謎の男の先導でローレルとリルは皇城の奥に進んでいる。なんとなく奥に進んでいるのだろうと思っているだけで、実際にどこを歩いているのか、二人には分からない。何度か皇城を訪れたことのあるローレルも、知っているのは宴の間などがある、割と出入りが自由なエリア。門番に止められていた城門の外までだ。
この点でも、二人は状況を理解していないが、かなり異例な待遇。皇家の私的空間に近い場所に通されるなど、よほど信頼されている家臣のみであり、今の皇帝にはそんな家臣はいない。例外が今、二人を先導している常に側仕えをしている臣下である彼。名はない。生まれた時から皇帝に絶対の忠誠を向けるように刷り込まれて育てられてきた彼は、どこの何者でもなく、ただ皇帝の為に存在しているのだ。
「ここだ」
「はい」
示された扉はそれほど大きなものではない。ローレルが知る謁見の間とは違い、もっと狭い部屋だ。
「ああ、一応、伝えておく。ルイミラ様もご一緒だ」
「えっ……」
男の顔に笑みが浮かんでいる。初めて見せた感情らしいものだ。どういう意味で笑っているのか、二人には分からない。ただ、第三夫人ルイミラがいるという事実が良い意味ではないことを教えてくれる。
「入れ」
「…………」
男が扉を開けた。そうされてしまえば部屋に入らないわけにはいかない。廊下でグズグズしていれば、それだけで皇帝とルイミラを怒らせてしまうかもしれない。
頭を下げて、ゆっくりと前に進むローレル。そういう礼儀なのだとリルは理解し、それに倣う。
「良い。ここは畏まる必要のない場だ。面をあげよ」
そんな二人に皇帝であろう人物が顔をあげるように言ってきた。それを受けて顔をあげるローレルとリル。リルのほうは声を漏らしそうになるのを、なんとか堪えなければならないことになった。知った顔だったのだ。
「やはり、お主か。イザール侯の息子とその従士らしき者が騒いでいると聞いたので、そうではないかと思った」
「……リル?」
皇帝の視線は自分ではなく、斜め後ろに控えているリルに向いている。何故、皇帝がリルを知っているのか。ローレルには見当もつかない。
「騎士養成学校の厩舎で一度、お会いしました。皇帝陛下とは分かっておらず……ご無礼をお詫びいたします」
最後の言葉は皇帝に向けたものだ。
「良い。名乗らなかった朕も悪かった」
「名乗らなくとも帝国皇帝の顔は知っているのが当然だと思いますけど?」
リルの無礼を軽く流そうとした皇帝に対し、ルイミラは顔を知らないこと自体の非を指摘してきた。避けていた視線が思わず、ルイミラに向いてしまう。傾国の美女という言葉に、外見もまた相応しい、息をのむほど美しい女性。ローレルにとっては母に近い年齢であるはずだが、そうは見えない若々しさがある。
だがその美しさに見惚れている場合ではない。ローレルは緊張で胸が苦しくなってしまう。従士に過ぎないリルの命など、ルイミラは何の価値も感じないに違いない。死を命じられてもおかしくないと思ったのだ。
「ルイミラ。それは無理というものだ。従士の身では朕を見る機会があっても、どんな顔か分からないほど遠くから眺めるくらい。世間に出回っている肖像画は、加工しすぎて朕ではない」
「まあ。肖像画よりも実物のほうがずっと素敵ですわ」
皇帝の冗談を聞いて、ルイミラの顔に笑みが浮かぶ。だからといって安心は出来ない。あくまでも皇帝に向けられた笑顔なのだ。
「煽てても何も得るものはないぞ?」
「代償など求めておりませんわ」
そんなはずはない、とルイミラのこれまでの所業を知る人なら思うだろう。皇帝の寵愛を良いことにやりたい放題、贅沢し放題。それがルイミラなのだ。
「馬は元気か?」
いきなり皇帝は話を変えてきた。一応、ローレルとリルの存在は忘れていなかったということだ。
「毎日、通学時に乗っております」
皇帝の問いにはローレルが答えた。皇帝自身はあまり気にしないようだが、リルの立場で直答するのは本来許されないこと。同席しているルイミラ。ここまで案内してきてくれた男のことを気にしての判断だ。
「ん? お主も乗れるのか?」
「彼の指導のおかげでなんとか。乗せてもらっているというのが実際のところだと思っております」
「なるほど。乗せてもらっているか。それは良かったな」
ローレルの表現は皇帝に上手く嵌った様子。さきほどルイミラに向けたような楽しそうな顔を見せている。
「本日は陛下に御礼とお願いに参りました」
皇帝の雰囲気が柔らかくなったと見て、ローレルは話を切り出すことにした。
「ふむ。どのような話だ?」
だがすぐに皇帝の表情は引き締まる。御礼と聞いても、良い話だと思っていないのだ。イザール侯爵家のローレルが会いに来たというだけで、それは分かる。ただの御礼であればローレルではなく、イザール侯が来るはずだ。
「まずは私の為に屋敷を用意していただき、誠にありがとうございます。私のような者のことを気にかけてくださったことに驚き、感激しております」
「たまたまだ。たまたまその従士に話を聞いたからだ」
「ただ……私ごときの為にエセリアル子爵が帝都を去ることになるのは心苦しく思います。エセリアル子爵は陛下の忠臣であり、帝国の要の御一人。私はまだ何のお役にも立てない半人前です」
ローレルもこの場に来るまでに、どう話せば良いのか考えてきた。皇帝を怒らせないように考えを変えてもらうにはどうすれば良いかを。
「……余計なことをするなと?」
だが上手く行かなかった。この程度のことで皇帝が言うことを聞いてくれるのであれば、臣下は苦労しない。帝国は今のようにはなっていない。
「い、いえ、決してそのようなことは思っておりません。ただ……」
「ただ、何だ?」
「それは……」
さきほどとは打って変わって厳しい表情。この場に来て初めてローレルは皇帝の威厳というものを目の当たりにした。皇帝にここまでの覇気があることに、単に自分が小心者だからかもしれないと思いながらも、驚いた。
「ローレル様は出来ましたらエセリアル子爵と共に暮らしたいとお考えです」
「……なんだと?」
皇帝の険しい顔がリルの言葉で、わずかに緩んだ。言っている意味が、意味は分かるが、どうしてそうなるのか分からなくて、戸惑っているのだ。
「実は、あの広いお屋敷で暮らすのは三人の予定です」
「三人? 使用人がたった一人で暮らせるのか?」
「いえ、使用人はおりません。ローレル様と私、そしてローレル様の妹君の三人です」
リルは嘘をついている。使用人は当然、同居する予定だ。だが、皇帝の怒りを逸らし、エセリアル子爵が帝都を去らなくて済むような話にするには、嘘も必要だと考えた。
「イザール侯に娘はおらん」
「これは失礼しました。私が口にして良いことではありませんでした」
「実は腹違いの妹がおります。公式には届けられておりませんが、間違いなく父の娘。私の妹です」
話をローレルが引き継いだ。イザール家の内情についてはリルではなく、自分が話すべき。リルの言葉でローレルはそれに気づいた。
「……落とし子か……だが、どうしてその娘まで帝都で暮らすのだ? 騎士養成学校に通うわけではあるまい?」
妹がいることは分かった。だが妹というからには騎士養成学校に入学する年齢ではない。そうであるのに帝都に移り住む理由が分からない。
「申し上げにくいのですが、妹はずっと肩身の狭い思いをしておりました。ただ今は彼と私には心を許し、三人で仲良く暮らしております。私と彼が帝都で暮らすことになれば、また妹は一人になります。それは可哀そうと思いました」
イザール家の恥を晒すような話。だがローレルはこれを皇帝に話すことを躊躇わなかった。ずっと不満に感じていたことだ。父親の煮え切らない、とローレルが思っているだけだが、態度にも。
「なるほど。三人で暮らす理由は分かった。だが、どうしてエセリアル子爵と同居する必要がある?」
「それは……」
「ローレル様が騎士養成学校に行かれている間もプリムローズ様は寂しい思いをされません。エセリアル子爵家の方々は他人ですが、そうであるほうが気が楽という場合もございます」
またリルが説明を引く継ぐ。エセリアル子爵家との同居は事前に相談していたことではない。リルが咄嗟に考えたことなので、ローレルには説明出来ないのだ。
「ふむ……」
皇帝は考える素振りを見せている。真向から拒絶する状況からは一歩前進だ。
「よろしいのではないですか? まだ幼い女の子に寂しい思いをさせるのは、私も可哀そうだと思いますわ」
さらに、まさかのことに、ルイミラが助け舟を出してくれた。
「ルイミラがそう言うのであれば、良いだろう。好きにするが良い」
「「ありがとうございます!」」
ルイミラの後押しのおかげで皇帝の許しが得られた。二人には、とくにローレルは、狐につままれたような感覚。信じられない思いだ。
「ひとつ聞いて良いですが?」
だがルイミラのこの言葉で、すぐに気持ちが引き締まる。それほど世の中は甘くない。まだ問いの中身を知らないのに、ローレルはこう思った。ルイミラは帝国貴族にとって、そう思わせる存在なのだ。
「もちろんです」
「貴方。出身はどこですか?」
「……私、ですか?」
ローレルの出身は改めて聞くことではない。それを考える以前に、ルイミラの視線ははっきりとリルに向けられている。
「ええ、貴方」
「……北部の田舎です。フルドという村です」
「フルド……知らないわ。でも遠くであることは確かね。離れて暮らしていて、ご家族は心配ではないのかしら?」
「……母は私を生んですぐに亡くなったと聞いております。父は……騎士だったのですが、仕事中に亡くなりました。亡くなった両親以外に家族はおりません」
何故、ルイミラはこんなことを聞くのか。一従士の出身や家族のことを聞くことに何の意味があるのか。リルはこれまで以上に緊張することになった。
「そう。それは可哀そうね? ローレル殿と妹君は貴方にとって家族のようなものなのかしら?」
「……私は勝手にそう思っております」
話の流れから肯定を返したほうが良いとリルは考えた。
「勝手ではありません。私も、主従ではなく、家族のようでありたいと願っております」
一方でローレルのこれは本音だ。主従ではなく友、さらには家族でありたいと、本気で思っている。大切な妹を嫁にやることには、今も抵抗を覚えるが。
「……そう。帝都での暮らしが貴方たちにとって楽しいものであると良いわね?」
「はっ、ありがとうございます」
ここまでは、陪臣という立場のリルに問いを向けたこと以外は、普通の会話の流れ。ここからどう展開するのかとローレルは、リルも思ったのだが。
「また馬を見に行くかもしれん。その時は頼む」
「はっ。またお会いできる日が訪れるのを心待ちにしております」
「ふむ。では、また」
だが皇帝が社交辞令的な再会の約束をして対面は終わることになった。とりあえずは、ほっと一息。ローレルとリルは、また頭を下げた姿勢で後ずさりに部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、本当に一息。緊張が解けて、大きく息を吐きだすことになった。
「行くぞ」
「あっ、はい」
皇帝に仕える男が側にいることを忘れて。ただ男はローレルたちの態度については何も言うことなく、出口に向かって歩き始める。その後に続く二人。
男が次に口を開いたのは、城門の近くまで来た時だった。
「一応、警告しておく。これまでとは異なる警戒をしておくのだな」
「そ、それは……」
やはり皇帝、もしくはルイミラを怒らせていた。男の警告でローレルの心に恐れが広がった。
「恐らく勘違いをしているな。お前はまだ自分が何をしたのか分かっていないようだ」
「……僕は何をしたのでしょう?」
自分は何を勘違いしているのか。何をしたのか。ローレルにはまったく分かっていない。
「そのうち分かる。誤解だけは解いておく。陛下もルイミラ様もお前たちのことを不快には思っていない。どちらかというと逆だ。それが問題なのだ」
「えっと……」
「もう、行け」
男は、ローレルとリルの心に不安を残しただけで、詳しいことは何も教えてくれなかった。交渉が成功した喜びは消え、もやもやした気持ちを抱えて、二人は城を離れることになった。