アルデバラン王国西部に侵攻したエルタニン王国軍を撃退する為に派遣された王国騎士団。総指揮官は王国騎士団三神将の一人、オーガスティン中将。領土内に他国が侵攻したという一大事だ。三神将が総指揮官を努めるのは当然のこと。ただ彼が任命された理由はそれだけではない。彼への命令の詳細は「西方辺境伯家軍と協同して速やかにエルタニン王国軍を撃退。そのまま北部動乱鎮圧軍に合流せよ」というもの。西南方面からブラックバーン家の支配地域に攻め込む別動隊という役割を与えられているのだ。
エルタニン王国軍を甘く見ているわけではない。冷静に戦力分析を行えば、西方辺境伯家軍と周辺貴族家軍だけで対応は十分。ただ早期にエルタニン王国軍を撤退に追い込む必要性を感じている為、王国騎士団が出撃することになったのだ。実際に。
「……領境の砦を占拠しているのはエルタニン王国軍ではない? それはどういうことかな?」
「砦に翻っている旗は西方辺境伯家、ブロードハースト騎士団のものと思われます」
いざスタンプ伯爵領に到着してみれば、西方辺境伯家軍が先に到着していた。到着し、王都に向かう方向を押さえていた。
「どういうことだろう? エルタニン王国軍の居場所は把握出来ているのか?」
エルタニン王国軍がスタンプ伯爵領に攻め込んだことは把握している。エルタニン王国軍を諜報部が確認しているのだ。だが、ブロードハースト騎士団については、今初めて存在を知った。短期間に戦況に大きな変化があったのだとオーガスティン中将は考えた。
「スタンプ伯爵領内にいる模様です。ブロードハースト騎士団はこれ以上、王都に近づけさせない為に、回り込んで砦を押さえたのだと伝えてきました」
「そうか……では、我々は先に進むべきだな。一撃でエルタニン王国軍を撃退させる。それでこの地での任務は終わりだ」
エルタニン王国軍を甘く見てはいない。ただ、北部動乱に、レグルス・ブラックバーンに比べものにならない大きな脅威を感じているだけ。同列の、三神将の一人だったパトリック中将は一騎打ちでレグルスに討たれた。この事実はオーガスティン中将にも伝わっているのだ。
「ああ、悪いけど王国騎士団はここで待っていてもらえるかな?」
「……貴殿は?」
突然の乱入者。それを許した部下をひと睨みしたあとで、オーガスティン中将は相手に素性を尋ねた。
「クレイグ・ブロードハースト。西方辺境伯家の人間で、この地にいるブロードハースト家軍の総指揮官を任されている」
「……クレイグ殿は、亡くなられたと聞いている」
クレイグが急死した結果、エルタニン王国軍の侵入を許してしまった。西方辺境伯家からはこう報告されている。目の前の人物はクレイグ・ブロードハーストであるはずがない。
「正確には、危うく死ぬところだった。暗殺者に襲われてね」
「暗殺……ですか……?」
「そう。まさかのことに当家は大混乱。そのせいで、エルタニン王国軍に防衛線の突破を許してしまった。あっ、もしかして王都に間違った情報を伝えてしまったのかな? 大混乱だったからね」
西方辺境伯家は王都にクレイグが死んだという誤った情報を伝えた。混乱していたからではないが。
「……そうでしたか。ご無事で良かった」
「ありがとう。でも、良かったは少し早いかな?」
「何故ですか?」
あまり考えないで発した「良かった」の言葉だ。それにクレイグが反応を、それも否定を返してくるのは意外だった。
「私の失態だからね? 次期当主としては、失態は挽回しておかないと」
「ああ……我々も協力させていただきます」
出来の悪い跡継ぎ。そういう評判を嫌がる気持ちは理解出来る。オーガスティン中将には無縁のことだが、貴族家の跡継ぎには、そういう苦労があることくらいは知っているのだ。
「いや、協力はいらない、というか止めてもらいたい」
「……どういうことですかな?」
この返しもオーガスティン中将には想定外。しかも、協力を拒絶されるなんてことは受け入れられないことだ。自分の任務を妨害されるのと同じなのだ。
「今言った通り。エルタニン王国軍はブロードハースト家が責任をもって追い返す。だから君たちは引き上げても良いよ」
「……その要求は受け入れられません。我々は陛下の命令を受けて、この地にやってきております」
王国騎士団は国王であるジークフリート王の命令に従うのみ。たとえアルデバラン王国貴族の頂点に立つ辺境伯家からの要請であっても、命令に反することには従えない。
「そう? ああ、じゃあ、陛下に確認してみてくれるかな? エルタニン王国軍はブロードハースト家に任せて帰って良いか。案外、許してくれるかもしれないよ?」
「そのようなことは……」
そんな無駄な時間を使うわけにはいかない。速やかにエルタニン王国軍を撃退し、北部に向かわなければならないのだ。
「聞き分けが悪いな。私は、自分の不始末は自分でなんとかすると言っているだけだよ? 君たちは楽が出来るのだから喜ぶところじゃない?」
「……我々は陛下に与えられた任務を遂行するのみです」
何かがおかしい。ふと、こんな思いがオーガスティン中将の頭に浮かんだ。
「なるほど……利害は一致しないか。でもこちらも譲るつもりはない。君たちが強引な手に出るのであれば、こちらもそれに合わせた対応を行うことになるね」
「反逆と受け取られる可能性がありますが?」
「反逆? 大げさだな。これは私の意地。次期当主として、どうしてもやらなければならないことをやるだけだよ。それを邪魔しないで欲しいと言っているだけなのに、反逆なんて」
「……少し検討するお時間を頂けますか?」
反逆であることを否定しながらも、クレイグは王国騎士団の進軍を受け入れていない。強引に動けば強引な手段で対応するという発言を撤回しなかった。
検討する時間は、クレイグの真意を測る為の時間。それが必要だとオーガスティン中将は考えた。
「もちろん。ただ待っている答えは変らないよ?」
「……検討します」
これ以外の答えは、今は持たない。オーガスティン中将に判断を下す権限はない。そういう領域の何かが起きているのだと感じている。
王国騎士団にとっては得るもののない話し合いを終えて、クレイグは、彼と家臣たちは砦の方に帰って行った。
「……王都に使者を」
「はっ」
「いや、君が行ってくれ。行って、絶対に団長だけに伝えるように」
使者は誰でも良いという状況ではない、というより、今から話すことは、この場にいる信頼出来る部下以外には聞かせたくないと、オーガスティン中将は考えた。
「……お伝えする内容は?」
「まず、今、分かったこと。クレイグ・ブロードハーストは生きている。生きて西方辺境伯家軍を率いてスタンプ伯爵領におり、我々の介入を拒否していることを」
ここまでは特に機密にする必要はない。すぐに分かることだ。
「……ここからは、まだ何の証拠もないこと。その前提で団長に報告してくれ」
「どのような内容でしょうか?」
オーガスティン中将の緊張が部下に伝わってきた。何かとんでもないことが起きているのかもしれないと思うようになった。
「西方辺境伯家はブラックバーン家と繋がっている可能性がある」
「なっ……? そ、それは確かですか!?」
実際にとんでもないことだった。部下の予想を遥かに超える、あってはならないことだ。
「慌てるな。推測だ」
「……はっ」
「エルタニン王国軍侵攻の報告も虚偽である可能性がある。目的は我が軍を分散させる為。最悪は西方辺境伯家軍との戦いになる可能性もあると」
西に軍を向けた分、北部動乱鎮圧に向かう王国軍の数は減る。ブラックバーン家にとっては戦いが楽になる。これだけであれば、まだ良い。最悪は西方辺境伯家も王国に反旗を翻すこと。北と西で同時に戦いが始まることだ。
「も、もしそれが事実であった場合、我々は……」
最前線にいることになる。どれだけの数が動員されているか分からない西方辺境伯家軍と戦うことになる。それは北部での戦いと、危険度において、何ら変わらないと部下は考えた。
「その指示を仰ぐのだ。ああ、これも伝えておくように。クレイグ・ブロードハーストは暗殺者を向けられたと言っていたと」
「……レグルス・ブラックバーンと同じです」
どちらも失敗に終わっているとはいえ、クレイグの話が本当であればだが、暗殺されそうになったのは事実。そんな偶然があり得るのか。これはクレイグの話を聞いた時には、もう思っていたことだ。
「その先は考えるな」
これを言うオーガスティン中将は、すでに先まで考えてしまっている。レグルス、クレイグ、そして行方不明のキャリナローズ。短いと言える期間に、同い年の辺境伯家公子が立て続けに消えることになる、はずだった。権力争いからの暗殺事件など珍しくない。そうだとしても、これは異常だ。
三件ともに共通の意志が働いてのことだとすれば、それは何者の意志なのか。頭に浮かぶ人物は一人だった。その人物の父も急死だった。
自分たちは何の為に戦っているのか。考えてはいけないことを、またオーガスティン中将は考えてしまった。
◆◆◆
引きこもり。この世界では、この言葉は一般に通じるものではない。部屋に引きこもっていても暮らしていけるほど、この世界は豊かではない。もし、そういう生活が許されるとすれば、余程、裕福で怠け者でも存在が許される家に生まれた人。裕福な、働く必要のない家に嫁いだ人。サマンサアンはその、この世界では数少ない、それが許される一人だ。
ただサマンサアンは引きこもりたくて引きこもっているわけではない。今とは違う、もっと楽しい毎日を過ごすはずだった。サマンサアン本人が勝手にそう思っていただけで、ジークフリート王の妃になった時点で、それが夢で終わることは決まっていたのだが。
ただでさえ狭い世界である城の奥での暮らし。今はひとつの部屋が、サマンサアンが暮らす空間。どうしようもない用がある場合は部屋の外に出るが、普段はずっと自分の部屋にこもっている。鍵をかけて、誰も入ってこられないようにして。ジークフリート王を避ける為だ。
どうしてこんなことになってしまったのか。後悔しても状況は良くならない。
(……これは罰。アリシア、貴女を殺してしまった罪の報い)
自分が犯してしまった罪に対する報い。こう考え、諦めようとしているが、それで気持ちが楽になるわけではない。いつジークフリート王が、これ以上ないと思うような屈辱を与えにやってくるか。これを思うと心が深く、深く沈んでいく。
(……助けて……助けて、兄上……助けて、レ……)
助けを求めても無駄。少し話をするだけで自分の心を楽にしてくれた人は、もういない。
(…………)
もういない。それを思うと、また別の意味で心が苦しくなる。自分が本当に求めていた人。どうしてもっと早く気付かなかったのか。実際は気付いていた。気付いていたが、諦めてしまったのだ。
(私は……ごめんなさい。ごめんなさい、アリシア)
アリシアを貶め、絞首台に追い込んだのは嫉妬からではないか。自分が得られない愛情を与えられているアリシアが憎かったからではないか。花街での行いも同じ。アリシアとの繋がりが、あんな真似をさせたのではないか。また人を死なせてしまうことになったのではないか。何度も考えたことが、また頭に浮かんできてしまう。
「……食事ならそこに置いておいてください」
そんな暗い思考を遮ったのは扉を叩く音。気持ちが沈んでいくのを止めてくれた、とはサマンサアンは思わない。扉を叩く人物がジークフリート王であったら。そう思うと恐怖が心に広がって行く。
「…………」
扉の先の気配を探る。特別な能力はないが、侍女が言われた通りに食事を扉の横に置いて去って行く様子は、毎日のことなので分かるようになった。
だが今回は。
「……ま、まさか?」
小さな音。それに続いて、開くはずのない扉の鍵が開く音が響いた。実際は小さな音なのだが、サマンサアンには部屋中に反響しているかのように聞こえた。
恐怖で体が強張る。とうとう、恐れていた時が来てしまったと思った。
「……サマンサアン、様?」
「……貴方は……誰?」
だが部屋に入ってきたのはジークフリート王ではなかった。だからといって安心は出来ない。部屋に入ってきた男を、サマンサアンは知らない。
「ああ、その反応……顔を合わせたことなかったかな? あっても覚えていないか。貴女は」
「……どこかで会っていたのかしら?」
そう言われてもサマンサアンは相手を思い出せない。最後の「貴女は」が嫌味であることは分かっても。
「アオ様の、あっ、アオ様じゃ分からないか。最近、アオ様としか呼ばないから」
サマンサアンには分からないことをつぶやいている相手。害意がなさそうなのは感じられたが、得体が知れないのは変わらない。
「私の名はエモン。レグルス様の命で貴女を城から連れ出しに来ました。貴女の兄上も承知のことです」
「……レグルスが……彼は……生きているのですか?」
信じられない事実。だが、ずっと求めていたこと。レグルスという名が出ただけで、相手が嘘をついているかもしれないのに、サマンサアンの心に安堵が広がった。
「ええ、しぶとく。説明は長くなりますので、あとで。時間がありません。急いで用意を、いえ、そのままでお願いします」
「でも、城を……城を出てどうするのですか?」
逃げ出したい。その思いはある。だが、そんな真似をしてしまって大丈夫なのかという不安のほうが大きい。ジークフリートは国王だ。国王を裏切って、無事でいられるはずがない。自分だけでなく、ミッテシュテンゲル公爵家も。
「それは分かりません。分かっているのは、戦いの決着は近いということ。ミッテシュテンゲル公爵家にとっても、貴女を人質にとられている状況は困るということです」
「……それって」
ミッテシュテンゲル公爵家は王国に背く決断を行った。そういうことだ。
「ねえ、急いでくれない? 見つかると面倒なのだけど」
割り込んできた声は廊下から聞こえてきた。
「ああ、すまない。とにかく話は後で。城を抜け出すのも簡単じゃない。急がないと失敗する」
「……分かりました。行きましょう」
本当にこの男の言葉を信じていいのか。今更ながらこの思いが心に沸いたが、サマンサアンは信じることにした。今はすでに最悪の状況。そこから抜け出せる機会を、失敗するとしても、無にすることは出来なかった。
言われた通り、そのまま、何も持つことなく部屋の外に歩き出す。
「あ、貴女は? どうして貴女が?」
だがその足は部屋を出てすぐに止まることになった。廊下にいた女性を見たことによって。
女性に関してはサマンサアンも知っていた。会ったのは一度きりだが、強烈な印象を与えた女性。ジークフリートが花街から連れてきて、卑猥なことをさせていた相手だ。
「……くの一って知ってる? 知ってるわけないね。貴女が軽蔑する売春婦よりも、もっと最低な仕事を行う女のことなんて」
彼女は確かに花街の関係者だ。だが仕事はサマンサアンが思っていたものとは違う。諜報の類を、それも女性であることを利用して、行う人間だ。
「急ぐんじゃないのか?」
「だって、この女が……まあ、良いわ。行きましょう」
エモンに促されて、話を止めて動き出す女性。ただ、話そのものは完全に終わりにはならなかった。
「ああ、今回は最低な中でもさらに最低の仕事だった」
「静かにしろ」
「文句くらい言わせてよ。あんな糞みたいな男の精を、こんな女の為に、毎日枯れるまで搾り取っていたのよ? おかげで自分は嬲られないで済んでいたことも知らないで、この女は」
「だから」
女性はわざと愚痴をこぼしている。こういう時に、敵に気付かれる可能性を高めるような真似を行わないことは、身についているはず。そうであるのに誰かに聞かれる危険を冒して言葉を発しているのは、サマンサアンと会うのはこれが最後だと分かっているから。文句を言える機会は今しかないのだ。
「あ~あ……アオ様は優しくしてくれるかな? こんな嫌な思いをしたのだから、少しくらい良い思いをさせてくれるよね?」
「……頼むだけ頼んでみろ。ただその後のことは知らないからな。怒り狂う女性が何人いるか」
面倒くさくなって、勝手なことを言ってしまうエモン。こんなことを言ったと知られたら、エモンだって怒りを向けられる。女性たちだけでなく、レグルスからも。
「特にユリね……アサガオのほうが根に持つタイプだけど、害はない……貴女もアオ様に、レグルス様に抱かれたい?」
「えっ……あ、あの、私は……」
いきなりの質問にすぐに答えを見つけられないサマンサアン。顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「すぐに否定しないし。城に置いて行って良い? 競争相手は増やしたくない」
「それを決める権利はお前にはない。お前はまだ競争相手の一人になってもいないだろ?」
「ひど~い。事実だけど」
「あと少しだ。急ぐぞ」
この日、サマンサアンは無事に城を抜け出した。エモンたちにとっては、実際はそれほど危険な任務ではない。城内を熟知した者たちが協力しているのだ。
これでミッテシュテンゲル公爵家は旗幟を鮮明にしたことになる。この事実に王国は気付くまでには、少し時間を必要とするが。