リルは、他の使用人たちがいない、専用の宿舎で暮らしている。前任者が使っていた場所をそのまま与えられたからだ。何故、前任者はこのような特別待遇を得られたのか。レイヴンの世話を出来る馬飼がその人しかいなかったからだと、リルは思っていたが、実際は少し違う理由もあってのことだと最近分かった。前任者はレイヴンの父馬と共にイザール侯爵家にやってきた。元々、皇帝に仕えていた馬飼だったのだ。馬飼とはいえ、皇帝の直臣。さらに皇帝から「気難しい性格だが、よろしく頼む」と言われたことで、周囲に気兼ねなく暮らせる専用の宿舎が用意されたのだ。
こんな話をローレルから、リルは自分の部屋で聞かされている。他の使用人がいないことで、ローレルにとっては自分の部屋以上に、周りを気にしないでいられる憩いの場にされてしまったのだ。
「そういえば先日の騎士団の訳ありも分かった」
「いや、別に私は知りたいと思いません」
今日の話題は先日、帝都でみかけた騎士団について。リルがまったく求めていない話題だ。
「良いから聞け。騎士団の正式名称はイアールンヴィズ騎士団。聞いたことあるか?」
リルにとって必要ない情報であってもローレルは話したい。仕入れてきた情報を語って、それでリルとプリムローズの二人に少しでも感心してもらいたいのだ、
「いえ、知りません」
「割と有名な騎士団らしいけどな。ただ四、五年前に一度、解散した。別の騎士団との争いに負けた結果だ。解散というより壊滅だな」
「……負けたのがその騎士団だとすると、勝ったのはどこのなんて騎士団なのですか?」
無関心のようであったリルだが、早々と話に食いついてきた。ローレルにとっては、満足できる状況だ。
「それが、はっきりしないらしい。ただ争いには黒幕がいて、それはどうやらメルガ伯爵だったという話だ」
イアールンヴィズ騎士団の話はローレルの興味を引くものだった。争いの裏に貴族がいる。陰謀めいた設定が、近頃は珍しくもない騎士団間の争いとは異なっているからだ。
「黒幕の存在が分かっていて、騎士団は分からないのですか?」
「最初はそれほど周囲の興味を引く事件ではなかったらしい。イアールンヴィズ騎士団が負けたというのは話題になったらしいが、それだけだったと聞いた」
「有名な騎士団が負けて解散したのにですか?」
争いの一方の当事者が分からない。そんなはずはないとリルは思う。きちんと調査をしていれば、なんらかの手がかりはあったはずだと。
「どうやらそうらしい。イアールンヴィズ騎士団はほぼ全滅。証言出来る者はいなかった。さらに黒幕だと見られているメルガ伯爵も殺された。殺したのは災厄の神の落し子たちと呼ばれている者たちだ」
「…………」
「彼らが襲った貴族はメルガ伯爵家だ。火を付けられて、屋敷はほぼ全焼。生き残ったのは、たった一人。メルガ伯爵の娘だけだったそうだ」
「……それが事実だとして……どうして彼らは?」
大手を振って帝都を歩けるのか。そこまで分かっているのであれば、捕らえられ、罰を受けているはず。だが、そうはなっていない。
「証拠がない。まず、メルガ伯爵がイアールンヴィズ騎士団の壊滅に関わっていたという証拠がない。直前にイアールンヴィズ騎士団の人間と会っていたという事実が確認されているだけ。それもイアールンヴィズ騎士団関係者の証言だ」
「……その証言者は、どういう人なのですか?」
「さすがにそこまでは分からない。事実関係が明らかになることなく、今度はメルガ伯爵家が襲撃された。イアールンヴィズ騎士団が関わっていると当然考える。だが、これも推測に過ぎない」
確たる証拠はない。それでもメルガ伯爵が関わっていると思い込んだイアールンヴィズ騎士団が復讐を行った可能性は、大いにある。こう推測するのは当然のことだ。
「なんといってもイアールンヴィズ騎士団はその事件の前に壊滅しているのだ」
「……では、災厄の神の落し子というのは?」
「イアールンヴィズ騎士団の騎士の子供たちがそう呼ばれていたらしい。子が親の敵討ちを行ったということになっている。だが、これも証拠がない。証拠もなしに裁くことは出来ない」
実際は証拠が揃わなくても罰せられる人のほうが多い。無実であるのに罪を着せられて、裁かれた人も少なくない。メルガ伯爵家襲撃事件で、そういう終わらせ方がされなかったのは子供たちによる敵討ちという噂が広まっていたから。非はメルガ伯爵にあると世間に、貴族の間でも、考えられている状況で、証拠もないのに裁けなかったのだ。
「なんだか……何も分からないまま、ですか……」
「不思議な事件だろ? 全てが推測。具体的な証拠が何もあがらない。そうであるのに、推測が事実であるかのように世の中に広まっている。帝国公安部は何をやっているのか」
帝国騎士団に属する犯罪取り締まりを担う組織、帝国公安部の力不足、といってしまえばそれまでだが、割と広く知られている事件で、ここまで真実といえる事柄が少ないのは異常だとローレルは思っている。この点も興味が引かれたところだ。
「……帝国コウアン……コウアンというのは?」
「知らないか。帝国騎士団の一組織で主に犯罪の取り締まりなどの治安維持を担当する組織だ。公の安全で公安かな? ちなみに……僕はそこで働くことを望んでいる」
「そうなのですか?」
リルが初めて聞く組織。そこにローレルは入ることを望んでいる。当然、理由など分からない。
「いや、戦争を担当する騎士団本体は無理だ、というか嫌だ。だからといって憲兵はな。一日中、門の横でボ~としているなんて退屈だろ?」
「一日中、ぼんやりはしていないと思いますけど」
完全にローレルの偏見。門衛としてただ立っているだけが憲兵の仕事ではない。そもそも一日中、立ったままではいない。他にも色々とやらなければならない仕事はあるのだ。
「そうだとしても、ちょっとな」
「ちょっと……?」
「ローレル兄上は恰好の良い仕事が良いの。私は知らないけど、帝国公安部は憲兵の人たちよりも恰好が良いらしいよ」
「恰好が良い?」
ローレルが帝国公安部への就職を求める理由をプリムローズが教えてくれた。ただこれだけではリルには理解出来ない。何を「格好良い」と思うのか、帝国公安部を知らないリルに分かるはずがない。
「制服が良い。それに騎士も従士も区別なく、同じ制服だ」
「……ああ、ずっと従士のままでも気付かれないから」
「それを言うな。というか、どうして気付く?」
出世が遅れていても見た目では分からない。実際は、制服の襟につける騎士章を見れば階級は分かるのだが、ぱっと見では分からないということだ。
「帝国公安部……そういう組織が……」
「なんだ? リルも興味あるのか? だったら、僕と一緒に働けば良い。うん、それが良いな。そうしよう」
「い、いや……まだ先のことですから」
そのつもりはない、という言葉は口に出来なかった。リルを見つめるプリムローズの瞳が、それを言葉にさせなかった。プリムローズにとって、リルが帝国公安部で働くことは大歓迎だ。ずっと帝都で暮らすことになる可能性が出てくる。地方赴任もあるが、少なくとも騎士養成学校を出てすぐに帝都を去ることにはならない。
「確かに、まだ先だ。その前に入学試験に合格しないとだな、勉強するぞ、リル」
「あっ、私は終わりました」
「……終わった?」
「はい。与えられた教材は全部覚えたつもりです。また少し忘れてしまったかもしれない頃に、勉強します」
リルは天才、というほどのことではない。教材は、真面目に取り組めば、それほど時間がかからずに覚えられる量。忘れてしまう内容もあるだろうが、それは試験本番まで、定期的に勉強し直せば良いだけ。まだ全てが頭に入っている今は勉強するつもりは、リルにはない。
「……僕はこれからだ」
「頑張ってください。私はローレル様の従士扱いですから、いくら自分の点数が良くても、ローレル様が不合格だと不合格になりますので」
ローレルが騎士養成学校に行くから、従士としてリルも行くのだ。ローレルが不合格になって、リルだけ入学しても面倒を見る相手がいない。行く意味がない。
騎士養成学校側も貴族家のこういった事情は分かっているので、従士は主が合格した場合のみ合格になる。合否判定において、実際は従士の点数などどうでも良いのだ。
「ローレル兄上。頑張れ」
「……おお、頑張る」
プリムローズの激励に、やや力なく答えてみせるローレル。頑張る気はある。実際に頑張る。イザール侯爵家に残れないローレルにとって、騎士養成学校の合否は自分の将来を大きく左右するもの。居場所のない実家に残るわけにはいかない。なんとしても家を出たい。その為には仕事を得なければならないのだ。生まれて初めてローレルは自分の意志で勉強することになる。
◆◆◆
馬小屋のすぐ隣に立つ建物。母屋に比べれば、比較にならないほど、小さな建物だが、それがたった一人の馬飼の為の宿舎であると思うと、アイビスには贅沢に感じられる。
アイビスが、こんなことを考えたのは初めてだ。馬飼の宿舎になど意識を向けたことなどなかった。馬小屋の横に宿舎があるのは知っていたが、それをたった一人で使っているなんてことは、最近知ったのだ。
「えっ? あっ……アイビス様」
その使っている馬飼が建物から出て来た。
「少し良いかな?」
少し驚いたが、呼ぶ手間が省けた。アイビスがここに来たのはリルと話をする為なのだ。
「どういった御用でしょうか?」
「用というか……ラークとの一件を聞いた」
アイビスがリルに会いに来たのは弟のラークと揉めた話を聞いたから。実際はそれだけではない。ローレル付きの従士として騎士養成学校に入学するという話も、ここに来た理由のひとつだ。
「はい……ご当主様からはお叱りを受けなかったのですが……それではご納得いきませんか?」
自分でもかなり思い切ったことをしたとリルは思っている。プリムローズを守る為であっても、あそこまでする必要はなかったと反省している。反省は行為そのものではなく、自分の気持ちを押さえ込めなかったことに対するものだが。
「いや、咎めるつもりはない。どちらかと言うと、逆だね」
「逆?」
「良くやってくれたということ。ただ、私がこれを言ったことは他言無用で頼むよ。母上が面倒だから」
馬飼がラークの従者を叩きのめした。アイビスの母、イザール侯の正妻はリルの行為に怒りを覚えている。ラーク本人ではなくても、命令に従うことなくラークの従者を傷つけたことが許せないのだ。
「……承知しました」
「それと忠告を……母は本当に怒っている。少し感情の調整が苦手な人なので、君自身も気を付けて」
「……ご忠告ありがとうございます。ですが、私はご当主様のご命令に従うまでです。優先すべきはご当主様ですので」
正妻が何かしてくるかもしれない。これを知ったからといって、リルのやることは変らない。今となってはイザール侯の命令も関係ない。プリムローズを守る。これは彼女と、彼女の兄ローレルの為にやることだ。
「そうか……頼もしいね。君がプリムのことを大事に思ってくれているのは嬉しいよ。難しい立場だろうけど、これからも頼むよ」
「私の出来る範囲で頑張るだけです」
アイビスの意図がリルには分からない。この会話にどういう意味があるのか、分からないのだ。
「頑張る、か。プリムが良く口にする言葉だ」
「確かにそうです」
口癖が移ったのか。そう考えたリルだが、今の会話の流れからであれば、自然な言葉だと思い直した。
「プリムのそういうところは羨ましくて。私は彼女のように前向きになれない。頑張っても出来ないことはあると思ってしまう」
「……そうでしょうか?」
アイビスの言葉を否定するリル。
「君も頑張れば、なんとかなると思うほうか。羨ましいね」
「そうではありません。プリムローズ様の『頑張る』は羨ましく思うようなものではありません。それしか選択肢がないから、それを口にするのです」
リルの否定はアイビスが考えたこととは違う。それとは真逆の意味だ。
「……選択肢がないというのは?」
「出来る自信はない。でも出来ないと言うことは許されない。だから、頑張る。こう言うしかないのではありませんか?」
「出来ます」とは言えない。嘘をつくことは許されない。だからといって「出来ない」と口にすることも許されない。プリムローズ本人ではなく、相手が、周囲が許さない。だからプリムローズは「頑張る」という言葉を選ぶ。「出来る」「出来ない」のどちらでもない「頑張る」しか口に出来ないのだ。
「……君は……プリムのことを良く理解しているのだね?」
「いえ、人の心は簡単に理解出来るものではありません。偉そうに言ったかもしれませんが、今の私の言葉は事実とは限りません」
「そうか……そうだね。人の心は他人に分かるものではない。それでもあえて言わせてもらう。私はプリムが羨ましい。君のような人間が側にいることを羨ましく思うよ」
アイビスの気持ちを理解する者もいない。理解して欲しいと思いながらも、本心を伝えられない。リルの言葉が真実かどうかは分からない。それでも、相手の心を理解しようとする存在がいるのは、素直に、羨ましいとアイビスは思った。
「……褒め言葉として受け取っておきます。ありがとうございます」
「褒め言葉だよ。では、私はこれで。もっとゆっくり話をしたいが、忙しくてね」
「はい。貴重なお時間、ありがとうございました」
どう返せば良いのか分からないので、とりあえず御礼で終わらせることにした。これが正解か間違いかは分からない。アイビスはただ笑みを浮かべるだけだった。
去って行くアイビスの背中が見えなくなったところで、リルは建物の中に戻る。
「……あの……どうしました?」
リルを戸惑わせたのはプリムローズ。彼女の大きな瞳からこぼれている涙だった。
「えっ!?」
さらにリルをプリムローズは驚かす。無言でリルに抱きつくことによって。
「……これは……さすがに……問題ではないかと……」
このような状況を誰かに見られては。こう思うリルだが、言葉にするだけ。プリムローズが抱きつくままにさせている。彼女が何故、泣いているのか。リルは分かっていない。だが人には泣きたい時があることは知っている。泣きたい時に泣けないと、もっと心が辛くなることを知っている。だから今は、プリムローズの好きにさせようと思った。それで彼女の心が少しでも軽くなるなら、それが良いと。
「大切な妹に不埒な真似をするな!!」
だがそれを邪魔する存在がいた。元々、リルとプリムローズ二人だけでいたわけではない。ローレルも一緒に居たのだ。
「……どうして僕の蹴りを防ぐ? ここは大人しく蹴られるところだろ?」
放った蹴りをあっさりとリルに受け止められたローレル。しかもリルはまだプリムローズと抱き合ったままだ。
「蹴られたら痛いので」
「痛いを思いをしろ! 妹に破廉恥な真似をした罰だ! プリム! お前も離れろ! 兄が見ているのだぞ!?」
「……ローレル兄上、邪魔」
「じ、邪魔? そ、そんな……可愛いプリムに……じ、邪魔と……言われた」
まるで演技のように激しく落ち込んだ様子を見せるローレル。そう見えるだけで本人は本当に落ち込んでいるのだ。
「……リル、ありがとう」
「私は何もしていません」
「それでも、ありがとう」
何もしなくて、ただ側にいてくれるだけで心が温かくなる。こんな存在は、兄のローレルには少し申し訳なく思うが、リルが初めてだった。リルは何故か、自分のことを理解してくれる。誰にも言えないことを知っている。知られても嫌に思わない。プリムローズにとって特別な存在なのだ。