ツェンタルヒルシュ公国での戦いは佳境を迎えている。クレーメンス率いるツェンタルヒルシュ公国軍とルッツ率いる王国軍の連合は、ツヴァイセンファルケ公国主力軍相手に敗走を続け、いよいよ公都ヴィルデルフルス近くの、最後の防衛線とされる川岸まで追い込まれてしまった。もう後はない、といってもツヴァイセンファルケ公国軍を撃退する力もない。この地で出来る限り粘って、敵戦力を減らした上で籠城、というのが戦略だが、今の状態では戦力を減らすのは連合軍のほう。籠城に十分な兵力を維持することさえ、困難な状況だ。
「諦めて降伏したらどうだ!? そうすればお前と王国軍の将兵の首だけで許してやっても良いぞ!」
ツヴァイセンファルケ公国軍の戦術はずっと変わらない。個の力として唯一対抗できるクレーメンスを、レアンドル自らが相手をして押さえ込む。押さえ込むだけで無理して倒そうとはしていないので、クレーメンスはレアンドルの隙を見つけられない。いつまで経っても決着はつかない。
そうなればあとは将の差でツヴァイセンファルケ公国軍はツェンタルヒルシュ公国軍を圧倒できる。すでにツェンタルヒルシュ公国軍は将のほとんどを討たれている状態なので、集団戦でも劣勢なのだ。
「降伏などしない!」
自公国の将兵のことを考えればここは降伏、とはクレーメンスは考えない。その選択は出来ない。完全に劣勢な状態で、それでもなんとか戦えているのは、王国軍の奮戦があってのこと。その彼らの首を差し出すことなど出来ないのだ。
「惨めだな! お前が意地を張れば張るだけ、味方は死ぬ! そんなことも分からないほど、老いぼれたか!?」
「すでに一度失った命だ! それを惜しむ者など我が軍にはいない!」
ツェンタルヒルシュ公国軍の中には、ツヴァイセンファルケ公国軍の侵攻初期に、王国軍に命を救われた者が大勢いる。その彼らも王国軍に負けない奮戦を見せている。ツェントヒルシュ公国軍は圧倒的に劣勢ではあるが、士気だけは負けていないのだ。
「ならば死ね! 竜王様に逆らう者がどうなるか、お前たちの死で世の中に知らしめてくれる!」
「……いや、どうやら、まだ死ぬわけにはいかないようだ」
「何だと? この期に及んで……何だ?」
戦場の喧噪は周辺一帯から聞こえてくる。だが、その喧噪の中に他とは違う何かをレアンドルは感じ取った。
「……伏兵? 小癪な真似を……左翼に伏兵だ! 部隊を回して押しつぶせ!」
違和感を感じさせる喧噪は自軍の左翼から聞こえてくる。自公国軍の将兵たちが騒いでいる声だ。それをレアンドルは、ツェンタルヒルシュ公国軍の伏兵によるものと見た。
だが彼に焦りはない。見たところ、敵は小勢。戦況を変えられるような数ではないのだ。そのはず、だった。
「ナーゲリング王国軍の将兵たち! 奮戦しろ! イグナーツ・シュバイツァー様の御前だ! 恥ずかしい戦いを見せるな!」
戦場に響き渡る声はルッツのもの。
『うおぉおおおおおおおおっ!!』
それに応える将兵たちの雄たけびが、戦場に轟いた。
「……イグナーツ・シュバルツァーだと?」
そんなはずはないのだ。ソルがこの戦場に現れることなどあるはずがない。まして自公国軍の敵に回るなど、レアンドルにとっては、あってはならないことだった。
だがルッツの言葉は味方の士気を高める為の虚言ではない。確かにソルはこの戦場に現れた。それをすぐにレアンドルは知ることとなった。
無人の荒野を行くがごとく、大軍ひしめく戦場を歩いている一人の騎士。時折、ツェンタルヒルシュ公国軍の将が挑みかかるが、その首が、その腕が、体そのものが宙を跳び、一時も足を止めることが出来ない。
その騎士、ソルはすぐにレアンドルとクレーメンスのところまで辿り着いた。
「……お前がツヴァイセンファルケ公、レアンドルか?」
「剣を向ける先を間違えているのではないか? 私は竜王様の命で戦っているのだぞ?」
ソルは竜王の側に付く。そのはずなのだ、この戦場に現れるとしても敵ではなく、味方としてでなくてはならないはずなのだ。
「いや、お前がレアンドルであれば間違っていない」
「愚かな。竜王様に逆らうつもりか?」
「竜王様は関係ない。お前だろ? 俺を殺したのは」
アルノルトに従う従わないは、この件については、関係ない。レアンドルは絶対に殺さなければならない相手。だからソルは、わざわざ寄り道してここにいるのだ。
「……あれは……あれも、竜王様の命令で」
「命令だから仕方なく? まあ、俺のことは良い。だが、お前はルナを傷つけた。ルナの首に剣を突き立てた。そんな真似をしたお前を、俺が許すと思っているのか?」
自分に剣を向けたことについては、百歩譲って、どうでも良い。だがルナを傷つけたことを許すつもりは、ソルには微塵もない。彼女の生死は関係ない。レアンドルは彼女を傷つけ、痛みを感じさせた。その罪は死で償うべきものだとソルは考えているのだ。
「……思い上がるな、小僧。許さなければどうだと言うのだ?」
竜王アルノルトを持ち出してもソルが引くことはない。それが分かったレアンドルは戦いを回避することを止めた。そうする必要などないのだ。ソルを殺しても咎められることはないはずなのだ。
「どう? こう」
瞬きする間で、レアンドルとの間合いを詰めたソル。そのままレアンドルの体に剣を叩き込んだ。
「……硬っ」
その感触は人を斬った時のものではない。金属を刃を打ち込んだと思うような、硬さだった。
「こんななまくらが効くか!」
力任せにソルの体を押し込むレアンドル。それを受けてソルは、元居た場所よりも遠くに吹き飛ばされることになった。
「竜王様に与えられたこの力。貴様ごときでは傷一つつけることも出来ない」
「……傷、ついているけど?」
「なんだと?」
ソルの言う通り、確かに傷はついている。レアンドルの腕から滲んでいる一筋の血。ソルの剣を受けた場所だ。
「この程度のかすり傷で、思い上がるな!」
確かに、かすり傷だ。だがわずかとはいえ傷をつけられたことでレアンドルの心には激しい怒りが湧いている。絶対的な強者である自分に傷をつける存在など許せない。バラウル家の血による影響を、レアンドルの精神もやはり受けているのだ。
逆に自ら距離を詰めて、ソルに攻撃を仕掛けるレアンドル。完全にソルの懐に入った、つもりだった。
「ぐっ、ああああっ!」
声を上げたのは攻撃を仕掛けたレアンドルのほう。巻き起こった竜巻のような炎が、彼の体を焼いたのだ。
「思い上がっているのは、お前のほうだ。誰が俺を鍛えたと思っている? 紛い物の力で偉そうにするな」
ソルを鍛えたのはアルノルト。レアンドルの力の源だ。そのアルノルトの力がレアンドルに劣るはずがない。単純な力も動きも、アルノルトの相手をしていたソルにとっては劣化版。恐れる理由はない。
「貴様……魔術まで教わっていたのか?」
ソルがアルノルトの教えを受けていたことはレアンドルも知っている。だが魔術まで伝授されているとは聞いていなかった。
「魔術? 魔術なんて知らない」
聞いているはずがない。教わっていないのだから。
「……異能者だったのか?」
「こんな力でもなければ、物心ついたばかりの子供が貧民窟で生きていられるはずないだろ?」
炎はソルが生まれ持った力、とソルは思っている。どうであれ、物心ついた時から持っていた力だ、アルノルトは関係ない。
「……たかが炎。一度見れば、恐れることはない」
初見で不意を突かれ、体を焼かれることになったが、そういう力があると分かれば、対応も出来る。実際、火傷の痛みはあっても死に至るほどではない。その事実がレアンドルを強気にさせている。
「ばぁか。誰が手の内を最初から見せるか。本番はこれからだ」
これを言うソルの両手には剣。ソルは双剣使いでもある。これはアルノルトに鍛えられて身につけた力だ。さらに。
「……な、なんだ?」
その両手に持った剣から炎が噴き上がる。剣、というよりソルの両手から炎が立ち上がっているのだ。
「行くぞ?」
レアンドルの返事を待つことなくソルは動く。一瞬で間合いに入る、その手前で振るわれた剣から伸びた炎が、レアンドルの体を焼く。
その痛みに耐えて、間合いに飛び込もうとするソルに向かって、剣を突き出したレアンドル。ソルはそれを躱すと同時にレアンドルに向けて、左手に持っていた剣を投げつけた。
「……ば、馬鹿な?」
一連の攻防は、わずか数秒の出来事ではあるが、手を離れた剣を避けることなどレアンドルには余裕。それが一秒に満たない時間であっても余裕で避けた、はずだった。
「だから言っただろ? 紛い物の力で思い上がるなって」
剣を手放したソルの手元には、今度は幾本もの短剣がある。それを次々とレアンドルに向けて放つソル。それもまたレアンドルにとっては余裕で避けられるはずの攻撃、ではなかった。
「そんな? そんな? 何だ? 何だ、この力は!?」
避けたはずの短剣が自らの体を傷つける。その理由がレアンドルにも分かった。短剣は、まるで意志あるもののように、宙を動いているのだ。右に左に、上に下にと飛ぶ方向を変え、襲ってくるのだ。
「少しはルナを傷つけたことを後悔したか?」
「……やめろ」
「まだ反省していないみたいだ」
レアンドルの体に突き立った幾本もの短剣。その短剣に向かって、炎が伸びて行く。
「ぎぁあああああっ!」
体の内から焼かれるような感覚。レアンドルはそれに耐えきれず、叫び声をあげた。
「どうだ? 反省したか?」
「……し、した。申し訳なかった。だから……だから、助けてくれ」
命乞いの言葉がレアンドルの口から出た。自分は絶対の強者。竜王アルノルトであればまだしも、他の誰かに殺されることなどまったく考えていなかった。考えられなくなっていた。それが、ソルによって死への恐怖を思い出させられた。一度失った恐怖を思い出したレアンドルの心は、もうそれに耐える力を失っていた。
「お前、竜王様の力を得たことで舞い上がって、何もしてこなかっただろ?」
常人を遥かに超える剛力と瞬発力。剣さえも跳ね返す強靭な体。それは普通の人間相手であれば、強力な武器だが、同等の力を持つ相手には、それだけでは通用しない。結局。基礎能力以外での勝負になる。その基礎能力以外の部分をレアンドルは鍛えることを怠ってきた。ソルはそう考えている。
「そんな奴に負けられるか」
ただ人よりも丈夫であるというだけでは、大切な人を守れないことをソルは思い知らされた。その日からずっと自分自身を鍛え続けてきた。時には生死の境をさまような戦い、ともいえない一方的な強者の襲撃を受けたこともある。そういった存在を、ソルは何年もかけて乗り越えてきたのだ。
「……分かった。すまなかった。だから……命だけは……」
「分かっていないな。言っただろ? ルナを傷つけたお前を許すことは決してないって」
「そ、そんな……!? わ、私が悪いのでは――!!」
ゆっくりと地面に転がり落ちるレアンドルの首。倒れていく首のない体。一瞬の静寂ののち、将兵たちの歓声と悲鳴が戦場に轟いた。
「……イ、イグナーツ殿」
クレーメンスは戦いの勝利を、ただ喜ぶだけではいられなかった。ソルの力がこれほどまでのものとは思っていなかったのだ。圧倒的な強者。この思いは、竜王への恐怖と重なってしまう。
「貴方を殺す理由はなくなりました。助ける理由もありません。俺はこのまま、ルシェル殿下の護衛として北へ向かいます」
「そう、か……ルシェル殿下と一緒に。ノルデンヴォルフ公国で戦うのだな?」
今もまだソルはルシェル王女に仕えている。それを知って、クレーメンスの心に安堵が広がった、のだが。
「殿下はそのつもりだと思います」
「……君は戦うべきではないと考えているのか?」
「いえ、何も考えていません。今の俺は、ルシェル殿下を無事にノルデンヴォルフ公国まで送り届けることしか考えていません。その約束を果たしたあとのことは、その時に考えます」
「……竜王は、本当に生きているのか?」
また、さきほどよりも強い不安が、クレーメンスの心に広がった。ソルはルシェル王女から離れるつもりであることは間違いない。その理由として考えられるのは、竜王の生存だ。
「ここに来る前に会いました」
「なんと!?」
予想した最悪の事態。クレーメンスはこう考えたが、これは早とちりだ。
「ああ、竜王様の下に戻るつもりは、今はありません。多くの人が死にました。その原因を作った竜王様の行いは、俺にとっても許しがたいことですから」
クレーメンスの反応の意味をソルも理解した。自分が竜王の味方になることを恐れているのだと。ソルにとっては、恐れる必要などないと思うことだ。
「そ、そうか」
「……念のために言っておきますが、竜王様は俺よりも強いです。ツヴァイセンファルケ公国軍にも、レアンドルよりも強いだろう将がいました。きっと竜王様の直属なのでしょう」
自分一人がいるいないに関係なく、竜王の軍は強い。アルノルトだけでなくその臣下にも、まだ表に出てこない強者がいることをソルは知っている。聖仁教会を名乗っていた者たちだけでなく、この戦場でも見つけているのだ。
そのツヴァイセンファルケ公国軍はすでに退却に移っている。当主であるレアンドルを討たれて大混乱となっているが、全ての部隊がそうというわけでもない。いくつかの部隊は統制を保ったまま撤退行動に移っているのが、少し見ただけで分かる。その部隊を率いているのが、竜王直属の将だとソルは考えている。
「おそらくですが、サー・ディートハルト率いる王国軍との戦いに向かったのでしょう。そしてその王国軍は、まず間違いなく北へ、この地に向かっているはずです。ツェンタルヒルシュ公国はまたすぐに戦場になります」
だからどうしろとはソルは言わない。それを言える立場ではないというのもあるが、自分自身の気持ちが固まっていない今の状態では、これ以上の話はしないほうが良いと考えているのだ。
「……私はこの地を守る。それがツェンタルヒルシュ公としての、私の責任だ。こう、ルシェル殿下に伝えて欲しい」
「分かりました。伝えます」
「……結果として騙されたわけだが、私はあの計画そのものは正しかったと思っている。竜王が生きていることを知って、さらにその思いは強くなった」
竜王アルノルトは倒さなければならない存在。生きていることで多くの人が不幸になる。命を失うことになる。クレーメンスは、このことをソルにも分かって欲しかった。
「……そうですか」
だが、ソルの反応は鈍い。なんとも思っていないわけではない。クレーメンスの言いたいことは、すでに分かっている。分かっていても決められないのだ。自分が何を為すべきかを。