズが呆れた様子で話に割り込んできた。

「でも……」

「一つ良い解決策があるわよ」

「えっ? それはどんな?」

「お兄さんが先に恋人を作れば良いのよ」

「はっ!?」「駄目!」

 驚くグレンときっぱりと拒否するフローラ。

「……妹さんには聞いていないから。やっぱり重症ね? これは先に妹を何とかしないと」

「何を企んでいるの?」

 ローズを見るフローラの視線に厳しさが加わった。

「何も企んでないわよ。これは一般論よ。良い? お兄さんを好きなのは悪いことじゃないわ。でも、好き過ぎるのは駄目なの」

「どうして?」

「いずれ結婚して」

「しないもん」

「その前提は止めなさい。普通の女性は結婚するものなの。結婚しても、相手の男性は常にお兄さんと比較されることになるわ。それじゃあ、相手がたまらないわよ」

「いや、結婚相手ですから。兄と比較にはなりません」

 ローズの説明をグレンが否定してきた。あくまでもフローラの兄として。この思いが言わせている台詞だ。

「甘い。結婚すれば離れて暮らすことになるわ。そうやって離れると、相手のことを益々美化してしまうの。悪いところが見えなくなるから。一方の旦那は最初は良いところを見て結婚する。でも、ずっと一緒だと悪いところも見えるようになるわ。そうして、お兄さんの方が良い男になっていく」

「……なるほど。それはあるかも」

 珍しく説得力のあるローズの説明にグレンは素直に感心している。 

「さて、そのお兄さん。まずは着替えてきたら?」

「はっ?」

 ローズがいきなり全然関係のない話を向けてきた。それに戸惑うグレン。

「食事するのよね? 外から帰ってきてそのままで居るつもり?」

「いや、いつもそうですけど?」

 綺麗好きには程遠いグレンだった。

「……手くらい洗いなさいよ。汚いわね」

「……そうですね。ちょっと洗ってきます」

 洗わないよりは洗ったほうが良いに決まっている。グレンはローズの言う通りにすることにした。

「ついでに着替えも。少し汗臭いわ」

「……はい」

 ローズに不潔だと言われたことで、少し落ち込んだ様子を見せながら、グレンは着替える為に部屋に続く階段を昇って行った。

「さて、邪魔者は居なくなった」

 グレンの姿が見えなくなったところで、ローズはフローラに向き直る。

「何よ?」

 フローラの方は警戒心で一杯だ。ローズが何かを企んでいるのは明らかなのだ。

「ねえ、グレンは貴女の兄。ちゃんと分かってる?」

「変なこと聞かないで。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの」

「でも貴女のそれはまるで異性に対するそれに見えるわ」

「…………」

 ローズに指摘されて、フローラは少し拗ねた様子で黙りこんでしまう。

「兄妹では結婚出来ないのよ?」

 そこに更に追い打ちをかけるローズだが。

「……出来る」

「はっ? 何を言っているの?」

「フローラとお兄ちゃんは結婚出来るもの」

「あのね、兄妹……あれ? まさか、血が繋がってないの?」

 兄妹が結婚出来ないことくらいフローラなら分かっているはず。それで結婚出来ると断言出来る理由は何かと考えれば、こういうことになる。

「…………」

「そうなのね?」

「……フローラは養女だから」

 少し躊躇いながらも、フローラは自分が養女であることをローズに告げた。

「そう。それをグレンは知っているの?」

「……知っていると思う。フローラが覚えているくらいだから」

 年下のフローラが覚えていて、グレンが覚えていないはずがない。二人とも血が繋がっていないことを知っていて、兄妹として暮らしているのだ。

「参った。そういうことだったのね」

「血が繋がっていなければ結婚できるよね?」

「そうだけど。でも書類上は兄妹よ。まあ、それはどうとでもなるけど。でも……」

「でも?」

「グレンは異性とは見てないと思うけど。あくまでも私が見る限りはね」

「……分かってる」

「分かってて。まあ、そうね。貴女も既に一人前の女ってことか」

 報われないと分かっていても、好きという気持ちが押さえられない。このフローラの気持ちを知っては、もうフローラを子供と馬鹿には出来ない。

「辛い思いするわよ? 今はあんなだけど、グレンにもいつか好きな女が出来る」

「………」

「その先は結婚も、それを祝福出来る?」

「出来る」

「無理して。一緒に住めなくなる。いえ、グレンだったら、一緒に住まわそうとするでしょうけど、それは却って辛いことになるわ」

「……我慢する」

 フローラなりの覚悟。子供の初恋とはいえ、幼い頃から、ずっと想い続けていた恋なのだ。

「もう、頑固ね……そうだ!」

「何?」

「私がグレンを口説くのに協力しない?」

「嫌よ! 何でそうなるの?」

 ローズの話は、到底フローラが受け入れられるものではない、はずだった。 

「でも私だったら。グレンは貴女のほうを大切にすると思うな」

「ん?」

「それに、あれは割りと女関係は真面目そうだから、他の女を近づけることもない」

 これはローズの小さな嘘だ。本人がどうであろうと、女の方から近づいてくる可能性はあるとローズは思っている。自分がそうなのだから。

「……確かに」

 だが、フローラには分からない。フローラの知るグレンは、自分にだけ優しいグレンなのだ。

「貴女はずっとグレンの一番。私は二番。そして、二人はずっと一緒に居られる」

「……そうね」

「貴女にとって、悪い取引じゃないわ」

「そうかも」

 ローズの巧妙な話にフローラはその気になってきた。

「そして、もし、いつかグレンが貴女を異性として見る時が来たら、私は大人しく身を引くわ」

 更にローズは好条件を提示してきた。

「約束出来る?」

「もちろん。ただし、一つ我慢してもらうことがあるわ」

「何?」

「肉体関係」

「なっ?」

「だって、そういう関係にならないと、グレンは私を恋人と認めてくれないわ。それとも、他の女とそういう関係になっても良い?」

「……それは嫌」

 ローズも他の女の一人なのだが、フローラはまんまとローズの話術に嵌って、それに気付かないでいる。口喧嘩では互角以上のフローラだが、こういう駆け引きでは、まだまだ幼さが不利に働いてしまう。

「大切なのは、体よりも心よ。だから少しくらいは我慢して」

「……分かった」

「じゃあ、取引は成立ね。昨日までの確執は忘れて、今日から私たちは同士よ」

「ええ、同士ね」

 テーブル越しにがっちりと握手を交わす二人。形はどうであれ、女たちの陰謀がこの日から動き出す。

「あっ」

「何? 何か不満?」

「ううん。一つだけ言っておくね。私を裏切ったら殺すから。どこに逃げようと必ずね」

 さらりとこれを言うフローラに、グレンに感じた恐怖と同じものをローズは感じた。

「……本当に血の繋がりはないの?」

「ないよ」

 人の性格は血ではなく育った環境。こうローズが理解した瞬間だった。

 

◆◆◆

 グレンの行動は早い。ドーンの話を聞いた翌日には大隊長であるバレル千人将に面会を申し込んでいた。きちんと書類も準備した上で。

「三一○一○中隊グレン。参りました」

 バレル千人将の扉の前で名乗ると、今日も侍女が顔を出してきた。初めての時のそれとは違う親しみを感じさせる顔だ。
 更にいつもと違うのは、直ぐにグレンを部屋に通すことなく、自分が外に出てきたことだ。

「ちゃんと予定入れてあげたわよ」

「ありがとうございます」

「当日申し入れて、すぐに会えるなんて異例なんだから」

 侍女は、それとなく自分の手柄を誇っている。

「あっ、すみません。無理をお願いして」

「グレンくんの頼みだからね……ねえ」

「何ですか?」

「今度の軍の休養日にお休みを取れることになったの」

「ああ、それは良かったですね。働き詰めでは大変ですよね? 侍女の方たちは自分たちとは違って、軍の休養日も、侍女の仕事がありますからね」

「そうなの。だから久しぶりのお休み」

「ゆっくりと体を休めて下さい」

 全く女心を理解していないグレン。ただ、さすがにこの場合は仕方ない面もある。この侍女と会ったのは数えるほどしかないのだ。

「それじゃあ、勿体無いわ」

「ああ。では遊びに行くのですか?」

「そうしたいのですけど、私、王都を知らなくて。ほら、ずっとこことお屋敷の往復だけでしょ?」

「そうですか……えっと、自分もあまり知らないのですが」

 ようやくグレンにも侍女が何を求めているのか分かった。それに先回りをしたつもりのグレンだが。

「案内してくれる?」

 侍女には自分に都合の悪い言葉を聞く気はない。

「女性が楽しめるような場所にお連れ出来るかどうか?」

「目的もなく歩くよりは良いわ」

「そうですか……では、自分でよろしければお付き合いします」

 相手に引くつもりはないと分かって、グレンは折れることにした。大隊長の侍女の機嫌を損ねるのは得策ではないと考えた結果だ。

「そう! じゃあ、どこで待ち合わせしようかしら」

「お迎えにあがりますか?」

「お屋敷は……じゃあ、休みの日にあれだけど官舎の前は? 休養日なら人も少ないし」

「……少なかったですか?」

 休養日といっても、軍全体が休むわけではない。緊急事態に備えて、それなりの数の部隊が待機しているのだ。

「良いから。じゃあ、約束ね」

「はい」

「じゃあ、部屋に入って。私は又、お茶。熱くてもぬるくても、どうせ味なんて分からないくせにね」

「はあ」

 侍女とは数回話しただけ。やけに親しげな侍女の様子を不思議に思ったが、今はそれを考えている時間はない。扉を開けて、バレル千人将の待つ部屋に入った。

「なんだ、遅かったな」

「申し訳ありません。侍女の方と少しお話をしていました」

「ああ、そういうことか」

「あの、どういうことですか?」

 怒られるかと思っていたのに、バレル千人将は妙に納得した顔をしている。それがグレンには気になった。

「気をつけろよ」

「はい?」

「お前は若手の有望株だ。その年で中隊長。このまま行けば、大隊長も夢ではない。そして独身」

「……まさか?」

 バレル千人将の言葉から思い浮かぶのは一つしかない。

「結婚相手としては悪くない」

「いや、そんなことはあり得ませんよね?」

「何故、そう思う? 出世の早い男を結婚相手に望むのは当然のことだ」

「ですが侍女の方は、それなりの家柄なのではないのですか? 貴族家の子女が多いと聞いております」

 貴族家で仕えるのだ。それなりに礼儀作法も求められることになる。そして何よりも信頼出来る者でなくてはならない。こういった事情から平民出身の侍女の方が珍しいのだ。

「ああ、それを気にしているのか。考えてみろ。貴族家は多いとはいえ、全ての貴族家の娘が嫁げるだけの数があるはずがない」

「確かにそうですね」

「長女は繋がりを強める為に、貴族家に嫁ぐことが求められる。だが、次女、三女となると絶対ではない。多くの場合、家を継げない次男、三男が相手か、相手の爵位に拘って、側室という選択肢になってしまう」

「それでも暮らしは、自分のような者に嫁ぐより、良いのではないですか?」

 中隊長の給料で、貴族の生活など出来るはずがない。それなのに、自分が選択肢に入る理由がグレンには分からない。

「中隊長は騎士であれば百人将だ。お前が思っているよりもずっと地位は高い。それに暮らしなんて実家の支援を受ければ、何とでもなる」

「なるほど……」

「もっと言えば、家柄もどうとでもなる。お前を一旦、どこかの貴族の養子にすれば良いのだ。貴族家の名を与える為だけにな。お前は国軍で異例の若さで出世した中隊長。それのほうが余程自慢の種になる」

「……勉強になります」

 グレンにとって役に立つ知識ではないが。

「だから気をつけろ。大方、お前が他の侍女と親しくなる前に出し抜こうという考えだろう。狙っている侍女は少なくない。早まって選択肢を狭めるな」

「あの、止めないのですか? 彼女は大隊長の侍女です」

 どこか他人事の様に話すバレル千人将。それがグレンは不思議だった。

「俺が、あの侍女とデキていれば不愉快だが、それはない」

「そういう意味ではないのですが……」

「お前に向かなければ、俺か俺の同輩に向く。その方が面倒だ」

「……納得しました」

 面倒くさがりのバレル千人将らしい発言に、グレンは納得してしまう。

「ただ悪い女ではないな。容姿も良い方だと思うし、勤務態度もそれなりだ。良妻になるかもしれんな」

「いえ、結構です。それに侍女の方も、自分に興味を失くすでしょうから」

「どうしてだ?」

「今日はお話があって参りました」

「ああ、そうだった。それで何の用なのだ?」

「はい。軍を退役させていただきます」

「そうか。それは残念だ……なんて言えるはずがないだろう! どういうことだ!?」

 バレル千人将は血相を変えて、グレンに詰め寄ってきた。

「そのままの意味です。軍を辞めます」

「お前は先週、中隊長になったばかりだ!」

「なりたくてなったのではありません。それに中隊長に就任したばかりだからといって辞めてはいけないという規則はありません」

「まだ……今、いくつだ?」

「十七です」

「十七。そんな年齢だぞ?」

「つまり軍歴は二年を超えました。退役の条件は満たしております」

「……本気か?」

「はい。書類も用意してきました。お受け取りください」

 グレンは持ってきた退役願いをバレル千人将の前に差し出した。だが、バレル千人将は受け取ろうとしない。退役願いを見つめて、固まってしまっている。

「……俺の判断では受け取れん」

 バレル千人将がようやく口にしたのは、この言葉だった。

「大隊の人事権は大隊長がお持ちです。大隊長がお認めになれば、それで良いはずです」

「それは建前だ。実際は軍政局人事課で手続きをすることになる」

「それはただの書類手続きです。大隊長が署名されて、軍政局に回すだけ、手続きは進みます」

 規則関係については、しっかりと調べてある。何をするにも用意周到。こういう性格なのだ。

「そうはならない。お前の中隊長昇進は上からの指示なのだ」

「そもそも、それが間違っているのです。上の方の勘違いで昇進しては周りも不満でしょうし、自分も肩身が狭いです。逆に自分の退役は上の方も望むことではないでしょうか?」

「それでは間違いを認めることになる。いや、まあ、ご本人はそれを気にする方ではないと思うが、周りが許すとは思えん」

「それは越権というものです。軍には規律が必要です。上の方でも、それは守らなければなりません」

 規則でいえば、グレンの退役を止めることは出来ない。だが、それで済む問題ではないのだ。

「お前な。俺にそれを言えというのか?」

「いえ。あえて大隊長がそれをなさる必要は無いと思います。大隊長はただ来た書類に署名をされれば良いのです」

 そしてバレル千人将が署名した書類が上の目に留まって、事が発覚することになる。バレル千人将にとっては最悪の事態だ。

「……とにかく、今直ぐに認める訳にはいかん。書類は預からせてもらう」

「……分かりました。ただ自分の意思は変わりません。それはお伝えしておきます」

「分かった」

 退役届けを置いて、部屋を出るグレン。残されたバレル千人将は前かがみになって、頭を抱えてしまった。グレンの昇進はトルーマン元帥の一言で決まった。そのグレンが退役の意思を示したこと自体が問題になると分かっているのだ。

「あの、バレル様。お茶をお持ちしましたが、お飲みになりますか?」

 戻ってきていた侍女が、そのバレル千人将の様子を見て、恐る恐る声を掛けてきた。

「……第三軍の軍団長。ヒューイ・アステン将軍に面会依頼を」

 自分の手に負えないとなれば、上に相談するしかない。

「はい。何時がよろしいですか?」

「今直ぐにだ!」

「は、はい」