エセリアル子爵が皇城に呼び出されたのは、ローレルとリルが皇帝に謁見した、すぐ後のこと。翌日の登城という慌しさだ。ローレルからは交渉は上手くいき、帝都に残れることになったと聞いた。成り行きで同居することになったことも。それが帝都に残る条件ということであれば、エセリアル子爵に否応はない。エセリアル子爵の長男は領地で彼の代わりに領主の仕事をしている。長女もすでに嫁いでいて、帝都屋敷の母屋で暮らしているのはエセリアル子爵と夫人の二人だけ。使っていない部屋がいくつもあるので、その点でもまったく問題ないのだ。
まさかの結果に戸惑いながらも喜んだエセリアル子爵であったが、今は不安が心を占めている。何故、自分は皇城に呼ばれたのか。自分がローレルに頼んで皇帝の決定を覆させようとしたと思われしまったのではないか。そうであれば、自分はどうなってしまうのか。ローレルへの感謝は消え、恨みまで浮かんでしまっている。
エセリアル子爵が通されたのは、通常の謁見の間。左右に帝国の文武官の重臣たちが居並ぶ中を、しずしずと進み出て行く。重臣の中にはイザール侯もいるが、そこに視線を向けることはない。恨みを抱いていることをイザール候に知られては、さらに状況が悪化する可能性があるとエセリアル子爵は思っている。
ほとんど待つことなく、皇帝は姿を現した。帝座に座る皇帝に向かって、護衛の近衛騎士以外の臣下全員が頭を下げる。当然、エセリアル子爵も。
「面をあげよ」
この皇帝の言葉で、人々は体勢を元に戻した。
「エセリアル子爵。急に呼び出して済まなかった」
「いえ。陛下に拝謁する機会を頂けたこと、光栄に思っております」
普通はそうなのだ。子爵位の身分では皇帝とこうして正面から向き合う機会を得られることなど、よほど特別な功績をあげた時以外はない。公式の謁見の間で、重臣たちが見守る中、拝謁出来ることは光栄に思えることだ。
「朕はエセリアル子爵に詫びなければならない」
「……詫び、でございますか?」
驚きはエセリアル子爵だけではない。謁見の間全体にざわめきが広がった。同席している重臣たちは詳しいことを聞かされていない。エセリアル子爵と似た考えで、何か罰を受けるものだと考えていたのだ。
「エセリアル子爵を領地に返そうとした朕の考えは誤りであった。これまで通り、帝都に住い、帝国の為に働いてくれるか?」
さらに、これは重臣たちの自制もあって先ほどよりは小さいが、驚きの声が漏れる。皇帝が自らの過ちを認めた。こんなことはここ数年なかったことなのだ。
「……勿体ないお言葉。何がありましょうと私の忠誠は揺るぎません。さらに陛下がお求めになって頂いたとなれば、これまで以上に、粉骨砕身、陛下の御為に職務に励む所存です」
皇帝のまさかの言葉にエセリアル子爵の心は震えている。皇帝自ら、その口で、自分の働きを求めてもらえた。これほどの誉れがあろうか、と本心から思えている。
「うむ。その言葉を聞けて嬉しく思う。ただ、もう一つ頼みがある」
「陛下のご命令とあれば、私が出来る全てを捧げます」
「そこまでのことではない。イザール候の子たちと共に暮らすことになると聞いた。不自由のないようにしてやってくれ」
また、どよめき。目の前で展開されているまさかの出来事の裏にはイザール候がいた。重臣たちは皆、こう思ったのだ。
「……はっ、もとより、そのつもりでおりますが、尚一層、努めます」
「だから、おおげさだ。普通で良いのだ、普通で。では頼んだぞ」
「はっ!」
皇帝は帝座を立つと、さっさとそでに消えて行った。呆気ないと言えば呆気ない謁見だが、その中身は人々に衝撃をもたらすことになった。
イザール候は皇帝の考えを変えさせた。これまでそれが出来たのは第三夫人ルイミラだけで、その彼女がもたらす皇帝の変化は全て帝国に悪影響を与えるものばかりだった。だが今回のこれはそうではない。エセリアル子爵に対する評価は人それぞれであるが、無理やり屋敷を空けさせ、官職に就いていた者を領地に追い払うという過ちを正したのは間違いない。
そういう存在が現れたことは帝国内の力関係に大きな変化をもたらす。重臣たちはここまで考える。ローレルが皇帝の側近に言われた「自分が何をしたか分かっていないようだ」は、こういうことなのだ。
◆◆◆
謁見の場で衝撃を受けたのはイザール候も同じ。昨日の今日の出来事。ローレルからはエセリアル子爵の屋敷に同居することになったと家臣を通じて聞いただけで、詳しい話を知らない。皇帝の決定が覆ったことには驚いたが、それをもたらしたのがローレルだとはまったく考えていなかった。今日、謁見の場に同席することになったことで、やはり、エセリアル子爵が働きかけたことなのだと確信を持った。
だが、事は思わぬ方向に進んだ。周囲は自分が働きかけた結果だと思っていることも分かった。そうなるとイザール候としては、何もしないで手をこまねいているわけにはいかない。
まずは詳しい事情を知ることだ。ローレルに聞くのは一番であるが、その前にエセリアル子爵と話をすることにした。すぐ目の前にいるのだ。声をかけない理由はない。
「ローレルが陛下に直談判を行った? そんな馬鹿な?」
「ご存じなかったのですか?」
「ローレルとは直接会って話をしていない。引っ越しの準備をしている家臣に同居の件を伝えたのを聞いただけだ」
「なるほど……」
イザール家の家族関係は複雑。ローレルの話からエセリアル子爵はこう認識している。親子の会話も少ないのだろうと勝手に理解した。実際はローレルが伝えるべきことを面倒くさがって怠っただけだ。
「よく会えたものだ」
「詳しい話は聞いておりませんが、馬が縁だったと話しておられました」
エセリアル子爵も同じことを思った。会えるはずのなかった皇帝にどうして会うことが出来たのか。その問いに対する答えがこれだった。
「レイヴンか。陛下から下賜いただいた馬の子だ。騎士養成学校に乗って行っているので、もしかすると事前に会ったことがあったのかもしれない」
イザール候は苦い顔だ。偶然であっても皇帝に会ったことをローレルは知らせてこなかった。これを不満に思っているのだ。会ったのはリルで、皇帝であることは分かっていなかったことは、この時点で分かるはずがない。
「貴家が屋敷を探していることを陛下が耳にしたきっかけがあるはずです。その時だったのかもしれません」
「そうだな。しかし……困ったことを、あっ、いや、エセリアル子爵が官職に残れたことは良かったとは思っている」
「分かっております。貴家はこれから大変でしょう」
今回の件が帝国内でどう受け取られるか、エセリアル子爵も分かっている。ルイミラ以外に皇帝の考えを変えさせることが出来る存在がいる。これは皆が歓迎することではない。イザール侯爵家の権勢が大きくなることを懸念する者もいるだろう。
「かの人がどうでるか……」
さらに厄介なのはルイミラと彼女に追従する勢力。自分たちに敵対する存在だと考えるのが普通だ。この時点ではルイミラも同席しており、かつ後押ししたなんてことは知られていない。彼女がいないところで、話が進められたと考えられているのだ。
ただ、それが明らかになってもイザール侯爵家の災難は変わらない。ルイミラを動かせる存在なんてものは、皇帝を動かせるのと同じくらい脅威の存在。彼女を通じて皇帝を動かせる危険な人物と見られる可能性があるのだ。
「申し訳ございません」
「エセリアル子爵が謝ることではない。これは最初から当家が引き起こしたことだ。それに、かの人以外はなんとでもなる。伊達に三百年、今の地位を守ってきたわけではない」
権勢争いは過去にもあった。イザール家を始めとしたアネモイ四家は時に対立し、時には協力し合って、生き残ってきた。武の方面よりは、ずっと得手な領域だ。
ただこれはイザール候の強がり。最大の問題はルイミラ。彼女に対処する方法をイザール侯爵家は持たない。
「……良い御子を育てられました」
「ずっと問題児だと言われてきた」
「誠実であるだけでは当主には不向きであることは、私も分かっているつもりですが、誠実を貫き通そうという勇気は失ってほしくないと思います」
事実が知られればローレル個人に災難が降りかかることになる。なんとか守って欲しい。エセリアル子爵はこう思っている。まったくの善人ではないエセリアル子爵だが、恩は恩。それだけでなく、ローレルの真っ正直さが眩しくもある。交渉が成功したからこう思えるのだとしても。
「正直、難しいところだ」
今の時代、当主でなくても誠実なだけでは生きられない。かなり厳しい道を進むことになる。誠実であることは良いことだとイザール候も思うが、息子に苦労させたくないという思いのほうが強い。もっと利口に生きて欲しいと思ってしまうのだ。
「……ローレル殿のような若者が多くいてくれれば、帝国の未来も明るいものになるかもしれません」
「それには誠実な人間を引き上げる存在が必要。それとは真逆の人間も従わせられる存在が」
「そうですな」
綺麗ごとだけでは政は行えない。まして今の混沌とした帝国の状況を治めることなど出来るはずがない。清濁併せ呑む、気概がある人物でなければならず、それが皇太子であることを願うしかない。
イザール候のこの言い方は、皇太子がそういう人物であるという確信を持っていないことを意味する。今の皇太子はただ時が来るのを待っているだけのように見えてしまうのだ。それでは皇帝の座は得られても、揺らいでいる帝国支配をかつての強固さに戻すことは出来ない。帝国を乱す存在は、今となっては、ルイミラだけではないのだ。
◆◆◆
広い馬場の真ん中に寝転んで月を眺める。これはいつの間にかリルの習慣になった。毎日のことではない。心が落ち着かない時、色々と考えることがある時の習慣だ。
今日もそう。考えることが色々ある。第三夫人ルイミラから受けた質問の意味は分かっていない。何故、自分の素性を気にするのか。思いつく可能性はひとつ。自分が犯した罪、もしくは、同じ出来事ではあるが、実行した復讐に関りがあるということだけだ。
どちらの可能性が高いのか。普通に考えれば前者だ。初めて対面する相手が、リルがメルガ伯爵襲撃に関わっているなんて考えるはずがない。あるとすれば現場にいたリルの特徴を知っているから。特徴を知っているのは生き残った女の子だけのはずだ。
では女の子とルイミラにはどういう繋がりがあるのか。これを考えると今度は、後者の可能性が高くなる。ルイミラはメルガ伯爵と同じように、イアールンヴィズ騎士団襲撃に関わっているのかもしれない。この考えに辿り着く。
ルイミラが黒幕なのか。彼女の権勢は相当なものだと聞いている。メルガ伯爵を動かすことが出来るはずだ。他の貴族も。
可能性はある。だがそうなるとルイミラがどうしてイアールンヴィズ騎士団を壊滅させようと思ったのか、という疑問が出てくる。少しは名が売れていたとはいえ、それは特殊な世界だけでのこと。皇帝の寵愛を受ける妃には、まったく関りのないことのはずだ。
「……ここまでか」
思考が何度も堂々巡りを繰り返す。それはつまり、情報が足りないということ。だから、これ以上考えても仕方がない、ということではなく、別の理由でリルは考え事を止めた。
「やっぱり、ここだ」
「いや、さすがにもう分かりますよね?」
プリムローズからは自分を見つけたことを自慢する雰囲気を感じるが、ここにいるのはいつものこと。分かって当然なのだ。
「また考え事?」
「考えることは沢山あります。勉強の復習やどうすればもっと強くなれるかなど、色々」
「……どれも前向きだね?」
プリムローズは違っていた。嫌なことばかりを考えていた。近頃はそういうことはかなり減っていて、前向きなことを考えられるようになっているが。
「後悔していることは他人には話しません」
「…………」
「いや、あの……そういう反応には、どういう反応をして良いか分からないのですけど?」
プリムローズは途端に不機嫌になった、リルに他人と言われたことが気に入らないのだ。こんな風に自分の感情を、それも自分への好意をあからさまにするプリムローズの反応がリルは理解出来ない。嫌というわけではないが、何故という思いが湧いてくるのだ。
「私はリルに助けられた。だから私もリルを助けたい」
「……俺、何か困っているように見えます?」
「それが分からないから悔しいの。リルは他の人が気付かない私のことを気付いてくれる。でも私には同じことが出来ない。でも……」
自分のことを理解出来るリルは、自分に似た何かを抱えているのだろうとプリムローズは考えている。それはきっと良いことではない。リルに会う前のプリムローズは、何も期待していなかった。生きていることが嫌だった。リルにもそういう何かがあるのだ。でも、それが何か分からない。
「……この間、ある人にプリムローズ様とローレル様は俺にとって家族のようなものなのかと聞かれました」
「それで?」
「そうですと答えたほうが良さそうだから、そうしました」
「もう!」
プリムローズは家族のようなものではなく、家族でありたい。リルとの結婚は関係なく、家族として生きていきたいと思っている。
「家族がずっと一緒にいられるって良いですよね?」
「……そうだね」
二人にとって家族が一緒でいることは当たり前ではない。プリムローズは父であるイザール候とは、たまにしか会えなかった。ずっと一緒にいた母は亡くなってしまった。リルは母を知らない。それでも寂しくはなかった。家族と思える人たちがいた。だがその多くが殺され、生き残った人たちとも一緒にはいられなくなった。
失ってしまったものを、また得られるかもしれない。それは嬉しくもあり、不安でもある。踏み出す勇気が持てない。