空には満月が浮かんでいる。のんびりと眺めている場合ではないのだが、ソルは空に浮かぶ月から目を離すことが出来ないでいた。やるべきことは分かっている。監禁されているというルナを助けに行く。だが決めているのはそれだけだ。どうやって助けるのか。無事に助け出すことが出来たとして、その後、どうするのか。ソルの思考は停止している。まだ頭と心の整理が出来ていないのだ。
アルノルトは他者から見て、かなり問題、被害に遭った人たちにとっては「問題」なんて言葉では片づけられない災厄だが、のある人物であることは分かっている。だがソルにとっては、厳しくはあるが、間違いなく家族だった。ルナとクリスティアンと四人。家族の、家族だけの温かみというものがあった。そんなアルノルトが娘であるルナに酷い仕打ちをするとは、ソルには思えないのだ。
情報の真偽はどうであれ、ツヴァイセンファルケ公国に行かなければならない。行って、確かめなければならない。その思いで、ソルは拠点を離れることを決めた。
「まさか手ぶらでツヴァイセンファルケ公国まで行くつもりか?」
「ウィンディ……」
気配は感じていた。それ以前から付いてくることは予想していた。
「残れなんて言うなよ? 私の命はお前の為にある。それに、ルナ様は私にとっても大切な人だ」
「……分かっている。ただ……」
同行を拒否するつもりはない。ウィンディの命は自分の物、という考えはないが、命が繋がっていることは事実だ。実際にどうなのかは分からない。この先も分かることはない。ソルの死がウィンディにどういう影響をもたらすかを、死んでいる彼が見届けることなど出来るはずがないのだから。
「残れなんて言うなよ? 俺たちはお前に付いて行くと決めた。それだけが俺たちの目的だ。何をするかなんてことは、どうでも良いんだ」
付いて来ようとしているのはウィンディだけではない。ハーゼもカッチェもヒルシュも、ずっとソルと行動を共にしてきた仲間たち全員が揃っている。
「ルナのことは俺個人の問題だ。他の人を巻き込むわけにはいかない」
「だから言っているだろ? 俺たちはお前に付いていく。これだけが俺たちの目的だ。付いて行った結果、何をすることになるかなんて関係ない」
「しかし」
勝算はない。ツヴァイセンファルケ公国の公都がどのような状況なのか。ルナがどのような場所に捕らわれているのか。まだ何も分かっていないのだ。
「私戦に他人を巻き込むことを気にする必要などありません。竜王軍の兵たちは皆、自分の為だけに戦っていると思いますか? ノルデンヴォルフ公国軍の兵、ツェンタルヒルシュ公国軍の兵も同じです」
「同じって……」
ヒルシュの言葉を受け入れることには抵抗を感じる。竜王軍はそうだとしても、連合軍の将兵は自分たちの暮らしを守る為に必死に戦っている。それを私情による戦いと同じとは、ソルは思えない。
「極論を言ってしまえば、戦争なんてものは一部の権力者たちの欲求を満足させる為に起こされるものです。全て私戦です。連合側もそうであることは、ソル殿も理解されているはずです」
「それは……」
本当に民を守りたいのであれば、勝ち目のない戦いに臨むべきではない。従属を受け入れることも選択肢のひとつだと、ソルは口にしたことがある。暮らしを守る為の戦いを否定しているつもりはなかった。勝てないのであれば、勝てる状況が整うまで耐えるべきだという考えだ。かつてバラウル家が起こした侵略戦争で、公国家がそうしたように。
「忘れたのですか? 貴方はルナ殿の復讐の為にナーゲリング王国を滅ぼそうとしていたのですよ? それに比べれば、今回のことは普通のことです」
「……分かりました。ただ確認しておきたいのですが、今の話はここにいる全員の総意ですか?」
ソルの顔に苦笑いが浮かぶ。これからの戦いをヒルシュは「普通」だと言った。確かにその通りだ。かつてソルはナーゲリング国王と三公国の公国主を殺そうと考えていた。王国の実力者、上位四人をたった一人で殺そうなんて大それた試みに比べれば、確かに普通だ。
「もちろん。同行を強いた奴は一人もいない。そうだろ!?」
「「「おうっ!!」」」
千に届こうかという人々が一斉にハーゼの問い掛けに応えた。それと同時に掲げられた旗は、金糸で縁どられた黒地に太陽と月が描かれたもの。
「絶対にこの為に作っていただろ?」
「いい加減に自覚しろ。お前は、この戦乱の時代に引きこもっていることが許されるような存在じゃない。お前がどれほど嫌がっても、時代がお前を求めているんだ」
「買いかぶりだ。この戦いが終わったら、俺はまた引きこもるからな」
「だから言っている。それは時代が決めることだ」
「また引きこもる」はソルの本音。ルナを助け出すことが出来たら、今以上に誰とも関わる必要のない場所で暮らすつもりだ。それはハーゼたちも分かっている。だがソル自身がどう考えていようが関係ない。時代が彼を必要としている限り、ソルの戦いは続く。今回、それは証明されたと思っているのだ。
「……ツヴァイセンファルケ公国の公都、フォークネレイに向かう! 邪魔する者は全て敵だ! 容赦なく蹴散らせ!」
『『『おぉおおおおぅっ!!』』』
雄たけびが周囲に木霊する。ただこれで出発ではない。まだソルには話すべき相手がいる。
「同行するわけではないですよね?」
問いかけた相手は元ツェンタルヒルシュ公国の役人。拠点においては非戦闘員の代表者の一人だ。
「はい。我々もソル殿がこの地を離れることを受け入れていることをお伝えする為にここにおります」
「申し訳ありません。たちまち竜王軍が攻めてくるなんてことはないとは思っていますが」
クリスチャンであれば、意味のない虐殺など行わない。戦う気のない人々が暮らす、この地を攻めることなどないとソルは考えている。だが竜王軍はクリスチャンが完全に統制しているわけではないのだ。
「攻められたら逃げます。逃げてまた皆で暮らせる場所を造りあげます。ただ出来れば、ソル殿には戻ってきて頂きたいと考えています」
「竜王様に敵対した俺です」
「それでも我々は貴方を求めます」
「……分かりました。状況が許すのであれば、また皆さんと共に暮らそうと思います」
恐らくは無理。アルノルトは自分に逆らった者を許さない。実の娘であるルナに対してもそうなのだ。そのルナの婚約者であった自分に容赦などないとソルは考えている。
それでも可能性は残した。アルノルトの殺意が、共に暮らしていた人々にまで向けられる可能性もある。そうなった時は、戻らなければならない。今更、見捨てるわけにはいかないのだ。
動くと決めれば、進めべき道が見えてくる。何者かに導かれているかのように。初めから定めらていたかのように。人はそれを、運命と呼ぶ。
◆◆◆
クリスチャン率いる竜王軍と連合軍の戦いは小康状態になっている。初戦の奇襲で優勢を作りあげ、その後も戦いを優位に進めていた竜王軍が攻勢を緩めた結果だ。連合軍側としては、ホッと一息。この間に態勢を立て直して、というわけにはいかない。そんな隙を与える為にクリスチャンは攻勢を緩めたわけではない。連合側に決断を迫る為だ。
「……降伏条件を聞かせてもらいましょう」
クリスチャンは連合側に降伏勧告を行った。公式のものではない。密かに信頼出来る部下を使者として送って、ツェンタルヒルシュ公クレーメンスに伝えたのだ。その結果、設けられたこの場も非公式のもの。交渉の場に出てきたクレーメンスもそれを薄々感づいている。
そうであってもクレーメンスは拒否出来なかった。わずかであっても立て直しの時間が得られるならと交渉に臨むことを決めた。
「ツェンタルヒルシュ公国、ノルデンヴォルフ公国の存続は許されない。一貴族家として今よりも遥かに小さな領地を治めてもらうことになります」
「命だけは助けるということですかな?」
「受け入れ難い要求ですか? ですが、万一、そちらが勝利しても同じ結果になる。公国という存在は許されない」
今のところ可能性は極めて低いが、連合軍側が勝利を収める結果となっても公国は滅びる。新王国の王はそれを許さない。戦いで力を失っているうちに、将来、自家の座を脅かすかもしれない存在は消し去ろうとするはずだ。
「……確かに」
「それが嫌なら戦いを続けるしかない。ただし、敗北した場合は命も失われる。クレーメンス公御一人の命だけではなく、大勢の命が」
「正直、貴方に命の大切さを説かれても、心に響きませんな」
バラウル家のクリスチャンには言われたくない。バラウル家は他人の命を軽んじている。何の価値も認めていないと思わせるくらいの所業を繰り返してきたのだ。
「クレーメンス公の心に響く必要はありません。私は事実を告げているだけです」
「……では、こちらも事実確認を。この交渉は竜王も承知のことですか?」
承知しているはずがない。アルノルトはこれまで一切、降伏を許してこなかった。ここまで大きな戦いを行った敵を、領地を手放すくらいで、許すはずがないのだ。
「承知しているはずがありません。父の命令は殲滅。逆らう者は皆殺しです」
「では、この交渉に意味はない」
「父にとってはそうでしょう」
クリスチャンは一歩、踏み込んだ発言をした。ここで躊躇っても、それこそ意味がない。クレーメンスには目的を理解した上で、降伏してもらわなければならないのだ。
「……竜王に反旗を翻すつもりですかな?」
クレーメンスには発言を躊躇う理由がない。この情報が洩れて、クリスチャンが失脚、あるいは殺されることになっても連合側の痛手にはならないのだ。今のところは。
「情けないと思われるでしょうが、私には、父に真向から刃向かう力も勇気もありません」
父であるアルノルトを倒して、自分が権力を握る。こんなことはクリスチャンは考えていない。それを行っても自分も力を失うだけ。成り代わろうとする別の者が現れ、戦いが続くだけだと考えている。
「では、何故?」
「一人でも多くの命を残して、戦いを終わらせる為。戦後の発言力を持つ為。そして一番は、父亡き後に暴走するであろう者たちを止める力を持つ為です」
竜王軍の将の多くは忠誠心から仕えているわけではない。恐怖心で従っている者たちは問題ない。問題となるのは、私欲で戦っている将たちだ。
クリスチャンには理解出来ないが、アルノルトはそういう人物を多く手元に置いている。アルノルトに仕えることで、そういう性質が育つのかもしれないが、とにかく危険な人物が多いとクリスチャンは考えている。
一方でアルノルトはそういう者たちの暴走を一定程度で押さえているとも言える。あくまでも目の届く範囲だけで、ツェンタルヒルシュ公国で戦っていた竜王軍の多くは私欲を解放していた。アルノルトという存在が消えた後、全土にツェンタルヒルシュ公国で行われたような暴虐が広がるかもしれない。クリスチャンはそれを止める力を求めているのだ。
「……ソル殿を見逃しているのも、それが理由ですかな?」
「戦後もソルが生き残れるのであれば、貴方たちには頼らないでしょう」
だがアルノルトがどう出るか、クリスチャンには予測がつかない。絶対に生かしてくれるという保証があるのであれば、このような危ない橋は渡らない。この企みが失敗すれば、クリスチャンが先に殺されることになるのだ。
「ソル殿一人は連合軍全体に優りますか……」
「私は彼の成長を見続けていましたから。側で見続け、その才能に嫉妬した。ですが途中から嫉妬することが馬鹿らしく思えてきました」
「……答えてもらえないでしょうが。そんなソル殿でも竜王は倒せませんか?」
ソルの強さはクレーメンスも理解しているつもりだ。自分と同じ力を持つ、自分が苦戦したツヴァイセンファルケ公レアンドルに圧勝したところを見ているのだ。
「分かりません。今の彼の実力を私は知りませんから。ただ、時が経てば父を超える可能性は高いと思っています」
ソルがアルノルト自身が計画した四公による竜王殺害の策略で殺される側に置かれたのは、その才能を脅威に思われたから。ルナも同じ立場に置かれたのは、彼女はそのソルを父であるアルノルトより優先すると思われたから。こうクリスチャンは考えている。
ソルは、いつかはアルノルトを超える力を持つ。だがその「いつか」が既に訪れているのかは、クリスチャンには分からない。分かる必要もない。ソルと父親が戦う想定など、クリスチャンは頭に浮かべたくもないのだ。
「……殿下」
ここで部下が割り込んできた。
「どうした?」
重要な話し合いの最中だからと後回しにすることはしない。分かっていて割り込んできたのだ。重要な用件であることは間違いない。
クリスチャンの耳元に顔を寄せて、囁く部下。発した言葉は聞こえないが、クリスチャンの顔色が変わったことをクレーメンスは見逃さなかった。
「……何かありましたか?」
問いかけても答えてはもらえない。聞かせて良い話であれば部下は堂々と話す。そもそも割り込んでこない、と思ってダメ元で尋ねてみたクレーメンスだったが。
「…………隠してもすぐに知れることでしょう。ソルが軍勢を率いて移動しています」
「なんと!?」
「私のミスです。交渉はここまで。我々は一旦、引きます。他にやるべきことが出来ましたので」
ソルがこの時点で立ち上がることなどクリスチャンにとって想定外。まったく想定していなかったわけではないが、ソルと話し、可能性は極めて低いと考えていた。結果、対処を怠ってしまったのは自分の失敗だとクリスチャンは考えている。
「ソル殿は今どこに?」
「そこまで教える義理はありません。では、申し訳ないですが、話し合いはここまでです」
クレーメンスの返事を待つことなく席を立つクリスチャン。
「今の話を竜王に伝えれば、身内での争いに持ち込めるのでは?」
この交渉について口止めすることも忘れていた。口止めされても、護衛として付いてきていたバルナバスが言ったような事態に持ち込めるのであれば、黙っていないが。
「……無理だろうな。戦える戦力がすでにあるのであれば、我々を仲間にしようなんて考えない。クレーメンス殿と彼に協力した何人かが処分されて終わりだろう」
ただクレーメンスはバルナバスの考えに否定的だ。
「それでも優秀な将が消えることになる」
「その結果、竜王を倒せるのであれば、サー・バルナバスの考えも有りだ。だが絶対に倒せるのか? 倒せなければ、クリスチャン殿が懸念する事態が現実になる」
竜王に逆らおうという存在はいなくなる。その竜王が亡くなった後は、歯止めを失った者たちが私欲を満たす為に戦いを始める。絶対的な強者が居ない中での戦乱は、悲劇を長期化させることになる。
「……結局、ソル次第か」
「ソル殿の目的を掴まなければならない。もし、竜王と戦うことになるのであれば、我々はその場にいなければならない。すぐに動こう」
クレーメンスとバルナバスも、この場を離れて行く。事は、また新たな道筋を見つけて動き出すことになる。