帝都からイザール侯爵領までは馬で三時間ほど。近いと言える距離ではない。帝都に屋敷を借りることも検討されていて、実際に物件を探してもいる。ただ侯爵家の子息が住むに相応しい、ローレル本人はそういうことはまったく気にしていないが、屋敷となると、そう都合良く空きがあるものではない。帝都の貴族屋敷は、もっと遠方に領地を持つ上級貴族に与えられていて、すべて埋まっているのだ。仮に良い物件が見つかったとしても、その屋敷でローレルの世話をする使用人を雇わなければならない。屋敷の確保はいつになるか目途も立っておらず、しばらくは遠距離通学を続けることになる。
ただ今のローレルとリルにとっては、無断な時間とは思えない。移動中は馬術の稽古の時間。こう考えているからだ。
「……何をしている?」
ただ今はリルは馬に乗っていない。馬を引いて走り始めたのだ。
「体力作りです。おかげ様で溜まっていた旅の疲労は完全に抜けましたが、鍛錬を怠けていたことで体力そのものが衰えています」
「鍛錬を怠けていた?」
とてもそんな風には思えない。早朝から日が暮れた後まで、リルは仕事の合間はずっと鍛錬を行っている。イザール侯爵家の騎士団の者たちよりも、遥かに長く、きつい鍛錬を行っていることをローレルは知っているのだ。
「旅をしていた時も移動中に走っていたのですけど、金欠になって食べることが出来なくなると、そんなことは出来なくなって」
体力作りで走るどころではない。その逆で、少しでも体力の消耗を抑える為に必要以上に動かないようにしていた。
「……まさかと思うが、毎日走るつもりか?」
無断な時間を作ることなく、鍛錬を行う。これはリルのいつものことだ。今走っているのもそういうことだとローレルは理解したのだが、それでも、感心しながらも、少し呆れてしまう。
「そのつもりですけど?」
「騎士養成学校の授業の後に?」
鍛錬は騎士養成学校でも行う。当たり前だ。その為の学校なのだ。その学校での授業を終えた後の帰宅途中にまで鍛錬を続けようとするリルには、ちょっと付いて行けないとローレルは思った。
「走れる元気があれば。どうなのでしょう? 帝国騎士団の騎士を育てようという学校ですから、厳しいですよね?」
「……嬉しそうだな?」
ローレルは気が重い。騎士養成学校は自分が望んだ進路。今はそう思えているが、それでも辛い鍛錬を嫌がる気持ちは消せない。
「嬉しいというか……今よりも強くなれたら良いなと思っています」
イアールンヴィズ騎士団が滅ぼされてからは、人から教わることが出来なかった。騎士団で働ける機会があった時などに、どういう鍛錬をしているのかを見て学び、それを真似ることくらしか出来なかった。それで本当に強くなれているのか、なれるのか、不安に思う気持ちがリルにはあったのだ。
イザール候の命令で無理やり入学させられた形の騎士養成学校だが、いざ入学すると決めたからには学べるものは、全て学び取ろうとリルは考えている。
「……強くなってどうする?」
「どうする? えっと……親父を超えられたら良いなと思います」
嘘ではない。だが、これ以上に、リルには強くならなければならない事情がある。
「……知り合いだったのだな?」
「……ああ……分かりますよね? そうです。昔馴染みというやつです」
ローレルが誰のことを言っているのかは、すぐに分かった。帝都を出る前に会ったハティしかいない。
「喧嘩していた」
ハティが怒っているのは離れた場所からでも分かった。見ず知らずの人間に難癖つけているわけではないことも。
「別れ方が良くなかったので。もう随分前のことなのに、まだ怒っていました」
「リルは前にも帝都に来たことがあったのか?」
初めてだと聞いていた。だがイアールンヴィズ騎士団は帝都を拠点にしている騎士団であることをローレルは知っている。
「いえ。彼とは別の場所で知り合いました。彼も帝都に来たのは……いつかは聞きませんでしたけど、少なくとも三年前にはいなかったはずです」
「そうか……偶然というのはあるものなのだな?」
本気でこう思っているわけではない。逆にそんなことがあるものかと、少し疑っている。
「そうですね。でも、帝都ですから。俺と同じように一度は帝都に来て見ようと思う人は多いでしょうし、きっと仕事も、他の土地に比べると、困らないのではないですか?」
再会は偶然だ。だがそれが重なるとリル自身が、本当に偶然なのかと疑うことになる。実際に偶然だとしても、それに意味を感じてしまう。
「地方のことは良く分からない」
入学式の時、リルは「帝国は思っている以上に揺らいでいる」と伝えてきた。「地方を旅していると良く分かる」とも。今の話と合わせると、帝都は平和なほうなのだということになる。それを喜ぶ気にはローレルはなれない。
「地方にある仕事は騎士や従士として騎士団で働くこと。騎士なんて名乗れない実力の人でも騎士団に入れます」
「それで騎士の仕事が出来るのか?」
「数合わせで戦場に出て、死ぬことは出来ます。争いばかりで、とにかく戦場に出る人が足りない。戦場とは呼べないような戦いの場もありますし」
地方では争いが絶えない。貴族間の争いだけでなく、騎士団間での勢力争いも激しさを増している。領主である貴族とその座を奪おうとする騎士団の争いもある。多くの人が戦いで命を落としているのだ。
「そうか……」
「帝国は、帝国騎士団はどうして今の状況を放置しているのでしょう? 俺が知らないだけで、何かをしているのですか?」
「それは……今なら聞く者はいないか」
周囲を見渡して、人影がないことを確認したローレル。問いを発したリルは想定していなかったが、人には聞かれたくない、聞かれてはならない答えなのだ。
「陛下は政治への関心を失っている。それだけではない。まともな政治を行える良臣は追われ、代わりに、私欲を満たすことしか考えない悪臣がはびこっている」
「それは……終わっていませんか? 失礼ですが、ご当主様は何をしているのですか?」
イザール候も帝国上級官僚の一人。帝国の政治に関わる立場のはずだ。そのような状況を見過ごしている理由が、リルには分からない。イザール候も私欲を満たすことしか考えない悪臣。こうは思えないのだ。
「逆らえばアネモイ四家といえど、ただでは済まない。そういう状況だと聞いている。今出来るのは皇太子殿下をお守りすること。一日も早い代替わりの実現を待つことだ」
「そういう情報は詳しいのですね?」
「嫌でも耳に入る」
ローレルはイザール侯爵家の後継者候補と認められていない。それでも母屋で暮らしていれば、これくらいの情報は自然と耳に入ってくる。望まない食事の席もそうだ。兄であるアイビスも帝国の現状を憂いている一人。その兄の問いにイザール候が答えることで、同席しているローレルにも分かることが増えるのだ。
「皇帝陛下と皇太子殿下は仲が悪いのですね?」
皇太子殿下を守らなければならない状況。それもかなり異常事態だ。事情を知らないリルには理解出来ない。ただ、これはリルの早とちり。
「いや、違う。守るのは第三妃からだ」
「第三、ひ?」
「皇帝陛下の第三夫人のことだ。帝国腐敗の元凶は第三妃ルイミラだ。この女は陛下の御寵愛を利用して、自らに批判的な人物を失脚させたり、逆に言いなりになる奸臣を登用したり、国費を浪費したりとやりたい放題なのだ」
第三妃ルイミラは現皇帝シャウラの寵愛を一身に集めている女性。彼女の願いをシャウラ帝は拒絶しない。言いなりなのだ。それが帝国腐敗の原因。帝国に仕える人たちは皆、こう思っている。
「その女性さえいなければ、帝国は立ち直れるということですか……」
「ああ、いや、それは微妙だ。第三妃が今のように権力を握る前から、陛下は政務に熱心ではなかったらしい」
「……だからその女性を排除するだけでは駄目だと考えられている?」
第三妃が全ての元凶だと思っているのであれば、排除してしまえば良い。だがそれは実行されていない。その理由は、実際のところは第三妃だけの問題ではないからだとリルは考えた。第三妃を排除しても帝国は変わらない。そうであるのに、それを実行して厳しい罰を与えられる、最悪は死刑となる計画を実行する人などいないのだろうと。
「過激なことを。今のような話は普段は絶対にするなよ? もっと軽い悪口でも酷い罰を与えられることになるのだ」
「分かりました。ちなみに、代替わりはいつ頃になりそうなのですか?」
「……陛下はまだお若い。父上の少し上くらいではないか? 第二王子が確か、僕の五つ上だ。アイビス兄上の二つ上」
現皇帝は若くして即位した。現皇帝の前に即位するはずだった父、さらに第二継承権者であった父親の弟まで病死するという帝国にとっての不幸があった為だ。
これが全ての元凶と言う臣下もいる。まだ若く政務能力に乏しい状態で即位してしまった現皇帝。その時点で帝国の乱れは始まっていたという考えだ。
「それ、最悪、あっ、これも駄目な発言か」
「……もしかすると、もう見限られているのかもしれないな」
帝国が滅びるのは決まっている。多くの臣下はその後のことを考えて行動しているのかもしれないとローレルは考えた。成り代わろうとする者。そこまでは目指さなくても誰が帝国を継いでも生き残れるだけの力を得ておこうと思う者。帝国の為ではなく私欲の為に動いているのだと。
「そうであっても仕方ありません。見限られるような政治をしているのが悪いのです」
ただリルはそれを私欲とは見ない。当然の選択だと考えている。
「また過激なことを」
「これも過激ですか? 人々が帝国に忠誠を向けるのは暮らしを守ってくれるから。それが出来ない相手に忠誠心なんて持ちません。普通だと思います」
今の帝国に統治する能力がないのであれば、ある者に代わって欲しいと思うのは当たり前のこと。リルはこう思う。世の中の乱れを喜ぶ存在など、極一部のはずなのだ。
「……そうかもしれないな」
では誰が代わるのか。イザール家に、帝国の最上位貴族でありながら、その力はないとローレルは思う。では、何者がその地位を得るのか。今のローレルには見当もつかない。ローレルはリルよりも遥かに帝国の事情に詳しい。だが、その帝国は帝都周辺に限ったこと。狭い世界での知識なのだ。
「あれ? あれはプリムローズ様では?」
「はっ? まさか。まだ領地に入ったばかり……本当だ。まったく、何をしているのだ?」
視線を向けた先には、リルの言う通り、プリムローズがいた。ローレルたちに気が付いて、手を振っている。ここはまだ領地に入ったばかりの場所。彼女は屋敷を出てここまで来たのだ。一度、誘拐されそうになったというのに。
ローレルはその警戒心の薄さに呆れ顔だ。さらに彼女が出てくることを許した家臣たちには、少し怒りを覚えている。
「帝都に屋敷を借りてもらったほうが良いのかもしれませんね?」
「まだ早い」
「早い?」
屋敷を借りることを先延ばしにする理由がリルには分からない。リルは道中、普段出来ない鍛錬が出来そうなので遠距離通学も悪くないと考えているが、ローレルも同じ気持ちだとは思えない。ローレルはここまでまったく走ろうとしていないのだ。
「知っているぞ。そういうのは同棲と言うのだろ? 結婚前に一緒に暮らすにしても、まだ早い」
「……それ、結婚は決まっている前提ですけど?」
そもそもローレルも同居するのだ。正確にはローレルの為に借りた屋敷にリルとプリムローズが同居する、だが。
「えっ……あれ? 駄目だ! 僕は許さんぞ!」
「許してくださいとお願いした覚えはありません」
「プリムと結婚したくないのか?」
「凄く答えづらい質問なのですけど? 逆にお聞きします。ローレル様は結婚させたいのですか? それとも結婚させたくないのですか? どちらです?」
したくないとは言いづらい。だからといって「したい」と言えば、結婚を求めているように受け取られてしまう。恐らくはどちらでもローレルは怒る。彼がどうさせたいのか、リルには分からない。
「……今は未定だ」
プリムローズがリルに好意を抱いているのは間違いない。彼女の願いを叶えてあげたいという思いが、ローレルにはある。だが、大切な妹を他の男に奪われたくないという気持ちもある。さらに、リルと一緒になってプリムローズは幸せになれるのかという不安も。ローレルの気持ちは定まっていないのだ。
「はあ……」
「決めてもらいたいのであれば、さっきの質問に正しい答えを返せ」
「さっきの質問ですか?」
「強くなってどうするのか、という質問だ」
リルが感じさせる不安。この問いはその不安の原因を明らかにするものかもしれない。ローレルはこう考えている。
「…………」
リルも問いの意図に気が付いた。気が付いてしまうと答えられなくなる。嘘で返して良い問いではなくなったのだ。
「答えられるようになったら、僕も覚悟を決める。それまでは駄目だ」
「……分かりました」
そんな日は来ない。リルはこう思っている。来て欲しいとも思わない。成り行きで、まだしばらく共に過ごすことになった。それなりに信頼関係も出来てきた。だが、これ以上をリルは求めていない。ローレルとは、プリムローズとも、一時、人生が重なるだけ。必要以上に感情移入するべきではない。お互いに。
リルはこう考えているのだ。