一騎当千。戦場での竜王アルノルトの活躍は、その表現では物足りない凄まじさだ。圧倒的なアルノルトの力を前にして、オスティゲル公国は戦術の見直しを行った。アルノルトを倒せば戦いは終わり。この考えは変わっていないが、まずは竜王軍全体の戦力を削ることを優先したのだ。
竜王軍の将を一人ずつ、確実に仕留めて行く。異能者以外の将兵の能力はオスティゲル公国軍が上。質の低下を補っている竜王軍の将を討ち取れば、部隊戦ではオスティゲル公国軍優勢に持ち込める。それを積み重ねて軍全体の戦力差を作った後に、アルノルトを討ち取る為に戦力を集中させるというやり方だ。
だがそれは、今のところ、成果を上げているとは言い難い。アルノルトは最前線で戦い続け、部隊戦でオスティゲル公国軍が優勢に持ち込んでいても、たった一人でその戦況を覆してしまう。竜王軍に被害が出ていないわけではない。竜王軍と同じだけの被害を、アルノルト一人で、オスティゲル公国軍に与えているのだ。
両軍が戦力を減らしていく消耗戦。これはオスティゲル公国軍の望む形ではない。オスティゲル公国のヴィクトールには自軍を犠牲にしてもアルノルトを倒すという考えはなく、この戦い全体の最終的な勝者になることを求めているのだ。
「……初動の誤りが響いているな」
敵を迎え撃つという方針が間違いであった。ヴィクトールはそう思い始めている。こちらから、ツェンタルヒルシュ公国軍とノルデンヴォルフ公国軍と一緒に、ツヴァイセンファルケ公国に攻め込んでいたほうが、戦況を優位に進められたのではないかと考えているのだ。
「それは無理というものです。我が軍に先に攻め込む時間の余裕はありませんでした」
その考えをヴァイスは否定する。考えそのものを否定しているのではない。開戦前にそれを考えても、不可能として採用されなかったと思っている。ヴィクトールの失敗ではないと。
あえて責任を問うとすれば、ノルデンヴォルフ公国が侵攻してこなければということになる。だが、これは言い訳だ。その時点ではアルノルトを敵として戦う想定はしていなかったのだから。
「だが、このままでは、良くて、共倒れだ。ツェンタルヒルシュ公国での戦いが勝負を決めることになる」
アルノルトが率いる軍勢を共倒れという形で打ち破っても、竜王軍にはまだクリスチャン率いる軍勢がいる。オスティンゲル公国がクリスチャン率いる竜王軍との戦いに加わる力を失えば、決戦はツェンタルヒルシュ公国とノルデンヴォルフ公国に託されることになる。それでは駄目なのだ。
「……味方の敗北を望むつもりはありませんが、ツェンタルヒルシュ公国での勝利は難しいと思います。伝わってきた情報によると、クリスチャンは、かなり優れた将のようで、率いる軍勢も精強とのことです」
「ナーゲリング王国の三将が揃っていても勝てないと?」
ツェンタルヒルシュ公国にはディートハルト、バルナバス。ルッツの三人が揃っている。ナーゲリング王国軍の頂点に立っていた四将のうち三人が揃っているのだ。
「結果論ですが、三将がツェンタルヒルシュ公国に集まってしまったことが劣勢を招いている要因の一つかと」
ノルデンヴォルフ公国領内に竜王軍を追い払うことの出来る優れた将がいれば、補給線の回復も容易だったはず。ヴァイスはこう考えているが、あくまでも可能性だ。領内に残ったノルデンヴォルフ公国軍の将兵の質は低い。総指揮官がどれほど優秀であっても、一人で状況を打開するのは簡単ではない。
「片方は戦略も戦術もない力攻め。もう一方は、きちんと計画された兵糧攻め。戦い方は異なるが、どちらも味方を苦しめていることに違いはない。この状況をどう打開する?」
戦況は連合軍側が不利。このまま同じ戦いを続けていては、敗北が確定してしまう。ヴィクトールとしては、どうにかしてこの状況を打開したい。打開する為の策が必要なのだ。
「それは……やはり、竜王を倒すしかありません。その為には、こちらが有利な戦場に誘い込むこと」
「今もそのつもりだけど……もっと工夫が必要か」
自公国領に引き込んだのは、味方に有利な戦場で戦う為。だが少しくらいの優位性は、アルノルトによって力づくで破られてしまう。アルノルトの力を測り損ね、備えが足りなかったということだ。そうであれば、得た情報を基に、再度、策を練り直すしかない。
「……ヴィクトール様」
「どうした、ブラオ?」
「……グリュンが討ち取られました」
戦場の様子を探っていたブラオの耳は、この事実を捉えた。良く知る人物の声だ。聞き間違いであって欲しいという思いはブラオ本人にあるが、その願いが叶えられることはない。
「……そうか」
「竜王が近づいてきます!」
「…………」
アルノルトが接近している。目的が自分であることはヴィクトールには分かっている。分かっていても、すぐに決断が出来なかった。
「公! お下がりください!」
ヴァイスが後退、ヴィクトールに遠慮のない言葉を使えば、逃げるように促してきた。オスティンゲル公国には竜王軍と同じ弱点がある。ヴィクトールを討ち取られてしまえば、それで負けは確定という弱点だ。
それでもヴィクトールが戦場に出てくるのは、味方の士気を維持する為。危険を犯してでも味方の士気を維持しないと戦線の維持も出来ない。そう考えているからだ。
「早く! 防衛戦はもちません!」
だが、そうしても戦況は変らない。オスティンゲル公国軍は後退を続けることになる。
「ヴィクトール様。ここでは無理です。迎え撃つにしても、もっと場を作るべきです」
アルノルトが自陣奥深くまで突撃してきたことは、討ち取る絶好の機会とも考えられる。だがブラオは、確実に倒せるという自信がない。負ければヴィクトールは死ぬ。オスティンゲル公国は負けなのだ。
もっと戦力を集中させる必要がある。だが、その戦力がまた今日も減らされた。さらに減らされるかもしれない。
「ヴィクトール様!」
その思いが、いつも以上に、ヴィクトールに躊躇いを感じさせる。一か八かでも、ここで戦うべきではないかという思いが頭に浮かぶ。
「……私は……」
「……前に出ろ! 竜王の足を止めろ!」
ヴィクトールは逃げる決断を躊躇っている。力づくでも下がらせたいところだが、本人がその気にならなければ。それも難しい。ヴィクトールはアルノルトに対峙する時の重要な戦力の一人。力ある存在なのだ。
「……私は」
この場で戦う。味方を犠牲にして時間稼ぎをしようというヴァイスの考えが、逆に決断の後押しをした。ヴィクトールのプライドがそれを許さなかった。
「止まりました」
「何?」
だがその決断を口に出す前に、事態は急変する。
「……撤退と口にしたような」
「どういうことかな?」
「……聞き間違いでなければ……ソル殿に何かあったようです」
ブラオの耳でも完全には聞き取れなかった。アルノルトが発した言葉が、そもそも少ないのだ。そのアルノルトの言葉を生んだ何者かの声は、ほぼ聞き取れていない。戦場の喧噪の中での囁き声は、さすがにブラオの耳も捉えられない。
「ソル……彼に何が?」
「分かりません。分かるのは、戦いの最前線にいる竜王の耳に急ぎ入れなければならないことが起きたということ。それにソル殿が関わっているだろうことです」
「……撤退というのは……実際に動くのを待つしかないか」
撤退という言葉は、どこまでを言っているのか。一時的な撤退なのか。それともこの戦場から撤退するのか。後者だとすれば、かなりの大事が起きた可能性が高い。
だが、今は考えても分からない。実際にアルノルトが、竜王軍が動くのを待つしかないのだ。
◆◆◆
戦いの最前線にいるアルノルトに、急いで伝えなければならなかったこと。それはかなり前からツヴァイセンファルケ公国で起きていた。ソルたちが侵攻したのだ。
当初は、たかが千名ほどの軍勢と軽く見ていたツヴァイセンファルケ公国であったが、時の経過と共に危機感が高まって行く。撃退しようと送り込んだ軍勢が、ことごとく負けてしまったのだ。それもまったく歯が立たずに。
ソルたちの移動速度は速く、見る見る公都フォークネレイに近づいてくる。ツヴァイセンファルケ公国の守りを任されていた者たち、実際はアルノルトに顧みられることなく置き去りにされた人たちが、緊急の伝令を送ったのは、この段階。完全な手遅れだ。
「たった千人の軍勢をどうして止められない!? こちらは万の軍勢を投入しているのだぞ!」
「あまりに敵が強すぎます! 寄せ集めの我が軍では、まったく太刀打ち出来ません!」
置き去りにされた軍勢だ。精鋭とは間違っても言えない。さらに最初はもっと数が少なく、それを頼りなく思って、強制動員して集めた兵たち。練度も士気も低い。勝ち目がないと分かれば、すぐに逃げ出す。それでソルたちを防げるはずがない。
「ツェンタルヒルシュ公国め。いや、ノルデンヴォルフ公国か。とにかく、隙を突くなど卑怯な」
今は戦争中。守りの薄い場所を攻めるのは当たり前のこと。連合軍がそれを行わなかったのは戦力が足りなかったからで、竜王軍がその余裕を与えなかったからだ。
「……軍旗はそのいずれのものでもありません」
「何だと? 他にどこが攻めてくる? 両国の軍が戦旗を変えただけではないのか?」
軍旗がどのようなものであろうと、攻めてきているのはツェンタルヒルシュ公国軍かノルデンヴォルフ公国軍、もしくはその二公国の連合軍。それ以外の可能性は、報告を受けた将の頭にはない。
「ナーゲリング王国か、ノルデンヴォルフ公国である可能性は高いと思います」
「では異なる旗を使っているだけではないか。ナーゲリング王国か……将は誰だ? まさか、ディートハルトではないだろうな?」
「違います。将はイグナーツ・シュバイツァーです」
「……今、なんと?」
イグナーツ・シュバイツァーの名も将の頭の中にはなかった。はっきりと記憶はしている。侵攻軍の将である可能性をまったく予想していなかっただけだ。
「元ナーゲリング王国軍、近衛特務兵団のイグナーツです」
「知っている。レアンドル公を一対一で討ち取った男だ……なんだって!?」
イグナーツの名は、一部のツヴァイセンファルケ公国の人間にとっては、強い恐怖を感じさせるもの。絶対的な強者だと思っていた主、レアンドル公を殺しただけでなく、多くの有力な将を討ち取っている。ツェンタルヒルシュ公国侵攻時、ツヴァイセンファルケ公国軍にとっては天敵のような存在だったのだ。
「ですから敵将はイグナーツ」
「分かっている! 竜王様に伝令だ! 敵将の名を伝えろ! 援軍が来ないとフォークネレイは落ちると!」
最初に送った伝令は無視される可能性がある。アルノルトがツヴァイセンファルケ公国を重要視していないことなど、この将は、彼だけでなく、残ったほとんどの臣下が分かっている。
「承知しました」
「しかし……どうしてだ? どうしてイグナーツ・シュバイツァーが……」
この将は残留軍の指揮官を任される立場であるので、一応は詳しい事情を知っている。イグナーツ・シュバイツァーはルナ王女の元婚約者であり、バラウル家とずっと一緒に暮らしていたということを。ナーゲリング王国に仕えていたが、それは復讐の為であり、ここからは間違った認識だが、自分たち側に近い人間であることを。そんなソルが何故、攻めてきたのか。
「ま、まさか……知られたのか……?」
ソルが攻めてきた理由に、この将は心当たりがあった。地下牢に幽閉されているルナを監視すること。時が来たら処刑することも、この将に与えられた役目なのだ。
「まずい……殺される……絶対に殺される……」
ルナの居場所は秘匿すること。これもこの将に与えられた命令。だがその命令を果たすことは出来なかった。そんな臣下をアルノルトはどうするか。この答えも彼は知っているのだ。
「……いや、その前にイグナーツに殺される……彼は殿下の復讐の為にナーゲリング国王を殺したのだ……どうして……どうして、私はこんな役目を……」
ルナに関わる役目を与えられたのが自分の不運。こんなことを考えても、何の解決にもならない。
「まずはイグナーツをなんとかすることか。おい! 地下牢に行って、ルナ王女を連れて、いや、お連れしろ!」
「はっ? ルナ王女ですか?」
部下はルナがこの城にいることも知らなかった。指揮官を任された将と地下牢の見張りをしている何人か。フォークネレイに残った人たちの中では、必要最低限の極一部にしか知らされていない事実なのだ。
「詳しい事情は聞くな! とにかく王女殿下は地下牢に入れられていて、イグナーツの目的は殿下だ。すぐに殿下を解放しなければ、我々は皆殺しにされる。急げ!」
「はっ!」
皆殺しという言葉を聞いて、慌てて駆け出していく部下。その背中を祈る気持ちで見送る将。祈っても無駄であることを、この将はまだ知らない。彼にも知らないことは沢山あるのだ。