プリムローズと共に馬場に現れたのはイザール侯爵家のローレル。三人いるプリムローズの兄の中では一番年下。もっとも年齢が近い兄だ。兄妹ではあるが、金色の髪以外は似たところはない。瞳の色が違うだけでなく、美少女と言えるプリムローズと比べてしまうと、凡庸と言われてしまう風体だ。
その兄が、レイヴンに乗ると言ってきた。これまで一度も乗ったことのない、騎士でも避けるレイヴンに。リルとしては、理解出来ない行動だ。
「プリムローズ様。レイヴンは誰にでも乗れる馬ではないですけど?」
彼女も当然知っていること。そうであるのに彼女は自分の兄を止めようとしない。それどころか「頑張れ」と応援している。
「そう。だからローレル兄上が乗るの」
「えっと……俺にも分かるように説明してもらえるとありがたいのですけど?」
プリムローズは時々、言葉足らずになる。今もそうだ。リルが求める答えに、まったくなっていない。
「誰にも乗れない馬は必要ないって、ラーク兄上が」
「ラーク様……つまり、ご当主様ではない」
また知らない名が出て来たがプリムローズが「兄上」と呼ぶということはイザール侯の息子だ。ただレヴィンは、当主の息子の「必要ない」の一言でどうにか出来る馬ではないはず。皇帝陛下から下賜された馬の子だと今日の朝、聞いたばかりだ。
「そうなのだけど……でも、お父様も同じ考えみたいなの」
「そうなのですか? それは……まあ、そう思ってしまうかもしれませんけど」
誰も乗れない馬。馬車を引かせていたが、操れる御者もいなくなった。たしかに役に立たない存在と考えられても仕方がない部分はある。
「分かったか? だから僕が乗りこなす」
「乗りこなす……俺は乗れますけど?」
ここでリルの本来の感情が浮かび上がってきた。同い年くらいの少年とはいえ、相手は貴族。何もなくても悪感情が湧いてくるところを、ローレルはさらにリルの感情を刺激するような横柄な態度を見せているのだ。
「なんだと?」
「誰も乗れない馬ではありません」
「馬飼風情が乗れたからといって、何の意味もない。イザール侯爵家の者が乗れて、初めて乗る者がいると言えるのだ」
リルの言葉もまたローレルの感情を逆なでする。さらに、そのことでローレルの言動は、リルの気に入らないものになる。
「いらないというなら俺が連れて行きます。それで良いのでは?」
「……ふざけるな。お前ごときに与えられる馬ではない。僕が乗りこなし、僕の馬にする。そう決めたのだ」
レイヴンは絶対に処分させない。そう思っての行動なのだ。それを邪魔しようとする、レイヴンを奪い去ろうとするリルをローレルは許せない。
「本当に乗りこなせるのですか?」
「貴様……僕を侮辱するな!」
「乗りこなすことが出来ず、貴方が大怪我するようなことになったら、それこそレイヴンは処分されてしまうのではないですか? それが分かっていて、貴方は彼に乗るのですよね?」
リルはレイヴンを奪おうと考えているわけではない。レイヴンの処分は死。皇帝陛下から下賜された馬の子を売ることなどしないはず。寿命、は無理があっても、病死か大怪我による死ということにするはずだとリルは考えた。命を救う為には自分が連れて行くしかないと考えたのだ。
「……分かっている。分かっていて僕は乗るのだ」
ローレルも分かっていた。それでも自分が乗ると決めた。決断した時は、レイヴンがリルと共にイザール侯爵家を去る、という選択は頭にはまったくなかったが。
「……そうですか。では、頑張ってください」
それなりに覚悟を決めての行動。そうであることはリルにも分かった。
「……良し。大人しくしていろよ」
早速、レイヴンの騎乗を試みるローレル。自信はない。自信がないから時間が惜しいのだ。
「……良し良し……じゃあ、おわぁっ!?」
またがるまでは出来た。だがそこまでだ。レイヴンは大きく前足を振り上げ、そのせいでバランスを崩したローレルは馬上から落ちてしまう。
「いっ……あれ? 痛くない?」
地面に背中から落ちた。かなりの痛みを覚悟し、痛みを感じる前から「痛い」と口にしそうになったローレルだが、実際はそれほど痛みは感じなかった。
「でしょうね?」
「……お、お前」
その理由はリルが助けてくれたから。ローレルが地面に激突する前に、自分の体を間に入れて、支えてくれたのだ。
「怪我されると俺が困るので。まったく旅費を稼いでいないのに、馬を連れて旅なんて出来ない」
レイヴンを連れて旅を続けようと思えば、これまでよりも旅費が必要になる。その辺に生えている草だけを食べさせておくというわけにはいかない。それが可能な場所だけを旅するわけではないのだ。さらに宿に止まる時も、馬を連れていると余計にお金を取られることがある。
「……そうか」
「ついでに助言をひとつ。レイヴンが激しく動くのは乗り手の技量を確かめる為です。自分の能力をどこまで発揮することが出来るか確かめる為。だから、何回か試した後は乗り手に合わせた動きになります……多分」
最後のほうはリルも自信はない。乗り手に相応しくない技量の者は受け入れない、乗せることもしなくなる可能性もある。
「……そうか」
リルに睨むような視線を向けてから、またローレルはレイヴンにまたがる。二度目も同じだ。駆け始める前に振り落とされ、地面に落ちることになった。ただ今回は地面には届かない。その前にリルに抱きとめられることになった。
「まだ続けますか?」
「当たり前だ」
三度挑戦。今度はわずかに前に進んだ。進んだというだけだ。馬上から転げ落ちることに変わりはない。そしてまた、リルに支えられることになる。
「次は間に合わないかもしれませんけど?」
「かまわない」
移動距離が延びれば、それだけリルは助けることが難しくなる。そして実際に、間に合わなかった。
「…………」
背中を強く打って、うめき声も出せない様子のローレル。それでもまた彼はレイヴンにまたがる。
「……もうひとつ助言を。手綱を操ろうなんてしないことです。何もしないで、とにかく乗り続けることに集中する」
「……それは乗りこなすとは言わない」
実際には乗り続けるだけでも難しい。それでもローレルはこう言った。乗りこなすと決めたからにはそうしなければならない。こう考えているのだ。
「それはレイヴンを信じていないということです。何もしなくてもレイヴンはその場、その時でもっとも正しい動きを選びます」
「馬を信じろと?」
「はい。乗りこなすなんて傲慢な考えは、レイヴンには通用しません」
「…………」
無言のまま、またレイヴンにまたがるローレル。無視しているのではない。リルの言葉の意味を彼なりに真剣に考えているのだ。
「……ついでに自分も信じるのですね」
「えっ……?」
「自分はここまでなら出来る。出来る自分を信じてみれば、意外とレイヴンに通じるかもしれません」
「自分を信じる……ここまでなら、か……分かった」
出来ない自分をいつも悔やんできた。イザール侯爵家の落ちこぼれ。生まれ落ちた時からローレルはそのレッテルを貼られ、実際に出来の悪い弟だった。それが悔しかった。自分を見る周りの目が大嫌いだった。「自分を信じろ」なんて言葉は生まれて初めて言われた。
「……良し。レイヴン、悪いが俺に付き合え」
自分ではレイヴンを乗りこなせられない。レイヴンは自分を乗り手とは認めないだろうとローレルは思う。始める前から分かっていたことだ。だが、始める前とは少し気持ちが変った。乗りこなす必要はない。自分のような才能のない人間でもレイヴンは乗せてくれる。それを証明出来ればそれで良いのだと。
「レイヴン。正しく頭を使えよ」
少なくともローレルにはレイヴンを助けようという気持ちがある。自分の為ではなく、レイヴンの為に無茶をしている。リルはそれが分かった。レイヴンも分かるべきだと思った。
「……おお?」
これまでとは違う動き。レイヴンはゆっくりと動き始めた。そこから徐々に駆ける足を速めて行く。速く速く、まるで空中をすべっているかのように滑らかに。
「ローレル兄上。凄い」
「……そうですね。レイヴンに乗れていますね?」
正確にはレイヴンに乗せてもらっている。だが喜んでいるプリムローズに伝える必要のない事実だ。ローレルはレイヴンに乗れている。必要なのはこの事実なのだ。
「ローレル兄上! 凄いよ!」
「お、おお! 凄いだろ、僕は!」
プリムローズの讃辞に応えるローレル。少し照れた様子のローレルを見て、少なくとも妹に対しては良い兄のようだとリルは思った。身の危険を顧みずレイヴンを助けようとしたのだから、悪い人間ではないのだろうとも。
「プリムローズ様も乗りますか?」
「えっ? 私は」
レイヴンに乗る勇気はない。兄のローレルのように乗れる自信がない。プリムローズは兄以上に自分に自信がない。ローレルをやや過剰評価しているというのもある。
「レイヴンではなくルミナスに。ルミナスは大人しい馬ですけど、それでも不安なら俺が同乗……いや、同乗は駄目か」
馬飼の身である自分が令嬢であるプリムローズと一緒に馬に乗るべきではない。実際のところ、貴族と使用人の間で何が駄目で何が許されるのかなどリルは知らないが、駄目そうだと考えた。
「……リルさんが一緒なら」
だがプリムローズはリルとの同乗を選んだ。馬に乗りたいという興味だけが理由ではない。
「分かりました。あと、さん付けはいりません。周りの人に変に思われます」
「分かった……分かった、リル」
「じゃあ、乗りましょうか。俺が先に乗って、上から引き揚げますね」
こう言って、待ち構えていたように近くに来ていたルミナスに乗るリル。そのままプリムローズに近づくと馬上から手を伸ばした。
その手をしっかりと掴んだプリムローズ。言葉通り、一気に馬上に引き上げられる。
「お、おい? お前……ま、まあ、良いか」
その二人を見て、焦って声をかけてきたローレル。前にプリムローズが座り、後ろからリルが抱きしめるような恰好で支えている。それは、リルが使用人だからとかは関係なく、大切な妹と男が密着しているということで文句を言おうとしたのだが、その妹が実に楽しそうに笑っているのを見て、途中で止めた。プリムローズが笑っていられるのが、ローレルにとっては一番の優先事項なのだ。
馬を並べて馬場を回る三人。その様子を見ている人がいた。
「無責任な三男坊は暇で良いよな? ずっと乗馬の練習をしていられるのだから」
「え、ええ。お忙しいラーク様とは違います」
イザール侯爵家の次男、ラークとその従者たちだ。レイヴンを処分すべきだと言い出した張本人。ローレルとプリムローズが何やら始めたと聞いて、様子を見に来ていたのだ。
ラークはローレル、だけでなくプリムローズに対しても厳しい態度を見せる兄。二人にとっては、あまり関りになりたくない兄だ。
「次男も似たようなものではないかな?」
「……ア、アイビス」
「アイビス兄上だ。言葉の使い方をローレルに習ったらどうだい?」
現れたのは長男のアイビス。彼がここに来たのも同じ理由だ。ラークとは目的は違うが。
「……長男は忙しいって?」
「少なくともお前よりは忙しくしているつもりだ。父上の仕事の手伝いがあるからね?」
長男であるアイビスは、イザール侯爵家次期当主の最有力候補。年齢もあってのことだが、すでに侯爵家の仕事も行っている。口で言うほど忙しくないラークとは違う。
「……それも成人式までではないか? まだ認められたわけじゃない」
候補であって次期当主ではない。イザール侯爵家の次期当主として認められるには超えなければならないハードルがあるのだ。それをアイビスが超えられなかった場合、次期当主の有力候補はラークに代わる。ラーク本人はすでにそのつもりだ。
「そうだね。でも……私が認められないと決まったわけでも、お前が認められると決まっているわけでもない。違うかな?」
「……違わない。だが、時が来れば全て分かることだ」
まずはアイビスの成人式。それは三年以内に行われる。そこで決まらなければ、その二年ほどあとにラークが成人式を行うことになる。それで全ては決まる。ラークはそう思っている。
自分の言葉に対するアイビスの返しを聞くことなく、去って行くラーク。彼は上の兄が苦手なのだ。ローレルとは違い、多くの点で自分より上を行く兄が。
(……全て分かる……か。それはどうだろうね?)
去って行くラークの背中から馬場を駆ける二頭の馬に、その馬に乗る弟妹に視線を移すアイビス。
「……確かに楽しそうだ。ああいうのは羨ましいね」
楽しそうに馬を駆けさせているローレルとプリムローズ。プリムローズはただ乗っているだけなのだが、後ろにいるリルにアイリスは意識を向けていない。弟妹の様子を見ているだけなのだ。
長男として生まれたアイビスは、物心ついた時から次期当主としての期待がかけられていた。無責任、というラークの言葉は違うと思うが、自由に遊びを楽しむ余裕がなかったのは事実。二人を羨む気持ちはある。
だが羨んでも代わりたいとは思わない。アイリスは周囲の期待通り、イザール侯爵家を継ぐ。そうあるべきだと思っているのだ。