クリスティアン率いる竜王軍にツェンタルヒルシュ公国への補給線を断たれた状況で、ルシェルもただ手をこまねいているだけでは終わらなかった。補給線を回復する為に、領地に残っていたノルデンヴォルフ公国軍を率いて、出撃した。数は五千。補給を妨害する為に展開している竜王軍とは、数の上では、ほぼ互角だ。両公国の領境に広く展開している竜王軍に比べると、一つにまとまっている分、有利と言える。勝ち目は十分にある、と考えていた。
「これ以上の戦いは無理。領地を守ることも出来なくなってしまう」
だが結果は、そのような甘いものにはならなかった。編成したばかりのノルデンヴォルフ公国軍と竜王軍では将の練度が違う。もともとの能力でも段違いの実力差があるのだ。数で劣る敵に散々な目に遭わされることになった。
「……私たちは、なんとしてでも補給線を回復しなければなりません。ツェンタルヒルシュ公国にいる味方を見殺しにするわけにはいかないのです」
敗勢を知って戦いを止めに来たエルヴィンに、ルシェルは自分の思いを告げる。苦しい戦いがツェンタルヒルシュ公国で行われている。戦力で劣勢と考えられている中、物資不足なんて状況を見過ごすわけにはいかない。自分たちの戦いが、ツェンタルヒルシュ公国での勝敗を決めることになるとルシェルは考えているのだ。
「姉上は、その為であれば、ノルデンヴォルフ公国の民の命などどうでも良いと言うのですか?」
「何ですって……?」
「そうではありませんか? 勝ち目のない戦いにノルデンヴォルフ公国の民を送り込むのは、死ねと言っているのと同じです」
自分がそうだった。冷静に戦力分析を行うことなくエルヴィンは周囲の意見に、それも積極派だけの意見に流されて、オスティゲル公国侵攻を決断した。その結果、多くの将兵を死なせてしまったのだ。
「……苦しい戦いであることは分かっています。ですが、私たち以上に苦しい戦いを続けている味方がいるのです」
「それは姉上の自己満足です」
「私にはそんなつもりはありません!」
いつになく辛辣な言葉を口にするエルヴィンに、ルシェルのほうも滅多に出さない大声で応えることになった。彼女には彼女の正義がある。それを否定されるのは、受け入れ難いのだ。
「姉上にそのつもりがなくても、現実はそうです。ツェンタルヒルシュ公国で戦う味方を見捨てたくない、見捨てたと思われたくない。姉上のその思いの為に、ノルデンヴォルフ公国の民は死地に向かうことになりました」
「……いい加減にして。多くの味方が苦しんでいる時に、自分たちだけが安全な場所で傍観しているなんて許されるはずがないわ」
自分だけが安全な場所にいる。近衛特務兵団を率いていた時から、その口惜しさを、情けなさを何度もルシェルは味わっている。自分も他の人たちと同じように、危険な場所に身を置いて、正義の為に戦いたいと強く思っているのだ。
「姉上。それは戦う力を持つ人だけに許されることです」
エルヴィンは引かない。酷いことを言っているという自覚はある。だが彼には自分が悪者になっても戦いを止めなければならないという、ルシェルとは異なる、正義があるのだ。彼は、自分はこの戦乱に参加する資格がないと思っているのだ。
「私は……確かに、私自身には力はないかもしれません。ですが、仲間たちと力を合わせれば、それが出来れば、きっと」
「姉上が期待するその仲間たちは、味方には加わらない。それはもう分かっているはずです」
ソルには何度も使者を送った。だが、その全てが門前払いという扱い。唯一、ソルと顔を会わせることが出来たのはバルドルだけ。そのバルドルも拠点には入れてもらえず、その手前で立ち話が出来ただけだ。立ち話で「クリスティアンを拒絶しておいて連合側の人間を招き入れるわけにはいかない。それでは中立とは言えない」という説明を受けただけだった。
「……ソルはシュバイツァー家の人間です。こちらが招聘しなくても、自ら馳せ参じる義務があります」
「シュバイツァー家の血で彼を縛ることなど出来ないことは、姉上も分かっているはずです。その事実があるから彼は敵に回らないでいてくれる。こう思うべきではないですか?」
シュバイツァー家の血を引いていることなど、何の意味もない。そんなことでソルが味方になるなら、とっくになっている。エルヴィンもこれまで何もしないで、ぼんやりと毎日を過ごしていたわけではない。ソルを味方にするには、どうすれば良いかなどは、ずっと家臣たちと検討していた。その結果、この考えに辿り着いたのだ。
「……分かっています。ですが彼は、彼の力は正しいことに使われるべきです。この戦乱の中、傍観者でいるのはおかしいわ」
ソルには、自分とは違って、戦う力がある。それも飛びぬけた力だ。そのような力を持っているソルが、山の中に籠ったままでいる。そんな状況は間違っているとルシェルは思っている。
「傍観者なのでしょうか?」
「えっ?」
「彼の下に多くの人が集まっています。彼のところにいれば、安心して暮らせるからです。彼は彼の力を逃げ込んできた人たちを守る為に使っています。それを傍観しているとは言わないと、私は思います」
「…………」
ツェンタルヒルシュ公国の人たち、旧王都周辺から逃げてきた人たちだけでなく、ノルデンヴォルフ公国の人たちもソルの拠点に逃げ込んでいる。
さらに拠点に逃げ込むまでしなくてもソルたちが、実際に動いているのはハーゼ等の買い出しチームだけだが、往来している村なども竜王軍からの襲撃を免れている。これはクリスティアン麾下の部隊だからこそだが、そんなことはノルデンヴォルフ公国の人々には分からない。
とにかくソルは、人々が安全に暮らせる場所を作りあげた。それはルシェルも、本心では、認めるところだ。
「姉上はどう考えているか分かりませんが、私は私の力で守れる範囲など、たかが知れていると思っています。ノルデンヴォルフ公国の人々。それさえ、手に余るでしょう」
エルヴィンがソルの行動に共感出来るのには、この理由もある。自分も、自分の器量にあった、やれることをやろうとしている。この考えは間違いでないと信じたいのだ。
「……公式には今もまだ私がノルデンヴォルフ公です。公国主としての権限で軍に退却命令を出します」
「…………」
結局また、ルシェルは自分の無力さを思い知らされることになった。分かっていたことで、そんな結果になることを覚悟もしていた。そうだとしても口惜しさは、彼女の心を傷つける。
それでも彼女はそれ以上、エルヴィンの考えに異を唱えることはなかった。ノルデンヴォルフ公国軍は公都防衛任務に、かなり数を減らしてしまったが、戻ることになった。
◆◆◆
ソルの前に、拠点のリーダークラスと言える人々が集まっている。長がもたらした情報を聞いて、もっと詳しい内容を知ろうと、勝手に集まってきたのだ。
浮かない顔で立つソルの、すぐ目の前にいるのは長とシトリン。元竜王軍の将で、アルノルトに殺されてしまった元恋人の亡骸を背負って彷徨っていた彼に長の部下が接触し、ソルに話をすることになったのだ。ルナの行方について。
「……よく軍から抜けられましたね?」
ルナの行方について話をしたいところだが、ソルはすぐに切り出さなかった。シリトンが何者か分からない。信用出来る人物と見ていないのだ。
「難しいことではありません。竜王は誰が周りから消えようと気にしない。私のことも戦死したと思っている……いえ、思い出すこともないに違いありません」
「近くで仕えていたのではないのですか?」
アルノルトに一切、顧みられることのないような人物が重要な情報を知っているのか、ソルは疑っている。質問への答えそのものが嘘である可能性も。
「竜王の側近くで仕えられる者などおりますか?」
近臣などという存在はアルノルトにはいない。ずっと以前からそうだ。良く言えば、平等に全ての臣下と同じ距離感を保っている。実態を言葉にすれば、信頼している臣下などいない、だ。
「……いないかもしれません。でも裏切りは許さない」
そうであることはソルも良く知っている。だがソリトンが嘘をついていないのだとすれば、ルナの情報を漏らすことは裏切りになる。裏切りに対して、アルノルトがどう反応するかも、ソルは良く知っているのだ。
「もう恐れる理由はありません」
「それは……ヴィオレットさんを殺されたから?」
「……守るものがなくなったからです」
ヴィオレットが殺された。それを防ぐことが出来なかった。彼女を守る為の行動を何もとれず、ただ殺されるのを見ているだけだった。そんな自分がソリトンは許せない。生きる資格などないと考えているのだ。
「残っているのは復讐の思いだけですか……」
「竜王相手に何を、と思っているのでしょう? だが大切な、何よりも大切な存在を奪われた恨みは! 誰が相手であろうと消えることはないのです!」
「その気持ちは分からなくもないですが……」
「分かるはずがない! お前に! ヴィオレットを失った私の気持ちなど分かるものか!?」
自分の苦しみを理解出来る者などいない。シリトンはこう思っている。そんなはずはないのだ。冷静になれば分かることが今の、ヴィオレットを殺された悲しみと恨みに心を支配している彼には分からない。
「ヴィオレットさんの亡骸を背負って歩き続けていたと聞いています。俺も同じことをしました」
「……えっ?」
「ルナの亡骸を背負って、何日も歩きました。正直、その時の記憶はあまりないですし、ルナは生きていましたので、貴方よりはかなりマシですけど」
「……そうでしたか」
生きていたと分かっている今だから「マシ」だと言えるのだ。大切な婚約者を殺されたと思っていた当時の苦しみは、自分の想いより軽いものではないことはシリトンにも分かる。ソルもまた復讐を考え、実際に行動を起こしたこともシリトンは知っている。
「ただ、俺にとってルナは、貴方にとってのヴィオレットさんと同じ何よりも大切な存在であることに違いはありません。ルナの居場所を知っているのであれば、教えてください」
「……分かりました。本当は竜王に殺されたと伝えようと思っていたのですが、本当のことをお知らせします」
真実を語るつもりはシリトンにはなかった。可能性は限りなく低いと分かっているが、ソルがルナを殺されたことへの復讐として、アルノルトと戦えば良いと思っていた。失敗しても構わない。シリトンにとってソルもまたバラウル家の人間なのだ。
だが、ソルは自分と同じだという気持ちが、彼の考えを変えた。またソルにかつてと同じ苦しみを味わわせるのは、忍びないと思ったのだ。
「ルナはどこにいますか?」
「ツヴァイセンファルケ公国の公都フォークネレイにいるはずです。具体的な場所までは私は知りません。おそらくは城のどこかに監禁されているものと思われます」
「……監禁?」
ツヴァイセンファルケ公国にいる可能性はソルの頭にもあった。長の部下たちもその可能性を考え、調査を進めていた。だが「監禁」という言葉がここで出てくるのは想定外。事態をソルは理解出来なかった。
「ルナ殿下は、竜王に何度か逆らったようです。監禁に至る決定的な理由は、無断で公都を抜け出したこと。もともと軟禁状態にあったようですが、さらに竜王の命令を無視したことで行動の自由を完全に奪われることになったようです」
「……嘘だ」
「嘘ではありません。これは真実です。貴方も分かっているはず。竜王は、家族であろうと逆らう者を容赦しません。ルナ殿下も例外ではなかったということです」
「…………」
逆らう者には容赦しない。これはアルノルトの性質というより、バラウル家の在り方だ。それにアルノルトが忠実であることはソルも良く分かっている。
それでも、家族に対しては、また違った対応をとると考えていた。自分とは違う。ルナはアルノルトの実の娘なのだ。
「私のことを信用出来ないとは思いますが、嘘をついておりません。会いに行くつもりなら、お急ぎください。ルナ殿下はすでに殿下ではありません。バラウル家とは関りのない人間として、遠くないうちに……処刑されるという話です」
「嘘だ……嘘だ! そんなことはあり得ない! ルナは! ルナは……そんな……馬鹿な……」
言葉では否定するソルだが、心では完全に否定しきれないでいる。バラウル家とはそういう存在。血の繋がりなど何の保険にもならない。過去の歴史がそれを証明している。
ルナに本当の死が迫っているかもしれない。しかもその原因を作ったのは、まず間違いなく自分。自分はどうしなければならないのか。混乱する頭の中で、この問いだけがソルの頭の中を駆け巡っていた。