ツヴァイセンファルケ公国の公都フォークネレイの城の一室。公国主の執務室であった部屋の机にソルは座っている。自ら望んでそうしているわけではない。ツヴァイセンファルケ公国残留軍の指揮官であったホークウェルに呼ばれて、この部屋にやって来たのだ。
ソルが座る机の上には山積みの書類。この書類に目を通して欲しいというのが、ホークウェルの頼みだ。
「……この全てにルナの居場所についての報告が?」
積まれている書類は各地から届いたもの。公国全土に通達させた、ルナの居場所についての情報提供の呼びかけに対する返事だと思って、驚き、期待したソルだったが。
「ざっと目を通した限り、王女殿下の情報はありませんでした」
「はい? じゃあ、これは何?」
「各地から届いた陳情書です」
書類はツヴァイセンファルケ公国全土から届いた陳情書。貴族や町や村の管理を任されている役人から困っていることを解決して欲しいという依頼が届いているのだ。
陳情書そのものは珍しいものではない。平時にもある。陳情を行って公国を、公国主を動かすことが出来るかどうかが、貴族の力の証明であったりするのだ。
「……ああ、こういう内容か」
陳情書なんてものをソルは知らない。だが、一番上にある書類に目を通しただけで、どういうものかはすぐに分かった。
「これを読んでどうしろと?」
ホークウェルに問いかけながら、次の種類に目を通す。それが終わるとまた次。内容はそれほど変りはない。物資不足か、治安の悪化を何とかして欲しいという要請ばかりだ。
「どうしろというわけではないのですが……」
どうすれば良いのか教えて欲しいが本音。だがソルのそっけない態度を受けて、ホークウェルは思っていることを言い出せなくなった。
「……なんとかしたいのであれば、やりたいようにやれば?」
だがソルの態度が素っ気ないのはルナの情報がないことに失望したせいで、まったく興味がないわけではない。
「やりたいようにというのは、どういうことでしょうか?」
好き勝手が許される立場ではなかった。そうして良いと言われても、どうして良いのかホークウェルには分からない。
「軍の備蓄を放出すれば?」
「よろしいのですか?」
「ここで戦うことはもうない。沢山備蓄していても無駄になるだけだ。どれだけあるか、俺は知らないけど」
ソルはこの場所で籠城するつもりなどない。そもそもツヴァイセンファルケ公国軍を参戦させるつもりがない。大量の備蓄など、あればの話だが、必要としていない。
「分かりました。ただ輸送はいかがいたしましょうか?」
「公国軍には暇にしている人が大勢いるでしょ? その人たちに運んでもらえば良い」
「承知しました。すぐに輸送部隊を編制いたします」
ソルの許しが得られた。もうホークウェルに躊躇う理由はない。彼は元からツヴァイセンファルケ公国の人間だ。公国の惨状に何も感じていなかったわけではなかった。だが彼には何の権限もなかった。アルノルトの命令なしに、勝手を行う勇気もなかった。
「あと治安維持……要は野盗退治か。とりあえず……ハーゼ、人数揃えて、ここに向かって」
「はあ? この状況で城を離れられるはずがないだろ?」
いつ戦いが始まるか分からない。ソルがどう考えていようと、ハーゼたちは一緒に戦うつもりなのだ。
「往復で六日くらいの場所だ。戦争に三日かかっても九日間。何を考えているか分からない竜王軍四千が動いても、余裕で間に合う。それ以外の竜王軍は領境に辿り着いてもいない」
クリスチャン麾下の竜王軍の存在にソルたちは気が付いている。フォークネレイから距離を取った場所で、ずっと動かないままであることも。
「舐めるな。盗賊退治に三日もかかるはずないだろ?」
「じゃあ、七日だ。のんびり移動しても余裕だな」
「……まあ、それなら」
結局、盗賊討伐任務を引き受けることになった。七日という期間は、ハーゼも納得できる日数なのだ。
「ついでに、そいつらがため込んでいるだろう物を近隣の町や村にばらまいてきてくれ。元々、その人たちの物のはずだ。これと、これとこれかな? ホークウェルさん、ここの物資輸送は後回しで」
「……街や村の場所を?」
ソルは盗賊退治に向かう場所の近隣の村や町からの陳情書を、正確に抜き出した。場所を把握しているということだ。それが分かったホークウェルは、心の中ではかなり驚いている。
「退屈しのぎに地図を見ていた。好きなので。前から頭に入っていた情報もあったので、もう全て覚えたと思う」
「そうでしたか」
「おい? 物資を運ぶとなると時間もかかるし、人手もいる。七日間では帰ってこれなくなるだろ?」
ハーゼたちの足は常人とは違う。移動速度は比べものにならない。ツヴァイセンファルケ公国軍の人たちも同行するとなれば、最初の話より、もっと日数が必要になってしまうと考えた。
「最初から普通の移動速度で計算している」
「はあ? そんな近くにいる盗賊も退治出来ないのか?」
通常の移動速度で三日の距離。ハーゼの感覚では目と鼻の先だ。実際にそうだ。平時であればあり得ないことなのだ。
「言い訳になるが、私には連合軍と戦う以外の目的で軍を動かす権限が与えられていなかった」
「そうだろうけど……お前を責めても仕方ないか」
命令以外の目的で戦力を減らすような真似をすれば、アルノルトに殺される。ホークウェルはそう思って、動けなかった。
ただこれは考え過ぎ。アルノルトは権限を与えなかったのではない。残留軍がどうなろうと気にしていないので、必要最低限の命令しか伝えなかっただけだ。
「近くは良いとして、問題は離れた場所か…………じゃあ、こうするか。ホークウェルさん、もうひとつお願い。また全土に通達を出して」
「どのような内容でしょうか?」
「そうですね……略奪を行った者は殺す。降伏しても殺す。罪を悔い自首しても殺す。殺されたくなければツヴァイセンファルケ公国を去れ」
「そんなもので、あっ、いや、しかし……」
そんな通達で治安が改善するのでされば誰も苦労はしない。ただ、それをはっきりとソルに告げる勇気はホークウェルにはなかった。彼はまだソルの為人を理解していない。バラウル家に近いと考えているのだ。
「通達だけでは誰も従わない。ハーゼ、分かっているよな?」
「分かっている。その通達が、ただの脅しではないと思い知らせるような討伐の仕方をしろってことだろ?」
最初に討伐する相手は見せしめにする。通達は脅しではなく、逃げなければ本当に殺されると野盗が思うような殺し方をするということだ。
「噂が広がるには時間がかかるから、通達に記す名も変えよう。ソル・バラウルで」
「おいおい。本気か?」
このタイミングでバラウル家を名乗る。ソルの考えがハーゼには理解出来ない。
「今更、遠慮はいらない。この公国で暴れている奴らに誰が支配者かを知らしめれば、少しは大人しくなるかもしれないだろ?」
「……確かに、そうだけど」
バラウル家の名に相応しい討伐の仕方を行い、自分たちが何者の領土を荒らしているかを分からせる。確かに野盗を大人しくさせる効果はあるかもしれないとハーゼも考えた。
だが、バラウル家を名乗る理由は本当にそれだけか、という疑いも残る。思いつきで話しているようで、実際は裏の裏まで考えている。そういうことは、ソルには良くあるのだ。
「さあ、やることが決まったら、すぐに行動だ」
「はっ!」「……了解」
翌日にはハーゼたちと、同行するツヴァイセンファルケ公国軍の部隊は公都を発った。さらに、それに遅れて二日後には第一陣の輸送部隊が各地に向かう。
やがてツヴァイセンファルケ公国の人々は知ることになる。無法地帯となってしまっている公国に秩序が戻ろうとしていることを。それを為そうとしている人が何者かを。残念ながらそれは短い期間となってしまうが。
◆◆◆
ソルを追った自軍と別れたクリスチャンが向かった先は、ヴェストフックス公国。公国の領内に入ってすぐの場所で、彼は時を待っていた。待ち人が訪れる時を。
一日一日が長く感じる。何事も為すことなく、ただ待っている間にも事態は、クリスチャンにとって、最悪の方向に進んでいる。しかもその事態を招いたのは自分の怠慢。そう思うと、居ても立っても居られないのだが、今は待つ以外にやるべきことはないのだ。
そんな状態でクリスチャンが待ち焦がれていた時が、今日ようやく訪れた。
「……お兄様」
「来たか。ルナ」
クリスチャンが待っていたのはルナ。ヴェストフックス公国内に隠していたルナだ。
「何かあったのですか?」
ルナは詳しい話を何も聞かされていない。クリスチャンからの使者が来て、とにかく彼が待っている場所まで来て欲しいと伝えられただけだ。
それでも良くないことであることは分かる。自分をツヴァイセンファルケ公国の地下牢から出し、ヴェストフックス公国に居場所を用意して、匿ったことがすでに大問題なのだ。
「ご苦労だった。君は部隊に合流してくれ」
「……はっ」
ルナの問いに答えることなく、クリスチャンはルナをここまで連れてきた部下に、部隊に戻るように告げる。彼がいる場でルナと話せないのだ。クリスチャンが全面的に信頼する部下は少ない。その全てがソルを追った部隊の中にいる。暴走してソルと戦うことにならないように、自軍を押さえ込む為に。
「時間がない。私たちも移動しながら話そう」
「分かったわ」
先を進む部下と一定の距離を空けて、動き出す二人。
「イグナーツが千人ほどの軍勢を率いて、ツヴァイセンファルケ公国に向かった」
「それは……?」
「すまない。私の失敗だ。彼と話す機会があったのに、ルナが無事であることを伝えらなかった」
「ソルは私がまだ、フォークネレイの地下牢に閉じ込められていると思って?」
そうであればクリスチャンの失敗ではなく、自分のせい。ルナはそう思っている。ルナの心が沈む。ソルを巻き込みたくなかった。ソルには争いに関係のない場所で生きて欲しかった。だが、結局、自分のせいでソルは戦いに挑むことになる。父であるアルノルトとの戦いに。
「恐らくはそうだと思う。どこから情報が漏れたのか分からないが、それ以外にイグナーツがツヴァイセンファルケ公国に向かう理由は思いつかない」
連合側に付いた可能性をクリスチャンは考えていない。ソルが軍勢を率いて移動していることを伝えた時のクレーメンスの反応で、それは確かめられている。連合軍の作戦としての行動であれば。クレーメンスも事前に知っているはずずなのだ。
「……お父様はどうするつもりかしら?」
「まだ分からない。何の情報も得ていない。ただ……私の考えでは、まず間違いなく戦いになる。父はどこかイグナーツとの戦いを求めているようなところがあったからね」
「……また私のせい」
愛する人と父親が殺し合う。それだけは絶対に避けたかった。だからソルを遠ざけたかった。味方についても、ソルは必ずアルノルトのやり方に反発する。それ以前に自分の処遇で争いになるかもしれないとルナは考えていたのだ。
だがルナの望みは叶わなかった。事態は最悪の状況に進んでしまった。自分のせいで。
「まだ終わったわけじゃない。父との争いになる前に、彼を説得して一緒に逃げるんだ。それしかない」
「そうね……でも、お兄様は?」
クリスチャンはルナを助けることで、アルノルトを裏切っている。事実を知れば、ただでは済まない。自分と同様にバラウル家から助命され、良くて投獄、最悪は処刑される。逃げるのであればクリスチャンも一緒にとルナは考えた。
「私は……その時の状況によって判断するよ。まずはイグナーツのことだ」
「……分かったわ」
クリスチャンは「一緒に逃げる」と答えなかった。それにルナは不安を覚えるが、今は話し合いに時間をかけている場合ではない。クリスチャンの言う通り、まずはソルと父との争いを止めることだ。
「かなり急ぐ。大丈夫かな?」
「平気だわ。ソルに貰った力があるから」
「……そうだね」
アルノルトの策略であった竜王暗殺計画において、ソルはルナに、バラウル家の血に命を救われたのではない。ソルの体に流れるドラクリシュティ家の血がルナの命を救ったのだ。
ルナはその事実に感謝し、ソルとの繋がりがより深くなったことを心から喜んでいるが、クリスチャンの心境は複雑だ。アルノルトに言わせれば、ルナはドラクリシュティ家の眷属になった。もうバラウル家ではない。ルナへの仕置きが容赦のないものになった理由の一つとなっているのだ。
「お兄様。急ぎますよ」
「あ、ああ、分かった。行こう」
どちらの血がどうかはクリスチャンには関係ない。ルナは今も大切な愛おしい妹で、ソルは大切な妹が愛する人、自分にとっても愛する弟だ。
守らなければならない。せめて二人には、血に縛られることなく自由に、幸せに生きて欲しい。クリスチャンは改めて、こう思った。