帝都の定義がどこまでというのは難しい。公式にはかなり広範囲。帝都を囲む防壁は大きく分けると内壁と外壁の二つがあり、外壁の内側が帝都となる。ただ外壁は一周するのに半月はかかるほどの広範囲を囲っている。正確には囲っているというのは誤りで、いくつもの大きな壁が要所要所に造られているという状態だ。あまりに広範囲で起伏も多く、全てを繋げる工事など、やりきれなかったのだ。
外壁と内壁の間には、いくつかの貴族家の敷地以外は農作地や牧草地が広がっている。建物が少ないので都と呼ぶには少し違和感がある。一般には帝都と言うと内壁の内側を指す。高い防壁に完全に囲まれている中だ。さらにその中も何層にも分かれていて、外側の第五層は農地と数少ない民家、それといざ帝都が攻められた場合の軍事施設がいくつかある。その内側の第四層は庶民が暮らす住宅地と市場。第三層は主に商業地域、第二層は貴族家の帝都屋敷が立ち並ぶ。そして第一層には官庁施設と帝国皇帝や皇家の人々が暮らす城があるという形だ。
最初は第一層だけだった帝都が、時をかけて、徐々に大きくなっていった。だがある時点でその成長は止まり、予定されていた外壁の間際まで広がることにはならなった、ということだ。
イザール侯爵の屋敷は帝都外壁と内壁の間にある。帝都内壁の北門を出て、馬で三時間ほど移動したところだ。
「……屋敷、でかっ!」
屋敷というより砦。実際に砦なのだ。イザール侯爵家は帝都防衛を担っている貴族家のひとつ。代々、北側の守りを任されている家だ。
「無事に着けて良かった。リルさんのおかげ」
「いえ。俺は何も。では、これで……これで……」
結果、何事もなくプリムローズを屋敷に送り届けることが出来た。自分はお役御免と考え、馬車を降りようとしたリルなのだが、その彼の服を引っ張る人がいる。プリムローズだ。
「行かせない」
「行かせないって……無事に家に戻れたのですから、もう俺の役目は終わりました」
「お役目は終わり。でも、御礼は済んでいないから」
このままリルを去らせるわけにはいかない。それはあまりに恩知らず、というだけでなく、もっと話をしたいのだ。単純にこのまま別れるのは寂しいと思っているのだ。
「俺のことは忘れてくださいと言いましたけど?」
「話してはいけないことは話さない。でも、ここまで送り届けてもらった御礼はそれとは別だもの。それに……お腹が減っているはず」
という言葉とほぼ同時にリルのお腹が鳴った。プリムローズの言葉で自分がとんでもなく空腹であることを思い出したのだ。頭と同時に体も。
「……それは認めます」
「では、せめて食事を用意させて。それくらいであれば、構わないよね?」
「……まあ、それくらいであれば」
空腹を通り越して飢え、となるにはまだもう少し余裕はあるだろうが、そこまで行く可能性は無ではない。食事を得る金があるのであれば、とっくにそうしている。金を手に入れるには帝都に戻り、日払いの仕事を見つけて雇ってもらい、最低でも一日は働かなくてはならないのだ。食事出来るのは、さらに何日も先になるかもしれない。
「じゃあ、用意してもらう」
「あ、ああ……お願いします」
当たり前だが、彼女自身が食事を作るわけではない。プリムローズが貴族の令嬢であることを、改めて、リルは知ることになった。ただ――
「はあ? あんな薄汚い男を食堂になど通せるはずがないだろ?」
食事の用意はすんなりとは進まなかった。リルを建物の中に、それも侯爵家が暮らす母屋に入れることを、すぐに許してもらえなかったのだ。
「薄汚ければ、綺麗にすれば良いの」
薄汚いのは否定してくれないのか。プリムローズのこの言葉を聞けば、リルはこう思うだろう、実際に汚いのは認めざるを得ないが。
「どうしてそんなことをしてやる必要がある?」
「リルさんは私の命の恩人だから」
「命の恩人? どういうことだ?」
「帰る途中に襲われて、私以外、皆殺されてしまったの。私も殺されるところだったのをリルさんが……えっと、一緒に逃げてくれて」
リルとの約束はほぼ守られていない。その場にはいないことにするという約束だったのだ。
「……どうして、それを先に言わない!?」
「えっ? 聞いていないの?」
「彼に食事の用意をしろという言葉以外、聞いた記憶はないな」
「でも……ごめんなさい」
真っ先に従者たちが殺されたことを話すべきだった。彼らの死を忘れてしまっていたような振る舞いをすべきでなかった。それを思ってプリムローズは落ち込んでいる。
実際には到着してすぐに迎えに出た家臣には話をしている。だがそれは目の前で複雑な表情を浮かべている父親には伝わっていなかったのだ。
「怪我はないのか?」
「私は平気」
自分だけが無事だった。人々の死の話題をしたばかりの今は、それを喜ぶより、申し訳なく思う気持ちのほうが強い。
「……食事の用意を。場所は……そうだな。中庭が良い。庭の景色を楽しみながら食事をするというのも悪くないだろう」
「承知しました」
当主であるイザール侯の許可が出たことで、家臣たちも動きだした。食事の用意だけでない。薄汚い体を綺麗にする為の準備も。
「……彼は何者なのだ?」
娘を救ってくれた。だからといって相手を全面的に信用することはない。襲撃はイザール侯爵家に潜り込む為に仕組まれたものである可能性もある。可能性がある間は警戒を緩めるつもりは、イザール侯にはない。食事の場所に中庭を選んだのも、それが理由だ。屋敷の中に入れることなく、かつ、遠くから家臣に見張らせることも出来るという理由だ。
「旅をしているみたい」
「旅? 遠目では良く分からないが、かなり若く見えるが?」
一人で旅をするような年齢には見えない。ますます怪しく感じてしまう。
「年齢は聞いていないけど、ローレル兄上と同じくらいだと思う」
ローレルはプリムローズの二歳上の兄。プリムローズには三人の兄がいる。ローレルは一番年が近い兄だ。
「ローレルと? それは若いな」
「そう、凄いの。若いのに一人で生きているの」
リルの若さをプリムローズは父親とは違う目で見ている。父と違いリルを疑っていない彼女は、全面的に好意的な目で見ているのだ。
「まあ、良い」
食事は用意する。求められれば、いくばくかの金を与えてもかまわない。それでリルとの縁は切れる。これ以上、詮索しても時間の無駄だとイザール侯は考えた。
「あとお父様。もうひとつお願いがあるの」
「……何だ?」
聞かなくても良くないことであるのは分かる。話の流れはそうなっている。
「彼を少しの間、雇ってあげて欲しいの」
「駄目だ」
案の定、叶えてあげられない願い。素性定かでない者を自家で雇うことなど出来ない。リルだからではない。家臣は全員、きちんと身元調査を行った上で、雇っているのだ。
「……駄目とは言えないと思う」
「駄目なものは駄目だ」
「あれでも?」
「だから……」
何があっても駄目なものは駄目、というはずだったイザール侯の口が止まった。プリムローズがいう「あれ」が何なのか分かったのだ。
遠くのほうでプリムローズが乗ってきた馬車を引く馬が暴れている。それ自体には驚きはない。あの馬を扱えるのはたった一人の御者。他の者の言うことは一切聞かず、今のように暴れることになる。
だがそれを思い出したイザール侯は気が付いた。誰があの馬車をここまで御してきたのかを。娘の話では御者は殺された。娘ではないことは明らかなので、残るは一人しかいない。
「まさか……」
「リルさんは、レイヴンに乗れるの」
レイヴンは馬の名だ。漆黒の体の色から付けられた名だ。
「……どうやらそのようだな」
暴れる馬を、体を洗う為に馬車を離れていたリルが戻って、なだめている様子が見える。明らかにレイヴンが大人しくなっている様子が、イザール侯にも分かった。
それでもイザール侯はリルを雇うとは言わない。言わないが、可能性は生まれた。レイヴンを御せる人物は、レイヴンという馬には、雇用を考えさせるだけの価値があるのだ。
◆◆◆
中庭に置かれたテーブルと椅子。リルの為に用意されたものではない。元々、置かれていたものだ。そこに、これはリルの為に用意された、様々な料理が並んでいる。とても全てを食べきれるとは思えない量。特に今のリルには過剰すぎるボリュームだ。
「パンは貰っていいですか?」
「貰って? もちろん。全てリルさんの為に用意したものだから」
プリムローズも同席している。彼女は望んでいないがイザール侯も。会話の邪魔をしないでいてくれるのはありがたいが、ずっと黙っていられるのは気になる。彼女が心配するリルのほうは、まったく気にしていない様子だが。
「あっ、そうではなくて。帰る時に持って行って良いですか、という意味です」
「ああ、そういうことね。それは別に用意してもらうから大丈夫」
「えっと……せっかく用意していただいたのですけど、今はもう食事は十分です。ありがとうございます」
今はもう、これ以上、食べるつもりはない。後で食べる為にリルはパンを持ち帰りたいのだ。
「……口に合わなかった?」
リルが口にしたのは果物のジュースとサラダだけ。テーブルの上にはまだ多くの食事が残されている。
「いえ、とても美味しい、というか、こんな豪華な食事生まれて初めて見ました。でも、何日も食べていない状態で、いきなり沢山食べると体調を崩すことがあるので」
これは経験によって得た知識。もっと長い日数、何も食べられなかった時が何度もある。そういった時に、いきなり多くを食べて腹が痛くなったり、体調を崩した経験をリルはしているのだ。
「そう……」
リルに喜んでもらう為に用意した料理。満足させられなかったことをプリムローズは残念に思った。
「……ここを出て、どこに向かうつもりなのかな?」
ここで、ようやくイザール侯が口を開いた。プリムローズが落ち込んだことで会話に割り込む隙が出来た、というのもある。
「帝都です」
「帝都で何を?」
「とりあえず、帝都がどういうところかを見るだけです。あとは仕事を探します。最低でも、次の大きな街までの旅費を稼がなければなりませんから」
しばらくは帝都に滞在することになる。その為には仕事が必要だ。帝都にどのような仕事があるのか、そもそも雇ってくれる職場があるのかも分からないリルとしては、すぐに動きたいところなのだ。
「仕事であれば、うちで働けばいいわ」
「プリム」
まだ雇うことを許したわけではない。リルの評価はこれから行うつもりなのだ。
「だってお父様。レイヴンのお世話をする人が必要よ?」
「それはそうだが……君はどうだ? ここで働くつもりはあるか?」
プリムローズの言う通りだ。レイヴンの世話をする、世話が出来る馬飼は必要。どうやらリルは、その「世話が出来る」、滅多にいない一人なのだ。
「俺は貴族の家で働けるような人間ではありません。礼儀作法なんてまったく知りませんから」
「そうか……」
リルは働くことを拒否した。これをどう受け取るべきかイザール侯は悩んでいる。あえて一度断ることで、こちらを信用させようとしているのではないかと疑っているのだ。
「礼儀作法なんて気にする必要ないわ。リルさんは私の命の恩人なのだから」
「いや、だから、それは」
秘密にする約束だった。
「君は――」
娘のプリムローズは彼を命の恩人だと言う。そう思わせる何を彼は行ったのか。それがイザール侯は気になった。一緒に逃げたというのは聞いたが、どういう状況で逃げることが出来たのか。彼は何故その場にいたのか。聞くことは山ほどある。あったのだが。
「失礼します!」
「なんだ? 来客中だぞ」
それを邪魔する者が現れた。仕えている家臣が自分の邪魔をしてきた、一応は客人であるリルをもてなしている場に割り込むという非礼を働いたことで、イザール侯は不機嫌な表情を見せている。
「申し訳ございません。彼をお借り出来ないでしょうか?」
「彼?」
「レイヴンがまた暴れていまして。我々ではどうにもなりません」
用があるのはリル。すでにリルがレイヴンをなだめることが出来る稀有な人物であることを呼びに来た使用人は知っている。到着したばかりの時の様子を目の前で見ていたのだから当然だ。
「……申し訳ないが、手伝ってもらえるか?」
「……分かりました」
そういう事情であれば仕方がないと、渋々リルに頼むイザール侯と、渋々それを引き受けるリル。食事会は中途半端に終わった。一方でプリムローズの目的は果たされることになる。