混沌とした状態が方向性を持って、動き出そうとしている。どちらの動きがそうさせたというわけではない。それぞれが判断を下し、それが方向性を決定付けた。機は熟した、という言葉が表現として正しいのかもしれない。誰にとって、という部分が抜けた状態での。
ノルデンヴォルフ公国のルシェルが、ツェンタルヒルシュ公国への援軍派遣を正式に決定したとほぼ同時期に、アルノルトも動き出そうとしていたのだ。
「オパールに続いて、トルマリン、トパーズも音信不通になりました。敵に討たれたと考えるべきではありませんか?」
ツェンタルヒルシュ公国内での戦いは無駄。その無駄な戦いで味方が次々と失われていく。クリスティアンはこの状況を何とかしたいと思っている。
「戦争だ。そのようなこともあるだろう」
クリスティアンの思いはアルノルトには届かない。臣下の死にも心を動かすことはないのだ。
「一兵士ではなく、将たちです。それも父上直属の。これ以上、戦力を落としてしまって、よろしいのですか?」
敵領内とはいえ、軍人ではない一般人を虐殺していた将たち。死を悲しむ気持ちはクリスティアンにはないのだが、せめて無駄な戦いを終わらせるのに役立って欲しいと思っていた。
「所詮は敵に討たれしまう程度の実力だということだ。惜しむ気持ちはない」
だがアルノルトには通用しない。
「味方の中では実力者です」
「戦乱の中では、これまで埋もれていた者が光を浴びることもある。どうやら敵にはそういう存在がいた。そうであれば、味方にもいるはずだ。そういう者たちを見い出し、引き立ててやれば良い」
代わりであればいくらでもいる、と本気で思っているわけではない。アルノルトは味方の強者よりも、敵の強者を好む。自分の力を本気で試せる相手は大歓迎、それが出来るのであれば味方を敵にすることも躊躇わない。
「……まだ殺すつもりですか?」
「クリスティアン。私が命じたのは、ノルデンヴォルフ公国とオスティンゲル公国へ民を追い込めというもの。殺しているのは私ではなく、死んだ現場の将たちだ」
「そうかもしれませんが、実際に大勢が死んでおります。死んだ者は流民にはなれません」
人の死を材料にアルノルトを説得しようとしても無駄。どれだけ多くの人が亡くなろうと、何も感じないことはクリスティアンにも分かっている。流民を生み出す策なんてものは嘘で、ただ殺すことが目的ではないかと疑っているくらいだ。
「……確かにそろそろ潮時か。軍事作戦を同時に動かす時期だな」
つまり今、ツェンタルヒルシュ公国で行われていることは軍事作戦ではないということ。アルノルトにとってはどうでも良いことだ。
「作戦というのは?」
「そうだな……オスティンゲル公国に攻め込む」
「かなり守りを固めていると聞いております」
もっとも攻めにくい場所をアルノルトは攻撃対象に選ぼうとしている。これもわざとかと、クリスティアンは疑った。
「分かっている。だから、私が自ら軍を率いる」
「それは……危険ではないですか?」
「私が出れば、オスティンゲル公国は戦力を集中させる。必要以上にだ」
アルノルトは自分を囮に使おうとしている。彼が討たれれば、それで勝敗は決まるも同然なのだが、その可能性は考えていない。討たれれば、所詮は自分もその程度の存在。こう考えているのだ。
「父上自ら囮になって、どこを攻めるのですか?」
「少しは自分で考えろ。イングナーツであれば、何も説明しなくても全てを理解しているはずだぞ?」
「私はイグナーツとは違います」
才能の差。とっくの昔にクリスティアンはこれを思い知らされている。アルノルトからの無茶振り、出来もしないことをやれと命じられていると彼が思っていたことを、イグナーツは苦労しながらもやってみせてしまう。最初の頃はそれにひどく落ち込んだものだ。
「ツェンタルヒルシュ公国だ。ただし、これも策だ。ツェンタルヒルシュ公国にノルデンヴォルフ公国軍を引き込む。自領に引きこもられたら面倒だからな」
ノルデンヴォルフ公国は冬になれば雪に覆われる。冬季に戦うのは極めて不利だ。軍の強弱は関係ない。敵は自然。抗っても負けるに決まっているとアルノルトは考えている。これは常識的な考えだ。ノルデンヴォルフ公国の、北の大地の人々はその環境を利用して、他の土地からの侵略をずっと防いできたのだ。
「誘いに乗りますか?」
クリスティアンも理解出来る作戦。だがそれは敵もこちらの意図が読めるということ。わざわざ自軍が不利な場所に出てきて戦うのかを疑問に思った。
「ルシェル・シュバルツァーであれば乗る。話に聞く彼女は、そういう人物だ」
「まさかと思いますが……わざと逃がしました?」
「イグナーツが協力したのは誤算だった。いや、それを唆す者がいたことが誤算か」
正義感が強いルシェルは扱いやすい人物。こう考えて、逃がそうとは思っていたが、実際にはブルーノ財務卿がそう働きかける前に、リベルト外務卿が動いてしまった。さらにソルを巻き込んだのは、アルノルトにとって、完全な誤算だった。
「……エルヴィンであれば引きこもって出てこないように思いますが?」
ノルデンヴォルフ公はエルヴィンだ。エルヴィンの意志が優先される可能性をクリスティアンは考えた。エルヴィンは臆病な人物だとクリスティアンは考えているのだ。
「その可能性は否定できない。だが、どうだろうな? エルヴィンの妻はツェンタルヒルシュ公クレーメンスの娘だ。簡単には見殺しには出来ないはずだ。仮にエルヴィンが公の立場を優先したとしても、ナーゲリング王国軍はどうだ?」
「……ディートハルトの軍がツェンタルヒルシュ公国に留まっているのは、ルシェルの意志だと?」
ディートハルトが率いる元ナーゲリング王国軍はツェンタルヒルシュ公国に留まったまま。元王家のシュバルツァー家が健在な状況で、自分の考えで軍を動かすディートハルトではない。今も彼の忠誠は王家に向けられているのだ。
「ちゃんと頭は回るではないか。私はそう考えている。意見が割れて、ナーゲリング王国軍だけが出てくるのであれば、それはそれで構わない。各個撃破というものだ」
旧王国軍をツェンタルヒルシュ公国軍と共に殲滅することが出来れば、北の脅威はかなり薄れる。ノルデンヴォルフ公国軍が引きこもるなら、薄れるどころか消える。オスティンゲル公国攻めに戦力を集中させ、滅ぼしたあとで、じっくりと攻めれば良い。ノルデンヴォルフ公国だけになった後は、攻略に何年かけても構わない。ゆっくりと削って行けば良いだけだ。
「ヴェストフックス公国が手薄になっていると思います」
ヴェストフックス公国は度重なる徴兵で、国力が衰えている。さらに徴兵した軍勢は、ほぼ全てをアルノルトが手元に置いている。自公国を守る戦力は乏しいのだ。
「攻め込まれてもかまわない。それはそれで穴倉から引きずり出す結果になるからな」
アルノルトにヴェストフックス公国を守るつもりはない。ノルデンヴォルフ公国軍、もしくはナーゲリング王国軍に攻め込まれて滅ぼされてもかまわないと考えている。
どうせ全ての公国を滅ぼすつもりなのだ。計算外ではあったが、ツヴァイセンファルケ公国のレアンドルがソルに討たれたのは、結果としてアルノルトにとって好都合。このまま跡継ぎを認めることなく、ツヴァイセンファルケ公国は滅ぼす。
敵である三公国は戦争で滅ぼすことになるので、残るはヴェストフックス公国だけ。敵が滅ぼしてくれるのであれば、手間が省けるというものだ。
「……父上はオスティンゲル公国攻めの軍を率いるとして、ツェンタルヒルシュ公国は誰に任せるつもりですか?」
計画当初から協力し続けてくれたヴェストフックス公国も、当たり前に切り捨てられる。アルノルトに仕えるということは、こういうこと。忠誠を向けても報われることなどない。分かっていたことだが、改めてクリスティアンは父親の非情さを思い知ることになった。
「決まっている。お前だ」
「……承知しました」
責任ある仕事を任された喜びはクリスティアンにはない。心に湧き上がったのは、試されることへの不安だ。これで任務に失敗し、仮に命を失うことになっても、自分も「所詮はその程度」と評されて終わるのだろうと思った。肉親に対する情もまた、アルノルトにはないことをクリスティアンは知っている。
「この間、戦ったギュンターは物足りない男だったが、ディートハルトは中々の実力者のようだ。面白い戦いが出来るだろう」
「油断することなく、戦いに向き合います」
自分は面白いと思えるのか。ディートハルトはそう感じられる程度の将とはクリスティアンには思えない。油断などしていては、本当に命を失うことになると考えている。
「そうだな。では、すぐに準備に入れ」
「承知しました……父上」
出陣してしまうとアルノルトとは、しばらく話すことが出来なくなる。そうなる前に、クリスティアンには、どうしても聞いておきたいことがあるのだ。
「何だ?」
「……ルナはどこにいますか?」
クリスティアンが知りたいのはルナの居場所だ。彼はルナに会えなくなっているのだ。
「ルナのことは忘れろ。あれはもう駄目だ。私の許しなくイグナーツに会いに行くなど……もう他のことは見えなくなっているのだ」
「そうだとしても……いえ、イグナーツが戻ってくれば良いのではありませんか?」
父親に無断で婚約者に会いに行ったことは、それほどの罪なのか。恐らくは、ルナはどこかに監禁されているのだろうとクリスティアンは考えている。殺されているなんてことは想像もしたくない。自分の近い未来に、絶望しかなくなってしまう。
「……戻ってくるのであれば、そうかもしれない。だが、イグナーツは今も戻ってきていない」
「本人にその意志があるのであれば、戻ることを許されるのですね?」
「……その意志があるのであれば、まずは戻ってくるべきだ」
「…………」
アルノルトは「許す」という言葉を口にしない。許さないという選択も十分に、恐らくはその可能性のほうが高いのだろうとクリスティアンは判断した。イグナーツの才を認めているからこそ、敵にしたいのかもしれないとも思った。
理由はどうであろうと、イグナーツが戻ることを許されないとなれば、ルナはどうなるのか。最悪の結果を、クリスティアンは想像させられることになった。
◆◆◆
竜王軍が悪逆非道を尽くしているアルノルトの支配地域においても、人々は生きている。街や村を襲われ、全てを焼き尽くされ、住む場所も財産の全てを失うことになっても、将来に絶望しかなくても、その日一日を懸命に生きている。そういう集団が、支配地域のあちこちに存在しているのだ。
そのほとんどは、いずれ来る死の時を少しでも先延ばしにしようと足掻くことしか出来ない人たち。竜王軍に抗う力などない存在だ。生き続けているというだけで、十分に抗っていると言えるのかもしれないが。
「本当に行くのですか?」
「ああ。私が生きていられるのは、貴方たちのお陰だ。世話をしてもらったことには本当に感謝している。だが私は、戦場に戻らなければならない。それが私の義務であり、生き延びた意味なのだ」
アルノルトの部下との戦いで死を覚悟するほどの大怪我を負ったバルナバス。だが彼は生き延びた。何か月も寝たきりでいるような大怪我から回復した。それは瀕死の彼を助けてくれた人々のおかげ。助け、自分たちが生きるのも厳しい状況で、献身的な看護をしてくれた心優しき人々のおかげだった。
「死の淵から生還した身で、また死にに行くのですか? 正直、そのお気持ちは私たちには理解出来ないものです」
回復といっても、まだ元のように戦える体になったわけではない。元々、バルナバスがどれほどの強さであったかなど知らなくても、それは分かる。ずっと寝たきりの身で、ようやく二か月前に立って歩けるようになったばかりなのだ。
「……そうだな。愚かな行為に思えるのは分かる。だが、私は戦わなければならない。それが貴女たちへの恩返しなのだ」
このまま何もしないままではいられない。人々を苦しめている根本原因であるアルノルトを討たなければ、安寧な日々は戻ってこない。その為に自分は何が出来るかをバルナバスが考えた時、答えは「戦う」以外にはないのだ。
「このようなことを聞いても意味はないと分かっているのですが……勝てるのですか?」
勝てるとは思えない。相手は竜王アルノルト。百六十年、支配し続けたバラウル家なのだ。
「救われた命を捨てることになっても、勝つために戦う。今はこうとしか言えない。だが、この想いは私だけのものではない。同じ想いを抱いて戦っている仲間たちがいる」
「そうですか……ひとつお願いがあるのですが、聞いていただけますか?」
「貴女たちには返しきれない恩がある。私が出来ることであれば何でも」
アルノルトを倒すことも恩返しだとバルナバスは考えているが、それが実現出来るかは分からない。そうであれば目の前の、今出来ることは、叶えてあげなければならないと思っている。
「何人か連れて行ってもらえませんか?」
「それは……戦場にではないな?」
「はい。先日ここを訪れた人たちは北へ、ツェンタルヒルシュ公国に向かうそうです。なんでも安全な地がツェンタルヒルシュ公国にはあるということで」
いくつかの小集団は、同じ場所に留まることなく、安全な場所を探して移動している。そういった集団がこの場所に辿り着き、話を聞いたのだ。王都周辺から人目を避けてノルデンヴォルフ公国に向かおうとすると、必ずではないが、この辺りを通過することになる。ここで暮らす人たちにとって、リスクはあるが、そういった集団との交流は意味がある。必要な物資を手に入れることが出来る時もあり、逆に余っている物を売る時もある。それに新しい情報が入手出来るというのは、とても大切なことだ。
「それは恐らく間違った情報だ。私の推測では、ツェンタルヒルシュ公国は今、戦いの最前線。もっとも危険な場所のはずだ」
「そうですか……ですが、その人たちは頼るべき人がそこにいるらしいという情報が仲間から届いたと……」
「頼るべき人? それは誰のことだ?」
人々が身を寄せる相手として選ぶ人物。バルナバスの頭に最初に浮かんだのはルシェル王女だった。ナーゲリング王国の王女である彼女を、王国の民が頼りしようとするのは当然のことだとバルナバスも思った。
「その人たちにとっては命の恩人と言えるような人だということしか分かりません」
「命の恩人……? もしかして……その人たちは……異能者か?」
ルシェル王女を命の恩人だと思う人たち。それを考えた時、バルナバスの頭に浮かんだのは旧フルモアザ王国の残党たち。そうなるとまた別の可能性が思い浮かぶ。実際に彼らが命の恩人だと思う相手は、ルシェル王女ではないことをバルナバスは知っているのだ。
「……いえ、それも分かりません」
「そうか……分かった。具体的な場所が分からない状況では、そこまで送り届けることは約束出来ない。だが、そこが見つからなくてもノルデンヴォルフ公国に行くという手がある。無事にツェンタルヒルシュ公国の都まで辿り着けたら、その手配をしよう」
問いに答えるまでに、わずかに空いた間は躊躇い。彼女が嘘をついている可能性をバルナバスは考えたが、それを口にすることはしなかった。
「本当ですか? ありがとうございます!」
ノルデンヴォルフ公国に、それも恐らくは特別なコネを使って、行くことが出来る。彼女としては、本当にあるか分からない安全な場所よりも、そのほうがありがたい。ノルデンヴォルフ公国で住む土地を与えられ、無事にそこに辿り着けるのであれば、ここに留まる理由はないのだ。
彼女からこの話を聞いた全員が、バルナバスに同行することになった。