リルの毎日はレイヴンとルミナスの二頭の馬の世話、それとプリムローズ、そしてローレルの世話、という言い方はローレルが怒るだろうが、も加わった。馬に乗る練習だけでなく、剣の訓練についても二人一緒に行うことになったのだ。
リルとしては、本音は、迷惑な話だ。プリムローズ一人を教えるのでも大変。別にリルは剣術の師匠ではない。人に剣を教えた経験など、ほぼないのだ。その状況でさらにレベルの違うローレルにまで教えることになった。時間は一緒ではあるが、教え方が異なる。これは思っていたよりも、ずっと難しかったのだ。
「目は悪くない。これは分かりました。ですが、プリムローズ様には致命的な欠点があります」
「致命的……それは何?」
致命的な欠点という表現はかなりきつい。あからさまに落ち込んだ様子のプリムローズだが、欠点はそのままにしておけない。何が悪いのかリルに尋ねた。
「力。剣を振る力が足りません」
反応は悪くないのだ。だがリルと剣を打ち合わせる力がない。リルはかなり手加減しているのだが、それでも打ち負けてしまうのだ。
「それは……鍛える」
「そうですね。でも、年齢の問題でもあります。これについては焦る必要はありません」
「そうなの?」
焦るなと言われても焦る。プリムローズは今すぐに周りを守る力が欲しいのだ。
「もちろん、少しずつ鍛えてもらいます。ですが、それは一人でも出来ること。この時間は得意をより得意にすることに使ってもらいます」
「得意……頑張る」
自分に得意なことなどあるのか。プリムローズはそう思う。思いながらもリルの言葉は嬉しかった。都合の良い考えだと分かっていても、認められている気がした。
「では、この木の棒を持ってください」
「えっ、木?」
「軽い剣は持っていないので、替わりです。御当主様に我儘を聞いてもらえるのでしたら、自分にあった軽い剣を作ってもらってください」
「……分かった」
我儘と思われることはしたくない。だが、自分に合った剣は欲しい。どうするかは今すぐ決められないが、リルの言うことは理解した。「分かった」はこういう意味だ。
「じゃあ、行きます」
「う、うん」
新たな、強くなる為の鍛錬が始まる。そう思ってプリムローズは身構えている。
「……いや、固くなっては駄目でしょ? 最初に言った通り、体の力を抜いて。前後左右、どこにでも素早く動ける体勢を作ってください」
「分かった」
一度、大きく深呼吸。肩を上下させて力を抜く。
「俺の動きを良く見て。とにかく剣を合わせること。良いですか?」
「……分かった」
力を入れ過ぎて体が固くならないように気を付ける。あとはリルの動きを良く見て、剣を出す方向を見極める。じっと、リルの動きをじっと見つめる。
「……いや、そんな見つめられると」
大きな瞳でじっと見つめられると、リルのほうは照れてしまう。
「ええ? だって、リルが良く見ろって」
「ああ、言い方が悪かったです。ただどう言えば良いのかな? 一点を見つめるのではなく、体全体をぼんやりと見る感じ。ぼんやりと言うとまた迷うかもしれませんけど」
「……リルはどうしているの?」
リルが言った通り、「ぼんやり」と言われるとプリムローズは混乱してしまう。「良く見る」と「ぼんやり見る」が結びつかないのだ。
「俺ですか? 今言った感じです。広い範囲を視界に入れる感じ? 剣を振るにしても腕だけが動くわけじゃない。足、肩、目線とかとか。動き出しのきっかけは色々です」
「……そうだね」
実際に自分でも渡された木の棒を振ってみる。軽い棒は腕だけでも動かせたが、先ほどまで使っていた剣ではそうはいかないことは分かる。さらに足を踏み込んでから、肩からなど、リルが言ったきっかけを試してみる。
「あとは剣の軌道を予測して、自分の剣を合わせる。ただあまり予測に頼っても、裏をかかれることがあるので、そこは最後まで目を逸らさず、きちんと見極めて。でも他の動きも見なければならないので、視野は」
「ええ……」
要求が多すぎる。リルの説明通りにことを自分が出来るとはプリムローズは思えなかった。
「まあ、慣れです、慣れ。ということで、今度こそ慣れる鍛錬を始めます」
「分かった」
「はい、行きます」
リルは両手に木の棒を持っている。まずは右から軽く。プリムローズはそれに自分の木の棒を合わせてくる。押し込むことはせず、すぐに左から。プリムローズもそれに合わせる。
「はい、はい、はい」
「はい、はい、はい」
タイミングを合わせてリルの振る棒に自分の木の棒を合わせる。ここまでは順調、だったのだが。
「はい、ははい」
「えっ、ええ?」
リルにタイミングをずらせれ、咄嗟にそれに反応出来なかった。
「タイミングに捉われて雑になっていました。一回、一回、丁寧にやらないと。ひとつひとつの俺の動きを良く見て」
「あっ、そうか」「おい?」
「では、もう一回」
また同じ鍛錬を始めようとするリル。
「おい!?」
「……なんですか?」
それをローレルが邪魔をした。
「扱いが違わないか?」
「扱い?」
「プリムには丁寧に教えているのに、僕は放ったらかしか!?」
ローレルはずっと素振りをやらされていた。プリムローズがリルに教わっている間、ずっとだ。それに不満を感じているのだ。
「素振りの鍛錬をしているじゃないですか?」
「何も教わっていない」
「始める前に言いました。右の肩の上に構えて、そこからやや斜め、正面真下に振り下ろしてくださいと」
初めからずっとローレルを放ったらかしにしていたわけではない。最初にローレルの鍛錬に付き合い、リルなりに実力を見た上で、素振りをやってもらっているのだ。
「……これに何の意味がある?」
「ええ……それも説明しましたけど? ローレル様はプリムローズ様とは違って、剣を振る力があります。ですからその得意を伸ばす。より速く、力強く触れるようになるには素振りが一番です」
「得意を伸ばすか。なるほど…………じゃない! プリムより力が強いのは当たり前だろ!?」
得意を伸ばすという言い方は嬉しい。だが比較対象がプリムローズでは、得意とは言えない。性別が違う。年齢もローレルが上。力が強いのは当たり前だ。
「当たり前と決めつけるのは良くありません。見た目が若くても、弱そうに見えても、実はとんでもなく強い人は世の中にいくらでもいます」
「それは……そうかもしれないが……」
ただの屁理屈。それに惑わされそうになったローレルだが、かろうじて堪えている。
「じゃあ、はっきりと言います。ローレル様は目はプリムローズ様に劣ります。反応も特別速いわけではありません」
「……そうか」
劣等感。ローレルが常に持ち続けている感情を、リルの言葉は刺激する。妹にも自分は劣る。可愛がっているプリムローズ相手であっても、やはり落ち込んでしまう。
「だから強くなる為には一点を極めるのが良いと思います」
「一点を極める?」
「小細工を全て排除して、ただ向かい合ってお互いに剣を振り下ろす。早く剣を振り下ろしたほうが、相手を先に斬ったほうが勝ちです」
そういう勝負には滅多にならない。そうならない、させない為に技がある。
「そんな単純なものではない」
そうであることはローレルだって分かる。戦いはそんな簡単なものではないことは、実戦経験がなくても知っている。
「はい。ですが、全ての小細工を無にするくらい剣を速く振れたら? 相手のほうが先に剣を振り始めても、それを超える速さで剣を振れたらどうですか?」
「……そんなことは出来ない」
理屈では分かる。だが、実現可能なこととはローレルには思えない。まして自分には到底出来ることではないと思ってしまう。
「出来ます。目が良くなくても、反応が少し鈍くても、剣を速く振ることは出来ます。ただひたすら、その一点を磨くことに全てを費やせば出来るはずです」
「……僕にも出来ると思っているのか?」
「出来ると思っているから、鍛錬してもらっています。もちろん、勝敗は時の運。全ての勝負に勝てるとまでは言いません」
剣を速く振ることに才能はいらない。日々の努力が全てだとリルは思っている。もちろん、その日々の努力は並大抵のものではなく、それが出来ることも才能のひとつ。だがその才能は生まれ持ったものではなく、後から得られるもの。どれだけ強い意志を持ち続けていられるかだ。
「……そうか。僕にも出来るか」
「正直言えば、誰にでも出来ることです。問題はやるか、やらないかです」
「そうだな……」
初めから諦めていては出来るようにならない。こんなことは分かっている。分かっていても出来ないのだ。
「少し厳しいことを言わせてもらいますと、途中から手を抜いていましたね? きちんと出来ていたのは初めの二十振りくらい。あとの素振りは何の役にも立ちません」
「…………」
放ったらかしにされていたわけではない。どうせ出来ないと、おざなりの教え方をしてくる騎士たちとは、リルは違うのかもしれない。ローレルの心にこんな思いが浮かんだ。
「偉そうなことを言わせてもらいますと、自分を信じないと辛い鍛錬なんて続けられません。まずはご自身を信じることから始めたらどうですか?」
「簡単ではない」
自分を信じたい。そうしたいが、その自分自身にローレルは何度も裏切られてきた。信じて裏切られる。自分自身の問題であっても、辛いものなのだ。
「……そうですね。逃げ出したくなる気持ちは簡単には消せないですね。でも……逃げ出した後の後悔はもっと辛かったりしますよ?」
「……知っている」
ずっと後悔している。「どうして、あの時にもっと」という思いは数えきれないほど心に浮かんでいる。取り戻せないことを思い知り、さらに後悔の念が強くなる。ローレルは、ずっとそういう思いを抱いている。
「経験済みですか……じゃあ、良いじゃないですか。とりあえずやってみれば。駄目で逃げ出したらまた後悔すれば良い。そうなれば、また何か始めようと思うでしょう」
「……お前、いい加減だな?」
「それは褒め言葉ですね? 丁度良い加減で生きられたら、人は楽になれます」
実際は楽に生きられていない。生きたいという思いがあるだけで、それを実現しようとは考えていない。考えてはいけないとリルは思っている。
「楽に……楽に生きるってどういうものなのだろうな?」
「さあ? 俺も知りません」
「お前……まあ、良いか」
自分が知りもしないことを、偉そうに語っている。いい加減な男だと思ったが、実際はそういうことではないのだろうとローレルは思い直した。リルは自分が望む言葉を選んでいる。自分の気持ちを分かっている。生まれ育ちはまったく違う、自分とは異なる経験をしてきたはずのリルだが、そうであっても自分と同じ思いを抱いている。そういう相手なのだと。
◆◆◆
母屋の書斎で家臣からの報告に耳を傾けているイザール候。領地についての報告ではない。騎士団についてでもない。私的な、家に関わることなど完全に私的なこととは言えないが、件の調査を家臣に命じていたのだ。
「……馬だけでなく剣も教え始めたのか」
命じた調査はリルについて。彼の日常について、怪しい動きはないかなどを、見張らせているのだ。
「ローレルは真面目に教わっているのか?」
リルについての報告の場だが、息子のローレルのことがイザール候は気になった。何をやらせてもすぐに止めてしまうローレル。その彼がリルに馬と剣を教わっている。どういう状況か知りたいと思ったのだ。
「今のところは真面目に鍛錬をなされております」
家臣は「今のところは」という言葉をつけて問いに答えた。ローレルがどういう人間であるが、イザール侯爵家の使用人たちは皆、分かっているのだ。ローレルに言わせれば「分かっているつもりになっている」だが。
「そうか……あの男はきちんと教えられるのか?」
「どうでしょう? 教えている内容までは分かっておりません」
すぐ近くで様子を探っているわけではない。会話の内容までは分からないのだ。それでも何をやっているかは分かるはずなのだが、命令を受けた家臣が騎士ではない。剣術の鍛錬についての知識がない。
「そうか……馬に乗れて、剣も使える。これで槍や弓まで使えたら、騎士か従士だな?」
「本人にさりげなく聞いてみたところでは、旅をする中で身に付いたものだと言っております。まったく嘘とは言いきれないとは思いますが」
「確かにそうだな」
だがその実力が、一人で何人もの騎士崩れと戦って倒せるくらいのものとなれば、それは自然に身に付くようなものではない。きちんと訓練を受けた人間であるはず。しかも見た目の年齢通りであれば、幼い頃から鍛えてきたということだ。
この考えをイザール候は家臣に伝えない。新たに雇った者に問題ないか調べろ。この程度の命令しか、この家臣には伝えていないのだ。
リルは善か悪か。悪であった場合の対応は明確だ。だが善であった場合はどうするべきか。この答えをまだイザール候は持っていない。