ゆっくりと近づいてくる竜王アルノルト。その存在感は圧倒的で、殺気とは異なる圧力が人々の心を押しつぶそうとする。心だけではない。体にも、物理的な圧力がかかっているかのように感じられて、その場に跪きそうになってしまう。竜王アルノルトは、彼らが絶対的な忠誠心を向けることを強制していた相手。支配者なのだ。
「……お久しぶりです、竜王様、クリスティアン様。お元気そうで。とても一度死んだ人間とは思えません」
その息苦しい空気を緩めたのはソルの言葉。前に進み出たソルの背中。その背中を見た人々は、自分が呼吸さえ出来ていなかったことを知った。あちこちから大きく息を吐き、吸う音が聞こえてきた。
「しばらく会わないうちに生意気な口をきくようになったな。イグナーツ」
「嫌味のひとつくらいは許してもらわないと。俺が何年間、騙され続けていたと思っているのですか? その間、どんな思いで生きていたと思っているのです?」
ソルの口の利きように、周りで聞いているフルモアザ王国に仕えていた人たちは驚いている。彼らには決して許されない態度。死を与えられるリスクを伴う態度なのだ。
この馴れ馴れしさは、家族故のことなのか。本当にソルはバラウル家の家族として暮らしていたのだと、改めて知らされることになった。
「それについては、すまなかった。こちらにも色々と計算違いがあってな」
さらにアルノルトが、まさかの、謝罪を口にしたのを聞いて、呆然としている人もいる。
「計算違いですか……」
計算違いとはどのようなものなのか、ソルは尋ねようとしない。自分が生きていることがアルノルトにとっては計算違い。この可能性を考えているのだ。
「お前もずいぶんとやってくれた。そのせいで、難攻不落と言われていた城がたった一日で陥落だ。実に退屈な戦いだった」
「それは私の責任ではありません。しかし、たった一日ですか……どれだけの人数を王国組織に潜ませていたのですか?」
王都が落とされることは分かっていた。だが、さすがに一日は短すぎるとソルも思う。そうなってしまうくらい裏切者が数多く、様々な組織に潜んでいたのだろうと考えた。
「さあな。いちいち数えていない」
「それじゃあ、竜王様のせいではないですか」
「ここまでやれとは命令していない」
実際に、アルノルトは具体的な命令は何も発していない。そうすることで計画が漏れてしまうことを恐れて、アルノルトが生きていることさえ、極めて少人数しか知らなかったはずなのだ。
「命令などなくても、臣下の人たちは功を挙げようと頑張ってしまいます。その成果が表れたということです。王であれば、文句を言わずに、褒めてあげたらいかがですか?」
「本当に生意気になったな?」
「成長したと言ってください。それで? 何の用ですか?」
さりげなく口にした問い。ソルが、他の人たちも、もっとも知りたいことだ。アルノルトは何の為にここに現れたのかは、自分たちの生死を左右することだと、皆が分かっているのだ。
「決まっている。お前を迎えに来た」
「ああ……申し訳ありません。俺は戻れません」
「なんだと?」
ソルとの会話で緩んでいたアルノルトの雰囲気が、また厳しいものに変わる。ソルが拒絶することを想定していなかった、その可能性は考えていても、実際に拒否されると気持ちが荒ぶるのだ。
「果たさなければならない約束があります。それが終わるまで、先のことは考えられません」
アルノルトがどう感じようと、ソルの意志は変らない。その意志を誤魔化すつもりもない。こうして話をすると、かつてのアルノルトと同じ。家族として暮らしていた頃を思い出す。だが、アルノルトの行いをソルは受け止めきれないでいる。家族だと思っても、無条件に許すことは出来ないのだ。
それが、実際にアルノルトと対峙して、はっきりと分かった。
「約束……その約束相手を消し去ることも出来るが?」
「それを許さないことも約束です」
ルシェル王女を守る。少なくともノルデンヴォルフ公国までは必ず送り届ける。このリベルト外務卿との約束をソルは守るつもりだ。それが自分の立場を危うくしても助けてくれようとしたリベルト外務卿への恩、とまでは言わないが、義理を通すことだと思っている。彼が殺されたことを知っていれば、よりこの想いは強くなっただろう。
「……私と戦うつもりか?」
膨れ上がる殺気。逆らうものは許さない。死をもって償わせる。それがバラウル家のやり方なのだ。その周囲を圧する殺気に、ソルは抗っている。真正面からそれを受けて抗えることが、アルノルトを知る人たちには信じられなかった。
「ルナは良いのかい?」
同じバラウル家でもクリスティアンは異なる考えだ。ソルをこのようなことで死なせたくはなかった。ルナが悲しむ、程度では済まないことが分かっているのだ。
「……それは……でも……俺の体の中に流れる血が違うと言っているのです。今このまま貴方たちのところに戻るのは違うと」
「……イグナーツ。お前、血の声が聞こえるのか?」
ソルの言葉に驚いているのはクリスティアンではなく、アルノルトだ。クリスティアンはソルの言葉の意味を理解していない。
「聞こえるというか……感じるというか……ルナの心だと俺は思って……あれ?」
ソルの心の中に冷気が広がっていく。ソルにとっては、ある意味、アルノルトが放つ殺気よりも恐ろしい気配だった。
「……もしかして……ルナ、います?」
ソルがこの世でもっと恐れる、ルナの怒りだ。
「……さあ、どうだろうね?」
ソルの問いに答えるクリスティアンの顔に笑みが浮かぶ。かつて何度も見たソルの反応。これを見るたびにクリスティアンは「イグナーツは一生、ルナの尻に敷かれるのだろうな」と思ったものだ。その懐かしい、穏やかだった日々のことを思い出したのだ。
「間違ったか……えっと……」
この反応も懐かしいもの。続くこのソルの様子に、アルノルトも殺気を保っていられなくなった。笑みを浮かべるほどではないが、明らかに雰囲気が緩んだ。
「……ルナと俺の人生は何があってもひとつです。俺が今、何を選択しようと二人の進む道が分かれることはありません。たとえ、父親である竜王様でもそれを妨げることは出来ません」
そしてソルの心の中の冷気も緩むことになった。冷気が暖気に変った。
「よし、正解……えっと……そういうわけで、今は一緒に行けません。約束を果たしたあとのことは、またその時、決めます。今はこうとしか答えられません」
「……そうか。なら好きにしろ」
約束を果たしたあとも戻るとは限らない。ソルはこう言っているのだが、アルノルトはそれを受け入れた。
「ありがとうございます。あとルナに……いや、やっぱり良いです。では、また、きっと」
未練を振り切る思いで、一気にアルノルトとクリスティアンに背を向けるソル。だが足を前に進めるのには躊躇いが生まれた。数秒の間ではあるが。
「……君も行くのか? イゴル」
クリスティアンはソルではなく、彼と同じように自分に背を向けたイゴルに問いかけた。かつので自分の近衛従士であったイゴルに。
「……アルヴィには会いましたか?」
クリスティアンの問いにイゴルも問いで返す。
「いや、会っていないな。彼がどうしたのかな?」
「アルヴィは任務で大怪我をして王都で療養していました。さすがにもう傷は癒えていて、軍務に復帰していたと思います。クリスチャン様、王都で彼に会いませんでしたか?」
王都で何が起きたのかイゴルは、おおよそのことを第二隊の面々から聞かされている。王都を守っていた王国軍が大きな被害を受け、ほぼ壊滅状況にあることを知っているのだ。
「……イゴル。私は」
「トビアスも死にました。ドミトリーも死んだ。皆……皆、貴方の志を受け継ぎ! 平和な世の中を作る為に戦っていた! そのつもりだった! それなのに! それなのに貴方はっ!!」
平和な世の中を作るどころか争いを生み出した。その為に多くの人たちが、仲間たちが死んでいった。イゴルがクリスチャンの下に戻るはずなどないのだ。
「…………」
「……正直、まだ何が何だか分かりません。何を信じれば良いのか、信じられるものがあるのかも分かりません……唯一、イグナーツ様を除いて」
このイゴルの言葉にイグナーツの足が止まる。イゴルに、このように思われていることなど、まったく考えていなかった。考えられるはずがなかった。
「……イグナーツは信じられる?」
「私が知る限り、あの方は常に人を助ける為に動いていました。多くの人を殺してはいます。でも……助けるべき人、助けられる人は助けようとしていました。私は、そう信じています」
「そうか……分かった」
クリスチャンに深く一礼してイゴルはソルの背中を追っていく。何の意味での礼なのか、クリスチャンには分からない。別れの挨拶のつもりなのか、恨んでいることさえ受け入れず、かつての礼儀を守っているのか。どうであれ、イゴルが戻ってくることはないのは間違いないことだ。
「……本当に良いのですか?」
近づいてきたイゴルに、立ち止まっていたソルは問いかける。
「命惜しさに仲間の無念を忘れることは出来ません」
その問いの意味をイゴルは正しく理解している。竜王に、その息子クリスティアンに背いて、何事もなくいられるはずがない。今見逃されたとしても、いつかは命を狙われることになる。
「……そうですか。じゃあ、行きましょう」
ソルはこれしか口に出来なかった。理不尽な死を与えられた人は他にも大勢いる。自分はその人たちの無念を忘れることが出来るのか。それを今、自分に問うことは出来なかった。
「……お前まで戻らないつもりか?」
そのソルにハーゼたちが並ぶ。彼らもアルノルトに背を向けて歩き出している。
「何と言うか……本能? なんだか分からないが、俺のここが、従うべきはお前だと言っている」
自分の胸を軽く拳で叩きながらこれを言うハーゼ。彼らにとって絶対の支配者であったアルノルトであるが、再び仕えるつもりはないのだ。
「私たちは手に入れた自由を失いたくありません。その為に命を捨てる覚悟は出来ています」
ハーゼだけではない。ヒルシュも、他の人たちも同じ想いだ。アルノルトの恐怖による支配から一度逃れた彼らは、もう二度と同じ立場に戻るつもりはない。ソルと一緒であれば、心を縛る恐怖から逃れられると分かったのだ。
「……好きにしてください。貴方たちは自由なのですから」
「はい。私たちは貴方に付いて行きます」
誰一人、この場に残る人はいない。彼らは知ったのだ。自分たちの選択は間違っていなかったことを。ソルは竜王アルノルトの呪縛から自分たちを解き放つことが出来る唯一の存在であったのだ。
「……成長した、というのが正しいのか」
去って行くソルたちを見て、クリスティアンは呟きを漏らす。
「大人になりきれていないから、私に逆らうのだ。大人はもっとズルいものだ」
その呟きにアルノルトが応える。自分に逆らうということはどういうことか、去って行く者たちは分かっているはず。命が惜しければ、内心はどう思っていようと、従う振りをすれば良い。こう思っているのだ。
「……そうですね」
自分はどうなのか。息子であっても父であるアルノルトに真向から逆らうことが出来ない自分は、彼が言う小利口な人間なのかとクリスティアンは思ってしまう。
「お許しを頂ければ、私が連れ戻してまいります」
ずっと黙っていた臣下たちの中でひとり。戦旗を掲げていた騎士が、このタイミングで口を開いた。
「いや、無用だ」
「竜王様とクリスチャン様に対して、あまりに無礼な振る舞い。あのような真似を許しては、お二人を侮る者も出てきましょう」
この騎士にとってソルの態度は許されないものだった。自分たちには決して許されない態度。それをソルが許されたことが納得できないのだ。
「そう……どうしてもそうしたいなら行くが良い」
「御意」
クリスチャンの許しを得て、ソルたちの後を追おうとする騎士。
「おい。戦旗を置いて行け。貴様の血で私の旗を汚すつもりか?」
その騎士に、戦旗を置いていくように命じたのはアルノルトだ。いつもの、騎士には見慣れることなど決して出来ない、心が冷える視線を向けている。
「……失礼しました。ですが、旗を汚すことは決してありません」
「汚さなくても誰かが取りに行かなくてはならなくなる。まさかイグナーツが届けに来るのを期待しているのか?」
「そんなことは……」
なにかがおかしい。話がかみ合っていない。このことにようやく騎士は気が付いた。
「……それとも、貴様はクリスティアンより強いのか?」
「いえ、私など殿下の足下にも及びません」
これはお世辞ではない。実際にこの騎士はクリスチャンに遠く及ばない。十戦して十敗する。それくらい力の差は、はっきりしている。
「……貴様、まさかイグナーツの実力を知らぬのか? それともしばらく会わないうちに、あ奴は弱くなったのか?」
「…………」
ソルはクリスティアンと互角の力を持つ。この事実をようやく騎士は知った。アルノルトが尋ねた通り、知らなかったのだ。自分が、自らの死を自ら求めたということを騎士は知った。
「ナーゲリング王国はイグナーツにとって敵地であったはずです。恐らく、人前では手の内を隠していたのでしょう」
ナーゲリング王国だけではない。自分以外の全てがソルにとって敵だった。信頼を向けられる人は皆、殺されたと思っていた。
少しずつソルの周りの状況は変わっていったが、それでも全てを明かすことはしなかった。殺すべき人を殺す時以外は手の内は隠す。ソルはこう決めていたのだ。
「姑息な真似を」
「父上の教えを守っているだけではありませんか? 何度も彼に教えていたではありませんか」
手の内は最後の最後、敵を殺す寸前まで隠しておくものだ。これは、アルノルトがソルに教えた多くのことのひとつに過ぎない。ソルはアルノルトにとって娘の婚約者であり、アルノルトは認めていないが、弟子でもあった。最強最悪の戦士でもある竜王の、唯一の弟子なのだ。
「……さて、あの頃から、どれだけ強くなったものか。楽しみだな」
「本気で戦うつもりですか?」
たとえ家族であっても殺す時は殺す。父であるアルノルトがそういう人間であることをクリスティアンは良く分かっている。実の娘であっても例外ではないことを、すでに思い知らされているのだ。
「それを決めるのはイグナーツだが、退屈な戦いを面白くしてくれるのは、あ奴しかいないかもしれない」
「……その前に倒すべき者たちがいます」
反対してもアルノルトは聞き入れない。クリスティアンに出来ることは、先延ばしにすることだけだ。
「ディートハルト。王国最強の将か。確かに楽しみだな」
「ただ……相手はすでに動き出しているようです。まずは追いつくことが必要です」
「動かないように命じたのではなかったか?」
そういう使者が送られている。偽の使者だが、そうであることをディートハルトが疑うはずのない人物、ブルーノ卿からの使者だ。
「まず間違いなく、裏切りがバレていたのでしょう」
「……イグナーツは、臣下は頑張るものだと言っていたが……奴め、嘘をついたな?」
「全員が結果を出すとは言っていません。頑張っても失敗する者はいます。それに、この場合はナーゲリング王国の臣下が頑張って成果をあげたということです」
リベルト外務卿の能力、覚悟がブルーノのそれを上回っていた。クリスティアンとアルノルトは知ることのない事実だ。
「それで? ディートハルトはどこに?」
「ツヴァイセンファルケ公国に入りました」
「……堅実な作戦を好むと聞いていたが……確かに今一番、手薄なのはツヴァイセンファルケ公国か」
奇抜な動きであるようだが、実際にはもっとも安全な作戦をディートハルトは選んでいる。ツヴァイセンファルケ公国軍の主力はツェンタルヒルシュ公国にいる。残っているのは、元々、対峙していた五千だけ。しかもその五千が守る拠点を落とす必要はない。戦いを避け、北に、ツェンタルヒルシュ公国に向かえば良いのだ。
「すでにヴェストフックス公国軍が後を追っています。ツヴァイセンファルケ公国内で追いつける見込みです」
「では、このままツヴァイセンファルケ公国内で合流することにする」
「分かりました……それで? 君はいつまでそこに突っ立っているのかな?」
クリスティアンが問いかけたのはソルを力づくで連れ戻すと言っていた騎士。その彼はまだこの場にとどまっていた。死ぬと分かっていて、ソルに立ち向かう勇気などなかったのだ。
「……私は……」
言い訳を口にしようとした騎士の首が宙に跳ぶ。クリスティアンの忠告を無視しようとした時点で、騎士の死はほぼ決まっていた。そこからさらに竜王の命令を無視したのだ。生きていられるはずがない。バラウル家はそれを許す家ではないのだ。