心の整理がつかない。消し去らなければならない想いが、逆に膨らんでいく。ナーゲリング王国の王女として他に考えなければならないことは山ほどあるというのに、個人の感情がその邪魔をする。
頭では分かっているのに、それが出来ない原因は明らかだ。毎日、すぐ目の前にあるソルの顔。耳に届く彼の息遣い。彼の体温が、触れ合う自分の体を熱くする。
彼は、義理とはいえ弟。義弟に対して自分は何の感情を抱いているのか。そんなことはあってはならない。あるはずがない。毎日一日の終わりに、冷静になった頭で、自分の感情を否定しても、翌日にはまた同じことの繰り返し。彼が男で、自分が女であることを思い知らされてしまう。
こんなことになるなら、我儘と思われても良いから、背負われることを拒否し、自分の足で歩くことを選べば良かった。そう思うが、今更だ。
その「今更」という思いが言い訳であることも、本当は、ルシェル王女は分かっている。自分の心はソルとの触れ合いを求めている。ソルにとっては速く移動する為の手段でしかないのに、自分は違うこととしてとらえてしまっている。自分はこんな、男性に触れられることを喜ぶ、はしたない女性だったのか。こう思うと恥ずかしさで、全身が朱に染まる。そうなったことを周囲に気付かれないように、必死に感情を押さえ込もうとしている自分が情けなくなる。
早くこの移動が終わって欲しいという思い。永遠に続いて欲しいという思い。異なる二つの思いが、ルシェル王女を苦しめる。
結果は分かっているというのに。この時は永遠には続かない。終わりは見えているのだ。ソルとルシェル王女はそういう運命なのだ。
「……どうしました? 明日にはツェンタルヒルシュ公国に入れます。とくに問題はないと思いますけど?」
分かっているのに抑えきれなかった。感情のコントロールは出来ている。そう自分に言い聞かせて、ソルと二人だけで話す機会を作ってしまった。
「はい。ソルのおかげでここまで無事に逃げることが出来ました」
「ツェンタルヒルシュ公国に入れば、味方の軍勢がいます。公国内での戦いがすでに始まっている可能性もありますが、それを避け、公国領を抜けることは難しくないでしょう」
ソルの言葉がルシェル王女の心を刺激する。自分の役目はこれで終わり。ソルがこう言っているように、ルシェル王女には聞こえてしまう。実際にそうなのだ。
「……ツヴァイセンファルケ公国を抜ければ、もうノルデンヴォルフ公国ですね?」
「はい。ノルデンヴォルフ公国に着いたからといって、それで全てが解決するわけではありませんが、ひとまずは危機を脱したと言えるでしょう」
その先どうするかは、ルシェル王女が決めることだとソルは考えている。竜王アルノルトに抗い続けるにしても、降伏するにしても、まずは味方がいるノルデンヴォルフ公国に辿り着くこと。それが出来なければ、選択も生まれないのだ。
「ソル……貴方は付いてきてくれるのですか?」
勇気を出して、この問いを口にした。答えは分かっているのに。
「味方と合流してしまえば、私の力は必要ありません」
ソルはこのように答えるに決まっている。彼には最後までルシェル王女に付き合うつもりはない。それは出来ない。
「……私が必要だと言ってもですか?」
「……ノルデンヴォルフ公国の人たちだけでなく、メーゲリング王国の人たちもルシェル殿下の下に集まることになります。私一人の力など、頼る必要はありません」
「私が必要としているのは貴方の戦う力ではなく、貴方自身です。私は貴方に、ずっと側にいて欲しいのです」
口に出してしまった。こんな思いがルシェル王女の心に広がっている。口に出すべきではなかったという後悔の思いだ。
「……それは無理です。私は貴女の側にはいられません」
「……どうしてですか?」
これも口にしてはいけない問い。それが分かっていても、もう引き下がれない。結論を出すしかないのだ。
「それは……私が貴女にとって、父親の仇だからです」
「…………」
「貴方の父、ベルムント王を殺したのは私です」
これ以上、この事実を隠しておくことは出来ない。隠す必要もない。ベルムント王は復讐すべき相手ではなかった。まったく罪がないとはソルは今も思っていないが、命を奪うほどのものではない。他にもっと罪深い人間がいるのだ。
「……どうして?」
「復讐のつもりでした。でも……ベルムント王の罪は思っていたようなものではなかった」
「そうじゃない! どうして、それを話してしまうの!?」
結論は出た。ルシェル王女にとって、最悪の形での結論が。その結果が、抑えこんでいた感情を噴出させることになる。
「えっ……?」
「言わなければ知らないままでいられた! 知らない振りが出来た! でも、貴方は……! 貴方には……そんな優しさもなかった」
可能性には気づいていた。気づいていたのに気づいていない振りをしていた。あくまでも可能性であって、真実とは限らないと、自分で自分を騙し続けていた。そうしないではいられなかった。
父の仇を、そうとは気付かない振りをして、愛し続けたかった。そんな自分が、ルシェル王女は恐ろしかった。恐ろしいと思いながらも自分の感情はそれを強く求めた。
だがその愛する人は決別に繋がる真実を隠そうとしてくれなかった。自分の存在はソルにとってその程度のもの。それをルシェル王女は思い知らされた。
「…………」
頭が混乱していて何も考えられない。ルシェル王女の言葉の意味が理解出来ない。彼女は、自分が父親を殺したという事実を、どうして知りたくなかったと思うのか。ソルの頭は考えることを放棄している。
ルシェル王女が思う通りなのだ。ソルは彼女の気持ちを受け入れようとはしていない。彼女と同じ想いは抱けない。
「……私は……私は……貴方のことが……ずっと前から……」
「私にその先の言葉を聞く資格はありません。私は貴女の父の仇ですから」
この先をルシェル王女に言わせてはいけないとソルは思った。これ以上、彼女を苦しめてはいけないと思った。彼女の想いを理解していなかった自分の愚かさが情けなかった。自分の想いを隠して生きる苦しみは分かっていたはずなのに、ルシェル王女のそれに目を向けることをしなかった自分を許せなかった。
ルシェル王女に背中を向けるソル。彼女の泣き声が聞こえてくるが、立ち止まることは許されない。同情では彼女が救われないことをソルは知っている。彼女に必要なのは自分の存在を忘れることだとソルは思っている。
「……ソル……お前……」
そしてもう一人、傷つけてしまった女性がいる。
「ミスト……」
「嘘だろ? 嘘だよな?」
ミストの気持ちもルシェル王女と同じだ。真実などどうでも良いのだ。ソルが否定してくれれば、それを信じたいのだ。
「……嘘じゃない。俺がベルムント王を殺した」
「嘘だぁああああっ!」
ただミストの感情は、ルシェル王女のそれに比べれば、単純だ。彼女はソルのことを、まったく疑っていなかった。ソルがベルムント王殺しの犯人である可能性など、まったく考えたことがなかった。
「……ごめん。謝っても許されることではないけど……ごめん」
ソルのミストに対する感情も、ルシェル王女に向けるそれに比べれば、単純だ。真実を告げる。謝罪する。それをミストがどう受け取るかは彼女次第。それがどのようなものであれ受け入れるしかない。自分に選ぶ権利などないと考えている。
「……私はどうすれば良い?」
「ミストがしたいようにすれば良い」
「じゃあ……お前を殺して、私も死ぬ」
ソルの罪が許されないものであるのなら、その罪を償わせるのは自分が望ましいとミストは考えた。ただ、ソルのいない人生は考えられない。そうであれば、共に死ぬしかないと。
「それは……素敵な提案だけど……俺はミストに死んでほしくない。俺を殺すだけで終わらせて欲しい」
「そんなこと……そんなこと、出来るはずないだろ?」
ソルだけが死ぬ。その選択はミストには絶対に受け入れられないことだ。
「でも……それじゃあ、俺は罪を償えない」
「……ソル……思ったのだけど……私はベルムント王より……それと……ルシェル様よりお前が大切だ」
「ミスト、それは……」
ルシェル王女はミストにとって誰よりも大切な存在。不幸から救ってくれた人。自分の命よりも優先する人だったはずだ。その想いを否定させてしまったことに、ソルは罪の意識を感じた。
「私は駄目な人間だ。ソルも駄目な人間だ。それで良いだろ? 私はお前の罪を全て許す。私以外の全員がお前を責めても、私はお前を許す。そうする」
ミストにとっては感じる必要などまったくない罪の意識だ。彼女は自分の心の中の真実を語っているだけなのだ。
「……それは……駄目だと……思う……思うけど……」
ソルの瞳から涙が零れ落ちる。ずっと背負ってきた罪。ベルムント王を殺したことだけではない。誰よりも大切な存在だったルナ王女を守れなかった罪。自分で自分を許せなかった罪を、ミストが「許す」と言ってくれた。自分で自分を死罪と断じた罪を、ミストは「許す」と言った。お前は生きていて良いのだと言われたようにソルは思えた。
「……ありがとう」
「御礼を言いたいのは私のほうだ。ソル、私は私の生き方を自分で決められた。ソルのおかげだ。ありがとう」
ソルと共に、ソルの為に生きたいと思えた。生きなければならない、ではなく、生きたいと。その想いを素直に言葉に出来た。それがミストは嬉しかった。
ソルに体を預けるミスト。そんなミストをソルは強く抱きしめる。涙を流しながら、笑みを浮かべて。
「……あ、あの」
「えっ?」「あっ……」
「お取込み中、申し訳ありません」
現れたのは、まさかの、ルシェル王女だった。
「あ、あの……ルシェル様……」
ルシェル王女よりソルが大切。だが面と向かって話をするとなると、罪悪感がミストの心に湧いてしまう。抱き合っていたところ見られたと思うと、尚更だ。
「何も言わないで下さい。今は何を言われても、惨めになります」
「……申し訳ありません」
「謝罪も……用件を話します。ソル」
ルシェル王女もこのような場に割り込みたくはなかった。どうしてもソルに話さなければならないことが出来た。急がなければ、ソルはいなくなってしまうかもしれないと思って、焦って追ってきた結果なのだ。
「……何でしょうか?」
「私は貴方の罪悪感を利用しようと思います」
「罪悪感を利用、ですか?」
「もう少し私に付き合ってください。せめてノルデンヴォルフ公国に辿り着くまでは、行動を共にして欲しいのです」
これが現実的な提案だとルシェル王女は考えている。ノルデンヴォルフ公国はソルにとっては完全に敵地。父ベルムントを殺したのがソルだと知られれば、まず間違いなく命を狙われることになる。長居は出来ない場所なのだ。
「……それであれば」
「では、お願いします。それとミスト」
「は、はい!」
ミストの顔に緊張が走る。今この時点では、ミストの罪悪感はソル以上かもしれない。今更なのだが、実際に現場を見られたという思いが、罪悪感を膨らませているのだ。
「……貴女は自由です。いつ私の側を離れても良いのです」
「ルシェル様……」
「ありがとう。ミストの存在は私の支えでした。でも、もう充分です。この先、私は自分だけの足で立たなければなりません。そういう時が訪れたのです」
ルシェル王女は最後まで抗うことを決めている。誰も信頼しないということではなく、誰かに心の支えになってもらわなければいられないような弱い自分では、この先の戦いは出来ないと考えているのだ。
「……ルシェル様、ありがとうございます。私はルシェル様に出会えて救われました。この御恩は一生忘れません」
「でも、貴女は私から離れて行く」
「えっ……」
ルシェル王女の、想定外の言葉に呆気にとられるミスト。ここで嫌味を返されるなんて、微塵も思っていなかったのだ。
「冗談です。貴女も私も自分の道を進むことになった。きっかけは納得出来ないものですけど、いつかは訪れる時がやってきただけです」
「……異なる道であっても、求めるものは同じだと思います」
「そうだと良いと、私も思います」
ミストが求めるものは、ソルとの幸せな暮らし。それは自分と同じにはならないとルシェル王女は思う。だが、戦いのない世の中にしたい、という想いであれば、それは同じ。ミストだけでなく、ソルとも同じ夢を見られる。
そうあって欲しいとルシェル王女は思った。せめて見る夢は同じであって欲しいと。未練であると分かっていても、今はそう思わないではいられないのだ。