燃え盛る炎が建物を包んでいる。建物はかなり大きな屋敷だ。だが四方八方から一斉に火をつけられては、建物すべてに燃え広がるまでに多くの時間は必要としなかった。炎の熱で窓のガラスが砕け散る。窓から吸い込まれた空気が、また炎の勢いを盛んにする。逃げ場などどこにもなかった。
炎に体を焼かれた状態で、二階の窓から飛び出してくる人。地面が固いとか、衝撃で大怪我をするとか、そんなことはまったく考えていない。考える余裕はない。すでに炎で体を焼かれ、その痛みに苦しんでいるのだ。さらにその場に留まっていては焼け死ぬだけ。人々に飛び降りる以外の選択肢はない。
「…………」
そんな人々の様子をフェンは呆然と見つめている。地面に落ち、その衝撃で足を折りながらも、炎に焼かれる痛みで暴れまわる人。人のものとは思えない絶叫が耳を痛くする。
こんなはずではなかった。そんな思いがフェンの心に広がっている。
「何、ぼーっとしている! そろそろずらかるぞ!」
そんなフェンにハティが撤退を促してきた。まだ生きている者はいる。だが、これだけ火が広まってしまえば、屋敷の外にいる人たちも気付く。火事に気付き、人が集まってくるかもしれない。いつまでも、この場に留まっているわけにはいかない。屋敷の人を殺し、火をつけたのは彼らなのだ。
「……こんなになるなんて」
考えた作戦は成功だ。だが、人を殺すということが、こういうことだとはフェンは知らなかった。作戦を考えたことは何度かあるが、現場に出るのはこれが初めてのこと。自分が考えたことで、人がどのように死んでいくのかを初めて目の当たりにしたのだ。
「ああ……予想以上にあれだったな。ただ確実に殺せた。今のところ、味方の犠牲はない。フェンのおかげだ」
現場に出るのはハティも初めて。彼だけではない。この計画に参加した全員がそうだ。彼らは従士見習い。まだ戦場に出ることは許されない立場だったのだ。
「…………」
「とにかく逃げるぞ。捕まるわけにはいかないだろ?」
「……そうだな。逃げよう」
罪悪感がどれほど強くても、ここで捕まるわけにはいかない。自分一人の問題では済まない。参加した全員が掴まってしまうかもしれない、さらに恐らくは、死刑となってしまうのだ。どんな理由があろうと、平民が貴族の屋敷を襲い、そこにいる人たちの多くを殺したのだ。極刑になるのは当然だろう。
ハティが大声で他の場所にいる仲間にも撤退を告げる。これで作戦は終了、のはずだった。
「えっ……?」
「おい、フェン!? 何をしている!? 行くぞ!」
「声がした。助けてって」
フェンの足を止めたのは助けを求める声。
「はあ? それは聞こえるだろ? あちこちで叫んでいる奴がいる」
それを聞いてハティは呆れている。瀕死状態の人々があちこちでうめき声をあげている。それに気を取られる必要はない。彼らを殺す為にここに来たのだ。家族の復讐を果たす為に。
「違う……違う! 子供の声だ!」
「子供? 聞き間違いだ! 子供はいないはずだろ!?」
メルガ伯爵家の人間を殺す。そう決めた彼らだが、見境なく全員を殺そうとは考えていなかった。入念にメルガ伯爵の動向、屋敷内の状況を調べ、子供や無関係の女性がいない機会を狙って襲撃を行ったはずだった。
「……あそこだ!」
「おい。フェン! 待て!」
ハティの制止の声を無視して、フェンは駆け出した。目的の場所は屋敷の一角。離れのような建物だ。母屋からは少し距離があるが、そこに飛び火しており、建物は燃え上がっている。
「間違いない。ここだ」
空耳ではなかった。間違いなく助けを求める子供の声が聞こえる。それが分かったところでフェンは、躊躇うことなく、火を吹く窓から中に飛び込んでいく。
炎がフェンの体にまとわりつく。飛び込んだ勢いのまま、床を転がり、炎を振り払う。
「……いた!」
真っ赤に染まっているかに見える建物の中、フェンは目的の人物を見つけた。床に倒れている女の子。着ているドレスが燃え上がっている。
「大丈夫か!?」
上着を脱いで叩くようにしてドレスの火を消そうとするフェン。
「痛い……痛いよ……助けて……」
「……ごめん。助けるから。今、助けるから」
ドレスの火は完全には消えていない。この場にいては一時、消えても、またすぐに炎に巻かれる。そう考えたフェンは上着で体を包んで、女の子を抱き上げた。抱き上げ、燃え盛る炎に飛び込んだ。
「フェン!?」
驚いたのは外にいたハティだ。ハティは建物の中に飛び込むことを躊躇った。そうしてしまうくらいの炎の勢いだった。フェンは助からない。半ば、諦めていた。
「水! 水はない!?」
「……おい!」
「こっちだ! 向こうに井戸がある! おい! 誰か、先に行って水を汲め!」
ハティの呼びかけに応えたのはスコール。フェン、ハティ、スコールの三人がこの集団のリーダー格だ。
二人のやり取りを聞いたフェンは、女の子を抱きかかえたまま、井戸があると教えられた方向に駆けて行く。その後はその場にいた仲間たちも追う。
「ここだ!」
先に到着していた仲間がフェンを見て、声をかけてきた。すでに水は組み上げられている。その水をフェンは女の子の体にかけた。
「まだだ。もっと水を」
「分かった」
ドレスの火は完全に消えている。だが焼けただれた皮膚が女の子を苦しめたままだ。
「痛い、痛い。痛いよ……助けて」
「ごめん。本当にごめん! 俺が、俺のせいで」
こんなはずではなかった。子供を傷つけるつもりはなかった。だが現実に女の子は酷い火傷を負った。もしかするとこのまま死んでしまうかもしれないと思うほどの、酷い火傷だ。
「……そうだ、お前のせいだ」
「えっ……?」
「お前のせいだ! お前が私を傷つけた! お前が私を苦しめている! お前が、お前が、お前が! 全てお前のせいだ」
女の子の視線がフェンの心に突き刺さる。伸ばされた腕は焼けただれ、皮膚がぶら下がっている。腕だけではない。髪は燃え上がり、顔の皮膚も崩れ落ちて行く。
恐怖で後ずさるフェン。だが女の子は、すでに女の子とは分からないくらいに全身が火傷で崩れた人が、フェンの体を這い上がってくる。
「許さない。絶対に許さない。私はお前を! 絶っ対に許さないっ!!」
「うわぁあああああっ……あっ……」
全身から噴き出している汗。滴り落ちた先にある柔らかい布団が今の出来事が現実ではなかったことを教えてくれた。現実ではない、という表現は正しくない。途中までは、現実にあった過去の記憶だ。
「…………」
自分が犯した罪。いつか絶対に償わなければならない罪。そう思い定めている罪。それを久しぶりに想い知らされた。
「……メルガ準伯爵……彼女が後を継いだということか……」
彼女の父を殺した。それについての後悔はまったくない。自分の家族を殺された恨みは、後悔など生み出さなかった。傷つけた女の子は、ハティの話では、どうやらメルガ伯爵家を継いだ。準伯爵というのは良く分からないが、メルガ家の当主であるのは間違いないだろう。自分たちにとって仇敵であるメルガ家の当主だ。
複雑な思いが、言葉には出来ない思いが、心に広がって行く。まだ復讐は終わっていない。メルガ伯爵を殺せば、それで終わり、ではなかった。それが分かったからには、最後までやり通さなければならない。それがどれほど困難なことであるとしても。
女の子、メルガ準伯爵に会える日は来るのか。それまで自分は生きていられるのか。会いたいのか、会いたくないのか。今の彼には分からない。考えられない。
◆◆◆
騎士養成学校の二日目。今日から本格的な授業が始まる。午前中は戦術基礎についての講義。帝国騎士団の将が講師として教壇に立った。騎士養成学校で学ぶ全ての学生が帝国騎士団に入団するわけではない。入団するほうが少数派だ。そうであるのに帝国騎士団の戦術を教えて良いのか、とリルは思ったが、授業が始まってみると、その中身は基礎も基礎。すでにイアールンヴィズ騎士団で学んでいる内容だった。
リルに教えてくれた騎士が騎士養成学校の卒業生なのか、戦術の基礎はどこも同じなのかは、今の彼には分からない。恐らくは後者なのだろうと考えた。別にどちらでも良い。それよりも気になったのは一学年での授業は、ずっとこのようなものなのかということ。新たに学べることは少ないかもしれないことだ。
「やっぱり、走っておけば良かったですね?」
「は、は、は……今、走って……いる」
午後は実技、といっても基礎体力作りだ。訓練場の外周をひたすら走り続けるというもので、地味だが、かなり辛い。
「普段から走っていれば、授業では辛い思いはしません」
「ふ、普段……つ、辛い、思いを……する……ことに……なる……だろ?」
リルの理屈はローレルには理解出来ない。要は授業が楽になるように、他の時間で授業以上に辛い走り込みをするということ。今よりも辛い思いをしろと言っているのだ。
「……確かに。では、授業で、より体を鍛えられるようになるように」
「お、お前は……馬鹿、か?」
普段からきつい走り込みを行い、さらに授業ではよりきつい走り込みを行う。そんなことをローレルは望んでいない。体を鍛えなければならないとは思っているが、今のつらい状況でリルの言葉は、まったく励ましていることにならない。
「何か間違っています?」
より厳しい鍛錬を行えば、より早く強くなれる。早く強くなれれば、より厳しい鍛錬が行えるようになり、さらに高見に登れる。リルとしては正しい理屈だ。
「……た、体……力……落ちて……いた……のでは……ない、のか?」
自分はこれほど苦しいのに、リルは息を切らした様子もなく、話しかけてくる。貧乏旅で体力がかなり落ちたと言っていたのは嘘ではないかとローレルは思った。
「ああ……自分でも気付かないうちに成長していたのでしょうか?」
実際はローレルのペースに合わせているから。リルにとってはかなり遅く走っている状態なのだ。これもリルにとっては誤算。実技授業も、少なくとも体力作りは、期待した成果は得られないかもしれないと思っている。
「……ぼ、僕に……かま、わず……さ、先に……行け」
リルの嘘をすぐに見破るローレル。これくらいの嘘はすぐに分かる。その程度はリルを理解している。
「……サボりません?」
「サボれるか!」
「……じゃあ、ちょっと行ってきます。すぐに戻ってきますから」
この言葉を残して、一気に加速するリル。言った通り、すぐに戻ってくることになりそうだとローレルは思った。すぐに自分は周回遅れにされると。
(リルの奴……どこを目指しているのだ?)
ただひたする強くなることだけを考えている。教えてはもらえなかったが、目的があってのことなのは知っている。ただ、どのような目的を持つと、ここまでの努力が必要になるのか。これはまったく分からない。
「……な、なんだ? 部下に、見捨て、られたか?」
「グラキエス……」
この授業は学年合同授業で一学年全員が参加している。ひたすら走り続ける授業だ。分散する必要はないのだ。
「い、意外と、走れる、のだな?」
「お前は……意外と、逆だな?」
ローレルはグラキエスに周回遅れにされたわけではない。同じペースでこれまで走っていて、ここで距離が縮まったのだ。自分と同じペースでしかグラキエスは走れない。これはローレルには驚きだった。
「長く、走るのは……苦手、だ……こ、こういう、鍛錬も……して……こな、かった」
「図体、でかい、からな」
「か、関係、ない……だろ?」
「いや……関係、ある、らしい。リルが……そんなこと……言って、いた」
力を強くする為の鍛錬と、動きを速くする鍛錬は少し違う。どちらかに偏ると、その反対が衰えることもある。ローレルはそうリルに教えられた。どうしてそんなことを知っているのかと尋ねたら、本で読んだということだった。
事実かどうかは分からない。リルも自信があるわけではなかった。ただ体が大きく、力が強いグラキエスが長く走るのが苦手というのは、その理屈に会っているように思った。
「……彼、か。何者、なのだ?」
グラキエスにとっては、突然現れたローレルが頼りにする従者。どういう人物なのか、それなりに気になる。
「き、騎士の息子……両親、を……失くして、から……ずっと……旅、している」
「き、騎士……どこの、家だ? それ、とも……私設か?」
「……聞いて、ない」
グラキエスの問いを受けて、ひとつの可能性がローレルの頭に浮かんだ。イアールンヴィズ騎士団。リルの話ではこれは間違い。間違いであろうと正解であろうと、グラキエスにこの騎士団の名を出す気にはなれない。
「そういうのきちんと確かめないで雇ったの? イザール家っていい加減なのね?」
「……トゥインクル」
トゥインクルにはこれで周回遅れにされたことになる。
「ちゃんとしなさいよ?」
こう言い残してトゥインクルは、前に進んでいった。追いかけようと思っても追いかけられない。それくらい速さが違う。
「……なんだろう……初めて……お前の、気持ちが……分かった」
「なんだ、それ?」
「人に負ける口惜しさというのは、こういうものなのだな? よく分かった」
「分かるな!」