プリムローズの日常は以前とは大きく変わった。兄のローレルと共に過ごす時間以外は、自室に引きこもって本を読み続けている毎日だったプリムローズ。今は違う。午前中は第二馬場に行って馬術の稽古、といってもルミナスの朝の運動時間に乗り手となっているだけだが。それが終わるとリルが馬飼の仕事をしている様子を見ながら、本を読み、時には自分自身の体力作りの為に運動を行う。
昼食を済ませたあとは剣の稽古。また第二馬場に向かう。自室に籠っている時間はかなり少なくなった。第二馬場にはリルと自分、そしてローレルしかいない。自室に引きこもらなくても、周りを気にする必要がない。それ以上に、ルミナスに乗るのも剣の稽古も楽しいというのが、プリムローズの日常が活発になっている理由だ。そうなのだが。
「おい、プリムローズ。お前、ふざけるなよ?」
「……ラーク兄上」
剣の稽古に向かう、うきうきしていた気持ちが一気に冷える。二番目の兄、ラークはプリムローズの心を沈ませる相手なのだ。
「いくら平民の血が流れているからって、平民の男とふしだらな真似をしているだなんて。一応、半分は私と同じ侯爵家の血なのだぞ? 恥をさらすな」
「……してない」
「なんだと……?」
いつもであれば言い返すことなく、沈黙を守るプリムローズ。自分の言葉を否定してきたことにラークを驚き、心を苛立たせた。
「……ふしだらな真似なんて……してない」
「……はっ。お前にとってはそうなのだろうな? 平民の、妾の子のお前にとっては男を垂らし込むなんて悪いことでもなんでもない。そうやって生きて行くんだ」
「…………」
続くラークの言葉に、プリムローズは反論出来なかった。しても意味がない。さらに酷い言葉が返ってくるだけだ。だからいつも沈黙して時が過ぎるのを待っていたのだ。
「お前に剣なんて必要ない。どうやったら男を喜ばせることが出来るかだけ勉強していろ」
「…………」
「あっ、もう勉強しているのか。毎日毎日、馬飼相手に」
言い返さなくてもラークの罵りは続く。これもプリムローズは知っている。一言、二言、嫌味を言えば、それで満足する他の人とは違うのだ。
「……俺が教えてやろうか?」
「えっ……?」
「ばぁか。期待するな。剣を教えてやると言っているんだ。よし、教えてやる。ジェイミー、相手をしてやれ」
ラークは自ら動くことをしない。言葉の暴力でも人はひどく傷つくことが分かっていない。父親や兄に怒られた時の言い訳を用意しているつもりなのだ。
「私が、ですか?」
振られた従者はとまどっている。彼はラークの真意が分かっていない。何の相手をしろと言っているのか分からないのだ。
「ああ、そうだ。半端に剣を学んでも、何の役にも立たない。それを教えてやれ。プリムローズの為だ」
これはプリムローズの為にさせること。まったく意味のない言い訳も忘れない。これはもう考えてやっていることではないのだ。
「……分かりました。では、手加減を忘れずに、やらせて頂きます」
プリムローズがイザール侯爵家の令嬢。そうであるのにラークの従者は傷つけることを躊躇わない。使用人の多くがプリムローズを妾の子として蔑んでいる。家に入るのを許したことになっているラークの母、イザール侯の正妻が、実際にはプリムローズのことを疎ましく思っていることを知っているのだ。
「さあ、プリムローズ様、剣を構えてください」
剣を構えろと言うが、プリムローズが持っているのは鍛錬に使っている軽い木の棒だ。従者が持っている剣を防げるはずがない。普通の剣であっても今のプリムローズでは防げないだろうが。
それでも彼女は木の棒を構える。無抵抗で傷つけられることを良しとしなかった。それでは鍛えている意味がないと思ったのだ。
「……じゃあ、行きます!」
薄ら笑いを浮かべながらプリムローズに斬りかかる従者。さすがに本気で斬る気はない。力ずくで彼女を地面に押し倒して、ちょっと良い思いをしようくらいに思っているのだ。だが。
「えっ?」
軽く振り下ろした剣は受け止められた。さらに。
「ぐっ、がっ……」
腹部の痛み、さらに顎に激しい痛みが襲う。何が起きたか分からないまま地面に倒れた従者。その彼に向かって、今度は蹴りが飛んできた。容赦のない蹴りだ。
「あっ……や、やめて……た、助けて……」
容赦なく自分の身に振るかかる暴力。その恐怖に従者は救いを求める声をあげた。
「き、貴様! 何をしている止めろ!」
その声に答えたのはラークだ。彼が制止の声をあげただけでは、従者に対する暴力はすぐには止まらなかったが。
「……止めろ! 聞こえないのか!? 馬飼風情が! 私に逆らうつもりか!?」
従者に暴力を振るっているのはリルだ。ラークにとっては、信じられない事態。自家の使用人が自分の言うことを聞かない。自分の従者を容赦なく痛めつけているのだ。
「……そう言われても……私はご当主様のご命令に従っているだけです。ラーク様のご命令よりも優先すべきことだと思いますが?」
「何を言っている? 出鱈目を言って、誤魔化そうとするな」
「嘘はついていません。私はご当主様からプリムローズ様を守れと命じられました。ご命令通り、危害を加えようとした男を排除しただけです」
「そんな……父上がそんな命令を……出すはずが……」
あり得ない話ではない。父であるイザール侯はプリムローズを自分の娘として、普通に大切にしている。大事な娘を守れと命じる可能性は無ではない。
「まだお疑いでしたら、ご当主様に直接お尋ねください。私はお呼び出しもないのに母屋に行ける身分ではありませんので、御一人で」
「……いくら父上の命令でも私の従者を傷つけて、ただで済むと思っているのか?」
命令は本当だとしても自分の従者を傷つけたことは許されることではない。ラークはそう思っている。
「それもご当主様にご確認ください。私は何人であろうとプリムローズ様を傷つけることは許すなと命じられたと理解しております。
「そんな……」
リルの言う「何人であろうと」には自分も含まれているのではないか。その可能性をラークは考えた。そんなことはあり得ない。自分はイザール公爵家の人間だ。この思いもあるが。完全には否定出来なかった。まさかを考えてしまうほど、リルの暴力は容赦のないものに見えたのだ。
「……全てはご当主様のお考え通りに。私の解釈が間違っていたのであれば、その時は責任をとります。どうぞお確かめ下さい」
イザール候が許せば、ラーク相手でも同じことをする。丁寧な言葉ではあるが、リルの言葉にはその意志が込められている。
「……覚えていろ」
お約束のような捨て台詞を吐いて、この場から離れて行くラーク。地面に転がった従者はそのままだ。
「リル……」
そしてプリムローズも、剣に怯えて地面にしゃがみ込んでしまったままだった。
「……今のは悪い例です。俺は人を傷つける力しか持ちません。プリムローズ様は俺とは違う、人を守る力を身につけて下さい」
こう言いながら、リルはプリムローズに手を差し伸べる。
「……ありがとう」
差し伸べられた手をしっかりと握り、立ち上がったプリムローズ。自分に向かって手を差し伸べてくれる人がいる。意味が違うのは分かっていても、プリムローズは嬉しかった。
リルの力は確かに人を傷つけた。多くの人を殺し、今もかなりの怪我を与えている。それでもその力は自分を守ってくれた力なのだ。自分が求める他人の為の力だとリルは思った。リルは側にいて自分を守ってくれる。その事実が、とても嬉しかった。
◆◆◆
ローレルの日常も変わろうとしている。すでに一部は変っている。これまでの日常にプリムローズと一緒に、リルに教えられて乗馬と剣の鍛錬をすることが加わった。今までも乗馬と剣を学ぶ時間はあったのだが、これまでのそれとは過ごしている間の気持ちが違っていた。
「あ、あの……それはどういうことでしょうか?」
ローレルの言葉に戸惑っている男は、イザール侯爵家の騎士。ローレルの剣術の先生を任されている騎士だ。
「これまでご苦労だった。もうお前は僕に剣を教える必要はない。この時間は自分を鍛える為に使え、と言った」
「いや、それは分かっているのですが……候がお怒りなられると思いますが?」
「大丈夫だ。お前に責任がないことは、僕からきちんと話しておく」
騎士が戸惑っているのは先生の役目を外されることで、父であるイザール候から叱責されることを恐れているから。ローレルはこう受け取った。
「お叱りを受けるのはローレル様だと思います」
間違った受け取り方だ。またローレルは学ぶことを止めようとしている。これまで何度もあったサボり癖がまた現れたのだと騎士は思っているのだ。
「……問題ない。僕は僕が信じる方法を選ぶだけだ」
剣術を学ぶことを止めたいと考えているわけではない。その逆だ。ローレルは、騎士から学ぶ時間をリルとの鍛錬を増やすことに充てたいのだ。
「しかし……」
「お前にとっても良いことだ。騎士として自分を鍛える時間が必要だろ? 僕の相手をしていた時間をそれに充てれば良い」
この騎士ももっと自分を鍛えることに時間を使うべきだとローレルは考えている。怠けている場合ではないと。
ローレルはリルの日常を確かめた。人にあれこれ言うだけで、自分はどうなのか。これまで自分を教えてきた人たちとリルはどう違うのか、同じなのかを確かめた。
「ありがたいお言葉ですが、鍛錬の時間は十分にありますので」
「……それはどうだろうな?」
「えっ?」
その結果は、想像以上だった。馬飼の朝は早いと聞いたので、生まれて初めて夜明け前に起きてみた。起きて馬小屋に行ってみれば、まだ誰もいなかった。さすがに早過ぎたと思ったが、それは間違いだった。時間潰しに向かった第二馬場に、リルはいた。剣を持って、おそらくは、型の練習をしていた。その姿はとても美しかった。ただ見ているだけでも退屈しなかった。
「騎士団の訓練は何時からやっているのだ?」
「午前中からです。二時間たっぷりと行います」
「そうか……たっぷりか……」
馬小屋に戻って馬飼の仕事。第二馬場に二頭の馬を連れて行き、運動させる。この時間はすでにローレルの日課になっている。だがリルはローレルとプリムローズが来る前から始めていた。自分とはまったく違う荒々しさでレイヴンを駆けさせていた。レイヴンも楽しそう、にローレルには見えた。
昼を済ませ、午後は剣の鍛錬。それまで気付かなかったが、自分たちが第二馬場に行った時には、すでにリルは汗をかいていた。自分たちが来る前に、何らかの鍛錬を行っていることを知った。
「……当家の騎士団は……どうなのだ?」
「どう、とは?」
「他の騎士団に比べて強いのか?」
「ああ、もちろんです。帝都の北の守りを任されているのです。他の騎士団には決して負けません」
この騎士の言葉はローレルには軽々しく聞こえる。こう言い切る根拠は何なのかと思ってしまう。リルは全ての仕事が終わった後、夜になっても鍛錬を行っている。ローレルに課したと同じ素振りを行っていた。ただ違うのは、リルのそれは腕が上がらなくなるまで続けられるということ。ローレルにやらせている鍛錬より、遥かにきつい鍛錬を自分は行っていた。
それを見て、自分も頑張ろうとはローレルは思えなかった。リルは頑張ってどうにかなる相手ではない。こう思った。自分はリルに遠く及ばない。だからせめて自分が出来る限界まではやってみようと思った。
「……馬飼に負ける騎士団が強いはずがない」
「はっ? 今、なんと?」
「なんでもない。じゃあ、これまで世話になった。これからは自分自身の為に頑張れ」
「……はあ」
今日のローレルは良く分からない。サボり癖はいつものことだが、彼の口から御礼の言葉を聞くのは初めてのこと。まして「頑張れ」なんて言葉が出るなんて、想像したこともない。
分かるはずがない。騎士はローレルを見ていない。最初から彼には才能はないと決めつけていた。それは事実だとしても、才能がない人間はどうすれば良いのかを考えようとしなかった。自分自身も才能がないことに気付きもしないで。
(……しかし、リルは何者なのだ? どこでどう育ったら、ああなるのだろう?)
リルの素性は定かではない。家族をなくし、親戚の世話になるのを申し訳なく思って、旅をしているというのは聞いた。だがそれだけだ。どこで生まれ、両親はどういう人だったのか、何故亡くなったのかは聞けていない。リルの剣がきちんと教わったものであることは、武の才能がないローレルでも分かる。では誰に教わったのか。分からなことだらけだ。
それでもひとつだけ分かること。リルは自分のことを理解してくれる、少なくとも理解しようとしてくれている。この一点だけでローレルはリルを信じられるのだ。