オスティンゲル公ヴィクトールは竜王軍を自公国領に引き入れての戦いを選んだ。アルノルトが生きていることを知らなかった当時、前オスティンゲル公の戦略は他国へ攻め込むことを前提としたものだったのだが、アルノルト率いる竜王軍の戦力を把握しきれていない状況で、敵支配地域に攻め込むのは危険だと考えた結果だ。
野戦も避けた。ディートハルト率いる元ナーゲリング王国軍が、アルノルトが自ら率いる軍勢に半数を壊滅させられるという大敗を喫したという事実を聞き、自軍であればそのような戦いにはならないと自信を持ちながらも、まずは慎重に敵戦力を測ることを優先させようと考えたのだ。
結果、初戦は領境近くの防砦を中心とした攻防戦。竜王軍二万に対し、砦に三千が籠って戦うことになった。数でかなり劣るオスティンゲル公国軍としては砦そのものの防御力とその前面に壕や柵で構築された防衛線が頼り。頼りに出来るだけの備えを施したという自信もあった。
「……兵の質は、ある意味、期待通りだな。数が多いだけで恐れる必要はない」
グラオが評価した通り、竜王軍の兵の質は低い。徴兵されたばかりの兵たちが、少しは訓練したとはいえ、初めての実戦に投入されているのだ。質が低いのは当然だ。
「恐れる必要はあるでしょう。あれは死兵です」
副将に任命されたヴィオレットはグラオとは少し違う評価だ。竜王軍の兵たちは死を恐れない戦い方をしてくる。それは脅威だと考えている。
「……俺たちと変わらないだろ?」
アルノルトに仕えるということは、そういうことだ。死を恐れないわけではない。アルノルトに与えられる理不尽な死を恐れて、死に物狂いで働くことになるのだ。
「我が軍の全員が同じ考えを持つわけではありません」
かつてアルノルトに仕えていた人たちはグラオと同じ考えだろうが、オスティゲル公国軍はそうでない人のほうが大多数なのだ。多くの味方が殺されても、かまわず突撃を続ける敵兵に恐怖は感じているはずだとヴィオレットは考えている。
「そうだとしても簡単に崩される我が軍ではない。敵がこの調子で戦い続けてくれるのなら、数の不利はすぐになくなることになる」
「そうなると、あとは質の勝負ですか……その最初の戦いを行うことになりそうです」
竜王軍から中隊程度の部隊が抜け出たのが見える。千の単位の兵士が最前線で突撃を続けている状況での動き。何か異なることを行おうと考えているのは明らかだ。
「……なるほど。どんな手を使ってくるのか分からないが、あえてそれを許す必要はないか。迎撃に出る」
竜王軍の思惑は分からないが、分からないからこそ、攻撃を許すわけにはいかないとグラオは考えた。竜王軍の兵の質は低い。だが防衛線を破られ、混戦となれば、命知らずの戦い方の脅威は増す。数の力で押し切られる可能性は高いのだ。
「迎撃には私が向かいます」
「部隊指揮はお前のほうが遥かに上だ」
グラオが主将でヴィオレットが副将となっているが、指揮能力はヴィオレットのほうが高い。多くの異能者は前線で力を発揮するタイプ。後衛で力を発揮する能力を持つブラオは別にして、ヴィオレットは異能に関係なく指揮官としての能力に優れた人物なのだ。
「彼とは私が戦わなければなりません」
「……もしかして、知った顔か?」
「遠目では断言出来ませんが、恐らくは」
断言出来ないと口では言っているヴィオレットだが、内心では確信を持っている。遠目でも特定出来るくらいの関係を持っていた相手なのだ。
「……戦えるのか?」
昔から敵対関係にある相手であれば心配はしない。だがそうではない場合、ヴィオレットが全力で戦えない可能性がある。敵味方の区別は出来ているつもりの自分でも、躊躇いを覚えるだろうとグラオは思うのだ。
「もちろんです。私はオスティゲル公国の将ですから」
「そうか……分かった。頼む」
本当にこのまま送り出して良いのか。グラオの心の中には躊躇いがある。だが逆に戦いの機会を奪ってしまうことが間違いである可能性もある。どちらか判断出来ないグラオは、ヴィオレットの意志を優先させることにした。
「では、行ってきます」
最前線に向かって歩き出すヴィオレット。その彼女に直卒の騎士、兵たちが続く。味方もほぼ中隊規模の百名ほど。数の上では敵部隊と五分だ。数など関係のない戦いになるのだが。
「シトリン様。敵部隊が」
「こちらの意図に気付いたか……当たり前か」
一中隊が突出して攻撃を仕掛けようとしているのだ。何か特別なことを行おうとしているのは明らか。オスティゲル公国は当たり前に考え、それを防ぐ為の手を打ってきたということだ。
「数はそれほど多くはありません」
「同数でこちらを討てると考えているということだ。恐らくは強敵。竜王様なら喜ぶところだろうけどな」
竜王軍の将全てが血に飢えているわけではない。アルノルトのように強敵との戦いを欲しているわけでもない。楽に戦えて、勝って生き延びることをなによりも求めている将もいる。シトリンはそんな将の一人だ。
「ここで迎え撃つ。攻撃準備」
前進を止めて隊列を整える。横に広がる三列横隊。それでオスティゲル公国軍の部隊の接近を待つ。彼らは魔術部隊。中距離での魔法攻撃を得意としている部隊なのだ。
「もう少し……もう少しだ……第一列! 攻、い、いや、待て! 攻撃停止!」
オスティゲル公国軍の部隊が攻撃の間合いに入った。だが、シトリンの命令は攻撃停止だ。彼も気付いたのだ。接近してきた敵部隊に、良く知った顔がいることを。
「……そんな、馬鹿な? どうしてヴィオレットが敵軍にいる? いや、生きていたことを喜ぶべきか……」
「シトリン様……このまま動かないのは……」
「分かっている。いつでも攻撃出来る態勢でいてくれ」
事情があるのはシトリンの反応で分かる。だが彼らは今、アルノルトの命令で動いている。交戦停止はアルノルトの命令に背くことになるのだ。
「……やはり、貴方でしたか。シトリン」
「ヴィオレット……生きていたのか」
「ええ、生きていたわ。貴方によって竜王に差し出されたこの体を傷つけることなく生きていられたわ」
シトリンに向けるヴィオレットの視線は厳しい。彼女はシトリンに恨みがあるのだ。裏切られたことへの恨みが。
「差し出された? 何のことだ?」
「惚けないで。貴方は竜王の求めに応じて、婚約者であった私を差し出した。出世と引き替えに。それで? 今はどういう立場なの? 私を売って、貴方は何を得たの?」
二人は将来を約束していた。愛し合っていたはずだった。だがそれはヴィオレットの一方的な想い。シトリンはフルモアザ王国での出世と引き替えに、彼女をアルノルトに差し出した。これが彼女のシトリンを恨む理由だ。
「……何を言っているのか分からない。私は、君は任務で亡くなったと聞かされていた。悲しくて、悲しくて、生きているのが辛くて……でも、君は生きていてくれた」
「いい加減にして! そんな嘘で私が騙されると思っているの!? どこまで私を馬鹿にすれば気が済むの!?」
「待ってくれ! 本当に分からないだ! 私が君を竜王様に差し出す!? そんなことをするはずがない! そもそも、竜王様がそんなことを求めたことはない!」
だがシトリンにはまったく身に覚えのないこと。彼はヴィオレットを裏切ったことなどない。彼女は任務を遂行中に亡くなった。そう聞かされていた。
「だから! だから……本当なの?」
もう二度と騙されない。こんな気持ちがあっても、まさかに期待する気持ちが湧いてきてしまう。何かの間違いではなかったのか。そういう思いは、彼女の心の奥底に、ずっとあったのだ。
「本当も何も……私はずっと君が戻ってくるのを待っていた。正直、もう無理だと諦めていた。でも……君はこうして生きて、私の目の前にいる」
「…………」
騙されない。信じたい。二つの思いがヴィオレットの心を揺らす。
「シトリン様。竜王様の目があります」
シトリンの部下が忠告してきた。再会を喜んでいる場合ではない。今、二人は敵味方に分かれている。殺し会わなければならない関係なのだ。
「……貴方……そう、貴方ね?」
だが部下がシトリンに声をかけてきたのは、アルノルトの目を気にして、という理由だけではない。
「……お久しぶりです……なんて挨拶をしている場合ではない」
「挨拶は無用だわ。私が貴方の口から聞きたいのは、真実よ」
「何の話だか。そうやって訳の分からない話をして、何の時間稼ぎだ? 何を企んでいる?」
ヴィオレットの問いの意味をこの男は知っている。彼女に、シトリンの命令として、慰み者としてアルノルトに差し出されることになると伝えたのは、この男なのだ。
「何を話しているのだ? ヴィオレット、コーン? 何があった?」
二人の会話の意味を、シトリンも薄々、理解した。ヴィオレットが誤解することになった原因を作ったのは、少なくとも関わっているのは、部下のコーンだと。
「それは私の台詞だ」
「……り、竜王様」
だが詳しく追及する機会をシトリンは得られなかった。アルノルトがその邪魔をした。
「攻撃! 竜王に攻撃を集中させなさい!」
アルノルトが現れたことを知って、ヴィオレットは部隊に攻撃を命じた。真実を明らかにするよりも、アルノルトを倒すことのほうが大事。シトリンとのことは、その後に考えれば良いことだ。
「止めろ! ヴィオレット!」
だがシトリンはアルノルトと戦うことの無謀さを理解している。敵対すれば、未来を失ってしまうことを知っている。
「竜王様! お願いです! 彼女は……! か……か……コ、コーン……貴様……」
ヴィオレットが止まらないのであれば、なんとしてでもアルノルトから慈悲を引き出す。そう考えたシトリンであったが、その行為のほうを止められてしまう。コーンによって。
コーンの剣が、背後からシトリンの胸を貫いている。ゆっくりと地面に崩れ落ちて行くシトリン。
「竜王様の命に従わないのは裏切り。お前たちも死にたくなければ、早く戦うのだな」
シトリンを殺害したいことを正当化しようとするコーン。周りの人たちもそれは分かっている。分かっているが、言っていることは正しい。戦いを放棄すればアルノルトに殺される。死にたくなければ戦うしかないのだ。
元々、シトリン以外は、戦うことに躊躇いはない。部隊はすぐに動き出した、のだが。
「さっさと先に進め」
アルノルトは、すでにヴィオレットの部隊との戦いを終えていた。
「申し訳ございません。裏切者の始末に少し手間取りました」
「裏切者の始末?」
「シトリンは竜王様の命令に従うことをせず、敵との戦いを止めました」
さらにアルノルトにも自分の正当性を主張するコーン。アルノルトがそれを良しとすれば、それで行いは正しいことになる。後から仲間に文句を言われなくて済むのだ。
「そうか……それは分かったが、お前は誰の許しを得て、それを行った? 私は命じた覚えがない」
「……そ、それは……し、しかし! シトリンは竜王様を……っ!」
宙に舞い上がるコーンの首。
「部隊の指揮は……お前が執れ。やることは分かっているな?」
「はっ! すぐに行動に移ります! 行くぞっ!!」
新たに指揮官に命じられた男が、部隊を率いて、前に進んでいく。当初の命令通り、オスティゲル公国軍の防衛線の一角に穴を空けることを目的とした作戦行動だ。
「……歯ごたえのある敵には中々、出会えないものだな。最初は手探りの戦いということか……であれば、さっさと終わらせるか」
アルノルトもまたオスティゲル公国軍の防衛線に足を向けた。部下に任せるのではなく、自らの力で敵防衛線を粉砕することにしたのだ。この戦場では、命を削るような一騎打ちは出来ない。そう見切った結果だ。
アルノルトの参戦により、竜王軍とオスティゲル公国軍の戦いは、さらに激しさを増すことになる――
「…………ヴィ……ヴィオ、レット……ヴィオレット……」
味方部隊が、アルノルトもいなくなったその場所で、シトリンは地面を這ってヴィオレットを探していた。それが、即死を免れた幸運を捨てる結果となってもかまわない。今の彼にはヴィオレットのことしか頭にはないのだ。
だが、さらなる幸運が訪れることはなかった。
「…………ヴィオレット……目を覚ませ! 目を覚ましてくれ、ヴィオレット!!」
叶えられない望み。アルノルトと正面から戦って、生きていられるはずがない。そんな力はヴィオレットには、自分たちにはないことを、シトリンは分かっている。分かっているが、奇跡を望まないではいられなかった。
「……うわぁあああああああっ!! あぁああああああああっ!!」
物言わぬ死体に抱きつき、叫び声をあげるシトリン。その声は、激しさを増した戦場の喧噪にかき消された。