戦争中は軍同士の戦闘以外の、表には出ない闘争も行われている。諜者同士の戦いだ。戦時中でなくてもある戦いだが、平常時と異なるのは躊躇うことなく敵側を殺すこと。泳がせて相手の意図を探るなんて真似はしない。少しでも多くの情報を入手すること、情報を入手させないことが最優先になるのだ。
ラスタバン王国はこの戦いで、多くの諜者を動かしている。多くが討たれるリスクを覚悟しての決断だ。最初からそのような判断を下したわけではない。ラスタバン王国は戦いが動き出してから違和感を覚えた。自分たちの認識と実際の戦いにはズレがあることに気が付いたのだ。
ラスタバン王国の認識では、この戦いは東方辺境伯の正統後継者を支援する為のもの。王国に侵攻したつもりはない。王国の要請に応えて軍を動かし、国境を超えたつもりだ。
だが東方辺境伯と接する機会が増えるうちに、何かがおかしいと思うようになった。王国から認められた正統後継者であれば、いずれ王国騎士団が来て、事態を解決してくれる。優先すべきはそれまで耐えること。味方の犠牲を最小限に抑えることと、領地が荒れることを防ぐこと。ラスタバン王国の人々の常識ではそうだ。
だが東方辺境伯はかなり焦った様子で戦いを進めようとしている。敵の殲滅を求めている。その意図がラスタバン王国には分からない。違和感が大きくなっていった。
諜者の活動を活発化させたのはこれが理由だ。何か知らないことがあるのではないか。致命的な間違いを自分たちは犯したのではないか。それを探る為には諜者の犠牲が増えてもやむを得ない。元々、諜者は粗末に扱われる存在なのだ。
その結果はラスタバン王国の想像とは違っていた。違和感が間違いであったということではない。アルデバラン王国の防諜が思っていたよりもお粗末だったのだ。諜報部の上位者を含め、多くが離脱したせいだが、それはラスタバン王国の知るところではない。とにかく予想していたほどの犠牲を出すことなく情報収集に当たれた。その結果、分かったことは東方辺境伯家の後継争いの真実ではなく、アルデバラン王国全体の混乱。各地で争乱が起きているという事実だった。
ただその事実はさらにラスタバン王国を惑わす結果になっただけ。東方辺境伯領での戦いをどうするかの結論には結びつかない。情報収集は継続されることになった。
そんな中、事態は急変した。ラスタバン王国の諜者たちはそう思った。
「邪魔をしないでもらいたい。こちらも邪魔をするつもりはない」
多くのアルデバラン王国の諜者が東方辺境伯領近くで活動を始めた。こうして相まみえることになった。
「……その言葉を信じろと?」
「こちらは事実を話しているだけだ。勘違いしているようだが、我々はアルデバラン王国の諜者ではない。元はそうであったことは認めるが、今は違う」
「さらに信じられない言葉だ」
諜者は笑顔で相手を殺す。嘘をつくことなど当たり前。話す言葉を鵜呑みにして良いことなどないのだ。
「では我々の目的を教える。我々はある人物を探している。その人物らしき動きが東方辺境伯領にあると聞いて、それを確かめようとしている」
「……そのある人物とは?」
この話も信じられない。だがここまで長々と嘘を話す意味も分からない。今は即座に殺し合いを始めてもおかしくない状況。そうであるのに相手は反撃を行うことなく、戦いを避けようとしている。その理由が思いつかない。
「そこまで聞くか……まあ良い。ただ名を伝えても分かるのか?」
「良いから教えろ」
相手の真意はまったく分からない。そうであれば少しでも情報を、たとえ嘘でも引き出し、それによって推測するしかない。嘘もまた情報なのだ。何故、相手はそんな嘘をつくのか。それを考えることで本当の目的が分かることもある。
「……レグルス・ブラックバーン」
「なっ?」
「おや、知っていたか?」
ラスタバン王国の諜者はレグルスの名に反応した。それがカクノシンには意外だった。レグルスがラスタバン王国の第三王子と関係があることは知っている。だが相手は第三王子だ。諜者を動かせる立場ではない。アルデバラン王国ではそうなのだ。
「……生きているのか?」
「そこまで教えるか? 知りたいのであれば、そちらが先に話せ。どうしてレグルス殿の名を知っている?」
「……アルデバラン王国でもっとも警戒すべき人物だと聞いている。その人物に関することは、どのような些細なことでも耳にしたことは全て伝えろという命令が出ている」
相手は、普段は決して話さないことを話してきた。命令内容を味方以外に教えることなど、普通は許されない。それなのに話したのは、レグルスはすでに死んでいることになっているという理由があってのこと。それが間違った情報であれば、絶対に真実を探り、自国に伝えなければならないという思いがあるからだ。
「なるほど……そうであるのに、その危険人物をラスタバン王国は敵に回すのか」
「……どういう意味だ?」
さりげなく発せられた言葉だが、その中身はラスタバン王国の諜者にとって、かなり重要な内容。これまでまったく把握していない新たな情報、新事実というものだ。
「東方辺境伯を継ぐはずの男子はレグルス殿の息子だ。キャリナローズ・ホワイトロックの息子という説明も必要か?」
カクノシンは情報を惜しむことなく与えている。アルデバラン王国を離れた身で惜しむ理由はない。情報の提供と引き替えに、相手からも情報を得られるのであれば、利用しようと考えた。ラスタバン王国の思惑は自分たちが思っているようなものではない。その可能性に気付いたのだ。
「……確認したい。東方辺境伯を継ぐはず、という意味は?」
結果、ラスタバン王国のほうが求めている情報に辿り着いた。これは偶然だ。カクノシンが意識してのことではない。
「キャリナローズ殿の息子は東方辺境伯の後継者として認められている。先王がそれを認めた。信じないだろうが、私はその場に立ち合っていた。亡くなった先代も同席しての場だ」
「……では、わが国が味方している男は?」
「簒奪者だな。元々、東方辺境伯の座を狙っていることは分かっていた。だからこそ、先王と先代は、まだ赤子のうちに後継者と正式に認めたのだ」
「そうだったか……」
裏付けはないが、求めている情報は手に入った。良い情報とは言えない。自国が騙されている可能性が、より高まったのだ。
「ああ、そうか。そういうことか」
カクノシンも相手の反応で、求めていた情報を手に入れた。
「何を納得している?」
自分は何か失敗した。それは分かったが、何を失敗したかまでは分からない。それを素直に尋ねた。これでもカクノシンに感謝しているのだ。重要な情報を提供してくれたことに。
「アルデバラン王国の上層部がどう考えているかは知らない。だが世間一般ではラスタバン王国は侵略者という評価だ。国内が落ち着けば、アルデバラン王国から侵攻軍が出るだろうな」
「我が国は嵌められたのだな?」
「そういうことだろうな。現アルデバラン王はそういう人物だ。父親を殺して玉座を手に入れた男だ。それくらいは平気で行う」
カクノシンはジークフリートは父親を殺したと断言した。証拠などどうでも良い。事実がどうかも同じ。ジークフリートへの悪感情をそのまま言葉にしただけだ。
「…………」
アルデバラン王国の新しい王は信用ならない人物。これも分かった。ラスタバン王国にとっては明らかに悪い情報だ。
「先のことより、今を考えるべきだな。もう、はっきり言おう。レグルス殿は生きている。我らはそう確信している」
「分かっている」
「分かっていないな。もう忘れたのか? ラスタバン王国はレグルス殿の大切な女性と子供を殺そうとしているのだ。そんな真似を彼が許すと思うか? すでにラスタバン王国に攻め込んでいるかもしれない。彼の領地がどこにあったか知っているはずだ」
「……感謝する。我々はこれで」
ラスタバン王国に隣接している。ラスタバン王国に通じる道もある。土地勘もあるはずだ。レグルスは何度もラスタバン王国に行っているのだ。いくつもの街や村を訪れている。
監視はしているはず。だがレグルスが死んだと知ったあと、どこまで監視の目に厳しさが残っているか。最悪の状況を考えて行動するべきだ。
ラスタバン王国の諜者たちは、東方辺境伯領に向かって、駆け去って行った。
「我々も行くか」
「間に合いますか? 売り時を間違えると安く叩かれます」
「予測できないお人だからな。とにかく急ぐしかない。とにかく会うのだ」
カクノシンたちもその後を追う。レグルスに自分たちの技を売る為に。間違いなく必要とされるはずだ。この先、レグルスの動きはアルデバラン王国全土に広がる。カクノシンはそう見ているのだ。
◆◆◆
カクノシンたちが探しているレグルスは東方辺境伯領にはいない。ラスタバン王国にも、かつての、実質は今もだが、領地にもいない。彼らが探している方向とは真逆。王都にいた。
店の、華美ではないが豪華な個室で一人、優雅にお茶を楽しんでいるレグルス。楽しんでいる振りをしているだけだ。出されたお茶は一滴も口に入れていない。この場所は、迂闊にそんなことをして良い場所ではないのだ。
「おっ、来た来た……あれ? お前、誰だ?」
ようやく待ち人が来た、と思ったのだが現れた男はレグルスの知らない顔。実際には会ったことがあるのだが、彼は覚えていないのだ。
「……私はジョーディー様をお屋敷まで迎えに」
「そうだったのか。誰だ、なんて言ったのは申し訳なかった。それで?」
「…………」
レグルスの問い掛けに相手は無言。無言のまま個室に入って、入口近くの壁際に立った。
「……レグルス……本当に君か」
男と入れ替わるようにしてジョーディーが姿を現した。レグルスを見て、驚きの表情を浮かべている。店にレグルスが姿を現したと聞いて、慌ててやってきた。だが本当にレグルスなのかは半信半疑だった。生きていることだけでなく、単身乗り込んできたことも信じられなかったのだ。
「憎まれっ子、世に憚る、というから」
「…………」
「あっ、分からない? 花街育ちの親父に教わった言葉だからな。花街には外では通用しない言葉が多い。これもそうだったか」
レグルスに緊張感は見られない。それどころ、ジョーディーが知るレグルスとは、どこか違う。ジョーディーには分からないが、レグルスがアオとしての自分でいるからだ。
「まずは座って。お茶でも飲んだらどうだ? 大丈夫、口はつけていない」
ジョーディーの返事を待つことなく、自分の目の前に置いていたカップを差し出すレグルス。ジョーディーは躊躇うことなく、それを飲み干し、空になったカップにまたポットからお茶を注いで、レグルスに差し出した。
「私の分を頼んできてくれ。ああ、レグルス殿のも少し温くなりすぎている。二人分だ。ひとつのポットで」
「承知しました」
一服して少し気持ちが落ち着いたジョーディー。レグルスが毒殺を警戒しないように気を配って、お茶の追加を同行してきた部下に頼んだ。
部屋を出ていく部下。といっても廊下を出てすぐのところに待機していた店員にオーダーを伝えると、すぐに戻ってきた。
「忙しそうだ。疲労が顔に出ている」
「……忙しいのは今に始まったことではない」
「そうか。実は俺もかなり忙しい。のんびりとお茶を楽しみながらというわけにはいかないので、単刀直入に用件を言わせてもらう」
実際にレグルスは忙しい。今すぐに王都を発ちたいくらいなのだ。
「かまわない」
「アルデバラン王国を滅ぼす。協力してくれ」
「…………滅ぼす、か」
自分の行いを糾弾するのではなく、ジークフリート王を殺すという目的でもなく、アルデバラン王国を滅ぼす。しかも自分にその協力を求めてきた。これはジョーディーにとって、少し予想外の用件だ。
「見返りは妹の安全。お望みなら城から連れ出すことも可能だ」
「……そうか。そこまで手を伸ばしていたか。もしかして、アリシア・セリシールも生きているのかな?」
「ああ、あれは俺じゃない」
「では誰だ?」
アリシアは生きている。これは間違いではなかった。だが、レグルス以外に彼女を処刑から助け出す人物が、それが可能な人物にジョーディーは心当たりがない。
「リズだ。俺も驚いたけど、彼女にも、この手のことで、手足になって働く配下がいた。ジュリアン殿下の配下が手を貸した可能性もある」
「……そういうことか」
王国にはジュリアン王子派もいれば、エリザベス王女派もいる。自分の未来を、自家の未来を託す相手として二人を選んだ臣下だ。そういう人たちは、継承争いが敗勢だからといって、慌てて寝返ることなどしない。まったくいないわけではないが、そんなことをしても重用されるはずがない。末端で、元は格下だった者たちに、こき使われるだけなのだ。未来を託すというのは、それに応じた覚悟を求められるものなのだ。
「ちなみに二人がいなくても問題ない。問題ないようにした。それで? 協力するのか、しないのか?」
「断った場合は?」
答えは予想出来ている。だが、万が一にジョーディーは期待した。その可能性はゼロではないはずなのだ。
「妹は死ぬ」
「……君がアンを殺すのか?」
レグルスはサマンサアンの復讐の為に生きてきた。彼女を二度と処刑台に昇らせない。そう誓って、何度も何度も、人生を繰り返してきたはずだった。そのレグルスが妹を殺すと言う。ジョーディーにとっては、信じたくない言葉だ。
「俺には殺す理由がある。サマンサアンは俺の大切な人を死に追いやった。俺の幼馴染たちの姉貴分を、俺にとっても姉のような……あれ? 母親の妹分だから叔母か……いや、叔母さんなんて呼んだら、死んでから殺されるな。やっぱり、姉で」
「…………」
「分からない? じゃあ、俺の故郷である花街を滅ぼした、では?」
「いや、分かっている」
サマンサアンが花街で行ったことも、花街がレグルスにとって大切な場所であることもジョーディーは知っている。反応が鈍いのは、レグルスには本当にサマンサアンを助ける気があるのかを疑っているから。敵と認識した相手に対するレグルスの苛烈さも、ジョーディーはよく知っているのだ。
「……まあ、良い。そちらの協力がなくてもこちらは困らない。悩んでいる時間、無駄に待っているわけにもいかない。好きにしろ」
はったり、と思ったジョーディーだが、レグルスは実際に席を立って、部屋を出ていこうとする。それでもジョーディーは答えを決めきれない。レグルスの真意を測れない。
「……お前……もしかして、会ったことある?」
レグルスの問いは入口の脇に控えていたジョーディーの部下に向けられたもの。
「私は……私は……北部動乱で、貴方と共に戦いました」
どう答えるか悩んだ結果、口から出てきた言葉はこれだった。自分のことをレグルスに知ってもらいたい。この欲求を抑えられなかった。
「そうか……じゃあ今回も俺に従え。これまでとは異なる結果を、お前に見せてやる」
「はっ! あっ、いえ……わ、私は……」
咄嗟に飛び出た言葉。まさかのことに、本人が一番驚いている。
「サマンサアンさんが行ったことは、こういうことだと思っている。許せない想いがあることは否定しない。でも、同情の余地もある。そういうことだ」
ジョーディーの懸念をジグルスは理解していた。その懸念を薄れさせる為の行動。サマンサアンは自らの意志であんな真似をしたのではない。何かの強制力が働いた結果であることを、自分は分かっているとジョーディーに伝えたかったのだ。
それでもジグルスはジョーディーの答えを待つことなく、部屋を出ていく。すんなりと協力を約束するとは、最初から思っていない。ジークフリートの味方をする可能性も想定済みだ。
それでも勝つ。今回は絶対に。レグルスは強くそう思っているのだ。
「……逆らえなかった?」
レグルスの気配が消えたところで、ジョーディーは部下に問いかけた。
「……はい。申し訳ございません」
「逆らえなかった理由は、謝罪を必要とすることなのかな?」
「分かりません。ですが……」
ジグルスに従いたいと思った。この人とまた戦いたいと思った。レグルスに誘われて、自分の心が燃え上がるのを感じてしまった。それが強制されたものなのかは分からない。分からないが、これが自分の本心ではないかと、彼は思ってしまったのだ。
「……去る前に何をさせようとしているか伝えておいて欲しかったね?」
「それは?」
「悪いけど聞いてきてくれるかな? まだ追いつけるだろう、多分だけど」
「はっ!」
慌てて部屋から駆け出していく部下。それは彼がそう望んでいるから。本人が望んでいることを行うのは、強制とは言わない。
「ああいう部下ばかりでは、逆らえない……は言い訳か。見せてもらおうか、レグルス。これまでとは違う決着を」
ジョーディー自身も同じなのだ。レグルスの側で、レグルスと一緒に戦いたいと思った。正面から手を組んで戦った結果、どうなるかを知りたかった。これまでとは異なる人生の終わりを見たかったのだ。