その時を間近に控え、ツヴァイセンファルケ公国の公都フォークネレイは慌しさを増している。ソルの下には各地から情報が届いている。当初は治安の悪化と物資不足を訴える陳情書ばかりだったが、ある時期からそれとは異なる情報も混じってきた。公国領内を軍が移動しているというものだ。
竜王軍だけでなくツェンタルヒルシュ公国軍、ノルデンヴォルフ公国軍、そしてオスティンゲル公国軍も公国領内に進軍してきた。目的地は全軍が同じ。公都フォークネレイであることを否定する材料はひとつもない。
どうやらフォークネレイが、この大動乱の勝敗を決する戦場になることは、今では多くの人が分かっている。分からないのは、そのきっかけを作ったソルがどういう立場で、どう動くのかということ。それが、もっぱら連合軍側の、動きを鈍くしているのだ。
「……まあ、今は買う人はいなくても、世の中が落ち着けば価値が戻るだろう」
そのソルは今もフォークネレイの城にいる。城内にある金目の物を集めている。
「いやいや。どこにそんな大きな絵を持って逃げる奴がいる? そんな物、押し付けられても迷惑なだけだ」
ソルの考えをハーゼが否定する。彼としては、ソルが今やっていること全てを否定したいところなのだが、止めても止まらないことはもう分かっている。そうであれば、さっさと終わらせてしまおうと、付き合っているのだ。
「別にこれだけを持って逃げるわけじゃない。他にも荷物があって、それと一緒に運ぶのだから迷惑にはならないだろ?」
「そうだとしても、絵なんてものを金を出して買おうなんて奇特な人間が出てくるのは何年後だ?」
生きるのに最低限必要な物資を確保することさえ、困難な今の状況で、美術品を求める人がいるはずがない。その余裕が生まれるのは何年も、下手をすれば何十年も先の話だとハーゼは思っている。
「貴族の中には大人しくして、財産を守っている奴もいるはずだ。そういう奴ら」
「その財産は戦いが終わっても守られるか? 俺ならまっさきにそいつ等から奪う」
そもそも貴族という存在が許されるのか。ソルが言うような貴族は、戦後の荒廃した世の中では、相対的に力を増すことになる。そういう存在は、勝者に真っ先に狙われるはずだと。
「確かに……じゃあ、絵は諦めるか。でも持ち運びしやすい金と貴金属だけで、どれだけ生活出来るかな?」
「そこまでの心配はいらない。逃げ出す奴らに金と食料を渡すなんてことが、既に親切が過ぎるんだ。逃げ出した後のことは自己責任」
ソルたちが城内にある金目の物を物色しているのは、戦いを前にしてフォークネレイから逃げ出す人たちに渡す為。当面の生活費と食料をなんとか賄おうとしているのだ。
それは戦いを控えた軍が行うことではない。ソルには籠城して戦うという考えがないことを示している。
「いらない物を配るだけだろ?」
「お前にとってはな」
「えっ? あっ、欲しかった? じゃあ、最初に好きなの選んで、持っていけば? 特権ていうやつだ」
「いらない。俺は逃げるつもりはない」
逃げるつもりはなくても生き残る気はある。金や食料は必要だ。だが、ソルにこう言われてしまうと、ハーゼとしては拒否するしかない。
「……これは俺の戦いだ」
「何回、同じことを言わせるつもりだ? 俺はお前に付いていくと決めた。お前が何をするか、誰と戦うかは関係ない」
もう何度も繰り返しているやり取り。いよいよアルノルトと戦うことになるとなって、ソルはハーゼたちを自分から引き離そうと考えた。当然、ハーゼたちはそんなことは受け入れない。ソルと共に戦うつもりだ。
「……ホークウェル。好きなの持っていけば?」
この件については話を続けても押し問答が続くだけ。今は先に終わらせるべきことがある。こう考えたソルは、話をホークウェルに振った。
「私も結構です」
「いやいや。ハーゼのことは気にする必要はない。ホークウェルはずっとここに残って、ツヴァイセンファルケ公国の為に働いてきたのだから、その分の報酬を受け取る権利がある」
特に定めたわけではないが、ホークウェルはツヴァイセンファルケ公国の代表者のようなもの。上に立つ者は私欲を殺して、なんて考えはソルにはない。これまでずっと立場を利用して美味しい思いをホークウェルがしてきたのであれば違った対応になっただろうが、そうではないことをソルは知っているのだ。
「では報酬は戦いを終えたあとに頂きます」
「えっ?」
ホークウェルのまさかの言葉。想定外の内容に、ソルは咄嗟に反応出来なかった。
「私も戦います。貴方と、ハーゼ殿たちと共に」
「……どうして?」
ホークウェルはハーゼたちとは違う。ツヴァイセンファルケ公国軍の責任者を押し付けられていたところに、ソルが攻め込んできて、負けてしまったことで従うことを強いられていた。自分の戦いに加わる理由などない、とソルは考えていた。
「私は……周りはどう思っているか分かりませんが、貴方の言う通り、ツヴァイセンファルケ公国の為に働いてきました。竜王に従ったのではなく、竜王に付くことがツヴァイセンファルケ公国にとって正しい選択だというリージェス公のご決断を信じたのです」
ツヴァイセンファルケ公国だけでなくヴェストフックス公国の家臣の多くがホークウェルと同じだ。自らが仕える公国主の決断は最善なのだと信じて、竜王の下で戦ってきた。
「ですが、その結果、リージェス公はお亡くなりになり、公国は荒廃しました。竜王に従い続けていても、民の暮らしは悪くなるばかり。我々は誤ったのです」
「……リージェス公を殺したのは俺だ」
「知っています。ですが私は、リージェス公が存命であってもツヴァイセンファルケ公国は今と変わらない酷い状況であっただろうことも知っています」
リージェス公が生きていても変わらない。竜王の命令に忠実であろうとすれば、ツヴァイセンファルケ公国の民が顧みられることはない。民を守る力は、竜王の為の戦いに費やされる。
「リージェス公のご決断は間違いでした。その間違ったご決断を行った公は亡くなり、私が忠誠を向ける主はいなくなった。これ以上、どうして竜王に従う必要があるのでしょうか?」
「そうだとしても、戦いに加わる必要はない」
自由になりたければなれば良い。今の立場を捨てて、一人の人間として生きれば良い。わざわざ命を縮める必要はないのだ。
「私もまた誤っていました。竜王の命令を言い訳にして、ツヴァイセンファルケ公国の人間であることを放棄していました。私は私の誤りを正さなければなりません」
「勝てる保証はない。負ける可能性のほうが遥かに高い」
アルノルトに勝てるとソルは考えていない。アルノルトは師であり、自分との力量差は圧倒的だった。当時に比べれば、少しは実力差は縮まったとしても勝てるとは思えないのだ。
それでも戦うのはルナの為。ルナを助けるという目的がある以上、ソルは自分の命を惜しんで引くわけにはいかないのだ。
「戦いに敗れ、命を落とすことになってもかまいません。それが私の償いになるだけです」
ホークウェルも引くつもりはない。ソルの判断で、ホークウェルがそう思っているだけだが、ツヴァイセンファルケ公国の人々は救われようとしている。自分が為すべきだったことをソルは行ってくれた。その様子を見て、その結果を見て、彼は覚悟を決めたのだ。これまでの自分を悔い改め、これからはツヴァイセンファルケ公国の為に生き、死ぬと。
「……気持ちは分かったけど……やっぱり、これは俺の戦いだ」
「私も貴方の気持ちは分かっています」
「えっ?」
分かるはずがない。まだ誰にも話していないのだ。
「貴方と竜王の戦いを邪魔するつもりはありません。私の役目は、誰にも貴方の戦いを邪魔させないことです」
「…………」
だがホークウェルは分からないはずのことを分かっている。彼の言葉はそう思わせるものだった。
「その為には味方が一人でも多く必要なはずです。なんといっても、邪魔者が数万も集まってくるのですから」
「どうして……い、いや、どうしてなんて聞くのは失礼か」
ホークウェルが自分のことをここまで見ているとは、考えているとは思っていなかった。思っていなかったのは、自分のほうがホークウェルをちゃんと見ていなかったから。そうソルは思った。
「そうですね。私にも考える頭はあります。私に足りないのは考えたことを実行する決断力。覚悟というべきですか。ですが今回は、覚悟も出来ています」
「…………分かった。じゃあ、助けてもらう」
戦いに臨む覚悟を決めた人間の邪魔をする権限はソルにはない。少し考える間を必要としたが、ホークウェルの望みを受け入れることにした。
「承知しました。微力ながらソル殿のお役に立てるように頑張ります」
ソルに向かって深く頭を下げながら、この言葉を口にするホークウェル。
「おいおい。俺らを差し置いて、何を自分だけ許しを貰っている? おかしいだろ?」
「代表してお許しを得たつもりだ」
「……なるほど。では、そういうことで」
ソルと共に戦う。その許可は得られた。許可などなくとも戦うつもりだったが、認められたほうが良いに決まっている。ソルに自分の役割を与えてもらえる。
決戦の時は間近。各々が各々の想いを胸に戦いに臨むことになる。
◆◆◆
公都フォークレイを囲む外壁。その外壁に設けられた北門から伸びる街道を挟んで、両軍が対峙している。北門から見て左、西側にはノルデンヴォルフ公国とツェンタルヒルシュ公国の連合軍五千。正面にはオスティンゲル公国軍一万が陣取っている。アルノルト直卒の竜王軍を追って来たオスティンゲル公国軍は、ツヴァイセンファルケ公国の状況を知り、連合軍も進軍してきているのを知って、大きく回り込む形でフォークネレイの北に出たのだ。
そのオスティンゲル公国軍が追いかけてきた竜王軍は東側。数は一万。オスティンゲル公国に侵攻を開始した時点と比べると、半分に減っている。その一万に、フォークネレイと距離を取った場所に留まっていたクリスティアン軍四千も加わって、総勢は一万四千ほど。両軍合わせて三万近い数だ。
戦場は三万の軍勢が対峙しているとは思えないほど、静まり返っている。両軍共に相手の出方を窺っている、わけではない。待っているのはフォークネレイに篭る軍勢の動き。ソルが動くのを待っているのだ。
「クリスティアンはまだ戻らないのか?」
「はっ。まだ所在も分かりません。もしかするとノルデンヴォルフ公国軍と戦いになったのかもしれません」
クリスティアンが不在である理由は、ノルデンヴォルフ公国に残した軍勢に細かな指示を行う為に別行動をしているということになっている。真実を知らない将に報告させることで、アルノルトに疑われないようにしていた。本人は真実を伝えているつもりなので、怪しまれるような態度にはならないだろうという考えだ。
「……そうか。では仕方がないな」
ただその企ては、実際には上手く行っていない。ソルに関わる事態が起きているというのに、クリスティアンが遅れてしまうような選択をするはずがない。自分を止めようとするはずだとアルノルトは思っている。だからといって報告した部下を追及することはしないが。
「竜王様が仕掛けない限り、戦いが始まる気配はございません。お待ちになればクリスティアン様は間に合うと思いますが」
アルノルトが口にした「仕方がない」は、クリスティアンがいなくても戦いを始めるという意味だと部下は受け取った。部下の立場ではクリスティアンが大事な戦いに間に合わないという事態は避けたい。こう考えるこの部下は、真実は教えられていないが、まともなほうの将だ。
「いや、気配はある。我らが仕掛けなくても戦いを始める者の気配だ」
「それは……すぐに戦闘準備を行います」
「ああ、そうしろ」
今更、準備もない。両軍共に、いつでも戦いを始められる準備は出来ている。だが、アルノルトはそれを指摘することなく、その部下が去るのに任せた。側にいられても煩わしいだけなのだ。
「北門が開きました」
だが一人追い払っても、また別の者が近づいてくる。誰もが、ではなく、勇気のある将は、アルノルトの近臣の座を狙っているのだ。失敗すれば死ぬことになるが、成功すれば絶大な権力を得られる。ハイリスク・ハイリターンを狙う勇気のある者たち。この将もその一人だ。「勇気のある」を「愚かな」と変えるべきだろうが
「……あの馬鹿。どこまで私の意表をつくつもりだ?」
アルノルトの顔に笑みが浮かぶ。新たに近づいてきた部下など眼中にない。視線の先は北門から出てきたソルだ。味方と離れ、たった一人で自軍に近づいてくるソルを見ている。
「あれは……どういうことでしょうか?」
「見ての通り。自分一人で戦うつもりではないか?」
ソルの味方も北門から出てきている。だがその全員が竜王軍に向き合うことなく、連合軍のほうに向かっている。正面に残って、さらに近づいてきているのはソル一人だ。
「……では、こちらも私一人で戦います」
竜王軍は全軍で一万五千。一人で戦えるはずがない。ソルの行動は、竜王軍の将たちには馬鹿にされているとしか思えない。
「無理をするな。部隊を率いていけ」
「いえ、大丈夫です」
「私は命じたつもりだが? その大丈夫は、どういう意味だ?」
命令に背いたということ。そう認めれば将の命はない。
「し、失礼いたしました。部隊を率いて出撃します」
問いに直接答えることなく、慌ててこの場から離れて行く将。すぐに部隊に命じる声が聞こえてきた。中隊規模、一千が陣を飛び出していく。
「さて、どれほど成長したか見てやろう。私を失望させるなよ、イグナーツ、いや、ソル・バラウル」
千の敵を相手にソルがどう戦うか。これは試しだ。ソルがこの試しに合格することをアルノルトは願っている。信じてもいる。ずっと以前から彼は分かっていたのだ。自分が満足できる相手がこの世界に存在するとすれば、それはソル。ソル一人しかいないことは。