ノルデンヴォルフ公国とオスティンゲル公国の停戦および対竜王軍事同盟は成った、といっても具体的なことは。これから。多くのことを話し合い、取り決めて行かなければならない。
まずは停戦条件。優先すべきは竜王との戦い、それに勝利する為の方策を考えることではあるが、だからといって何も取り決めないというわけにもいかない。竜王アルノルトとの戦いが勝利に終わったあとの両国の関係について、ある程度は定めておかなければならないのだ。
ナーゲリング王国は復活、オスティンゲル公国は王国の臣下なんてことをノルデンヴォルフ公国側が言い出すことを、オスティンゲル公国としては許すわけにはいかない。ルシェルが信頼出来る人物であるということは関係ない。彼女一人の意志でノルデンヴォルフ公国、そして旧ナーゲリング王国が動くわけではない。さらにそのようなことを許しかねない状況では、オスティンゲル公国の人たちも停戦に納得しない。
「ということで、こちらとしては、一番良い条件は婚姻だと考えています」
ノルデンヴォルフ公国との交渉担当はヴァイスが務めている。公都から文官を呼び寄せている時間が惜しいので、ノルデンヴォルフ公国の公都に近い戦場にいた彼に任されたのだ。
「それは、ルシェルとヴィクトール公の結婚ということか?」
ノルデンヴォルフ公国側の交渉窓口はエルヴィン、とルシェル自らが務めている。軍事に関してはルシェルは役に立たない。オスティンゲル公国との交渉以外の仕事は、それほどないのだ。
「はい。そうです。戦いに勝利したあとは、お二人の王朝が築かれることになります。公平だと思いませんか?」
「……ノルデンヴォルフ公国はどうなる?」
「公国は必要でしょうか? 我々は無用のものと考えております。これはオスティンゲル公国も含めてのことです」
新しい王朝に公国という存在は必要ない。野心に繋がる力など、臣下に与えるつもりはないのだ。
「シュバルツァー家は一貴族家になるということか?」
「ご自身のことを心配されているのでしたら、それは無駄な心配です。エルヴィン公はルシェル様の弟君。その立場に相応しい地位が与えられることになります」
「……結局、公爵か」
爵位の中では最高位。だが爵位と実際に与えられる力は別。そうであることをエルヴィンは知っている。ナーゲリング王国の建国がなければ、シュバルツァー家の中で、そういう地位に置かれていたはずのエルヴィンなのだ。
「余計なことに煩わされることなく、日々の暮らしを楽しく過ごしていれば良い。私には、かなり贅沢な人生だと思えます」
「それは……確かに」
もともとは野心というものを捨てきっていたエルヴィンだ。怠けて、贅沢な暮らしが出来るというヴァイスの話には魅力を感じる。妻のアンネリーゼはどう思うかは別にして。
「詳細について決めるのは、まだずっと先のことです。今必要なのは方針を確定させること。ルシェル殿下はどうお考えですか?」
ルシェルとヴィクトールの結婚が決まれば、それで停戦条件としては十分。自公国とルシェル支持のノルデンヴォルフ公国の人たちの力を合わせれば、反対する人たちは押さえ込めるとオスティンゲル公国は考えている。
「……私はかまいません」
ヴィクトールとの結婚。政略結婚であると分かっていても、ルシェルはそれを受け入れるつもりだ。オスティンゲル公国に都合の良い条件ではあるが、勝者がより上の立場になるのは当然のこと。それ以上に、少なくともノルデンヴォルフ公国とオスティンゲル公国の争いがなくなるという点では、ルシェルにとっても最善の条件だった。
「では婚約は成立ということで、よろしいですか?」
「はい。必要な手続きがあれば、すぐに進めます」
「こちらもそうさせていただきます。さてこれで停戦条件については、一旦は確定です。書面を用意して、ご両人の署名を頂けば……婚約手続きと一緒ですか。どのような手続きになるにしても、文官の出番です」
停戦交渉の窓口としてのヴァイスの仕事はこれで終わり。予想以上に簡単な仕事で終わった。ルシェルが政略結婚をこの場で了承するとはヴァイスも思っていなかったのだ。
「……あの、ソルは?」
席を立とうとするヴァイスに、ルシェルはソルについて尋ねてきた。
「ああ……やはり、戻られていませんか」
「戻られていない、というのは?」
ルシェルは、ソルはオスティンゲル公国と共に行動しているものだと考えていた。ヴィクトールであれば、それを望む可能性があると。だがヴァイスの反応は、そうでないことを示している。
「一通りの話し合いが終わったあと、我々には何も告げずに、いなくなりました。貴家に戻られた可能性も考えたのですが、そうであれば、そう言って去られるだろうと」
「行方不明ということですか?」
「そうなります。ただ、一人ではないと思われます。同行してきた人たち全員がいなくなりましたので」
「ミスト、それに第二隊の人たちが一緒ですか……」
そうであれば大丈夫、とはルシェルは考えられない。今はミストも、ソルの為だけに行動することを選ぶ。他の人たちも同じだ。彼らの忠誠はソルだけに向けられていると、ルシェルは考えている。
「竜王に味方することはないとおっしゃっていました。我々はそれを信じるしかありません」
「オスティンゲル公国はソルの言葉を信じるのですか?」
自分でも不安に思うそれを、ソルの言葉だけでオスティンゲル公国が信じようとしていることが、ルシェルは意外だった。自分のソルとの繋がりが弱いように思えてしまった。
「個人的には信じています。あれで、あの方は意外と裏表がありません。味方しないというのは本心だと思っています」
「そうですか……」
「ただ公国としては裏付けをとっています。あの方から提供を受けた王国中央の情報が事実であるかを確かめることがそれです。ああ、お二人に隠す必要はありませんか。このあと軍の方たちと話すことです」
停戦交渉はあっさりと終わったが、ヴァイスはまだこの地でやることがある。今度は軍人として旧ナーゲリング王国軍、ノルデンヴォルフ公国軍と基本方針について話し合うことだ。
「旧ナーゲリング王国軍五千がツェンタルヒルシュ公国に入りました。恐らくはサー・ディートハルトが率いる部隊だと思われます。一万だったはずの軍勢が五千になったというのであれば、単純に喜べる話ではありませんが」
「そんな……」
ナーゲリング王国軍の主力と言えるディートハルトの軍勢が大敗した。その事実にルシェルは動揺している。これからの戦いの厳しさを、改めて思い知らされた。
「一月くらい前の情報となりますが、竜王軍は、あっ、我が公国は鬼王ではなく竜王と呼ぶことになりました。竜王軍はツェンタルヒルシュ公国への本格侵攻を開始しておりません。わざわざツェンタルヒルシュ公国軍に建て直しの時間を与える理由は不明ですが、ソル殿は、退屈な戦いにうんざりしたのかもしれないと言っていました」
「退屈な戦いというのは、どういう意味ですか?」
「竜王が言っていたそうです。王都での戦いは退屈だったと」
「…………」
その王都の戦いで多くの人が殺された。ルシェルの兄、ユーリウス王も亡くなった。それを退屈というアルノルトに、ルシェルは怒りを覚えた。人と人が殺し合う戦いに面白さを求める精神が理解出来なかった。
戦いそのものに意味を見い出せないルシェルには、絶対に受け入れられないことだ。
「準備の時間があることは良いことですが、次に竜王軍が動き出す時はこれまで以上の激しい戦いになるものと思われます。いきなり決戦などという事態も予想されています」
「もしそうなるとすれば、決戦の地はどこだと考えているのですか?」
「ツェンタルヒルシュ公国です。ただこれについてソル殿は、自信はないと言っていました。全軍が集結しての戦いが、竜王が求めるものか分からないそうです」
自分の目が届かない場所で戦いが行われているのを嫌がり、全軍集結しての戦いを求めるのであれば、場所は王国中央であるツェンタルヒルシュ公国になる。こうソルは考えた。だが、絶対にそうだと言いきる自信はない。アルノルトが何を考えているかなど、正確に読み取ることは出来ないのだ。
「違うとすれば、どういう戦いになると考えているのですか?」
「予測は難しいです。ツェンタルヒルシュ公国が引き続き戦場になることは確定として、わが国と貴公国の両方にも同時に攻め込んでくるのか。我が陣営にとってそれは望ましい展開なのか。検証を進めているはずです」
基本は守る側が有利。早くから領境の守りを固めてきたオスティンゲル公国にとっては、特にそうだ。ただそれだけでは判断出来ない。継戦能力も要素に入れ、守りの戦いが本当に自陣営に有利なのかを考える必要がある。
竜王アルノルトの生存は、オスティンゲル公国にとって想定外。ヴェストフックス公国とツヴァイセンファルケ公国、さらに王都周辺を支配下に置いた勢力と、いきなり戦うということは、あまり考えられてこなかったのだ。
「サー・ルッツはヴェストフックス公国に攻め込むことも選択肢のひとつだと言っていました」
「はい。守るのではなく攻めるのも選択のひとつです。そうすることで敵軍を分散させることが出来ます。そうなると数の上では、こちらの陣営が有利だと思うのですが……」
「質で負けると?」
「最終的には竜王を討てるかどうか。万の敵味方が戦う戦場においても、たった一人で戦局を変えられるような存在ですと、局地戦で勝利してもあまり意味はありません」
それが出来るのが竜王、バラウル家の力。だからこそ、人々は百六十年以上も圧政に耐え続けていた。耐えるしかなかったのだ。
「……ソルの血筋はバラウル家の主家だったそうです」
「えっ……? それはどういうことですか?」
「ドラクリシュティ家というそうです。バラウル家は主家であるドラクリシュティ家を滅ぼす為に、この大陸にやってきたと伝わっているようです」
「……そうしなければならないほど、その家の力を恐れていたということですか……それが事実であれば……」
竜王アルノルトはこの事実を知っているのか。知らないとすれば、この事実が明らかになった時、どう出るのか。ソルはどう対処するのか。もしかするとソルを戦いに引きずり込むことが出来るかもしれない。
だが可能性があるというだけだ。逆にソルは、二度と表舞台には上がってこないかもしれない。戦いを避けようとすれば、そうなる。
「ソルはなんとしても味方にしなければなりません」
「我々もそう思っています。ただ、なんとしても、という部分には同意出来ません。扱い方を間違えると逆効果。敵に追いやることになるというのがヴィクトール様のお考えです」
「……そうでしたか」
オスティンゲル公国とは微妙に考えが異なる。ソルの件では全面的に協力関係を築くというわけにはいかないようだと、ルシェルは考えた。
「どちらにしても居場所くらいは突き止めておかなければです。ただ、人手を回す余力がない。ですので、どのような些細な情報であっても共有して頂くようにお願い致します」
「分かりました」
◆◆◆
現状、行方不明状態となったソル。ただ本人にその意識はない。オスティンゲル公国軍の陣営を密かに抜け出したのは事実だが、完璧に雲隠れすることは、今は、不可能だと考えている。それを許さない人たちが離れてくれないからだ。
「……どこまで付いてくるつもり?」
「どこまで行くつもりだ?」
ソルの問いに答えを返すとすれば「どこまでも」。ただそう答えることに意味はない。分かりきっている答えなのだ。
「何度も言っている。決めていない」
ソルにとってもハーゼの問いも分かりきっている答えを求めているもの。行く宛など今はないのだ。
「じゃあ、どうしてここに来た?」
今、ソルたちがいるのはツェンタルヒルシュ公国領内。今現在、もっとも活発な戦場であるだろうツェンタルヒルシュ公国にソルが足を向けた理由が、ハーゼには分からない。
「他に選択肢がないから。ノルデンヴォルフ公国には戻れない。オスティンゲル公国にいるのも変。ツヴァイセンファルケ公国では俺は恨まれているはずだ」
そうなると選択肢はツェンタルヒルシュ公国しかない。ツェンタルヒルシュ公国のクレーメンスは、自分の居場所を積極的に探すことはしないだろうという思いも、ソルにはあるのだ。
「ツェンタルヒルシュ公国に住むつもりか?」
「そうしたくはない……ああ、もう良い。本当は、腐死者の森に行こうと思っていた。でも、こんな人数では行けないだろ?」
ソルが知る中で、もっとも人が近づかない場所。森そのものは焼かれてしまったが、その先の山中も人が近づく場所ではない。普通の人は近づけない。身を隠すというより、一人でじっくりと考えを巡らすには良い場所だ。ある意味では、ソルにとっての出発地と言える場所に、一度戻ってみるという意味もある。
「……なんとかなるだろ?」
「ならない。前回は完全に危険を避けて通ることが出来た。本来の腐死者の森はあんなじゃない。しかも、一か所に留まるとなれば危険度は飛躍的に増す」
自分一人であれば、なんとかなる。だが正直、足手纏いな人たちを大勢抱えて、腐死者の森で暮らす自信はソルにはないのだ。
「……じゃあ、仕方ないか。別の場所を見つけるしかないな」
「そこで、邪魔しないように別行動を選ぶという気遣いはないのか?」
「ない」
「…………」
ソルを一人にしてしまうと、二度と会えなくなる可能性がある。ミストの同行は許されるとしても、同様だ。広い王国で本気で隠れ住むことを選んだソルを見つける自信はハーゼにはないのだ。仮に王国情報局を動員しても無理だろうと思っている。
「とりあえず、今日の寝床を決めよう。野宿も疲れたから、どこかないのか?」
「この程度で疲れて、腐死者の森で暮らせるか」
ハーゼがこの程度で疲れるはずがない。話題を変える為の嘘だと、ソルは受け取っている。
「良いだろ? お前だってベッドが恋しいだろ? ああ、恋しいのはベッドじゃなくて、ミストの体か?」
「殺す!」
「冗談! 冗談だ!」
という具合に簡単に話題を変えられたソル。話を深堀りするつもりはソルにもないのだ。この先どうするか。この問いの答えを得られるとはソルには思えない。何をするでもなく、ただ時間が経過するだけ。今はそんな状況が望ましいのだ。