王都、今はなんという王国の王都なのか分からないが、とにかく王都周辺、大陸南部の中央から南部にかけての地域では、今も戦いが続いている。竜王アルノルトによる支配を受け入れない人たちが立ち上がった、わけではない。戦わざるを得ない状況にアルノルトによって追い込まれたのだ。
アルノルトは王都周辺で早速、貴族制度の廃止を進めた。大人しくそれに従えば良し。抵抗する姿勢を見せた貴族家には、容赦なく討伐軍を送るという強引なやり方だ。
しかも、その討伐軍の指揮官たちは降伏を認めようとしない。逆らった者には死を。バラウル家のやり方を忠実に守って、従わない貴族家を滅亡させようと動いた。
指揮官たちも血に飢えているのだ。そういう者だからこそ、多くの人の命を奪う理不尽な計画を支持し、アルノルトの下で働いているのだ。
実際にいくつもの貴族家が滅ぼされた。その家の血を引いていると乳飲み子でも殺された。仕えていた人たちも、領民も殺された。地域のあちこちで虐殺が行われた。竜王による統治の復活を、人々は最悪の形で思い知ることになった。
「……竜王が、さらに残虐な王となって帰ってきたということですか」
さらにその残虐さは、貴族家以外にも向けられている。フルモアザ王国の旧臣たち。ナーゲリング王国に仕えることをせず、反抗姿勢を取り続けていた人々にまでだ。
「急ぎ、臣従を誓うべきではありませんか?」
「それで我らは救われますか? 噂では、そうしようとしたタウルフリオス党は、その場で皆殺しにされたそうです」
「そんな……我々は竜王様を裏切っていない」
裏切るどころか、フルモアザ王国滅亡後も忠誠を見せていた。虐殺の対象にされる理由はないはずなのだ。
「全てが竜王様の意向とは限りません。我らのような旧臣の復帰を望まない者たちがいるのです」
聖仁教会に代表されるアルノルトが潜伏している間、ずっと仕えていた臣下たちだ。彼らは自分たちの立場を脅かす、そこまでいかなくても、得られる地位や財を減らす存在を受け入れたくない。そう考えて復帰を邪魔しているのだ。単純に、手応えのある相手と戦いたいと思っているだけの者もいる。
「……何も知らされていなかった時点で、我々は用済みですか」
アルノルトの選別は終わっている。仕えることを許す相手には計画を伝え、そうでない、不要となった者たちには何も知らせず、放置した。そういうことだと理解した。
「仮に許されたとして、貴方は同じことが出来ますか? 同士を、罪のない同士を殺すことが出来ますか?」
「…………」
アルノルトにこれを問われれば、迷うことなく「出来る」と答えなければならない。それが出来なければ殺される。全てに従順でなければ、アルノルトの下では生きていけないのだ。
「……かつては、それが出来た。ですが今は……自由を知ってしまった今は……」
死の恐怖におびえる必要のない暮らしを知ってしまった。自分の心を殺して、他人の命を奪うなんて真似をしなくて良くなった。一度、それを知ってしまえば過去には戻れない。戻れない性質だから彼らは今、アルノルトの下にいないのだ。
「逃げましょう」
「どこに逃げるのですか?」
「……とりあえず、北に」
選択肢は他にない。東のツヴァイセンファルケ公国と西のヴェストフックス公国は竜王の支配下にある。そうでない公国は北のツェンタルヒルシュ公国、そしてノルデンヴォルフ公国だ。オスティンゲル公国もあるが、そこに向かうにも、まずは北に逃げるしかないのだ。
「それしかありませんか。皆に伝えてください。北に向かう意志のある者はすぐに準備をするようにと」
「……承知しました」
北への道のりも楽なものではない。竜王の配下に遭遇し、戦いになる可能性はかなり高い。生きて竜王の支配地域から逃げ出せる保証はないのだ。だから「意志ある者」という条件を付けたのだ。
だが座して待っていてもその先にあるのは死。そう思う人たちは皆、北に向かうことになった。
◆◆◆
竜王アルノルトに従えなかった人たちにとって、今の状況は地獄。いつ訪れてもおかしくない理不尽な死に怯える毎日だ。では、竜王の臣下となっている人たちにとって、今は天国なのか。そうとは限らない。人の心を残している人たちにとっては、やはり地獄なのだ。
「……また徴兵ですか? これ以上、人手を奪われて、公国の民はどうやって暮らしていけば良いのですか?」
そう感じている人はヴェストフックス公国にもいた。ヴェストフックス公リージェスの息子、トゥーリアだ。
「断れば、もっと悲惨な目に遭うことになる。王都周辺の惨状を知らないのか?」
ヴェストフックス公も望んで徴兵を繰り返しているわけではない。アルノルトの命令に逆らえないのだ。
「知っています。我々が過ちを犯したということを」
「迂闊な発言をするな。どこで誰が聞いているか分からないのだぞ?」
アルノルトたち、バラウル家の人間はヴェストフックス公国からいなくなった。だからといって安心は出来ない。監視の目が残されているのは間違いないのだ。
「……父上。戦いに勝ったとして、それで国民は幸せになれるのでしょうか? これは本当に一時の苦しみなのでしょうか?」
戦いが終わってもアルノルトによる悪政が続く。ヴェストフックス公国の人たちは、ずっと苦しむことになる。トゥーリアは、もうそれが分かってしまった。
「殺されるよりはマシだ」
「世の中には死ぬよりも辛いこともあるのではありませんか?」
「お前はそれを知っているのか?」
知るはずがない。ヴェストフックス公、ブルッケル家の継子として、何不自由のない暮らしを送ってきたはずなのだ。
「……いずれ知ることになります」
その自覚はトゥーリア本人にもある。自分が領民たちの苦しみに、本当の意味で、共感出来ないことは分かっている。それでも彼は、将来の公国主として、領民たちの幸せを考えなければならないと思っているのだ。
「では、そうなってから偉そうなことは言え」
「それでは手遅れです。竜王は貴族家を滅ぼそうとしています。それでどうして公家が無事でいられましょうか?」
王都周辺の詳しい状況はトゥーリアの耳にも届いている。貴族家が次々と滅ぼされている事実を知っているのだ。
「だから、滅ぼされる前に立ち上がるべきだと?」
「そうです」
「それこそ、相手の思う壺であると、どうして分からない?」
情勢についてはリージェスもきちんと理解している。アルノルトのやり方はでたらめだ。だがそう思うのは、目的を理解していないから。アルノルトの目的は敵を作り上げること。わざと多くを敵側に追いやろうとしているのだ。
大陸制覇のやり直しなど、多くを殺す口実に過ぎないことをリージェスは理解しているのだ。
「……思う壺であっても良いではありませんか」
「立ち上がっても、すぐに叩き潰される。まさか、侵攻軍は今も味方だと考えているのではないだろうな?」
先に王都に送り出したヴェストフックス公国軍。それはもう完全にアルノルトの支配下にあるとリージェスは考えている。もう自分の命令など聞きはしないと。軍事においては、リージェスは完全に実権を奪われているのだ。
「しかし……今、立ち上がらなければ……」
勝利を得られる可能性は、限りなく、無に近くなる。トゥーリアはツェンタルヒルシュ公国が戦っている間に、参戦すべきだと考えているのだ。
「なるほど。トゥーリア、お前、勘違いしているな?」
リージェスはトゥーリアの勘違いに気が付いた。トゥーリアが焦っているのは、ツェンタルヒルシュ公国軍に戦う力があるうちにと考えていることが分かったのだ。
「私が何を勘違いしているというのですか?」
「ツェンタルヒルシュ公国軍がツヴァイセンファルケ公国軍に勝てたのは、クレーメンス公の力ではない。あれはイグナーツ・シュバルツァーが為したことだ」
「そうだとしても、シュバルツァー家が…………イグナーツ?」
シュバルツァー家であっても同じこと、と考えたトゥーリアであったが、その名に聞き覚えがあることに気が付いた。バラウル家の人々が、まれに、その名を口にしていたことを。
「イグナーツ・シュバルツァーはルナ殿下の婚約者。バラウル家側の人間だ」
「……どうして、レアンドル公を?」
バラウル家側の人間が味方であるはずのレアンドルを討ち取った。その事実に、トゥーリアはわずかな期待を残していたのだが。
「敵味方は関係ない。自分を殺そうとした相手を殺しただけ。いかにもバラウル家の人間らしい振る舞いだ」
「……そう、ですか」
リージェスにその期待も打ち砕かれることになった。個人的な復讐の為に味方であっても殺す。リージェスの言う通り、バラウル家の人間がやりそうなことなのだ。
「もし勝利の可能性があるとすれば、それはオスティンゲル公国だ。大陸制覇を虎視眈々と狙っていたオスティンゲル公国が、どの程度の戦力を持っているか次第だな」
「ですが、そのオスティンゲル公国はノルデンヴォルフ公国と戦っています」
「ああ、そうだ。愚かなことだ。そんなことで竜王に勝てるはずがない。まあ、ルシェル殿下が無事にノルデンヴォルフ公国に戻れたのであれば、今頃はすでに停戦に動いているだろう。それでもな」
明らかに後手に回っている。ここまでの戦いは、いくつかの誤算はあったにしても、竜王の思い通りの展開。思い通りに進み過ぎて、敵を増やそうとしているくらいだ。オスティンゲル公国に力があっても逆転は難しいだろうとリージェスは考えている。
「四公国の連合であれば」
「お前は一番大切なことを分かっていない」
「何ですか、それは?」
「我々が味方すると伝えても、信じるはずがない。すでに我々は一度、裏切っているのだ。我々を味方だと思ってくれる相手などいないのだ」
ヴェストフックス公国はユーリウス王を騙して、王都を落とし、ナーゲリング王国を滅ぼした。そんな真似をしているヴェストフックス公国が、竜王を裏切って味方するなどと言っても、信じてもらえるはずがない。味方として受け入れられず、ただ竜王を裏切ったという事実が残るだけだ。
ヴェストフックス公国は孤立しているのだ。もう自分たちの意志では動けなくなっているのだ。
◆◆◆
息苦しさを感じて目を覚ましたつもりが、まだ夢の中だった。光といえば、扉の隙間からわずかに漏れ出ている隣室の灯りと窓から、これもわずかに、差し込む月明り。薄暗い部屋であるはずなのに、その人は輝いて見えた。
月の光が反射しているのかと思うような輝く金髪。透き通るような白い肌。赤紫色の瞳が、じっと自分を見つめていた。
「……綺麗」
同じ女性の自分でも息をのむほどの美しさ。その思いをミストはそのまま口から漏らした。感じていた息苦しさが、少し楽になった。
「……ルナ、何をしているのかな?」
聞こえてきたのはソルの声。隣室にいるはずのソルが寝ている部屋に入ってきていた。
「……驚かないのね?」
「それはルナが生きていたこと? それとも、彼女を殺そうとしていることかな?」
このソルの言葉で、ミストは自分は殺されるところだったのだと分かった。ソルが世界中の誰よりも大切に想っている相手に。
「両方」
首にかかっていた手が外れる。軽やかにベッドから降り、ソルに近づいていくルナの背中。それをミストはベッドに寝たまま、眺めている。
「驚いてはいる。まさか、こんな形でルナに会えるとは思っていなかった」
ソルの心に広がる温もりを、ミストは感じている。自分とは別の女性との再会をソルが心から喜んでいることを悲しむべきなのだろうと思っても、自分の心も温かくなってしまう。
「ソル……ごめんなさい」
「謝る必要はない。生きていてくれて良かった」
二人の影が重なる。それを見ても、ミストの心に嫉妬は湧いてこない。不思議だなと思うが、納得している自分もいる。一緒にいることが自然な二人。それを認めないではいられないのだ。
「……ずっと考えていたわ。私はどうすれば良いのかを」
「ルナ……どこかに行こうか? 誰も知っている人がいない、どこかに」
「……それがソルの本当に望んでいることなら。でも、きっと違う。私には分かるわ」
このルナの返事は、ミストには意外だった。彼女はソルと一緒にいることを、迷うことなく選ぶと思っていた。それをしない気持ちが、ミストには分からなかった。
「俺はルナと一緒にいることを、何よりも望んでいる」
「それは私も同じだわ。でも、ソル。貴方には見捨てられない人がいる」
「……だから殺そうとした? ルナ、彼女のことは、俺は何の言い訳も出来ないけど……こうして俺がいられるのは、彼女のお陰だ」
ルナの言う見捨てられない人はミストのこと。ソルはこう考えた。確かにそうだ。ミストに対する責任がソルにはある。だが、それとルナのことは別。彼女はそう思えないだろうと分かっていても、ソルにとってはそうなのだ。
「……貴女、名前は?」
「えっ、あっ、ミストです」
いきなり名を聞かれて、動揺しているミスト。ただ敬語になったのは動揺が原因ではなく、ルナが放つ雰囲気がそうさせたのだ。
「ミスト……違うわ。貴女はウィンディ」
「……はい?」
さらにルナの言葉に戸惑うことになるミスト。「貴方はウィンディ」と言われても、何のことか分からない。
「ミストは貴女の本質とは違うわ。貴女の本質は風。嵐でも良いけど、女性らしい名ではないから」
「えっと……名前を変えろということですか?」
「それ以外の意味に聞こえるかしら?」
「……聞こえません」
人を従わせることに慣れている、というより、言われたほうが従わないではいられない。これもバラウル家の力なのかとミストは思った。
「ソル……今は貴方と一緒に行けない。貴方には貴方が思う通りに生きて欲しいから」
「ルナ、それは違う! 俺の望みはルナと同じ人生を歩むこと! それが俺の全てだ!」
それだけを考えて生きてきた。ルナが亡くなったと思っていた時から、ソルはこう考えていた。自分の人生の全てをルナの復讐に捧げることが、同じ人生を歩むことだと考えていた。
それを否定されても、たとえルナが言うことであっても、ソルは納得出来ない。
「……私は……私は貴女を縛る鎖にはなりたくないの」
「そうじゃない! ルナ! 俺はそんな風に思っていない!」
ルナの存在を束縛だと考えたことなど一度もない。そんなことは絶対にない。
「どうした!? 何かあったのか!?」
部屋の外から聞こえてきたのはハーゼの声。ソルが大声を出しているので、心配して様子を見に来たのだ。
「何でもない! ちょっとミストと……ルナ!?」
ソルがハーゼに言い訳している間に、ルナは窓際に移動していた。開け放った窓の上に立っていた。
「ソル……愛している。何があっても私は貴方を想っているわ」
「ルナ! 行くな! 行くな、ルナッ!!」
そのまま窓の外に身を投げたルナ。ソルもすぐにその後を追おうとしたのだが、窓から飛び出す直前で、その動きは止まった。
「……ソル、追わないのか?」
「誰かいる。一人二人じゃない。かなりヤバそうなのが何人か」
放たれているのは明らかに殺気。相手には敵意がある。そんな敵のど真ん中に飛び込むことを、ソルは躊躇った。躊躇ってしまった。
「竜王の配下か?」
「多分……そうだよな。俺がルナを連れて逃げることを許すはずがない」
ルナがここに来ることをアルノルトが知らないはずがない。アルノルト本人がいたとしてもおかしくないと、ソルは考えた。だが、それを確かめる術はない。気配は遠ざかって行った。
「もしかして……ソルを連れ戻すように言われていたのかも?」
「……だから鎖? あり得るかもな」
「綺麗な人だな」
「ああ……あっ……えっと、その、ミスト。ルナは……ルナは、じゃないか。俺は……」
ミストの目の前で堂々とルナと抱き合った。彼女への想いを口にした。ミストがそれをどういう思いで見ていたのか。今更ながら、ソルはそのことに気が付いた。
「動揺するな。あの人がソルにとって誰より大切な存在であることは知っていた。今更、嫉妬なんてしない。それに……素敵な人だった。ソルの愛する人はこういう人なんだなって思うと、なんか嬉しかった」
「それ……ルナがいる時に言えば良かったのに。きっと喜んだ」
「そうか?」
そんな雰囲気ではなかった。気安く声を掛けることなど出来ない、気高さがあった。
「実は褒められることに慣れていない。あっ、本心からの誉め言葉。上辺だけの褒め言葉は、ルナは大嫌いだ」
「あの人を上辺だけで褒めるって、どういう感覚だ?」
「……大丈夫。ミストもルナと仲良くなれるよ」
多くの人は恐怖の感情が他の全てを押し流してしまうのだ。本当に美しいと思っていても、それを口にする段階で、恐怖がその言葉を汚してしまう。純粋な褒め言葉にならなくなってしまう。
だがミストは違う。彼女の言葉に嘘はない。ルナを恐れることもない。きっとルナとミストは仲良くやれる。ソルはそう思った。そういう日が一日も早く訪れることを願った。