軍人として動乱に関わっている人たち以外の多くの民衆はまだ気が付いていないが、戦場が一か所にまとまろうとしている。ツヴァイセンファルケ公国に竜王軍、そして連合軍も向かっているのだ。連合軍のほうは、まだツヴァイセンファルケ公国で何が起きているのかを分かっていない。オスティンゲル公国軍はまったく。ノルデンヴォルフ公国とツェンタルヒルシュ公国の連合軍も、ソルがツヴァイセンファルケ公国にどうやら侵攻したらしいという情報を得ているだけだ。
ツヴァイセンファルケ公国に向けて進軍を開始した連合軍。竜王軍に比べれば、かなり遅れての行動開始だが、それは仕方がない。クリスティアンに伝えられたソルの情報は虚偽で、連合軍を嵌める罠である可能性もある。ソルたちと思われる軍勢が移動したことを調べ、竜王軍が確かにツェンタルヒルシュ公国領内を出たということを確認することなく、軽率に動くことなど出来なかったのだ。
「戦いがあったのは二月以上も前のようだ」
ツヴァイセンファルケ公国領内に入ってからも、その歩みは速いとは言えない。ソルたちが向かった先の手がかりを探しながらの移動なのだ。
「戦いがあったのは間違いないということだね?」
二月以上も遅れている。それには少し焦りを覚えるルッツだが、戦いがあったという事実は良い情報だ。ソルの移動は竜王軍に合流する為である可能性もあった。その可能性が低いことを、この情報は示してくれている。
「正体不明の部隊とツヴァイセンファルケ公国軍との戦い。ソルたちで間違いないだろうな」
どことどこが戦ったのかは、はっきりしていない。それでもバルナバスもソルであろうと考えている。他の可能性は、まずないのだ。
「それで? その正体不明の軍勢はどこに向かったのかな?」
「目撃者の話では、まっすぐ南下したようだ。単純に考えれば、目的地はツヴァイセンファルケ公国の公都フォークネレイだな」
目撃者から話を聞かなくても、フォークネレイは目的地の最有力候補。否定する理由は、たった千名の軍勢で公都を落とすという非常識さだ。
だがそれもソルの目的次第。バルナバスたちにとって最悪の事態である竜王軍、アルノルトに味方することが目的であれば関係ない。
「フォークネレイには何がある?」
ソルの目的は公都を落とすという非常識なものであって欲しい。ルッツはこう願っている。
「それが分かっていれば、このような手間は必要ない。まっすぐにフォークネレイに向かうだけだ」
「まずはフォークネレイに辿り着く。情報収取はそれからのほうが早くない?」
「それはある。ただ、我らだけで先行するわけにもいかないだろう。クレーメンス公がどう考えるかだな」
バルナバスたちノルデンヴォルフ公国軍、旧ナーゲリング公国軍だけでツヴァイセンファルケ公国に進軍してきたのではない。クレーメンスが自ら率いるツヴァイセンファルケ公国軍も一緒だ。クレーメンスはソルの動きが、この戦いの帰趨を決める可能性があると考え、自公国はディートハルトに任せて、ツヴァイセンファルケ公国侵攻に参加したのだ。決戦の場となるかもしれない戦場に行けなくなったディートハルトには、不満が残る決断だが。
「そのクレーメンス公は?」
「ツェンタルヒルシュ公国軍もまた情報収集を行っている。我らよりも遠くまで送り込んだ諜者が無事に戻ってきたようで、その話を聞いている」
「自分だけで?」
得られた情報は自分たちにも共有すべき。そう考えているルッツは、諜者から話を聞く場に自分たちを同席させないことを不満に思った。
「公には公の考えがあるのだろう。それは我々、というかルシェル様やヴィクトール公と同じとは限らない」
「土壇場で裏切るってこと?」
「そこまでは言っていない。ただ……どうだろうな? このまま戦っても勝ち目はないと考えれば、別の生き残る方法を考えたとしてもおかしくない」
負けるつもりでは戦っていないが、絶対に勝てるという自信はバルナバスにもない。これまでの戦いを考えれば、「絶対に勝てる」なんて考えは、ただの思い上がりだ。
一軍人として生きるバルナバスは全力で戦った結果、敗れ、命を落として終わりという結果になっても悔いはない。だが公国主であるクレーメンスは、それだけでは終われないだろうとバルナバスは考えている。
「……降伏。たしかにそうやって公国は生まれたのだけど」
ルッツはバルナバスのようには考えられない。大勢が死んだ。親しい仲間も、何人も死んだ。皆、国の命令で戦場に送り出され、その結果、命を失ったのだ。その命令を発する立場にある人物が降伏して生き残るという結果は、どうにも納得いかない。
「今さっき裏切りを否定したばかりだが、実際はその可能性は頭に入れておいたほうが良いだろうな。竜王に降伏する気には絶対になれないとしても……あれだ」
「ソルであれば……か。私もそれであれば考えるかな?」
「おい?」
降伏しても命が保証されないアルノルトとは違う。ソルであれば降伏してきた相手を全力で守ろうとする。そう信じられる相手だ。
「冗談、ではなく、割と本気。それで生き残ることが出来れば、この戦いは竜王の勝ちで終わっても、次の機会が得られるからね」
「ソルと竜王が戦うと思っているのか?」
「ソルとクリスティアンかもしれない。ソルと今も彼に従っている者たち。それにツェンタルヒルシュ公国と旧ナーゲリング王国軍、さらにツヴァイセンファルケ公国もまとまれば、勝機は十分にある」
かなり損耗したとはいえ、旧ナーゲリング王国と二公国がソルの下にまとまるとなれば、かなりの戦力だ。竜王相手でも勝てるのではないかとルッツは考えている。
彼には施政者としての野心はない。残虐非道なアルノルトでなければ、誰が頂点に立とうとかまわない。それがソルであれば最善だ。
「なるほど……」
「裏切りたくなった?」
「馬鹿を言うな。その仮定はソルが竜王側に付いた前提で成り立っている。まだそう決まったわけではない」
つまり、ソル次第。こう言っているようなものだが、バルナバスにその自覚はない。軍人として生き、軍人として死ぬ。この思いが強いことと、ルッツのようにソルを自分の上に置いていないからだ。バルナバスにとってソルはまだ、目を掛けている弟子のような存在であって欲しいのだ。
「この話はここまでだね?」
「ん? ああ……そうだな」
冗談でも裏切りの話を聞かせるわけにはいかない相手が現れた。クレーメンスだ。
「今、よろしいか?」
「はい。雑談をしていただけですので」
「送り込んだ諜者からの話だ。いや、話をする前にこれを見てもらおう」
こう言ってクレーメンスが二人に差し出してきたのは一枚の紙。何が書かれているかと、受け取って読み始めた二人だが。
「これは……そういうことか?」
「嘘だ……」
信じられない、信じたくない情報を得て、呆然とすることになった。
「各地に通達されているようだ」
クレーメンスが入手したのはツヴァイセンファルケ公国から発せられた通達が書かれた紙。ソルの、ソル・バラウルの名で発せられた略奪を咎める通達が記された紙だった。
「……ソルは……ツヴァイセンファルケ公国を治めている?」
「その辺りはまだ分からない。だが、各地に物資の配給が行われているという情報もあった。それまでは何を訴えても放置してきたツヴァイセンファルケ公国が動き出したようだ」
「……ソルらしいとは思える」
苦しんでいる人々を救う。受け入れ難いが、ソルらしい行いだとルッツは思った。少し買いかぶり過ぎだ。ソルが自ら動いたのではなく、遠回しに訴えたツヴァイセンファルケ公国の将によって動かされただけなのだ。
「ただ一方で、我が国にいた竜王軍と思われる軍勢が、フォークネレイから少し距離を取った場所に臨戦態勢で滞陣している」
「我らに備えてではなく?」
「その可能性はある。ただ、フォークネレイとの行き来がまったくないそうだ。諜者が見落としているだけかもしれないが……」
ソルとクリスティアン率いる竜王軍が味方で、連合軍に備えているのであれば。軍使の行き来が必ずあるはず。気付かれないように密かに行き来している可能性も否定できないが、当たり前にあることを隠す意味がクレーメンスは分からない。
「すでに合流……いや、そうだとしても公都との伝令のやりとりがないのはおかしいか。ただそれが確認出来ないからといって……」
ソルは竜王軍の味方ではないと決めつけることは出来ない。
「なによりもバラウル家を名乗っている」
バラウル家の人間であることをソルは選んだ。こう考えるのが普通だ。否定する理由をあれこれ語るのは、それを受け入れたくないからなのだ。
「それでどうするのかな? フォークネレイに行くの、行かないの?」
新たな情報を得られない限り、この場でいつまでも議論していても結論は出ない。新たな情報を得るには、フォークネレイに近づかなければならない。その決断をルッツは迫った。ルッツ自身の心は決まっているのだ。
「……フォークネレイに向かう。それ以外の選択は我々にはない」
「では決まりだ。フォークネレイに」
連合軍はさらにツヴァイセンファルケ公国奥深くに進むことになった。公都フォークネレイに向かって。
◆◆◆
ツヴァイセンファルケ公国の公都フォークネレイに向かっているのはツェンタルヒルシュ公国とノルデンヴォルフ公国の連合軍だけではない。アルノルト直卒の竜王軍、それを追っているオスティンゲル公国軍もフォークネレイに近づいている。
その進みはツェンタルヒルシュ公国から進軍した連合軍よりも、さらに遅い。オスティンゲル公国は退却する竜王軍をただ追うのではなく、攻撃を仕掛けている。劣勢が続き勝機が見えないオスティンゲル公国であるが、だからこそ後退する竜王軍の後背を突く機会を見逃すわけにはいかなかったのだ。
結果、その決断は正しかった。優勢であった竜王軍の将兵にとって撤退はまさかの事態。理由がきちんと説明されておらず、将兵たちは勝利を手放してでも撤退しなければならない事態が起きたのだと考えた。間違いなく自分たちにとって良くない事態が。
士気は大きく低下。普通に負けて逃げる軍と、あまり変わらない状態になってしまったのだ。それでも竜王軍がなんとか堪えているのは、やはりアルノルトと直下の将たちの働きによるもの。戦況はわずかにオスティンゲル公国軍優勢に変わっても、戦いのあり方は同じなのだ。
「恐れながら、まずはオスティンゲル公国を討ち果たし、ツヴァイセンファルケ公国奪回はその後でもよろしいのではないでしょうか?」
人の命を軽んじる竜王軍の将も、無視できない味方の犠牲。部下を思いやるというより、自分の部隊が、力が、損耗していくのが嫌なだけだが。
「…………」
「もしくは、私にさらなる将兵をお与えください。公都を盗み取った愚か者は私が討ち取ってみせます」
「お前がイグナーツを?」
「はい。お任せください」
このままオスティンゲル公国との戦いに従軍していても得られるものは少ない。それよりも単独任務で手柄をあげ、さらにはしばらくツヴァイセンファルケ公国で勝手気ままに振舞っていたほうが、美味しい思いが出来る。そうこの将は考えた。
「ふむ……」
アルノルトには考える余地があった。この将がソルを倒せるとは考えていない。こういう思い上がった将は、ソルの力試しに使ってみるのも悪くないと考えているのだ。
「恐れながら、竜王様」
「おい? 今、大事な話をしている! 後にしろ!」
割り込んできた別の将、諜報を担当している将を怒鳴りつける。彼にとっては確かに重要な話だ。彼がそう思っているだけで、割り込んできた将のおかげで命拾いするかもしれないのだが。
「どちらが大事かお決めになるのは竜王様だ」
「なんだと?」
「……良い。話せ」
アルノルトは、さらに文句を言おうとする将を制して、割り込んできた将に報告を促した。諜報担当の将の物言いが、アルノルトの好みであったからだ。
「このようなものが、ツヴァイセンファルケ公国内で配られております」
こう言って、一枚の紙をアルノルトに差し出す将。
「……ほう」
アルノルトが受け取った紙は、ソル・バラウルの名で発せられた通達。それを見たアルノルトの顔に笑みが浮かぶ。ソルがバラウルの姓を名乗ったことを喜んでいるわけではない。ソルがまたおかしなことを始めたと思って、笑ったのだ。
「いかがいたしましょうか?」
「何も」
「お許しになられるのですか?」
バラウルの姓を許しなく名乗っている。これを知れば、アルノルトは激高すると思っていた。だが怒るどころか笑みを浮かべている。思っていた反応とはまったく違っていた。それはソルに対する自分の認識が誤っているのだと、この将は考えた。
「私の息子という意味ではなく、ルナの婿という意味であろう。そういえば、ルナはどうなった?」
「すでに亡くなっているものと聞いておりましたが?」
アルノルトの命で処刑された。これがこの将が知るルナの情報だ。当然、命令を発したアルノルトは知っているはずのこと。それを尋ねられたこの将は、内心では、戸惑っている。
「亡くなって……ふむ……フォークネレイに行けば、分かるか」
自分が知らないところで、何かが動いている。それもフォークネレイに行けば、分かる。アルノルトはそう考えた。
「では、我らは更なる情報収集に励みます」
「頼む」
この場からすぐに離れている将。臣下として使えることは示した上で、接触は最低限。これがアルノルトの下で長く、無事に、仕える為に必要な心得であることを知っているのだ。
「……聞こえなかったのか? 進軍を急ぐ」
「はっ……」
ただ最初に話していた将は、それを分かっていない。
「ああ、そうだ。お前にはオスティンゲル公国軍の足止めを任せる。部隊を率いて、オスティンゲル公国の追撃を止めよ」
「……それは……いかほどを率いて?」
ぐずぐずと残っていたせいで、殿を任されることになった。危険な任務だ。だがこの時点では成功すれば手柄になるとも思っている。
「お前は、自分の部隊の数も分からないのか?」
「そ、それは……さすがに自分の部隊だけでは」
続くアルノルトの言葉で、すぐに考えが誤っていたことに気付かされることになった。
「問題ない。お前にはイグナーツを討ち取る力があるのだろう? そうであれば、足止めどころか敵大将の首をとれる。大手柄だな。期待しているぞ」
将に反論する間を与えることなく、背を向けて歩き出すアルノルト。将のことはもう頭の中から消えている。アルノルトの頭の中にあるのはソルのこと。ツヴァイセンファルケ公国で何が待っているのかという期待だ。
竜王軍はまた進み始めた。決戦の地に向かって。