地面に転がるいくつもの死体。その中に立つ、ふわふわした金髪に大きな翠色の瞳のまだ幼い、十人が十人、可愛らしいと思うだろう女の子。だが今の彼女は可愛らしい顔を歪め、目の前に立つ剣を持った男たちを睨んでいる。死体は彼女の従者たち。馬車で移動しているところを男たちに襲われ、彼女以外は皆、殺されてしまったのだ。
帝国の治安は悪化している。帝国の支配力が弱まったことが根底にあるが、騎士団とは名ばかりの犯罪集団が増えたことが一番の原因だ。金次第でどんな悪事でも引き受ける、それどころか依頼がなくても強盗や誘拐などの犯罪を平気で行う。今の時代、このような事件は珍しいことではない。毎日、帝国のどこかで同じことが起きていると言っても言い過ぎではないのだ。
ただ、彼女が不運なのは、この場所が帝都から馬車で一日程度の距離であること。いくら帝国の力が弱まっているといっても、この近さで、このような真似を行う悪党は滅多にいるものではない。面目丸つぶれにされた帝国は全力で犯人を探し出し、処分しようとするはず。そんなリスクが高い場所をわざわざ選ぶべきではないのだ。
「大人しくしていれば手荒な真似はしない」
「……私をどうするつもり?」
「しばらくの間、不自由な思いをしてもらうだけだ。時が来れば、家に戻れる」
男たちの目的は自分の誘拐。彼女はこう判断した。ただ「家に戻れる」の言葉は信用出来ない。男たちは顔を晒している。自分の顔を見た彼女を生かして、家に帰すとは思えない。まだ幼い彼女だが、これくらいのことは分かる。
「死にたくなければ、えっ!?」
彼女に近づこうと一歩足を進めた男の前を塞ぐ黒い影。何が起きたのか分からず、男は驚きの声をあげた。
「な、なんだ!?」
「馬が暴れている!」
「大人しくさせろ! いや、さっさと殺してしまえ!」
前に進もうとした男の視界を遮ったのは、女の子が乗っていた馬車。馬車を引く馬がいきなり暴れ始めたのだ。それに驚いた男たちだが、すぐに止めようと、暴れる馬を殺そうと動き出す。
とはいえ、馬車の勢いはかなりのもの。前に立てば大怪我するのは分かりきっている。叫びながら馬車の周りを右往左往するばかりの男たち。その中を走る馬車は、物凄い勢いで道端の木に激突した。
「えっ……?」
馬が木に体当たりをかますようにぶつかったことにも驚いたが、男たちが声を挙げたのは別の理由だ。
「……いたたたた。ええ……落ちた?」
空から人が降ってきたのだ。痛さで顔をしかめながら、地面に打ったのであろう腰をさすっている黒いマントを羽織った黒目黒髪の人物。少年と表現するのが相応しい若い男だ。
「な、なんだ、お前!?」
空から落ちてきたのが人だとは分かった。だが、どうして空から落ちてきたのかが分からない。まさかのことに男たちは動揺している。
「なんだ? ああ……寝ていた木から落ちました。こんなこと普段はないのに……調子が悪いのかな?」
こう言いながら空を指さす少年。たしかに指さす先には近くの木から伸びている枝がある。そこで寝ていたというのは信じられないとしても。
「……えっと……そちらはここで何を?」
少年の問いに男たちは答えない。答えることなく、剣を持つ手に力を込める。少年が空から振ってきた理由は分かった。それが普通のことだと分かれば、やるべきことを考えられる。目撃者を生かしておくわけにはいかないのだ。
「あ、あの!」
その男たちの殺気を逸らしたのは、女の子の声。声をあげた女の子に男たちの意識が向いた。
「……はい?」
「この人たちは……盗賊に襲われた私を助けてくれて……」
彼女は嘘をついた。このままでは無関係の少年まで殺されてしまう。そう考えて、咄嗟に考えた嘘だ。
「ああ……そういうことですか。それで、あれば……んっ……良かった」
地面に転がる死体を見て、吐き気をもよおした様子の少年。予想外の女の子の嘘に戸惑い、自分たちを気にすることなく地面に四つん這いになって吐きそうになっている少年の様子に呆気にとられ、男たちは動きを止めていた。
「それであれば……じゃあ、僕はこれで。ああ、驚いた」
その隙をついたわけではないのだろうが、少年は立ち上がって歩き出す。歩きながら、まだ木から落ちた時に打った腰をさすっている。
(……そういうわけにはいかないか)
少年の頭に浮かんだのは女の子の姿。この場にいる彼女ではない。自分が傷つけてしまった女の子の姿だ。
このまま去って行く、と思われた少年だったが、途中で足を止めて元いた場所に戻る。それを見て、また殺気を向ける男たち。
「木の上に忘れ物しました。まだ寝ぼけているみたいです」
男たちが放つ殺気を気にする様子もなく、忘れ物をしたことを告げて、木に登り始める少年。その行動にまた男たちは戸惑うことになる。彼の反応は読めない。本当に何も分かっていない、と思える態度なのだ。
いぶかし気な男たちをその場に置いて、さらに木の上に登っていく彼。枝を伝い、寝ていたのであろう場所まで移動していく。それを見て、枝の上の彼を囲むように移動する男たち。冷静な判断を取り戻し、降りてきたところを殺そうと考えたのだ。
その男たちのど真ん中に、少年は飛び降りてきた。すかさず襲いかかろうとした男たち、だが。
「……き、貴様?」
また戸惑うことになった。少年が背負っている剣を見て。無抵抗で殺されてくれる相手ではない。ようやく男たちは、その事実に気付いたのだ。
◆◆◆
地面に這いつくばって、喉にせりあがってくるものを吐き出そうとしている彼。もうずっとその状態が続いている。そんな彼の背をさすりながら、心配そうに見つめている女の子。
「……大丈夫?」
この問いを投げかけるのも、もう何度目か。少年は答える余裕もない状態が続いていたのだが。
「……だ、大丈夫。三日くらい何も食べていないから吐くものはないので」
ようやく言葉を発してきた。
「そう。それなら良かったね?」
「えっ?」
「ん?」
少年の反応に戸惑った様子の女の子。彼女より先に戸惑った少年のほうは、その様子を見て、笑顔になった。三日間、何も食べていない人に「それは良かった」と返す女の子の不思議さが面白かったのだ。
「……はあ。もう本当に大丈夫です。ありがとうございました」
笑みが少年の心を和らげた。和らいだ気持ちが吐き気を止めた。吐き気をもよおすのは心の問題なのだ。
ついさきほどまでの苦しそうな様子は何だったのかと彼女が思ってしまうほどの勢いで立ち上がった彼。そのまま歩き出そうとする。
「えっ……? あっ、待って!?」
「……まだ何か?」
「何かって……御礼をしないと」
少年は命の恩人だ。自分を助けてくれた人に、何の御礼もしないまま、別れるわけにはいかない。それはあまりに礼儀がなさ過ぎる。彼は危険を冒して、誘拐犯と戦ってくれたのだ。
「御礼……ああ、じゃあ、今日のことは忘れてください」
「忘れる? そんなことは出来ない」
「……それはそうか。じゃあ、俺がここにいたことだけ忘れてください」
こういうことではない。彼女は恩を受けたことを忘れることなど出来ないと言っているのだ。
「どうして?」
「……仕返しが怖いから。他にも仲間がいるかもしれません。そいつらは仲間を殺した俺を許さないでしょう」
彼女を襲った男たちは全員、彼によって殺された。少年に、人を殺すことに慣れた大人たちが殺されたのだ。
「それは……そうかもしれない。でも……」
少年の言っていることは理解出来る。確かに、自分たちの悪事を棚にあげて、彼に復讐しようとしてくるかもしれない。だが、このまま別れることにも抵抗を感じる。
「御礼とか本当に気にしないでください。たまたま居合わせただけで、貴女の為ではなく、自分の身を守る為に戦っただけですから。そういうことで」
女の子が納得してくれそうな言葉を言うだけ言って、彼は歩き出す。この場に長居したくない。いつ、誰かが通りかかって、大事になるか分からないのだ。普通はなる。大勢が命を落とした誘拐未遂事件なのだ。
彼女に制止する間を与えず、歩き始めた彼、だったのだが。
「あ、あれ……?」
その足がおぼつかなくなる。体が揺れるのを感じる。三日、水しか口にしていない状態で戦闘を行った。完全なエネルギー切れだ。ゆっくりと地面に崩れ落ちて行く彼。倒れた時の衝撃も、彼を起こすことはなかった。
◆◆◆
衝撃、と呼ぶほどではない振動。それで彼は目を覚ました。振動はきっかけに過ぎない。眠ったことで、少しだけ、体力が回復した。それで目を覚ましたのだ。
目の前にあるのは黑い壁、のように見える何か。仰向けで寝ている感覚はあるが、空は見えない。
「えっと……?」
その何かが馬車の天井であることに、彼は気付いた。それが分かると今度は、どうして自分が馬車の中にいるのかが気になる。馬車に乗った記憶などないのだ。
「……ああ……死んだと思われたのかな?」
馬車に乗っているのは彼だけではなかった。物言わぬ人々、多くの死体も馬車に乗せられていた。見覚えがある顔はないが、女の子を襲った男たちに殺された人たちであるのは分かる。
「あれ? 彼女は……?」
助けた女の子が見当たらない。馬車に乗っているのは彼と死体だけだった。また状況が分からなくなる。何故、自分は馬車に乗せられたのか。この馬車はどこに向かっているのか。
「……げっ?」
その答えのヒントを得ようと窓から外を見た彼。それで初めて、乗っている馬車が物凄い勢いで走っていることを知った。馬車に乗ることなどない彼だが、普通の馬車がどれくらいの速さで移動しているかは知っている。それに比べると、この馬車の速度は異常。暴走していると言うべき状態だ。
「……ええ……まさか……そういうこと?」
窓に近づいたことで外の音が聞こえた、女の子が叫んでいる声が。前のほうに移動して御者席のほうを見てみる。そこにいたのは見え覚えのあるドレスを来た女の子。後ろからでは顔は見えないが、彼女であることは間違いない。
「……なんというか……変わった子だ。それに……」
馬車を御しているのは彼女。暴走させていることから慣れていない、下手すれば始めてであるものと思われる。彼女以外に生きている人はいなかった。だから彼女は出来もしないのに馬車を御しているのだ。
死体を馬車に乗せたのも彼女。小さな、どう考えても非力な女の子が一人で、剣で斬られて血まみれな死体を馬車に乗せたのだ。
「……感心している場合じゃないか」
彼女の行いに感心している場合ではない。今も馬車は暴走し続けているのだ。周囲を見渡し、御者台に簡単に移動出来る手段はないことは分かった。そうなると方法はひとつ。彼はそれを選択した。
馬車の扉を開ける。風を切る音、そして彼女の「きやぁあああああっーーー!!」という叫び声も聞こえる。何故か悲壮感を感じさせない叫び声が。
それを聞き、笑みを浮かべながら彼は馬車の上部に手を掛ける。そこから足を蹴り、逆上がりのような動きで一気に馬車の上に昇る。揺れる馬車の上でバランスを取りながら前に進むと、御者台の椅子に、彼女の隣に座った。
「えっ!?」
「いや、驚いていないで前を見て……も意味ないか。もう少し頑張ってください!」
「は、はい!」
すでに彼女は手綱を手放している。手綱があっても止められるかは怪しいと彼は思う。暴走しているのは馬車ではなく、馬車を引く馬。かなり興奮した様子で、手綱を引いたくらいでは止まりそうにない。
そう考えて彼が取った手段。馬と馬車を繋いでいる部分に身を乗り出し、そのまま前に進む。見ている彼女には、どうして落ちないでいられるのか不思議なくらいの不安定なところを進んでいった。
「……これ……どこでも良い! 振り落とされないように、しっかり掴まっていてください!」
「はい!」
彼女への忠告を終えて、彼はさらに前に出る。馬車を引く馬は二頭。暴走させているのは右側の馬。左側はなんとか暴走を押さえようと、それは無理でも衝突を避けようと走っている。
「彼女がいなければ、とっくに吹っ飛んでいたな」
賢い雌馬だと彼は思う。問題はもう片方だ。
「……いけるか……いくしかないか」
馬の扱いには慣れているほうだ。才能があると言われたこともある。その才能を活かす仕事には就けないのだろうと分かっていても嬉しかった。修行のひとつとしてさせられていた仕事だが、馬の世話が彼は大好きだった。だが、そんな彼でも暴走している馬をなだめるのは難しいと思っている。
「……頼む。さらに激しくなるけど、なんとか支えてくれ」
もう一頭の馬に自分を助けてくれるように頼んだ彼。覚悟を決めて、さらに前に飛び出した。暴走している馬に飛び乗ったのだ。
「押さえろ! 上は駄目だ!」
前足を蹴りあげようとする気配を感じて、そうしないように馬に頼む。それで大人しくなるとは思っていない。自分の気持ちを伝えているだけだ。
上下動が激しくなる。それで前に進む勢いは少し緩んだ。
「ち、ちょっと! どんな馬鹿力だよ!?」
馬車を引いているとは思えない動きを見せる馬。振り落とされないように、必死でバランスをとる彼だが出来ることはそれだけ。大人しくさせるどころではない。
「持ち主、凄いな?」
この馬を乗りこなす持ち主は凄い、と感心している彼。今の彼を見れば、持ち主のほうが感心することになるとはまったく考えていない。誰も乗れない馬を飼っているなんて想像など出来るはずがない。
振り落とそうとする馬と、そうはさせまいと懸命にバランスをとって乗り続ける彼。
「……あれ?」
その時は突然、訪れた。暴れていた馬が急に大人しくなったのだ。
「……街?」
先に見えるのは街道を塞ぐ門。その門の左右に広がる壁。初めてこの地を訪れる彼には分からないが、そこは帝都に向かう旅人が立ち寄る最後の宿場、そして関所だ。